鎮守府のある町の東方、鎮守府から車で20分ばかり山の手に上ったところにある、ゆるやかな西向きの斜面に広がるのは、温泉だ。
湯屋の数はけして多くはない。が、湯の質は良い。最近、旅人の足が遠のいているのが唯一の気がかりだが。
かかる小さな温泉街の一角に、静かに佇むようにして、「旅館みさき」はある。
母屋のつくりは今時珍しい木造三回建て、そこに増築が重ねられて、それぞれの建物が不思議な連絡を保っている。不用意な足を踏み入れると、どこにいるのかわからなくなってしまうような造りだ。華美でなく
そんな湯宿の、離れの大広間を借り切るのが、佐久間さん主催の宴会の定番となっている。
俺が温泉街でタクシーを降りたのは、夜の9時を過ぎた頃だ。会の開始は7時と通達されていたが、無論そんな時間に鎮守府を出られるわけもなく、これでもずいぶんな努力の結果だ。
5月。
常ならば過ごしやすい気候が続く時期だが、今年の春は妙に暑いらしく、艦娘たちもやや疲弊気味だ。
飛び石を踏んで敷居をまたぎ案内を乞うているうちに、どこからか賑やかな笑声が聞こえてくる。細い廊下を抜けて広々とした座席に通された時には、宴はすでにたけなわであった。
30はある座卓は雑然として乱れ、スーツや私服、軍服といった雑多な装いの人間が、杯やグラスを片手に往来し、そこかしこに輪をつくって熱論を繰り広げている。
一部に事務長やその幹部が混じってはいるが、多くは艦娘である。
「お疲れ様です、隊長」
と真っ先に俺に気づいて酒杯をあげたのは、片隅だ静かに一献を傾けていた広瀬航だ。
頰がいくぶん赤くなっているのは、この男にしては珍しく、相応に杯を重ねたせいなのだろう。とりあえずその隣に座を見つけて腰を下ろせば、航はするりと右手を伸ばして、膳の上の酒器を手に取った。
「仕事は片付いたんですか?」
「まったく。依頼こそはまだないが、いくらかの執務はほったらかしてきた」
「ご苦労様です。すいませんね、こっちはずいぶんと楽しませてもらっています」
「君は今宵の主賓の1人だ。遠慮することはない」
俺の差し出した杯に、そっと酒を注ぎながら、航は苦笑する。
「主賓だなんて…………僕はどちらかといえばおまけですよ」
「ひがむな。言うまでもないことだ」
「相変わらず容赦ないですね、隊長は」
「それも言うまでもない。で、本物の主役は?」
俺の問いに、航は視線で答えた。
めぐらせた先は、宴の上座だ。
姦しい話し声と、もうもうたる熱気の向こうに、悠然と座卓に正対した長門の姿が見える。俺がいない間は、こちらの代表として佐久間さんたちと飲んでいたのだろう。そのかたわらに、すらりとした女性が、にこやかに話しているのが見えた。
「正規空母赤城。5月からこっちに派遣された新しい艦娘です」
航の言葉に、俺は黙って目を細めた。
人手不足で過労死寸前の我が鎮守府を救うために、大本営が派遣してきたのが、この女性であった。
「派遣される前は、横須賀鎮守府の第一艦隊に所属していた話です」
俺は軽く目を見開いた。
「第一艦隊って、日本では最強クラスの艦隊だろ」
「そうです。つまりは第一線の戦力ですよ。おまけに、さっき挨拶を交わしましたけど、人当たりのいい気持ちの明るい人です」
「艦娘歴は8年だと聞いたが…………」
「その通りです。よくそんな戦力を派遣してくれましたよ。おまけに5月からなんて微妙な時期に来てくれたもんです。佐久間さんの影響力の凄さ、推して知るべし、ですね」
噂で聞いたところ、佐久間さんの発言がものを言ったらしい。
たしかに8年目の空母をいきなり引っ張ってくるのだから、鬼の元帥の影響力は、尋常じゃないだろう。
「隊長は、まだ挨拶はしてないんですか?」
「最近は鎮守府を留守にすることが多くてな、まともな会話はしていない。だが、快活な雰囲気は伝わってくる。これで真っ暗だった鎮守府の空気も変わるかもしれん」
「変わりますよ。なんせ、赤城さんは、空母で、人当たりが良くて、おまけに…………」
