"つまり、こっちからの依頼を断っていたのは、海軍が嫌いだから、というわけね"
電話から加賀さんの怪訝そうな声が聞こえた。
夜半のことだ。ようやく部屋に戻ったすぐに、このモヤモヤした気持ちをどうにかしたくて加賀さんに連絡したのだ。
「いえ、本当にそうなのかは分かりません。ただ、どんな個人的な理由の依頼だって受け入れているのに、ピンポイントで他の鎮守府からの依頼を断るというのがとても不自然なです」
"だから、海軍関連を嫌っているんじゃないか、ということになるのね」
「ええ…………でも、全部が全部断っているわけでもないんです。その場合は、最低限の対応は行ってはいるけど…………」
"最低限、では、困ります"
私は静かに頷きつつ、先ほど使っておいたコーヒーに口をつけた。長門さんに教えてもらったコーヒーの淹れ方は、こんな時に飲むのが一番だ。
"ですが八幡さんという人は、艦娘たちからの評判もいい人なのよね?"
「そうです。軍人としての経験は申し分なくて、他の人の意見も軽視しない。おまけにどんな依頼にも手を抜かないから、常に被害は最小限にとどめられている。ほとんど非の打ち所がない人って言っても過言ではないです」
"だから余計に気になるのね。そんな人が海軍を嫌う理由が…………"
「欠点と言えば、味覚が人よりかなり変わっているところくらいですから」
私の言葉に、味覚が?と不思議そうな声を出したが、多くは問わなかった。
"彼のことに関しては私も少し気になってたから、ちょっと調べてきたわ"
「本当ですか?でも、そう簡単に八幡さんの情報だなんて…………」
"大丈夫よ、青葉に頼んできたから"
青葉、というワードが出てきて、なんとなく信頼できるものと思ってしまうから不思議だ。彼女はパパラッチまがいな行動をしているが、嘘はつかないのだ。
"八幡
「名前だけだと随分と勇ましそうな人ですね」
"実際の戦績も勇ましいものよ。艦娘でもないのに、相手を轟沈させた数は100を超える。一方で、自軍の被害はほぼ0。一時期は艦娘よりもずっと実用的だと言われてたわ"
「は、はぁ…………」
轟沈数は100を超える?それなのに自軍の被害は0だなんて、一体どのようにしたらできるのだろうか?
"これだと悔しいけど軍神と呼ばれるのは納得よ。まあ、私が気になるのは他のところだけど"
「気になるところ?」
"彼、軍学校出身じゃないのよ"
「え?」
基本的に軍人になるには、軍学校などの専門の学校を通わない限りなることはできない。ただ一つ例外として、艦娘になればそんな学校も行かなくてもいいのだが、艦娘になれる人はほんの一握りだし、そもそも男性は艦娘にはなれない。
"通っていたのは、至って普通の私立高校。しかも、卒業はせずに中退しているわ"
「んん?」
ますます分からなくなってしまった。あれほどの真面目な執務をしておきながら、高校を中退?それで、どうやって軍隊の世界に?加賀さんが言うには、軍学校などには一切通わず、ある日ぽっと入隊してたらしい。
"さらに不審なのは、軍隊に入って1ヶ月足らずで前線に出ていることね"
「その時は何歳なんですか?」
"20歳よ。高校は2年生の途中で辞めているから、その間に何があったかが重要ね"
「そうですか…………私も少し調べてみることにします」
それじゃあ、無理はしないようにね、と加賀さんは告げ、電話は切れた。
疑問は増える一方だが、加賀さんに話したおかげかいくらか肩が軽くなったような気持ちだ。今日は、とりあえずぐっすりと眠ろう。
ーーーー
「ありがとうこざいました」
そんな明るい声に誘われて顔を上げると、港で、白髪の混じった男性と、その息子らしき人の姿が見えた。その2人を囲むようにして艦娘たちの笑い声を響かせている。
漁師の人たちなのだろう。
午後の陽光が彼らを照らして、明るい声と重なって妙にまばゆく見える。雨の多いこの時期に束の間の晴れで、絶好の漁日和だったのだろう。
ただひたすら戦うこの海では、心休まるひと時と言えるだろう。
「あの人たち、この鎮守府のお得意様なのよ」
見つめている私の耳に、叢雲さんの声が降ってきた。
「この前、たくさんの魚を送ってくれたから、覚えてるんじゃないの?」
なるほど、と納得した。
その大量の魚を間宮さんと鳳翔さんという、料理においての最強タッグで調理されたから記憶に新しい。ここにきてからは、食べる量が増えてしまっている。
