民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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 江下宗一(えのしたそういち)、というのが、叢雲の言う「ソウちゃん」の本名だ。

 彼が提督を務める鎮守府のドックが満杯なため、こちらの施設の借りていたが、ほとんどの艦娘の治療などは終えていた。問題はその江下さんが、我が鎮守府を参考にしたいと申し出て、しばらくここに留まることになったことである。

 

「地方の小さな鎮守府なので、そこまで激戦にはならないと思いますが、やっぱり勉強はしておかないといけませんからね」

 

 ソファに座る江下さんは、いたって穏やかな様子だ。

 

「俺もまだ勉強不足ですが、何か参考になればいいです」

「いえいえ、噂に聞いていた通り、かなりの敏腕ですよ」

 

 褒められることにあまり慣れていない俺は、少し黙り込んでしまった。それを見て、江下さんは微笑みつつ、

 

「最近、私たちへの出撃命令が減ってきていましてね…………やはり、私たちの実力が足りないのでしょう」

「いえ、出撃命令が減ってきたからこそ、警戒すべきだと思いますよ。その後に、必ず嫌という程出撃させられますから」

「なるほど、今は束の間の休息、と言うことですね」

 

 いくぶん諦めに似た微苦笑を浮かべた。

 その時俺がふと目を留めたのは、江下さんの手元にある一冊の書物だ。表紙には漢字2文字が書き添えられており、長い間読んできたのかいくらか、くたびれている。

 

「『葉隠』、ですか」

 

 問えば、江下さんは目元に嬉しげな光を浮かべた。

 

「私の愛読書です。八幡さんもご存知ですか」

「ええ。武士道の奥義を説いた本ですよね」

「さすが軍神さんです」

 

 そういうものではないのだが、わざわざ応じるのも面倒なので、俺は何も言わずに江下さんが差し出してくれた書物を手に取った。

『葉隠』は、鍋島藩士の山本常朝が武士としての心構え口述し、それをまとめたものである。現代と武士道とでは、なんの関係もなさそうに見えるが、処世術などもあり読んでおいて損はないものだ。

 

「相当読み込んでいるようですね。これが中巻なら、あとの2つもあるのでしょうか?」

「下巻はあるんですが、上巻はどこかで失くしてしまいました」

 

 ははっと小さく笑ってから、江下さんはふいに表情を改め、やがて思い切ったように語を継いだ。

 

「ナナミは…………、失礼、叢雲さんからは何か言ってませんでしたか?」

「何か、とは?」

 

 俺も存外意地の悪い返答をするもんだと思いつつ、先方を見返す。江下さんはしばし困惑してから、

 

「いえ私が来てから、彼女、一度も顔を出してくれませんから」

「叢雲は駆逐艦たちのリーダーもやってますから多忙なのでしょう。顔を出すように伝えておきますか?」

「いえ…………いいえ、結構です」

 

 戸惑いがちに、江下さんは手を振った。

 

「会ったところで、情けない姿を見せるだけですから」

「情けないことはないでしょう。地方の鎮守府だとしても、立派に提督をやっています。なんら恥じる必要はありません」

 

 静かに答えれば、江下さんは、少しだけ目を見開いてから、かすかに微笑んだ。

 

「優しい人でよかったです。よろしくおねがいしますね、八幡さん」

 

 安堵のため息とともに、そんな言葉が聞こえた。

 

 

 ーーーー

 

 

「いい人じゃないか、江下さんは」

 

 夕暮れ時の食堂で、叢雲を見つけた俺の第一声がそれだった。

 

「なによ、唐突に?」

「唐突なもんか。江下さんは叢雲が来てくれないと寂しがっていた。どういう関係かは知らんが、久しぶりの再会に挨拶くらいしてやるといい」

 

 速やかに答えれば、叢雲はむしろ胡散臭そうな顔をする。

 

「随分急な話ね。どうせ、いい提督だとかなんとか持ち上げられたんでしょ?」

 

 相変わらず頭の回転の速い駆逐艦だ。返す言葉もない。

 

「でも、江下さん、ほんとにいい人ですよ」

 

 傍らから遠慮がちに口を挟んだのは、叢雲と休憩していた吹雪だ。

 

「どんなに騒がしくても全然嫌な顔しないですし、廊下ですれ違っても笑顔で挨拶してくれますし、いつも静かに本を読んでいたりして…………。なんか紳士って感じですよね」

 