航はくいと杯を干してから付け加えた。
「美人ですから」
ちらりと旧友の横顔を見る。
生真面目と良識だけでできているようなこの男が、かかる軽率な発言をするとは珍しい。その横顔は常とはさほどに変わらないが、やっぱり酔っているのだろう。
そうだな、と適当にうなずきつつも酒杯を傾ければ、たちまち豊かな芳香が口中に立ち上る。深い旨味とコクがあるが、だからといって重くはない。切れ味は抜群で、かえって涼しい酒だ。
これなら航が柄にもなく酩酊するのもわかる。
「いい酒だ。初めて飲む酒だな」
「結構いいでしょう?」
航の声なかぶさって、にわかな大笑が響き渡った。
腹を叩いて笑っているのは、佐久間さんだ。赤城となにやら愉快げに話しているが、よほど嬉しいのだろう。腹をポンポンと叩くのは、佐久間さんの機嫌がいい証だ。
赤城の方は、朗らかな笑顔で、佐久間さんの話に耳を傾けている。
化粧っけはなく、長い黒髪は束ねてはいないが、その飾らない風情がかえってすずしげな印象だ。8年目ということは、おそらく20代であるのは間違いないはずだが、大人の美しさがある。貫禄充分の佐久間さんを相手に、落ちつき払った振る舞いは微塵もゆるがず、長門とは違った落ち着きがある。
今夜はその赤城の、歓迎会なのだ。
金曜日とはいえ、平日にこれだけ豪勢な宴になったのだから、彼女の戦力の高さを感じる。
「それにしても、見事にとってつけたような扱いだな」
ジロリと航を見れば、旧友は苦笑を浮かべるだけ。
赤城の歓迎会を開くにあたって、すでに赴任していた航の歓迎会を開いていなかったことに、今さらながら長門が気づいたらしい。今夜の宴会は一応「赤城、広瀬歓迎会」なのだ。いかにも「ついで」の感は否めないのだが、期待で終わったエースと実際のエースの差なのだろう。
「まぁ、春先からこっち、橘さんのことで鎮守府内は大騒ぎでしたからね。僕の方は忘れてもらっても構わないんですが」
「そうはいくまい。この会社にとっては貴重な戦力だ」
それはどうもです、と航は肩をすくめる。
「しかし、不気味な一言に尽きる景色だな」
俺は酒杯を傾けながら、上座を見やった。
先刻から当の赤城は長門につかまって、さかんに献酬を重ねている。不気味と評したのはこっちではない。その傍らだ。
顔色ひとつ変わらない無表情の事務長が、豪快な笑声をあげる佐久間さんから繰り返し杯を受けている。幾分干しても事務長の血の気のない顔面はかすかな朱が差すこともない。まるで水のようにするすると受けている。一方で佐久間さんは真っ赤な顔で、愉快そうに腹をゆすっている。まったく対照的に見える2人だが、目だけは素面である点は同様だ。真っ赤に見える佐久間さんとて、微塵も酔っていないことを俺はよく知っている。
「まったく不気味だ…………」
つぶやく俺の隣で、航がいつのまにか取り出したマッチで、俺の膳の鍋に火を入れている。
「熊野はまだ来ていないのですか?」
「熊野の件より、君のその、妙に気が利きすぎることの方が問題だ」
俺の言に、航は怪訝そうな顔をする。
「最近、俺と君が危ない関係じゃないのかという噂が鎮守府に流れてる」
「別に隊長の鍋に火をつけてあげたくらいで、僕と隊長が恋人同士にはなりませんよ」
「気色悪いことを言うな。だいたいそんな軽率な発言が、不愉快極まる噂の源泉になるんだ」
酔い心地の航の軽薄な行動に、せっかくの美酒にまで胃にもたれる感がある。
「八幡、広瀬ホモ疑惑」とは、いかにも噂話に飢えている艦娘たちの好みそうな話題だ。叢雲に言わせれば、男同士で仲がよすぎるからよ、ということになるのだが、当方としては、殴りつけた記憶はあるが、格別仲の良さをアピールした記憶はない。
「鎮守府一の変人提督が、世評を気にする男とは知りませんでした」
さして気にした風もなく卓上の酒器を取り上げて、
「気が利きすぎるのが問題なら、せっかく取っておいたこの酒も隊長には注がない方がいいようですね」
