民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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 休憩室を出たのは、日付が変わる頃だった。

 執務室の前までたどり着いて、おや、と俺が首を傾げたのは、執務室の電気が消えていたからだ。つけっぱなしで出てきたはずだが…………叢雲あたりが気を利かせて消してくれたのだろうか。

 ドアを開けて、入ろうとしたところで、にわかに電気がついて目がくらんだ。

 

「お帰りなさい、提督」

 

 普段の執務室では聞きなれぬ澄んだ声が部屋に響いた。

 一瞬まばゆさに目を細めたが、気がつけば目の前に寮で寝ているはずの榛名がにこやかに立っていた。寝間着ではないことから、最初からここで起きて待つつもりだったようだ。当惑のまま2、3度瞬きをしている間に、今度は背後からけたたましいクラッカーが鳴り響いた。

 

「やっと戻ってきたな、提督!」

 

 大きな声に振り返れば、案にたがわず俺よりも背の高い女が、引いたばかりのクラッカーを片手に悠揚たる笑みを浮かべている。

 

「え、ちょ、榛名、長門、夜中に何を?」

「何って、言うまでもないだろう。とにかく座れ、提督」

 

 背を押されるままに部屋に入り、ソファに腰を下ろす。

 榛名が細い腕を、目の前の机に置かれた白い箱に伸ばした。

 箱から取り出されたものを見た、俺はようやく合点した。

 

「誕生日、おめでとうございます、提督」

 

 真っ白なケーキの上に、榛名の優しい声が降り注いだ。

 

 

 ーーーー

 

 

「まったく榛名の優しさには敵わんな」

 

 榛名が切り分けたケーキをうまそうに頬張りながら、長門が告げた。

 深夜の執務室が、にわかに活気づいている。

 榛名のような娘がいれば、殺伐たるこの執務室も、花が咲いたかのように色づくが、そこに長門が加われば、ことごとく混沌へと導かれる。

 

「最初は、私1人でこっそりと祝おうとしたんだがな、たまたま榛名に見つかってどうしても一緒に祝いたいと」

 

 榛名の気遣いには感謝しかない。

 

「しかし提督も、もう30か。随分と歳をくったものだな」

「29だ。そう言う君は俺と同い年だろ。人のことは言えん」

「まだ、28だ」

 

 真顔で答える長門を見て、傍らでコーヒーを淹れてくれていた榛名がびっくりしたような顔をした。

 

「お二人とも、もうそんな歳なんですか?」

「そうだな。私たちもいい歳だからな、身を固めることも考えないと」

 

 ええっ、と薄い唇に手を当てて驚く榛名である。俺は、2切れ目のケーキにこっそりと手を伸ばそうとする長門の前に、とんとフォークを突き立ててから、一瞥をくれる。

 

「そんな暇があればいいけどな」

「おや?提督は身を固める機会などいつでもあるだろう?」

 

 俺の妨害など意に介さず、するりと手を伸ばして2つ目のケーキを皿に運びながら、

 

「世界平和のために戦い続けたおかげでそこそこ地位もある。さらに今は周りは女だらけではないか」

「念のために聞いておくが、部下に手を出す上司はどう思う?」

「そうだな…………」

 

 ペロリと2つ目を平らげて笑う。

 

「最低なやつだな」

 

 食えない戦艦だ。

 榛名が楽しげに笑いつつ、淹れたばかりのコーヒーを卓上に並べた。

 

「そういえば、また最近忙しくなってきましたね」

「ああ、忙しい。忙しいが仕方がない。依頼主が昼夜構わず電話をかけてこようが、俺たちがやるべきことは、忙しいと大声で騒ぐことではない」

「相変わらず貴方の責任感には舌を巻く。たまには現実から目をそらして逃げ回ればいいではないか」

「逃げるのも一手だが、逃げた分だけ追いかけてくるのが現実だ」

「なら、追いかけてくる現実より速い速度で逃げ続ければ、いつまで経っても現実は追いつかなくなるぞ」

 