 どこか夢見るようなその大きな瞳で、めいっぱい幸せそうにそんなことを言う。

 

「でも結構いい加減なところもありますよ、あの人」

 

 と今度は食堂にやって来たばかりの不知火が口を開いた。

 

「昨日の夜、消灯時間の後に、鎮守府を歩き回っていたんです」

 

 初耳だ。

 不知火がため息混じりに付け加えた。

 

「司令官に連絡しようか悩んでいるうちに、部屋に戻ったのでよかったのですが。なんだか眠れなかったので、歩き回っていたらしいですが…………」

 

 なるほど、それはなかなかに迷惑な話だ。

 横で端然と聞いていた叢雲がポツリと言う。

 

「昔からそうなのよ。頼りになるように見えて、結構抜けてるんだから」

 

 思わぬ意味深な発言に、俺と不知火が同時に叢雲を顧みた。見られた方の叢雲は、気にした風もなく淡々としている。

 いまいち分かっていない吹雪は、相変わらず目をキラキラさせて、

 

「そこがまたいいんです。難しそうな本を読んでいる姿と、なんだかギャップがあって、支えてあげたいって感じじゃないですか」

 

 勝手なことを言っている。

 難しそうな本というのは『葉隠』のことだろう。

 

「それにしても、江下さんは艦娘との接し方には慣れているようだな」

「そりゃそうよ。彼、艦娘がいく学校の先生だったもの」

 

 再び投げ込まれた爆弾に、今度は吹雪もいれて、3人ともが反応した。

 叢雲はあくまで平然と、

 

「彼、もともと国語の先生なのよ。昔は剣道もしていたけど、あの様子じゃね…………」

 

 面食らう俺たちに、ようやく叢雲は顔をあげた。

 

「そんなに驚かなくてもいいでしょ」

「そんなに驚かさなくてもいいだろう」

 

 ようやく応じるので精いっぱいだ。

 恐る恐るといったふうに、不知火が口を開いた。

 

「でも、江下さんは、提督ですが…………」

「今はそうよ。とっくに先生を辞めたんだもの。私が高校生のときの国語の先生。3年の時は担任もやってたわ」

 

 一旦息をついてから、声もなく見つめる俺に目を向けた。

 

「もう一度言うけど、そんなに驚かなくてもいいでしょ」

「江下さんが国語の先生だったということに驚いたんじゃない。叢雲にも女子高校と称する時代があったということに驚いてるんだ」

「怒るわよ」

 

 冗談だ、ととにかく沈黙を埋めつつ、

 

「しかし担任の先生をソウちゃん呼ばわりか?」

「あの頃はみんなそう呼んでいたもの」

 

 一般的にそういうものなのかは別として、にわかに俺の脳裏に占めたものは、高校生の叢雲と、教師の江下さんの姿だ。先日の意味深な態度といい、勘ぐらずにはいられないのが人情というものだろう。

 同じ想像をしていたらしき吹雪が、いつのまにやら耳まで赤くして、小さな声で問うた。

 

「む、叢雲さん…………、も、もしかして、先生だった江下さんとなにかあったのですか?」

 

 俺と不知火が遠慮するような質問をあっさりと口にする。

 

「単刀直入に聞くわね」

 

 さすがに少し驚いた叢雲は、腕を組んで考え込むような顔をする。それから首を傾げて、一呼吸おいてから口を開いた。

 

「ま、何もないと言えば嘘になるかしら」

 

 ええっと、背後からかすかな声が聞こえて振り返れば、いつのまにやら食堂の艦娘たちが全員こちらを向いて、興味津々の目をしている。

 叢雲は額に指を当てて、ため息をついた。

 

「冗談に決まっているでしょ。そんなことより…………」

 

 突然、甲高いサイレンが叢雲の声をかしけしていた。

 このアラームは鎮守府の警戒範囲内に深海棲艦が侵入したことを示す。

 艦娘が悲鳴にも似た声をあげた。

 

「提督!」

 

 声が終わらぬうちに、俺と叢雲は食堂を飛び出していた。

 

 

 ーーーー

 

 

 深夜の1時。

 本来なら静まり返っているはずの鎮守府が、その日はまだ慌ただしい雰囲気を醸し出していた。

 くたびれた顔のままモニターを眺めているのは航だ。

 

「大変でしたね」

 