「あれ、でも、今日は出撃予定にありましたっけ?」
「まさか。いきなり、依頼してきたに決まってるわ」
その景色に微笑みながら、叢雲さんは言う。
「最近は、天気が悪くてまともに漁師ができてなかったんだって。流石に今日やってきた時は、広瀬さんが断ろうとしたんだけど、司令官が無理やり依頼を受けたらしいわ」
「広瀬さんは何も言わなかったんですか?」
「広瀬さんのことだから、司令官が受けたからには文句は言わなかったわ。もちろん、私たちも言わないけど」
叢雲さんの言う通り、八幡さんが言ったことは艦娘たちは素直に従っている。でも、それは無理を強いられているのではなく、むしろすすんで従っているように見える。ある意味、理想の上下関係なのかもしれない。
「広瀬さんも頑張っているようですね」
「そうね、時々夜の電話がつながりはしないけど、いざって時の指示は細かすぎるくらいに細かく入っているから、なんとか回ってるわ」
「抜かりのない人ですね」
「ちなみにそれでもって時は、司令官に頼るようにと指示しているらしいわ」
思わぬ言葉に叢雲さんに目を向ける。
「聞いたことがないの?最近の話題は、"八幡広瀬ホモ疑惑"なのよ。男同士で気持ち悪いほど仲が良すぎるからね」
「はは、分からなくもない話ですね」
心中に浮かぶのは、2人で話し合っている姿だ。
その時は別に意識もせずに見ていたが、よくよく考えると2人の距離感は相当近い。
「赤城さんも、もうここの鎮守府の空気に慣れたんじゃない?」
「ええ、初めは少し驚きましたけど、慣れたら心地がいいものですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
「ただ、もう少し八幡さんのことは知りたいんですけどね…………」
「司令官のことを?」
「昔は凄かったとかは聞いてますけど、詳しくは知りませんから」
「昔のことね…………実は私もさっぱり知らないのよ。聞こうとするたびに上手くはぐらかされるから」
「そうですか」
でも、とふいに小さく付け加えた。
叢雲さんは港の艦娘と漁師たちを眺めつつ、
「たまに変な感じがするのよ、初めて会った時から」
「変な感じ?」
「なんて言ったらいいかしら…………、そう、顔は普段と変わらないはずなのに、目はまったく笑ってない感じ。いつもの司令官のはずなのに、一瞬近づきがたくなる感じ…………」
白い指を顎に当てて、少し首を傾げてから、
「ま、私たちよりも死を間際にして戦ってきたんだから、そのくらい当たり前なのかもしれないわ」
港を眺める叢雲さんの横顔を見つめたまま、私は黙考した。
叢雲さんの評は、私自身の八幡さんな印象と一致するものだったのだ。
無愛想は置いて、基本的には優しく対応する八幡さんが、しかし時々その目に硬い光を宿す時がある。そのきっかけも分からなければ、誰もが気づくほど明らかな光でもない。それでも確かに、冷ややかな光がよぎるときがある。ついに先日の執務室で話した時も、その光を確かに垣間見たのだ。
心の中でため息をつけば、以前横須賀での加賀さんの言葉が思い出される。
"少し怪しいということは確かです"
その言葉が、少しずつ実体を持ち始めているようであった。
しばらく考え込むうちに、ふいに目の前に缶が差し出された。
「ま、そんなに深く考えなくても司令官は悪い人じゃないわ」
少し戸惑って見上げれば、なにやら誇らしげな笑顔が見える。
「昔の司令官のことは知らないけど、今の司令官のことなら誰よりも知ってる自負があるから安心なさい」
「随分と信頼してるんですね」
「そうね、司令官の前では絶対に言わないけど」
「たまには正直になってみるのもいいんじゃないですか」
「嫌よ、もう弱い私は見せないって決めたんだもん」
微笑を浮かべながら、叢雲は踵を返し、屋内へと戻っていった。
これを眺めながら、私の手は、なんとなく、缶コーヒーを開けていた。
コーヒーの苦味は好きではないが、今日はなんとなくその苦味すら良いもののように感じられた。
ーーーー
その日の午後、八幡さんの口から驚くべきことが告げられた。
「明日から、呉鎮守府の応援部隊として出撃する予定だ。今から呼ぶ者は、呉鎮守府へ派遣となるから、各自準備をしておいてくれ」