 どんと胸を叩いて意味不明の助言を放り出す。

 榛名がさも感心したかのように、

 

「長門さんはそうやって、ずっと全力で現実から逃げてきたんですね」

 

 にわかにがっくりと長門は肩を落とした。俺の皮肉より榛名の感心の方が、長門にとっては痛手らしい。

 俺は苦笑しつつ、話題を変えた。

 

「榛名、明日落ち着いているようなら、桜を見にいかないか?」

「ほ、本当ですか?」

 

 大きく目を見開いた榛名だったが、すぐに我に返ったように2、3度首をふる。

 

「やっぱり遠慮しておきます。提督はきっと無理をするんです」

「無理などいつものことだ。一息つく意味でも行こうじゃないか、朝潮も連れて」

 

 俺の声に、榛名は嬉しそうに笑った。

 ころころと変える表情を見て、俺の方が励まされる。

 

「まだ春で涼しいかと思ったがそうでもなかったらしい。なにやら暑くてかなわん」

 

 パタパタと手扇をしながら、わざとらしい声で長門が割り込んだ。

 

「暑いのなら、いつでも退出して構わんぞ、長門」

「そうはいかん。幸せそうなん2人を見ると、邪魔したくなるのが人情だろ?」

 

 コーヒーに大量の砂糖を入れながら、迷惑千万なことを言っている。

 

「提督たる地位と軍神たる名誉と、二物を手に入れているのが貴方の人生だ。あまりに満たされた日々ではその大切さには気づかないだろう。とりあえず、妬みと嫉みの対象であることを教えてやろうとしてるんだ」

「妙なことを言う。ビッグ7と名高い長門の名を授かって、艦娘たちから羨望の眼差しで見られている君の方こそ、満たされているんじゃないのか?」

「じゃあ交換するか?」

「斬り死にしても断る」

 

 俺と長門の建設性もないやりとりの向こうで、榛名はおかしそうに笑っている。しかしひとしきり笑ってから榛名は、ふいに声と視線を落とした。

 

「榛名?」

 

 顧みれば、榛名は慌てて微笑を戻して言う。

 

「いえ、なんだかとても楽しくて…………」

「楽しくて、笑うのをやめる話があるまい。心配事か?」

「いいえ、みんなこうして笑い続けらればいいのに、と」

 

 はにかみとともに首を傾げるその姿に、俺と長門も自然と、神妙の感を覚えた。

 俺たちは生まれた時から深海棲艦がいる。軍学校時代から深海棲艦と戦うことを使命にここまでやってきたが、進展は無しだ。

 

「"姫"が確認されてからもう2ヶ月近くになるが、何もなしか」

「今もこうしてどこから攻めるか虎視眈々と狙っているのだろうか」

「心配はいらないと思います」

 

 かえって力強く答えたのは榛名だ。

 俺と長門は揃って榛名を見返した。

 

「心配はしていないんです。むしろ平和を取り戻したとして、私たちがもう二度と会わなくなってしまうようになると寂しくなると思っただけなんです」

 

 怪我をする艦娘を、誰よりも案じていたのが、榛名であった。その榛名の言葉だからこそ、俺も長門も異論なく頷くのだ。

 

「提督…………」

「言わずともよい、長門」

 

 力強く立ち上がり、俺はカップを手に取った。

 

「戦いが終わっても、俺たちの絆は簡単には失われない」

 

 コーヒーをグイッと一飲みして、

 

「だから安心しろ、榛名」

 

 胸中には、期待や不安などが、混沌として温かくうずくまっている。

 今、榛名と長門がいて、コーヒーがある。

 万事が困難ばかりの日常でも、かかるひと時にかけがえのない愉快がある。

 俺はただ淡然として、この至福の時を楽しむだけだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 29歳になったからといって、朝日が格別の便宜をはかって、俺の人生を明るく照らしてくれるわけでもない。