 ソファで寝っ転がっている俺の耳に、旧友の声が届いた。

 

「大変だったのは俺じゃない。艦娘たちだ」

「それでも隊長も大変そうでしたよ」

 

 その夕刻、深海棲艦の艦隊が警戒範囲内に踏み込んできた。

 

「最近敵も攻めるようになりましたけど、まさかここまで来るとは思いませんでした」

「誰も予想できるような急変じゃない。未知のものを予測しろというのが難しい。殲滅できたのは、ひとえに運が良かっただけだ」

 

 敵の艦隊は大したものではなく、赤城の活躍もあってすぐに殲滅ができた。だが、まだ骨のある艦隊なら、この鎮守府にも被害があった可能性もある。

 

「あれは偵察の役割があったと思います。多分、今後はもっと強力な艦隊が来るでしょう」

 

 脳裏に浮かんだのは、2年ほど前の深海棲艦上陸のことだ。まさに地獄絵図がそこにはあった。

 

「厳しい、な」

「厳しいですけど、今回は充分に対策は取ってあるはずです。前回のようなことにはなりませんよ」

 

 まっすぐな目でモニターを見つめる航の横顔は、かつての"期待のエース"にふさわしい懸命さと真摯さを兼ね備えている。俺は黙ってうなずくだけだった。

 

「隊長こそこんな時間まで大丈夫ですか?長門さんも心配しますよ」

「長門は昨日からまた出張中だ。新兵器の話とかで、行ったり来たりと忙しい」

「まぁ、こちらとしてはいい話じゃないですか」

 

 航はまるで自分のことのように嬉しそうな顔をする。

 俺はソファから起き上がり、椅子に座る。

 

「例の見学者がまだいたいというのも気がかりだ」

 

 江下さんの件だ。

 夕方の叢雲の爆弾発言も気になることは気になるが、それ以上に、まだここで勉強したいと言うことに少し疑問を持っている。そもそもこんな民間企業なんかよりも横須賀の方に行った方がはるかに有意義なはずだ。

 

「まぁ、今度赤城に話を聞きに行ってもらおうと考えているところだ」

「私の噂話だなんて、嬉しい話ですね」

 

 涼やかな声が聞こえて振り返ると、ちょうど当の赤城が執務室に入ってきた。

 

「こんな時間にどうしたんですか」と問う航に、軽く肩をすくめつつ、

 

「今日は監視の担当なんです。ほんとここの鎮守府って、これでもかというくらいに働かされますね」

 

 さらりと答えつつ、右手に提げていた袋からおにぎりを取り出す。これを無遠慮にかぶりつく姿は、なかなか見慣れるものではない。多分、ずっとこの奇行は続くだろう。

 

「まったく佐久間さんも、こんなに大変な鎮守府なら、最初っから言ってくれればよかったのに。相変わらず都合のいいことしか言いませんね…………」

「ここが忙しいところだと言われなかったのか?」

「多彩な戦況を体験できて、勉強になるところだって聞きました。おまけに私が存分に実力を発揮できるところだとも」

 

 確かに嘘は言ってない。

 

「でもまさか、『多彩な戦況』の半分以上が、護衛と偵察とは思いませんでした。民間企業だとは分かっていたんですけどね」

 

 呆れ顔ではあるが、口で言うほどの不満がある様子ではない。この辺りの打たれ強さは佐久間さん直伝なのだろう。

 ぼやきながら、赤城は袋からさらに2つのおにぎりを取り出して、俺たちの前に並べた。黙礼とともに受け取った航は、1つを手に取って早速口にしている。

 

「まったくこんなに忙しいと、日々の鍛錬もままになりませんね」

「すごいな。ただでさえ激務なのに鍛錬だなんて…………」

「別に褒められることじゃありませんよ。敵だってどんどん強くなっているんですから、やらなきゃやられるだけなんです」

 

 耳が痛い話だ。

 俺など、ただ日常業務に追われて過ぎていくだけの日々だ。むしろこの多忙を極める鎮守府で、鍛錬と業務を同時並行させている赤城の精神力こそ尋常じゃないものだろう。

 俺は机のおにぎりを取って、一口食べる。

 

「ん、うまいな。だが、具が欲しい」

 

 言えば、赤城は呆れたような顔をする。

 

「提督って、意外と舌バカだったりするんですか?」

 