「冗談だ。君と気配りの細やかさには、常日頃から感謝している。ホモでもなんでも言いたいやつには言わしとけ」
「絵に描いたような手のひら返しですね。ところで、熊野は?」
「今は鎮守府の警備だ。鎮守府をガラ空きにはできん」
「なるほど、それで重巡の娘たちは誰もいないんですね。頭が下がりますよ」
航は軽く肩をすくめてから、そう言えば、と唐突に続けた。
「熊野が大本営に行くかもしれないと聞きましたけど、知ってますか?」
寝耳に水だ。
「熊野が大本営に?」
「考えてみれば、熊野ももう中堅レベルの実力者です。呼び出しされてもおかしくはないと思います」
「そういうものか」
「そういうものです」と言ってから、航が細めた目を俺に向けた。
「熊野がいなくなると、さすがの隊長も寂しいんじゃないんですか?」
「なぜ?」
敢えて平然と投げ返せば、航は一瞬目を見開いてから、すぐにおかしそうに笑った。
「さぁ、なぜでしょうね」
その穏やかな笑みが癪にさわるが、いちいち応じると余計に癪にさわるから聞き流した。
ふいに宴席から電話を片手に立ち上がったのは、工廠長の明石だ。2代目の工廠長は、膳あったトウモロコシをかじりながら、淡々と携帯に応答しつつ廊下に出た。また工廠でトラブルかなにかがあったかもしれない。これもまたこの鎮守府らしいと言えばらしい。
酒杯を干せば、いつの間にかに酒器を手に取ったワタルが、次を注いでくれる。
「困ったものだ」
「何がですか?」
「こううまい酒が多いと、毎回何を飲めばいいか、迷ってしまう」
「心にもないことを…………迷わず全部飲んでしまうのが隊長でしょう?」
「…………酒が入ると随分と口が達者になるな」
「疲労困憊でも、飛車の動きが鋭い隊長と、同じようなものですよ」
にわかに反論せず、俺は心中舌打ちしてから、また酒杯を仰いだ。
空けた酒杯を卓上に戻してにわかにギョッとしたのは、眼前に、上座にいたはずの正規空母が端座していたからだ。
「赤城です、よろしくお願いいたします、八幡さん」
にこりと笑った目元に、ただ優しいだけでない鋭利な光がある。
「八幡さんの噂は色々聞いてますが、まだゆっくり話す機会はありませんでしたね」
切れのある微笑を浮かべたまま、俺の酒杯にゆるりと酒を注いでくれる。当方も慌てて注ぎ返そうとすると、軽く片手を上げて、
「すいません、お酒はダメなんです」
と柔らかく断りを入れた。
では、と形式上、烏龍茶の小瓶をとって、赤城のグラスに傾けた。
遠方からでは華奢で穏やかな女性に見えたが、こうして面を合わせると、ゆったりとした挙措の中に凛と筋が通ったものがある。
いかにも尋常じゃない修羅場をくぐってきた人物のようで、若干ぬるま湯に浸かっていたような俺にしてみれば、ある種の衝撃だ。
「佐久間さんから聞いた話なら、話半分にしておいてくれ、赤城」
応じれば、赤城は、口元に手を当てて小さく笑った。
「変わっていないようですね、佐久間さんは」
その言葉に俺は一瞬返答に窮した。代わりに航が口を挟んだ。
「赤城さんは、元帥とはどういった関係で?」
「佐久間さんは、私が新人の頃の教官よ」
赤城はさらりと応じて、我々を驚かせた。
「佐久間さんが第一線を退く直前の話ですよ。私が新人の頃ですから、今から7年前ということになりますね」
「は、はぁ…………」
「つまりは、お互い、鬼の佐久間の弟子同士になりますね。よろしくお願いしますね、八幡さん」
赤城は、伸びやかな指先でそっとグラスを持ち上げて微笑した。
俺は、当惑を酒で押し流すべく、丁重にこれを受けたのである。
ーーーー
吐き気。
滅多に姿を現さないこの知人は、今日は気合を入れて俺の頭の中に乱入してきて、好き勝手に暴れまわっている。俺としては、この不埒な輩を招き入れるつもりはないのだが、彼は俺の頭蓋骨の合鍵を持ってるかのように、平然と上がり込んで居座る。
俺は、とりあえず水を飲み干した。