 美しい海の風景と、息苦しい窮屈な日常は、相も変わらず目の前を埋めている。

 子供の頃は、20歳は充分に大人で、30歳はおっさん、40以上にもなればことごとく神仙の類だと思っていたが、いざ30目の前になってみれば、悟りも発見もあったもんじゃない。

 もとより不自由の大地に理不尽の柱を立て、憂鬱と圧迫の屋根をかけたものが、人生というハリボテ小屋である。わずか29年の営みでは、まだまだ住み慣れた住居にはならないらしい。せめて、この重苦しい屋根くらいは、風通しの良いものに掛け替えたいものだ。

 胸中に他愛もない哲学を吟じつつ、鎮守府内を徘徊していたのは昼前だ。日曜日とはいえ29歳の初日から、すこぶる冴えない執務になったことはさておいて、徘徊中に俺は、思わぬ人物と遭遇した。

 黒のスーツに隙なく身を固め、小脇に書類の束を抱えた小柄な男性だ。幾分白いものが混ざった頭髪と、分厚い黒ぶち眼鏡の奥に異様に鋭い目が印象的なその人物は大本営の事務長だ。

 その事務長がこの小さな民間軍事会社の応接室から出てくるのは、随分と奇異なことだ。

 俺が一礼すると、先方は眉ひとつ動かさず、怜悧な一瞥とともに頷いただけで、一言もなく去って行った。

 

「お、はたちゃん、御苦労さん」

 

 直後に、応接室の奥から聞こえてきた陽気な声は、大本営の元帥を務める佐久間さんだ。ソファに腰かけた佐久間さんが、気楽に手を振っている。

 

「日曜日も勤務だなんて、御苦労なことやな」

 

 朗らかな声を上げる佐久間さんに、もちろん俺は油断しない。

 

「大本営の2トップが、日曜日のこの鎮守府でなんの陰謀を巡らしていたんですか?」

「陰謀だなんて人聞きが悪いなぁ。はたちゃんが事務長に嫌われてんのやさかい、わしが一生懸命かばってやってんのや」

 

 わっはははと大声で笑っている。

 こちらとしては一向笑えない。

 確かに2週間ほど前に事務長と正面衝突があったばかりだ。その時は無理矢理な辻褄合わせで事なきを得たが、この鎮守府が事務長のブラックリストに載ったことは疑いない。

 ちらりと窺うように見返すと、佐久間さんは、「冗談や」ともう一度大きな声で笑った。

 向かい側のソファに座ると、佐久間さんが、大きなお腹を撫でながら、窓外を見上げてため息をついた。

 

「晴れた空、静かな日曜日、休みなく働くはたちゃん…………わしがゴルフに行く理由は完璧に揃うてんのになぁ…………」

 

 ろくでもないことを、しみじみとつぶやいている。

 

「…………この鎮守府に何か用事が?」

 

 いささか気を利かせて問うてみれば、ここぞとばかりに返答が来た。

 

「あるんやでこれが。せっかくの休日に事務長と顔を合わせてここでせえへんとあかんことがあるんや。はたちゃん、代わってくれへん?」

「代わるのは結構ですけど、山のような執務を行いお願いしなければいけなくなりますよ」

「事務長の方でええわ」

 

 あっさりと手を振って、

 

「ああ、せや、はたちゃん」

 

 とふいに思い出したかのように手元の書類の束をポンと叩いた。

 

「これ新しい艦載機の設計図や。特別にやるわ」

 

 思わぬ配慮に当惑を示せば、佐久間さんは、当然のように付け加えた。

 

「依頼の相手、大変やろうけど、よろしゅうな」

 

 何も考えていないように見えて、全てを把握している。これが佐久間さんの凄いところだ。

 こちらとしては、実は寝坊していて、理由が夜更かしのせいだとは口が裂けても言えない。ただ黙然として一礼した。顔を上げたところで、ふと佐久間さんの手元の書類が見えて、俺は軽く目を見開いた。