 舌バカとは何度か言われたことはあるが、これしきのとこで判断されても困る。

 しかし、それ以上口を開けば、地雷原を突っ走るような気がしたので、話題を、江下さんの話まで押し戻した。

 話を聞いて、赤城は、2、3度うなずいてから答えた。

 

「ああ、あの叢雲さんの彼氏ですね」

 

 どうやら鎮守府内では勝手にそうなっているらしい。

 

「叢雲自身は何も言ってない。おまけに11つも歳が離れてる」

「11つくらいなんともありませんよ。私だって同じくらい離れていた人と付き合ってましたから」

 

 俺と航はぎょっとして、思わず顔を見合わせた。

 赤城は、そんな反応見向きもせずに、

 

「まぁ、話くらい悪くありませんが…………」

 

 ぽんぽんと話が飛んでいくだけに、俺たちはついていくのが大変だ。しかし赤城は元来そういう性格らしく、当方の困惑など一切意に介していない。

 

「でも多分、その人には必要ないと思いますよ」

 

 また唐突な結論が飛び出てきた。

 

「赤城は、彼に何か心当たりでもあるのか?」

「どうでしょう。でも、しばらく様子見ていいような気がするんです」

 

 根拠があるのかないのか、しごくさらりとした応答だ。

 赤城はコーヒーカップを取り上げて、そこにバサッとコーヒー粉末を投入し始めた。どこかで見たことがある光景だなと思い当たるより先に、今度は次々と多量の砂糖を放り込む。

 

「あ、赤城、何を…………?」

「何って、コーヒーですよ?この前長門さんにおいしいコーヒーの作り方を教わったんです」

 

 黒と白の粉を大量に放り込んだカップに、平然とお湯を注ぎ始めた。

 

「長門さんって、ちょっとガサツなイメージですけど、意外と味覚にうるさいんですね。人は見かけによらないって言いますが、その典型です。幼馴染なのに知らなかったんですか?」

 

 価値観の多様性を痛感せざるを得ない。少なくともこの劇薬を、このように評する人に出会うとは予想もしなかった。

 再び航と顔を合わせているうちに、赤城は身を翻して、

 

「明日も早いのでこれで」

 

 淹れたばかりの劇薬を一気に飲み干すと、それでは、とそのまま執務室を立ち去った。

 後に残るのは静寂だけだ。

 まさに台風一過の感だった。

 

 

 ーーーー

 

 

 息抜きに外に出たのは深夜の2時過ぎだ。

 今宵は雲が多いようで、あまり月が見えない。そのせいか鎮守府の光が妙に明々と見える。音もなく風が吹いて、一石を投じた水面(みなも)のように、海にさざ波が立って広がっていった。

 昼はそこそこ気温が上がるが、日が暮れるととたんに急激な冷え込みを見せる。赤い太陽が沈んでいけば、世界は夜の領域となり、気温は、どんどん下がっていく。

 しかしあまり、寒冷を感じぬ俺は、この厳しい温度変化よりも風の心地よさの方がより感じる。呆けた脳も落ち着かない心も、風が運んでいってくれるような気がする。

 買い置きしておいた缶コーヒーを片手に執務室に戻ろうとした俺は、とある人物を見つけて足を止めた。

 少し遠くに、歩く軽巡の姿が見える。

 

「おいおい、もう就寝時間は過ぎてるぞ、川内」

 

 俺の声に、川内が振り返る。

 

「ちょっと寝付けなくって。提督もこんな時間までお疲れ様だね」

 

 そう言う川内の顔に、珍しくかすかな疲労の色が見える。

 何気なく誘われるように、俺は川内のもとへと足を進めた。

 

「そういう君も、少し疲れているじゃないか?」

「あちゃー、提督に見透かされるようじゃ、ダメだね」

 

 苦笑しつつ、

 

「なんか最近は出撃も増えてきて結構忙しいし、仲間にも悩み事が増えてるんだよ」

「俺もどうにかしたいのは山々なんだがな…………」

 

 苦笑を浮かべつつ、俺は川内の隣に立った。

 

「そんな余裕かましてるけど、叢雲の方は大丈夫なの?」

 

 俺は開けたばかりの缶コーヒー持ったまま、動きを止めた。

 

「大丈夫、って?」

 

 川内は心底呆れたような顔をする。

 

「何も聞かされてないの?」

「何も、というわけでもないが、本人は秘密だと言って話さん」

「バカだなぁ…………」

「全くだ。ひとりで悩むくらいなら、話してくれれば…………」

「バカって言ったのは提督の方だよ」

 