早朝の6時だ。
黎明の窓外はまだ薄暗く、鎮守府はまだ静まり返っている。
静寂と水が、吐き気を抑える最良の布陣なので、俺としては好都合だ。とりあえず、俺は恐る恐るパソコンを立ち上げた。
途端に、いきなり執務室の扉が開いて大声が飛び込んできた。
「あら、随分と早い時間にいるじゃありませんの」
執務室中に響き渡る声が、吐き気の友である頭痛も呼び起こした。俺は額に手を当てつつ、顔を上げる。入ってきたのは、言わずと知れた熊野だ。
「てっきり明け方まで『みさき』で飲んで、遅刻寸前まで寝ていると思っていたら…………」
「急に連絡が入ったんだ。とにかく声を小さくしてくれ」
俺は顔をしかめつつ、低い声で応じた。
昨夜は「旅館みさき」で、航を相手に散々献酬してから夜半に床についた挙句、朝の3時に依頼の電話が鳴ったのだ。
相手は大本営で、内容はドックと工廠を貸して欲しいとのこと。
「貸して欲しい?大本営が?一体どういう風の吹き回しですの?」
「それがわからんから、話し込んだんだ。結果は本格的な深海棲艦への攻撃による自軍の被害増加。大破した者が多くて大本営の持つドックじゃ足りないということだ」
投げやりに応じて、俺は頭痛の薬を飲み込んだ。
結局、俺はひどい顔で負傷した艦娘たちを迎えて、ドックに案内して、指揮官殿と話を済ませ、まともに眠れてない。
かたわら何気なくパソコンを覗き込んだ熊野が、軽く眉を動かした。
「地方鎮守府…………大変ですわね」
「年中頭の中が晴れ晴れの君に比べれば、天下万民ことごとく大変というのだろう」
そんなことより、と熊野を見た。
「君こそ、昨夜は交代してもらってから来ると言っておきながら、結局顔を出さなかったじゃないか」
「その交代してくれる人が帰って来ませんでしたのよ。わたくしだって『みさき』で美味しい料理を食べたかったですわ」
徹夜で警備しながら、クスクスと微笑をする姿は疲労のかけらも見えない。かの嬢様の無尽蔵の体力は、今日も健在らしい。
熊野はそのまま執務室の隅から紅茶セットを取り出して、紅茶を淹れ始めた。
「提督も飲みます?」と問う声に、遠慮しておいてからポケットから缶コーヒーを取り出した。
「そう言えば、熊野。大本営からお呼び出しがあったと聞いたが、本当か?」
問えば熊野は、勝手に嬉しそうな顔をして応じる。
「あら、心配してくれてますの?」
「心配しなくても、何も心配していない」
2、3度まばたきして熊野は首をかしげる。
当方もさして大した意味を含めたつもりもないので、構わず語を継ぐ。
「まぁ、その様子だと今のところは異動はないわけだな」
「1月に1度そんな話がありましたわ。結局、その話は立ち消えになりましたけど。せっかく提督も広瀬さんもいるんですわ。願ったり叶ったりって感じですわ」
「残念なことだ」
「え?」
「独り言だ」
胸中のかすかな安堵感をねじ伏せて、俺は無造作に皮肉を投げつけた。いかに場違いな明るさでも、この熊野という艦娘の持つ空気感は、他の艦娘では補い難い貴重なものだ。
「それよりも、赤城さんという人はどんな人ですの?わたくしはまだまともに挨拶もしてませんわ」
「君とは違って常識と社交性を兼ね備えた大人の艦娘だ。経験もさながら人当たりも良く、おまけに…………」
「美人なのですわね!」
ニヤリと笑う熊野に、俺はいささかげんなりする。
航が酔って告げる言葉を、この艦娘は素面でおまけに大声で口走る。俺は嘆息してから言い直した。
「おまけに、佐久間さんのもとで学んでいたことがあるらしい」
「それはすごいですわね」
慢性の睡眠不足の頭に熊野の一言一言が、金槌を下ろすように響く。とりあえず適当な相槌を返しつつ、缶コーヒーを喉に押し込んだ。
「元々は横須賀鎮守府にいた人ですよね」
不意に別の声が聞こえた。
驚いて視線をめぐらせれば、ソファからむくりと起き上がった人影がある。工廠長の明石だ。大ベテランの橘さんの跡継ぎにして、鎮守府随一の技術者だ。ソファに寝ていることに全く気づかなかった。