 

『正規空母、派遣について』

 

 実に興味深い文字だ。

 

「もしかして、こちらに助っ人をくれるんですか?」

 

 問えば佐久間さんは一瞬俺の顔と書類を見比べてからニヤリと笑った。

 

「まだナイショ」

 

 楽しげに笑って、ポンポンと腹を叩いてみせた。

 その仕草は佐久間さんの機嫌がいいことの証だ。俺が少なからず驚いたのは、それが全く久しぶりに見る光景だったからだ。

 我が鎮守府は、2週前に、工廠長を務めていた橘さんを失ったばかりだ。ただでさえ激務の工廠において、長を務める橘さんを失ったばかりだことは痛恨の一事であり、以来、工廠の現場は火がついたかのように多忙になっている。

 だが、多忙であること自体は問題としてはたかが知れている。

 案ずるべきは、明石と夕張の落胆ぶりのほうだ。2人は今も頑張ってはいるものの、どこか上の空である。

 さらに落胆していたのは2人だけではない。橘さんの親友の佐久間さんもだ。

 無論、鬼の佐久間さんであるから、外面だけは平静である。しかし、新兵の頃から見てきた俺からすれば、その覇気の低下は否めない事実だ。ときおり遠くを眺めている姿は、これまでの佐久間さんには見られなかった姿なのだ。

 それが今、久しぶりに大きな腹をポンポンとやっている。

 

「なんや、はたちゃん。ヒミツかて言うてんのに嬉しそうに笑うてもうて」

 

 佐久間さんが拍子抜けしたような顔をした。

 知らぬ間に安堵の笑みをもらしていたらしい。俺は慌てて表情を改めて、

 

「なんでもないですよ。正規空母が来てくれれば、これほど嬉しいことはないと思っただけです」

 

 静かに応じて立ち去ろうとしたところで、ふいに「はたちゃんやい」と佐久間さんが呼び止めた。

 振り返れば、存外に優しげな笑みが見えた。

 

「すまへんかったな、心配かけて」

 

 深みのある声だった。

 俺はにわかに言葉につまったが、数秒置いてようやく口を開いた。

 

「なんのことでしょうか?」

 

 そのいささか無理矢理な応答に、佐久間さんはニヤリと笑って頷いただけだった。

 

 

 ーーーー

 

 

「ねぇ、ヤハタ」

 

 午後の執務室に、いつもの乱暴な可愛らしい声が響いた。

 ため息混じりに顔を上げた俺が、おやと目を見張ったのは、いつもの2人にもう1人追加されていたことだ。

 俺に気づいた朝潮が、丁寧に頭を下げた。

 

「すみません、司令官。また妹が…………」

 

 と申し訳なさそうにもう一度頭を下げる。

 性格は全く似ていない2人だが、顔立ちはどことなく似ていなくもない。

 大丈夫と手を振れば、返ってくるのが満潮の声だ。

 

「暇よ、ヤハタ」

「いけませんよ、満潮ちゃん」

 

 後ろから慌てて制するような声を上げたのは、軽巡の神通だ。いささかまだ頼りないところのある神通は、満潮の前にもしゃがんで言う。

 

「どんな風変わりな人でも八幡提督は、満潮ちゃんの提督なんです。そんな風に呼んではいけませんよ」

 

 神通の発言は、無自覚なだけに、満潮以上に乱暴だ。

 随分な言われようだと嘆息したものの、傍らの朝潮はいつもの生真面目な声で応じた。

 

「いつもすいません、神通さん」

「いいえ、朝潮ちゃんのおかげで、私たちも助かってます」

 

 親しげな様子を見るに、よく会っているのだろう。

 

「いつも満潮が迷惑をかけてすいません」

 