 遠慮のない声に顔を向けると、川内はこれ見よがしにため息をついた。

 

「女に、秘密だって言われた時は、意地でも聞き出さなきゃダメだよ」

「矛盾に満ち溢れた注文だな…………」

 

 顔をしかめれば、再びため息をついた。

 

「相当な切れ者って言われるわりに、女心はまったく分かってないんだね、提督は」

 

 随分な言われようだ。

 少なくとも軍略などに精通しているからと言って、女心に詳しくなる話は聞いたことなどない。俺が必死に頭を働かせてわかるのは、せいぜい女というものが、極めて難解な生き物であるということだけだ。

 

「ま、叢雲のことだから大丈夫だと思うけど、意外と悩んでるみたい。気が向いたら、酒の一杯でも付き合ってあげなよ」

「そういう役割なら君の方が適任だと思うが…………」

「バカだね、こういうデリケートな問題だからこそ、夜戦バカの同僚より、頭は切れるけどいまいち鈍感な提督の方が相談しやすいんだよ。なんだかんだ言っても、あいつ私に気を遣うんだもん」

 

 バカなのか切れ者なのか分からん論評だ。

 さて、と川内は踵を返し、

 

「そろそろ戻らないと、監視の仕事があるからね」

「のようだな」

 

 脳裏に浮かぶのは、嵐のように立ち去って行った赤城の後ろ姿だ。

 

「ま、赤城さんがいるし、問題はないかな。あの人、仕事もできて快活だし、私たちも働きやすいし。提督もそう思うでしょ?」

 

 振り返って川内が雑談がわりに投じた言葉に、俺はすぐには反応しなかった。

 その姿に川内は、不思議そうに眺める。

 しばらく沈黙した後、俺は川内にとっては心外な言葉を吐き出した。

 

「君も意外と人を見る目がないんだな」

 

 川内が口を開こうとするよりも先に、俺は片手を上げて背を向けた。

 

「ま、大した問題じゃない。お疲れ様」

 

 半ば呆然とする川内を置いていき、俺は歩を進める。その途中、俺は視界の片隅に別の人影を捉えた。

 ちょうど鎮守府の裏口から、背の高いオトコが出ていくのが見えた。

 カーディガンを羽織ったその人物は、ここに滞在中の江下さんだった。

 

 

 ーーーー

 

 

 夜7時。

 それが翌日の執務が終わった時間だ。

 橘さんがまだいた頃は9時、10時まで当たり前のように執務をしていたから、これでもかなり早い時間だ。赤城が来てくれたおかげで、少し仕事の片付く時間が早くなったのだ。俺はその足で、真っ直ぐに客室へも向かった。時間はすでに夜勤帯ではあるが、例によって叢雲は、秘書艦として忙しげに立ち働いている。いったいいつ休みを取ってるのか不思議なくらいだ。

 

「お疲れ様。やっと終わったのね。見回りは?」

「これからだ。が、その前に1つやらなきゃいけないことがある」

 

 憮然と応じれば、俺の声の底にある常とは違う空気を、叢雲は敏感に感じ取ったらしい。

 かすかに切れ長の目を細めて、俺を見返した。

 

「どこかに個室の部屋は空いてないか?」

 

 叢雲は理由も聞かずに書類に目を向けてすぐに答える。

 

「ここなら、空室よ」

「ふむ、そこに移動してもらおう」

 

 一瞬、間を置いた叢雲が静かに、だが確かな口調で答えた。

 

「…………江下さん?」

 

 私は小さくうなずいた。

 迷いがなかったわけではない。だが、放置することは断じて許されなかった。俺は叢雲を伴って執務室を出、客室に足を向けたのである。

 

 

 ーーーー

 

 

 江下さんの部屋は本来艦娘用の2人部屋だ。

 もうひとつのベッドは誰も使ってないので、夜の8時にいきなりの来室に不満をぶつけられることもない。

 江下さんは、この遅い時間にいつものように椅子に座って、書物を読んでいた。

 突然の俺と叢雲の訪室には、さすがに驚いたようだ。

 

「こんばんは、八幡さん。遅い時間まで大変ですね」

 

 驚いたなりにも、すぐにいつもの穏やかな笑顔になる。

 その視線は、俺のすぐ後ろにいる叢雲に気づいて、わずかに戸惑いを見せたが、直接声をかけることはしなかった。

 