「すまんな、明石。いるとは思わなかった。起こしてしまったか?」
「いいえ、大丈夫です」
最近の口癖は大丈夫です、だ。
「どうせこれから仕事がありますし、問題ありません」
脳裏に浮かんだのは、昨夜の宴会の最中に静かに席を立って行った明石の後ろ姿だ。
「トラブルでもあったのか?」
「まぁ、そんなところです」
いつものことですから、大丈夫です、と当たり前のように応じる。
工廠はただでさえ人が少ない。だが、その少ない人数で、この鎮守府全艦娘の艤装の修理をしなければならない。この過酷な仕事を、明石は夕張と2人で背負っている。
熊野がいつもながらの遠慮のなさで話題を転じた。
「明石さんは、赤城さんのことを知っていますの?」
「記憶に間違いなければ、私がまだ横須賀鎮守府にいた時に、最初の正規空母として、随分と期待されてましたよ。しとやかな風貌で優秀な人でもありましたから、上の方からもずいぶんかわいがられてた気がします」
少し言葉を切ってから、付け加える。
「実際に期待以上の活躍と聞いてます。すごいですよね」
立ち上がった明石を見て、熊野が手元のカップを持ち上げた。
「飲みます?」
「もらいます」
とカップを受け取って、
「いずれにしても、正規空母の存在はとても心強いですね」
そう言って明石は、満足げにカップを傾けた。
俺もまた共通の感慨に頷いたのである。
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佐久間さんのもとで鍛えられ、しかも最先端の鎮守府を経験してきたというだけあって、赤城はたしかな正規空母であった。
戦場のみならず、夜間の警備の当直、日頃の鍛錬、ことごとくにおいて、隙がない。その上、日中の出撃が終われば、弓道場にこもって、延々と弓の鍛錬を行なったり、戦略の文献を読んだりしているらしい。
すっかり活気を失っていたこの鎮守府にとって、かかる人物の登場は、甚だ鮮烈なものであり、鬱々と沈みがちだった鎮守府内の空気が、大きく変わったことは疑いない。
「おまけに気さくな人だから話しやすいし、駆逐艦たちにとってもありがたいわ。空母って時々男よりもとっつきにくいところがあるから」
良く通る声でそう言ったのは、叢雲だ。
とある日の執務室でのことだ。
「で、赤城さんってどのくらいすごいのかしら?」
「艦載機の積み方によって、圧倒的な制空力を持ったり、戦艦並みの火力を持ったりと、強い上に臨機応変に対応できる」
「もうちょっと簡単に言えないかしら?」
「主力でも脇役でも一流の仕事ができる、そういうタイプだ」
へぇ、とつぶやいた叢雲が不思議そうに俺を見た。
「良く知ってるわね」
「まぁ、実際に戦場で空母の活躍を見るとそのすごさに驚いたものだ」
執務をこなしがら応じる俺に、叢雲が微妙な視線を向けている。
「なんだ?」
「提督も高評価ってわけね」
「高評価も何も実際のことだからしょうがない。欠点を挙げるとするならば、なぜか信じられないほどの大食い、というところか」
艤装の燃費が悪いのはしょうがないとして、その食事量の多さはあまりにも奇怪だ。
「大食いってどのくらい?」
「少なくとも1回の食事で君の3日分は食う」
「…………1回で?」
「なんだ、見たことがないのか?彼女の食べるシーンは一種のホラーだぞ」
「意外な話ね。ま、腕のいい艦娘が来てくれたことは嬉しい限りだけど」
叢雲の声に重なるように、俺の電話が鳴った。俺はそれに出て二言三言話したあとに、再び叢雲を顧みた。
「叢雲、ドッグを借りている艦隊の指揮官が、これから来るそうだ」
「はいはい、地方鎮守府のでしょ?」
ああ、と俺は応じる。
「厄介な人なのかしら?」
「話した限りでは、かなりまともな人物だ」
「そう、満潮がいた鎮守府の提督のようなタイプじゃないことを祈るわ」