 また深々と頭を下げれば、話の渦中の満潮は、いつもの仏頂面のまま、それでもとりあえずは静かになった。そのまま朝潮は満潮を連れて執務室を出た。

 

「ほんと、立派な姉さんね」

 

 ふいに背後から降ってきた声は、叢雲の声だ。

 

「1人の時は心配するほど元気がなかったけど、満潮からきてからはあんな感じよ」

 

 ソファに腰をおろす叢雲に、俺は黙って頷く。

 

「まだ子供なのに、すごくしっかりしてるわ。満潮に対するお世話は少し度がすぎるけど…………不機嫌の塊みたいな満潮が、あの娘の前ならあんまり文句を言わなくなるくらいよ」

「前、満潮が所属していた鎮守府の提督とはえらい違いだな」

 

 何気なく呟いた俺の言葉に、叢雲は諦めを含んだ声で応じた。

 

「まぁ、艦娘を出世の道具だと思っている人も少なくない話よ」

「艦娘といっても女子供ばっかりで、出撃させるのも心苦しいはずなのだがな…………」

「そういう単純な話でもないわ」

 

 叢雲がため息をついた。

 俺が目だけで問うと、叢雲は「ちょっと嫌な話になるけど」と声音を落としつつ、

 

「最近の士官学校の子たちは、自衛隊の将校の話を断って、提督になりたがるの」

 

 妙な話だ。わざわざ出世コースを蹴ってまで、この火の車のような仕事に就くなんて。

 眉を寄せて問い返せば、叢雲は少し迷うような口ぶりで、

 

「この前、長門がぽろっと話してくれたけど、嫌なこと言っていい?」

 

 叢雲は、ちらりと俺に目を向けてから、もう一度ため息ついた。

 いくらかの困惑してを抱えたその白い横顔を見て、俺はにわかに合点した。

 

「大本営か」

「正解」

 

 叢雲は細い肩をすくめて答えた。

 年功序列の根強い自衛隊では時が経てば出世できるものの、若いうちはいつまでも下っ端だ。ところが、今回設けられた大本営はまだまだ人員不足で、年功序列など言ってられない。

 

「つまり大本営に所属して、提督に入ってから出世した方が早い。そういうことか」

 

 俺のあからさまな応答に、叢雲はもう一度肩をすくめただけで、確答は避けた。

 若い男が、海軍の士官になることを断って大本営に行こうとする姿は熱意があると捉えられるだろうし、それが嘘だと思えないが、女だらけの職場に嬉々として行けば、いやでも勘繰りたくなってしまう。

 

「まぁ、実際問題、海軍の方から人を割いてくれないから士官学校から連れてくるしかないわ」

「困ったものだな」

「嫌な話だって言ったでしょ」

 

 叢雲は仕分けを終えて立ち、何やら準備をし始めた。

 満潮の件からも、叢雲の言うことも1つの真理だろう。

 守るべきであるはずの女や子供を戦場に送り出すことを苦ともせずに、ただ己の欲望のために進む者。その存在を否定したかったが、実際に出会ってしまった。

 初めて満潮に出会った時、彼女の目は幼い娘には持ちえないはずの深い憎悪の感情が込められていた。

 ふいに「はい、どうぞ」と言う声とともに、コーヒーカップが卓上に置かれて振り返ると、いつのまにか戻ってきてた叢雲が立っている。と同時に、心地よい香りが立ち上がった。

 

「嫌な話の口直しよ。まだまだ仕事があるでしょ?」

 

 よく通る明るい声は、いささか滅入りかけていた我が心に活力を与えてくれる。

「ありがたい」とあえて鷹揚に応じつつカップに手に取り、

 

「今回の出撃はこれまでにしておくか…………」

 

 俺の声に、叢雲がほのかに微笑した。

 

「情に流されたんじゃないでしょうね」

「厳然たる労働基準法に基づく判断だ」

「じゃ、いいわ。なら、今日は終わりと伝えていいのね?」

 