「江下さんこそこんな時間まで読書だなんて、精が出ますね」

「習慣、のようなものですから」

 

 読んでいたのは『葉隠』だ。

 

「勉強のほうはどうでしょうか?」

「順調です。今日も素晴らしい執務を参考にさせてもらいました」

「そうですか」

 

 俺の抑揚のない声に、江下さんはいくぶんか警戒した様子になった。

 

「なにか問題が発生したんですか?」

「ええ、それなりに。だから、少し強硬な手段に訴えざるを得なくなりました」

 

 強硬な?と不思議そうな顔をする。

 

「申し訳ないことですが、江下さんにも協力して欲しいんです。よろしいでしょうか?」

「それはもちろんです。私が何かできるなら教えてください」

 

 穏やかで、かつ殊勝な返答だ。その表情は、嘘をついているようにはとても思えない。とても思えないことが、しかし、恐ろしいことなのだ。

 俺はわずかに間を置いてから、口を開いた。

 

「では部屋を移ってもらっていいですね?」

 

 俺の問いの意味を、江下さんは正確には理解できなかったのだろう。少し首を傾げて叢雲を見たが、叢雲とて状況を理解しているわけではない。

 

「部屋の移動ですか?」

「はい」

「それはいいですが、今すぐはちょっと困ります。荷物の準備もありますので…………」

「荷物は艦娘たちに運ばせます。江下さんは身ひとつで構いません」

 

 すみやかに告げた時、江下さんはかすかに表情を硬くした。

 

「いえ、荷物の移動くらい自分でできますよ。大した量もありませんし」

「なくてもこちらで移動させます」

「しかし、そんな迷惑を…………」

「迷惑なのは、あなたがしている行為だ!」

 

 我知らず、強い語調で発していた。

 すぐ背後の叢雲は、驚きつつも状況を飲み込めず沈黙を保っている。

 江下さんがなにか答えるよりも先に、俺は速やかに語を継いだ。

 

「あなたは身ひとつで上の個室へ移動しろ。無論、あなたが隠し持っている、メモリースティックもだ」

 

 江下さんの顔色がさっと変わった。

 背後で叢雲がかすかに息をのむ様子が伝わった。

 束の間沈黙が続いたのち、俺は静かに、しかし底冷えするような声だ付け加えた。

 

「心配なら、『葉隠』くらいは自分で持っていっても構いません」

 

 視界の片隅で、『葉隠』の文字が妙にはっきりと見えた。

 

 

 ーーーー

 

 

 江下さんの部屋から予想通りメモリースティックが複数見つかった。

 中身を調べれば、どれも軍事機密ばかりだ。要するに、江下さんが見学と称してここにやってきたのは、どうにかして軍事機密を持ち出し、隠れるためだったのだろう。

 

「夜に出歩いていたのは、その情報を渡すためだったのですわね」

 

 夜の執務室に、熊野の呆れて声が響いた。

 

「驚きましたね。全くそういう人には見えませんでしたが…………」

 

 つぶやくように言ったのは、航である。

 

「人は見かけによらんということだ。分かっているようで、いつも後手に回るものだな」

 

 ようやく仕事が終わったというのに、まるでこれから執務があるような重い気分だ。

 ただ淡々と先刻のことをまとめるしかない。

 

「で、どうするんですか?」

「佐久間さんに連絡するしかない。だが、いきなり引き渡すもいかんだろう。とりあえず、ここで監視するしかない」

「鎮守府は大丈夫何ですか?」

「一応、補佐がいるらしいからどうにかなるだろう」

 

 熊野と航が同時にため息をつくのが聞こえた。

 やがて立ち上がった熊野が、しばらくしてから、紅茶を淹れて持ったきた。

「まぁ、とりあえずゆっくりしなさいな」と言って出されたら紅茶を今夜ばかりは黙って受け取る。

 カップルに口をつけたところで、電話が鳴り響いた。

 ほとんど無意識の状態で着信ボタンを押したところで、飛び込んできた声は、神通のものだった。

 

 "提督、すぐに来てください。叢雲さんが…………"

 

 俺はカップを机において立ち上がった。

 

 

 ーーーー

 

 

「いったい、なにやってるの」

 