甚だ消極的な会話をしているうちに、神通が「お客さんです」と言いながら執務室にやってきた。話の渦中の人物がやってきたのだ。
俺はすぐさま応接室にその人物を案内し、相対した。
その男性は36歳とのことだが、歳下の俺に深々と会釈をした。クセのある黒髪には白いものが目立ち、痩せた頰は少々艶を失っており、血色も悪い。目元には生活に疲れたような諦観が垣間見え、一見すると40をとうに越しているような印象だ。
やはりどこの提督も大変なのだろう。ましてや下っ端の地方鎮守府ならなおさらだ。
「調子はどうですか?」
「だいぶ落ち着きましたよ。八幡さんのおかげです」
顔色は悪くとも、応答は穏やかで、挙措も正しい。
「だいたいの艦娘は入渠を終えたようですが、まだ何人かは入渠中のようです。しばらくはうちでゆっくりとしていてください」
「すいません…………」
もう一度、男性は小さく会釈した。
客を連れてきた神通は、すでに自分の仕事に戻っている。お茶を出そうと、お盆を持って応接室に入ってきた叢雲は、俺と相対している客の前にお茶を置こうとして、ふいに動きを止めた。おや、と顔を上げれば、冷静沈着の秘書艦が、珍しく切れ長の目を見開いて立ち尽くしている。
どうした、と問うより先に、叢雲の薄い唇が動いていた。
「ソウちゃん…………?」
聞き慣れた声で、聞き慣れない言葉がもれた。
応じるように、男性がかすかに顔を上げた。
視線が宙をさまよい、やがて叢雲に帰着したとき、ただならぬ驚きがその目に生じた。
「ナナミ…………?」
ナナミというのが叢雲の本当の名だということに気づいた時には、叢雲は、ほとんど呆然としていた。
「ソウちゃんよね、やっぱり…………」
冷静さには定評のある叢雲が、こんなに驚きを見せるのは珍しい。
艦娘と客は、そばにいる提督には目もくれず、互いに言葉なく見つめ合っている。
にわかの不可思議な沈黙の中、どうしたものかと思案しているうちにポケットから再び電話が鳴り響いた。出てみれば、赤城だ。
今日は午前から、演習を見てほしいということだったのだ。
来られるか、と問う歯切れの良い声に、俺は速やかにイエスと応じて席を外した。
いつまでも、見つめ合うナナミとソウちゃんを眺めているわけにもいけないのだ。
ーーーー
冷静沈着の叢雲が驚く姿を、以前に一度だけ見たことがある。
この鎮守府が出来てまだ1ヶ月しか経っていないときの話だ。
慣れぬ仕事に苦心していたある夕暮れ時、少々ドジをして廊下でこけてしまった時のことだ。
ふいに何にもないところでつまづいて、倒れただけなのだが、ほとんど悲鳴のような声を上げながら駆け寄ってきた叢雲の姿を覚えている。倒れた時、ろくに受け身もとらず頭を強く打ったようで、血が流れていたのだ。その真っ青な叢雲の顔に、怪我をした俺の方が驚かされたものだ。
今回の叢雲の驚きようは、その時以来の印象的なものだった。
互いの名の呼び方からして浅はかならぬ仲なんだろうが、相手の驚いた顔と立ち尽くす叢雲の姿というのは、色々と憶測を呼ばずにはいられない。無論、いくらか憶測を張り巡らせたところで、答えに辿りつけるわけもないのだが。
「真剣な顔で…………考えことですか?提督」
ふいの声に我に返ると、すぐ目と鼻の先に、赤城の笑顔が見えて、おおいに戸惑った。
「人の顔を見てそんなに驚かなくてもいいでしょう」
「顔に驚いたわけではない。距離に驚いたんだ」
ふふふ、と赤城の楽しげな笑い声が、部屋に響いた。
場所は執務室だ。
秘書艦の叢雲がアレなので、とりあえず赤城に少し手伝いを頼んだのだが、驚くほど手際がいい。
さらには、彼女はいくつかの文献も持ってきており、その飽くなき向上心には頭が下がる。
「その様子だと、女性のことでも考えてたのでしょうか?」
笑いながら言った。
「いけませんよ。まだ執務の最中なのに、頭の中が女でいっぱいだなんて」
「すまん」
「否定しないことは、本当にそうだったんですか?」