「ああ」と応じてカップを傾けると、口中に広がったのは、俺のよく知るまろやかな味わいだ。

 

「イノダコーヒか?」

「流石にわかるのね。前、美味しいって言ったから、わざわざ買ってきたのよ」

「本当か?」

「嘘に決まっているでしょ。私が飲みたかっただけよ」

 

 いつもながらの軽快な切り返しには、応じるすべがない。沈黙した俺に、叢雲が軽やかに付け加えた。

 

「でも、今日はハッピーバースデーだからね。特別よ」

 

 再び虚を突かれて顔を上げた。

 叢雲は薄い唇に柔らかな笑みを浮かべている。

 

「20代卒業まであと1年ね、司令官」

「…………卒業試験も受けていないのに、勝手に追い出される不本意極まる話だ」

「そうやって憎まれ口を叩いているうちに、いつのまにか40歳ってわけね」

「言うまでもないが、その時は君も30半ばというわけだ」

「心配しなくても魅力的な30代になって見せるわよ」

 

 揺るがぬ笑顔で応じつつ、とにかく、と付け加える。

 

「29歳おめでとう、司令官」

 

 幾分面白がるように言ってさらりと身をひるがえしてしまった。応じる隙もありはしない。まったく有能極まる艦娘だ。

 俺は静かにコーヒーを味わった。

 眼前には問題が山積みだが、積み上がった山の頂だけを見上げても、問題は片付かない。結局登らなければいけない山ならば、一歩一歩、前に進んでいくしかない。

 俺はカップを卓上に戻すと、あえてゆっくりと席を立った。

 

 

 ーーーー

 

 

 軍事を扱う会社と言っても、提督である俺はほとんどがデスクワークだ。

 書類に目を通したり、キーボードをカタカタ打ったりで、むしろ肉体を使う仕事の方が少ない。下手すれば軍人なのにだらしない身体になり得る。

 とりあえず、そうにはならないように散歩がてら鎮守府内をうろついてみる。

 そうして歩き回るうちに、工廠にて旧友の背中を見つけて、足を止めた。

 

「珍しいところにいるもんだな」

 

 振り返った補佐は、軍服ではなく作業着であった。

 

「そういう隊長も相変わらずご苦労ですね」

「昨日に続いて今日も渚を放置していては、揺るぎない父親の座も、遠からず瓦解するんじゃないのか?」

「そうならないように、早く片付けようとしているんですよ」

 

 作業中の手を止めて、航は小さく笑った。

 中に入れば、艦娘たちが快活な声とともに一礼を返してきた。

 

「機械にも強いのか」

「橘さんが抜けてからは、僕も軽巡の管理だけするわけにもいけませんからね。隊長の比ではないですが、それなりに大変です」

「艦娘の方も大変そうだな」

 

 なんとなく落ち着きのない工廠内を眺めつつ言えば、

 

「2時間後にまた出撃らしいです。数少ない重巡がそこで仮眠を取っているところですよ」

 

 ちらりと航が指差したのは、すぐ近くの休憩スペースだ。カーテン越しに首を伸ばして覗き込むと薄暗いスペースの中で、熊野が丸くなって眠っているのが見えた。

 

「ここのところ、起きているより寝ている方が多いようですが、大丈夫なんですか?」

「最近はまた海が荒れていてな。どうしても航空巡洋艦が必要だから、今しばらくはこの状態だな」

 

 作業を再開しながら、航が嘆息するのが聞こえた。

 

「よくもまあこんな状態で働いてきましたね。まったく大した人ですよ、隊長も熊野も」

 

 男手一つで子育てをしながら鎮守府に勤めている航も大した男だが、むやみに褒めるのも癪なので、黙っておくことにした。

 

「そういえば隊長、新しい艦娘が派遣されてくる話を聞きましたか?」

 

 航の声に、俺は一瞥して答える。

 

「知っているというほどでもない」

 