 冷えた声が、部屋の外にまで聞こえてきた。

 江下さんを移動させた個室の前だ。

 神通たちが入り口周辺にいるものの、室内の異様な空気に圧倒されて入ることをためらっている状態だ。顔をのぞかせて納得した。

 椅子に腰かけた江下さんと向かい合うように叢雲が屹立しているのだ。その横顔はかつて見たことのないほどに厳しいものだった。

 細い両腕を組み、仁王立ちで眼前の男性を見下ろす姿は、声をかけるのをためらわせるのに十分な、気迫と威厳を備えていた。

 

「いったいなにをやってるのって聞いてるんだけど」

「大本営の機密情報を持ち出して、逃げてきた」

 

 淡々とした声とともに、江下さんが自虐的な笑みを浮かべつつ顔をあげた。

 

「そう言えば、納得してくれるのか、ナナミ」

 

 叢雲は微動だにしなかった。眉ひとつ動かさず、黙って江下さんを見下ろしていた。俺はそっと個室に入り、神通に扉を閉めるよう目だけで指示した。他の艦娘たちにも、とにかく持ち場に戻るように、と。

 

「ずっとそんなことしてたの?」

「ああ、学校を辞めてからね」

「平和のためならどんな形でも尽力するって言ってたのはどうなったのよ?」

「無茶言うなよ」

 

 小さく漏れたため息は、痛々しいと称するしかない乾いた笑いを含んでいた。

 

「あんな形で学校を辞めた僕を、誰が雇ってくれるんだい?行くあてもなし、働く場所もなし。おまけにひ弱なこの身体じゃ、何にもできない」

 

 江下さんは諦観を含んだ無気力な笑みとともに、叢雲を見返した。

 

「ナナミ、これは僕が選んだ人生だ。君と出会ったことが原因じゃない。君が責任を感じる必要はないよ」

「…………責任なんて感じてないわよ」

 

 静かな声だった。

 江下さんはかえって少したじろいだように肩を動かした。

 

「私はね…………、あんまり情けなくって呆れ果ててるだけなの。なんでこんなことになってるのかって」

 

 かすかにその声が震えて聞こえた。江下さんはしばし叢雲を見上げていたが、やがて疲れたようにため息をついた。

 

「どうしてかな…………。今じゃ、僕にもよくわからない」

 

 小さく咳払いし、再び語を継いだ。

 

「いつのまにかこんなことになっていた。君の言う通り、随分情けない話だ。でもどちらにせよ君はこんなに立派な艦娘になって頑張っている。僕は見ての通りだ。2度と交わることのない人生なら…………」

「人生は短い、だからこそどんな困難も喜んで、勇んで立ち向かうべきだ。そう言ったのはソウちゃんじゃない」

 

 江下さんが口をつぐんだ。

 

「あなたがどんな困難に阻まれているのかはわからないけど、私は、艦娘になってから一度も困難から逃げてないわ。どんな困難だって、私は真正面から向き合ったわ。なぜだかわかる?」

 

 一瞬沈黙して、叢雲は言葉を噛みしめるようにして告げた。

 

「あなたが、そう教えてくれたからよ。それなのにあなたは…………」

 

 声が途切れた。

 再びの沈黙は、以前にも増して深く病室を包んだ。

 静寂の彼方で、かすかに廊下を人が通り過ぎて行く足音が聞こえる。足音が近づいて、やがて遠ざかった時、叢雲の手が上がった。

 

「ほんとに、情けない話だわ」

 

 何をするのか俺が直感した時には、叢雲は力一杯、江下さんの頰を叩いていた。制止の声をかける暇もあったものではない。

 俺はもとより、江下さんも声なく、あっけにとられている。

 一瞬の沈黙の後、軽く髪をかきあげた叢雲の凛と澄んだ声が響き渡った。

 

「ここは鎮守府です。たくさんの艦娘が闘っている場所です。戦う気がないのなら、今すぐ提督をやめてください」

 

 再び訪れた沈黙の彼方から、かすかに水の音が聞こえた。

 外はいつの間にか雨になっていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 雨はしとしとと降りしきり、一滴ごとに夜が深まるようだった。

 

「どんな困難も、か…………」

 

 かすかにつぶやいたのは江下さんだ。

 叢雲が部屋から出て行ってすでに30分以上は経っているが、江下さんは、椅子に座ったまま、身じろぎもせず、足もとを見つめていた。

 

「山本常朝の言葉ですね」

 