赤城は面白そうに笑いながら、にわかにどこからか、握りこぶしほどの白い塊を取り出した。そのままそれに、いきなりかぶりついた。
呆気にとられている俺に、むしろ赤城の方は不思議そうな顔を向けた。
「どうしましたか?おにぎりがそんなに珍しいんですか?」
「いや、おにぎりが珍しいわけじゃないが…………」
「私の実家、米農家なんです。いつも沢山のお米が送られてくるんですよ。提督も食べますか?」
もぐもぐと咀嚼しながら、もう一つ懐からまた大きなおにぎりを取り出した。
昨今稀に見る常識人の艦娘かと思っていたが、やはり佐久間さんの教え子というだけあって、相応に奇矯な人らしい。
慌てる当方の思惑を、赤城は勝手に解釈したらしく、おにぎりをかじりながら、
「あ、具はないですよ。おにぎりは塩だけが一番なんですから」
と涼しげに応じて、俺の眼前に一個を置いた。
ますます当惑する俺を、この明朗な空母は一向意に介する風もなく、もぐもぐと瞬く間に一個を平らげてしまった。
「それでは、執務を再開しましょう!」
告げたと同時に、赤城の目元には、すでに切れ者の空母の光がある。
コロコロと印象の変わる、まったく不思議な艦娘だ。とりあえず口元についた米粒は、執務が終えてから指摘しようと思案しているうちに、赤城はすでに執務に取り掛かっていた。慌てて俺も、自分の仕事に取り掛かったのである。
ーーーー
ふっと、辺りが暗くなったのは、鎮守府の電気が夜間灯に切り替わったからだ。
執務室で相変わらず、デスクワークをしていた時のことだ。
時刻は夜9時。つい先ほど、艦娘たちが「お疲れ様でした」と明るい声を響かせてそれぞれの寮に戻り、監視の担当の艦娘は、監視塔に出て行ってから、辺りは急に音と気配を失い、ただ俺の仕事する音だけが執務室に嫌という程響いた。
その静けさのせいか、遠くからかすかに足音が聞こえてきて、俺は顔を上げた。
「お、提督、遅くまでご苦労だな」
予想に違わず姿を見せたのは、長門だ。鎮守府内の見回りから戻ってきたらしい。
「依頼の方は落ち着いてるのか?」
「珍しく、ここ最近は落ち着いている。長門こそこんな時間にどうした?」
「なに、あいつの様子はどうかなって思ってだな。ちゃんと働いてるのか?」
そう言い、ソファに腰を下ろした。
「赤城ならついさっき空母寮に戻って行ったぞ」
俺は真っ暗闇の窓の外を眺めたが、なんの気配を感じない。
「いくらか風変わりだが、能力についてはまったく…………」
「ばか、誰も赤城のことは聞いてない」
さすがに仕事の手を止めて、長門を顧みた。
「わざわざこっちに来てくれた以上、あいつの仕事の内容に口を挟むものでもないだろう」
揺るぎないその信頼感に若干驚きつつも、当方の当惑は別にある。
「赤城じゃないのなら、誰の話だ?」
「叢雲だよ」
さすがに面食らった。
長門はニヤリと笑って、声音を落とした。
「ゆうべ、叢雲の"男"が来たんだろ?鎮守府中、噂でもちきりだぞ」
ぎゅっと親指を立てて、悦に
相変わらず噂だけは早い。
まぁ、噂というのは、あっという間に伝播するものだ。昼間の件を、長門が知らない方がおかしいというものだ。
「これまで叢雲のプライベートは完全に闇の中だったからな。おまけに相手の男は36だって?叢雲は24歳だから12歳も離れていることになるじゃないか。これは一大事だって、鎮守府中の艦娘が固唾を呑んで見守ってるぞ」
戦果の報告より、はるかに熱っぽい口調で述べてる。
「提督は見たんだろ?そのシーンを」
「まぁ、見たことは見たが…………」
「急襲だろうと、奇襲だろうといつでも落ち着き払っている叢雲が、声もなく立ち尽くしている姿を、私も見たかったな」
「いい趣味とは言えないな」
「ふふ、そうやって達観して。で、話は聞いたのか?叢雲に」
「聞くも何も、赤城から呼び出しがあったから、俺は途中退場したよ」
「はぁぁあ…………ダメだな、提督は。ほんとダメだ」