 脳裏に浮かぶのは、応接室で見た佐久間さんの書類だ。と同時に、"まだナイショ"とニヤニヤ笑っていた佐久間さんの顔が浮かんだ。

 

「僕たちの働きが好評なようで、自衛隊の方からも動いてくれるらしいですよ。朝、応接室で長門さんと元帥、事務長が顔合わせて話をしていました」

 

 つまり今日の昼間に事務長に出会ったのは、その話が終わった後だからか。

 事務長は間違っても好感の持てる人物ではないが、切れ者であることは疑いようがない。あの御仁が本気でそのことを考えてくれるのなら、佐久間さんの満足げな笑みも含めて、かなり具体的な話があるのかもしれない。

 

「朗報が聞ける日が楽しみだな」

 

 そんな何気ないつぶやきをにわかに遮ったのは、無粋な電話のベルである。ほとんど無意識のうちに着信ボタンを押すと、駆逐艦の聞き慣れた声が出て飛び込んできた。

 

 "今、大丈夫、司令官?"

 

 冷静沈着の叢雲が、いくらか切迫した声を発している。

 なんだ、と問えば、すかさず叢雲の声が応じた。

 

 "事務長が、鎮守府の調査を始めたのよ"

 

 俺は軽く額を押さえてから、ため息とともに立ち上がった。

 

 

 ーーーー

 

 

 事務長が調査を始めた。

 別にやましいことは一切ないのだが、あの事務長が調査をするというのだからこれは大騒ぎだ。

 鎮守府内を歩き回り、どこか不審なところがないかと探して回ったいるらしい。

 自らの足で事務長を探したものの甲斐なく、とりあえず執務室に戻ろうとした俺は、空母寮で場違いな光景を発見して足を止めた。

 空母寮に、事務長が立っていたのだ。管理職らしい年配の女性と守衛の男性を引き連れ、不必要に威圧的な空気を振りまいている。

 異様な緊張感に押し返されるように足を止めた俺のもとに、叢雲がそっと駆け寄った。

 

「遅いじゃない、司令官」

 

 声を落として告げる。

 

「なんでこんなことに?」

「知らないの?事務長は、艦娘管理局長も兼ねているのよ」

 

 思わず知らず、舌打ちが漏れた。

 艦娘管理局とは、艦娘関連の軍事以外のトラブルに対応しその解決に乗り出すところだ。艦娘の人権を守るために作られたものだ。その局長があの事務長なのだから困ったものだ。

 

「しかし日曜日の午後に、事務長自ら抜き打ち調査というのは、いささか大げさな話じゃないのか?」

「私に言わないでよ。やっぱり目をつけられてるんじゃない」

「叢雲がか?」

「司令官が、よ」

 

 身も蓋もない応答だ。

 

「では、今のこの鎮守府にはなんの問題もないんですね、千歳さん」

 

 警察の尋問かと思われるような冷ややかな声が空母寮に響いた。

 事務長が刃物のように鋭い目を向けている相手は、軽空母の千歳だ。今日はたまたま休みで空母寮にいたがための不運だろう。

 千歳は、元来が生真面目な性格だから、事務長の鋭利な眼光に射すくめられても、蒼い顔で懸命に応答している。だがな千歳がいくらか懸命さを掲げたところで、事務長に遠慮の二文字は存在しない。

 

「最近の出撃状況を聞く限り、十分な休息が取れていないようで…………今日も他の軽空母の方は出撃、いささか無理をされているのでは?」

「い、いえ…………」

「八幡さんに無理やり出撃させられている、ということは?」

 

 事務長の目がぎらりと光る。

 いかにも挑発的な態度に、当方思わず背後から口を開きかけたが、これをとどめたのは叢雲であった。

 やがて千歳の震えを帯びた声が、それでもしっかりと応じていた。

 

「提督はそんなことしません。きちんと休みをくれますし、無理な出撃は一切しません。むしろここで一番働いているのは提督です」

 