 俺の声に、ようやく江下さんは顔を上げた。

 

 "大難大変に逢うても動転せぬといふは、まだしきなり。大変に逢うては歓喜踊躍して勇み進むべきなり"

 

 それは、困難の中で平然といるのではなく、喜び勇んで立ち向かっていこうという、山本常朝の言葉であった。

 

「よくご存知ですね、八幡さんは」

 

 江下さんの頰に疲れた笑みがあった。

 

「私の好きな言葉でした。ナナミもよく覚えてくれていたものだと、驚いています」

「こんな戦場に立つ者だからこそ、胸に響く言葉ですね」

 

 江下さんは、かすかにうなずいてみせた。

 ふいに窓がふるえたのは、風が出てきたせいだろう。降りしきる細雨が、風を受けて窓ガラスを濡らし始めていた。

 

「先程の話ですが…………」

 

 俺は胸中のためらいをゆっくりと押しのけて、遠慮がちに口を開いた。

 

「話を聞くに、叢雲のせいで学校を辞めたかのようにも聞き取れました」

「違いますよ」

「違うか否かのあなたの判断ではなく、何があったのか、伺わずにはおれません。なんせ彼女は、俺にとって大切な友人でもありますから」

 

 俺の声に、江下さんは少しだけ探るような目をしたが、やがて小さくうなずいた。

 

「半分事実で半分嘘、といったところです」

 

 一呼吸置いて、語を継いだ。

 

「私はナナミが高校3年生の時の担任でした。彼女はとても私のことを慕ってくれて、おそらくただの尊敬する教師以上の感情を持ってくれていたと思います」

 

 江下さんの頰にかすかに照れたような微笑が浮かんだ。それが本当のこの人物の表情であるかのようにみえた。

 

「ですが、私はあくまで教師。おまけに彼女は高校生でかつ将来の貴重な戦力。うかつに近づきすぎてはいけないと充分に気をつけていたのです。しかし、ただ1度だけで…………、1度だけ2人だけで食事をする機会を持ちました」

 

 そこで、一度ため息をついた。

 

「今まで艦娘たちの教師としての実績が認められて、私も前線に呼び出された日です。ナナミが、どうしてもお祝いしたいと言ってくれましてね。夜遅く、町中のレストランに出かけて、そこで…………」

 

 江下さんはかすかに眉をひそめたが、すぐに続けて言った。

 

「士官に見つかったんです」

「食事だけでしょう。弁明はいくらでも…………」

「あなたもご存知でしょう。昔は艦娘との関わり方は厳しいんです。誰にも何も告げずに艦娘を食事に連れに行くというのは、言葉で語る以上に、大きな波紋を呼ぶんです」

 

 教師生命は終わり、同時に士官としての道も閉ざされました。

 ほとんど独り言のように、付け加えた。

 

「でも、後悔しているわけではないんです。ナナミのせいだって一度も思ったことはありません」

 

 江下さんは、いつもの穏やかな笑顔を見せた。

 

「あの夜は、私にとっても確かに特別な夜でした。ナナミが心底喜んでくれて、まだ決まったばかりなのに、いつでも前線で戦うことができる。そんな気すらしたんです。ただ…………」

 

 ふいに江下さんは目元を覆うように、額に手を当てた。

 

「つまづいたあとに、うまく立ち上がることができなかったんです」

 

 人生なんて、そんなもんじゃないですかねぇ、八幡さん…………。

 あくまで静かな声は、今度こそ虚飾を脱ぎ去ったものだった。

 窓外の雨は少し勢いを増して、時折窓ガラスを強く打つように風邪が吹いている。

 時計はすでに夜の9時を回りつつあった。

 俺に応じる言葉のあろうはずがない。善と悪を取り分けるには、あまりにたくさんの課題を含みすぎていた。

 

「葉隠にはこんな言葉があります」

 

 俺は叢雲が出て行った扉に視線を移して続けた。

 

「人間の一生は誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして、苦しみて暮らすは愚かな事なり」

 

 江下さんが、掌を動かしてかすかに俺を見上げた。

 

「正確にこの言葉が正しいかはわかりませんが…………」

 

 俺は一旦言葉を切って、小さく息を吐いた。

 

「叢雲は、こう言いたかったんじゃないでしょうか」

 

 もう一度大きな風がふいて、窓ガラスに細やかな雨粒がぶつかる音が聞こえた。

 


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