今度は心底呆れたような顔になる。
こういう空気感の演出は長門の得意とするところで、聞いてる側はまるっきり自分が阿呆のような気になってくる。
「ダメ、か…………」
「ああ、ダメだ。それじゃあ、いくら頭が良くても、強くてもダメ。だいたいだな」
とにわかに身を乗り出して言う。
「提督に心を射抜かれてしまったために、次の男に踏み出せない可哀想な美人艦娘に、そんな無関心な態度でいること自体ダメなんだ」
「誰が誰に心を射抜かれたのかしら、長門」
にわかに底冷えのする声が背後から聞こえて、俺と長門はそのままの姿勢で凍りついた。
恐る恐る首をめぐらして見れば、いつのまにやら
豪放磊落の長門が珍しく視線を宙にさまよわせながら「お、叢雲、久しぶりだな、元気か」などとわけのわからん応答をしている。
「ええ、おかげさまでね。で、鎮守府中でもちきりになっている噂って何かしら、私は初耳だけど」
薄い唇に笑みを浮かべてはいるが、目はまったく笑っていない。珍しい事に叢雲の虫の居所がひどく悪いらしい。
「さ、さぁ、なんの話だったかな、提督」
絵に描いたような無茶振りに、俺が答えられるわけもない。
一瞬の気まずい空気の直後には、長門はいきなり携帯を持ち出して立ち上がっていた。
「おお、呼び出しじゃないか!」
誰がどう見ても鳴っていない携帯を片手に、そそくさと廊下へと足を向ける。軽くため息をついた叢雲が、その背に向けて良く通る声を響かせた。
「長門、ひとつだけ言っておくわ」
肩越しにちらりと振り返った長門に、叢雲が腕を組んだまま微笑んだ。
「私、まだ23歳だから」
執務室の扉の前で、長門は神妙にぺこりと頭を下げたのである。
ーーーー
「ごめん、司令官」
静かな執務室に、叢雲の遠慮がちな声が響いた。
長門を見送ってしばらく経った後のことだ。
視線をめぐらせば、ソファから、叢雲が思いのほか真剣な目を投げかけている。
しばし
先に口を開いたのは叢雲だ。
「今日の昼間のことよ。変に取り乱しちゃってごめん」
「取り乱すことなんて、俺にとっては日常茶飯事だ。そんなことで謝ってたら、取り乱す暇もなくなるぞ」
神妙な顔をしていた叢雲がかすかに苦笑した。
「相変わらずね」
一呼吸置いて、
「昔、とてもお世話になった人なのよ。まさかこんなところで会うとは思わなかったから」
お世話になった13つ年上の男性を「ソウちゃん」呼ばわりするものなのかは、甚だ難しい問題だ。かくも取り乱すものも解しがたい。
「あまり納得してない顔ね」
「納得はしてない。が、納得しなければならない問題でもないんだろう」
「あまり興味を持ってくれなさすぎるのも、いい気はしないんだけど」
「興味を持っていないとは言ってない。ただ大声で興味があると言うような無粋な言動は慎んでいるだけだ」
叢雲はちょっと驚いた顔をしてから、机に両肘をつけ、手の上に顎を乗せて興味深げに微笑んだ。
「心配はしてくれてるんだ?」
「優秀な艦娘が悩んでいる姿というのは、鎮守府の雰囲気にもよくない影響を与えるものだ」
「またそんな芸のないことを言う」
ひどい言われようだ。
が、叢雲の方は、探るような、面白がるような顔をしている。
「で、何か聞いたりしないのかしら?」
「聞けばいちいち答えてくれる内容なのか?」
「そうね…………」
意外なことに叢雲は、少し考え込むように視線を天井に向けた。
しばらく白い人差し指を顎に当てて思案していたが、やがてにっこりと微笑んだ。
「やっぱり教えてあげない」
そう言って立ち上がった。
「だいたい、わざわざあんたに話すような内容じゃないもの」
言葉には幾らかの朗らかさが戻っている。
気持ちを切り替えるように、叢雲は大きく伸びをしてから、それに、と付け加えた。
「心を射抜かれたまま一歩も前に進めない美人艦娘としては、少しくらい秘密は持っておきたいものなのよ」
さらりと告げると、一歩も前に進めないわりには、躍動感ある足取りで執務室を出て行った。