 はっきりと言い切った。傍らの叢雲が、千歳を見守りながら、静かに頷いている。なるほど、俺が口を挟む必要もない。

 胸中そっと微笑したところで、にわかに事務長が、俺に気づいて矛先を転じた。

 

「いらしたのですね、八幡さん。千歳さんはこうおっしゃっていますが、提督として何か言っておくべきことはありますか?」

 

 いちいちが、無意味に威圧的なのが事務長だ。慌てるべき理由はない。

 

「千歳の言う通り、受ける依頼は俺たちができる範囲内のものにしています。それに艦娘には必ず2日は休みの日があるように調整もしてありますから、問題は一切ありません」

「よろしいでしょう」

 

 事務長は頷いて、

 

「では、ここの鎮守府はなんの問題もないと判断し、これからも援助を続けさせていただくことにします。これからも頑張ってください」

 

 重々しく宣言して、事務長とその御一行は空母寮を去っていった。

 空母寮の緊張感が一時やわらいだ。

 

「できる範囲内、ね」

 

 寮内の逼塞した空気を振り払うように、張りのある声で叢雲が問うた。

 

「どの依頼もこなしているから、できる範囲内だろ?」

「だいぶ無理はしているけどね」

 

 いくらか呆れ顔の叢雲だ。

 

「そうだ。少し外れていいか?」

「いいけど…………」

 

 叢雲が視線を巡らした先に、青白い顔でなかば呆然とした千歳がいる。ほぼ放心状態だ。

 

「こういうときは、連れ出した方が、彼女のためってわけね」

 

 うなずいた叢雲は、立ち尽くしている千歳を差し招いた。

 

 

 ーーーー

 

 

 居酒屋鳳翔に行くのなら、日が落ちてからがよい。

 まだ駆逐艦たちが元気な夕暮れより、とっぷりと日が暮れてからが落ち着く。

 

「なんだか久しぶりにここに来た気がします」

 

 千歳が遠慮がちに口を開いたのは、ちょうど居酒屋鳳翔の目の前まで来た時であった。

 

 

「橘さんが亡くなって、鳳翔さんに気を遣っているつもりなのなら、それは間違いだ」

 

 ふふっとかすかな笑い声に振り返れば、千歳がおかしそうに笑っている。

 

「いえ、やっぱり提督って、厳しい人です」

「厳しい?それは心外だ」

 

 千歳はまたおかしそうに笑った。

 先刻までの憂い顔が笑顔に置き換わったことは結構だが、なにやら釈然としないものが残る。当方のそんな胸中には気づきもせず、

 

「でも、提督の言う通りです」

 

 と千歳は、看板の文字に目を細めた。

 

「提督と2人っきりで飲みに行くのは、初めてですね」

「それは気が重い話だ。2人っきりでいたなどと千代田が知ったら、憤慨するだろう。爆撃されるのは勘弁だから、黙っていてくれ」

「ええ、もちろんです」

 

 頓著しない俺の声に、千歳の存外真面目な声が応じた。

 

「本当にいいんですか?」

「いいんですかって、俺が誘ったんだからいいも悪いもない」

「いいもないんですか…………」

 

 さすがに当惑気味の言辞が戻ってきた。

 

「嘘だ。君くらいの女性と飲む酒はきっとうまいんだろう」

 

 俺の言葉に千歳はなにか言いかけたが、俺がそっと手で制したので言葉を継ぐことはできなかった。

 居酒屋鳳翔の中には、いつものように鳳翔さんが準備している。

 そして、鳳翔さんは俺らの存在に気付き、

 

「いらっしゃい、提督さん、千歳さん」

 

 とにこやかに言った。その微笑みはいつもの、寂しさを感じないものであった。

 その笑顔に俺と千歳は、ただうなずいて席に座ったのである。





投稿ペースですが、これからもそんなに早くないと思います。どうか気長に待ってください。
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