あまりにも唐突な命令に、艦娘たちは多少動揺はしていたが、すぐに理解したようだ。応援部隊として派遣される艦娘は、ここの鎮守府の中で最高戦力とされる人たちだった。つまり、相当骨の折れる出撃となるのだろう。もちろん、私も参加する予定となっている。
「それと、俺も呉鎮守府に行く。1、2週間ほどはワタルにここを任せるから、残る者はワタルに指示を仰いでくれ」
何気なく付け加えたその言葉は、大きな衝撃をもたらした。どよめき始めたが、質問する者は現れなかった。しかし、なにも聞かないわけにもいかないだろう。私は手を挙げ、訊ねた。
「どうして、八幡さんが?」
「あー、それは向こうからの願いでだな、どうしても俺も来て欲しいって」
龍三老人の希望なのだろうか。
「ま、俺としても、自分の艦隊は自分で指示したいからな。それに今回の出撃は多分激戦になることが予想される」
「何か見つかったんですか?」
「一応、"姫"らしきものが見つかっている。あと、呉鎮守府にやたらと深海棲艦が攻め入ってくるから、おそらくいるだろう。呉鎮守府にはあらゆるの応援艦隊がやってくる予定だ」
姫、という言葉に体がわずかに硬直した。
その様子を見て、八幡さんは、俺らはサポートの役割だからそこまで心配しなくてもいい、と言ってくれたが、不安は積もるものだ。
かくして、私たちは呉鎮守府へと派遣されることになった。
ーーーー
八幡さんもこの呉鎮守府に来る。
挨拶をしにやって来たついでにそう告げる私に、派手な応答したのは、龍三さんではなく秘書艦の羽黒の方だった。
「八幡さんが来るんですか、赤城さん」
呉鎮守府の提督室に、秘書艦のうわずった声が響いた。
「今はまだ来ませんが、今夜中には来るそうです」
「し、司令官さんが無理を言ったせいですか?」
「いえ、龍三さんのせいじゃありませんよ。ただ1つの艦隊を貸し出すわけですから、八幡さんが付いていた方がいいだろうとのことです。まぁ、せっかくの機会ですから、八幡さんともお話ししたらどうでしょう?」
「そ、それはいいかもしれませんが、八幡さんは大丈夫なのですか?なんでも海軍の人をひどく嫌ってるって聞いてますから…………」
にわかに落ち着きを失う羽黒に比して、龍三さんは両肘をついたまま、あくまで穏やかそのものだ。
「赤城さん」
と骨ばった頰を撫でながら、のんびりと口を開いた。
「この時期は、漁も盛んで、ここに戦力を割くのは大変でしょうなぁ」
「まぁ、大変ですが、今回は山場となりそうですから、応援を渋るわけにもいきませんよ」
「この老いぼれが、今回の作戦の総指揮官であるばっかりに、すいませんなぁ」
痩せた肩を揺らして、龍三さんは笑った。
「し、司令官さん、笑い事じゃありませんよ。今回の作戦は、いつものようなものじゃないんですよ。もともとそんなに丈夫じゃない司令官さんの体じゃ、無茶もできないんですから」
口調はまったく冷静ではないが、言っていることは正しい。
「なぁに、もうそろそろ戦友に会ってもいい頃合いです。最後くらい無理をしたってバチはあたらないよ」
にこやかに、縁起でもないことを言う老人の目もとに悲壮感はない。私はただ粛然としてうなずいた。
ゆるやかな夕暮れの陽ざしを背にしたまま頭を下げた老人は、丈夫ではないと言う割に、なにか不思議な存在感を漂わせていた。
ーーーー
提督室を出て白い廊下を歩き始めた私を、すぐに呼び止めたのは、追いかけるように提督室から出てきた羽黒だ。
「赤城さん、少しよろしいでしょうか?」
いくらか声音を落としつつ、少し言いにくそうな顔で、
「もし八幡さんが来ても、司令官さんには会わないようにしてくれませんか?」
沈黙のまま先を促す私に、秘書艦は懸命に言葉を選びながら続ける。
「司令官さん、82歳にしては確かにしっかりしているかもしれませんが、ああ見えてもそんなに丈夫じゃないんです。いつも無茶して来た人ですから…………」
これまでの龍三さんの戦績を含めて言っているのだろう。
「それに最近は多忙なせいか、気持ちも少し弱くなってきてるんです。昔、因縁か何かがあった八幡さんとは、会わない方がじいちゃ…………司令官さんのためにもいいと思うんです」
「気持ちは分かりますけど…………合同作戦でもありますから、会わないというのは難しいかもしれません」
「そう、ですよね…………」
よろしくお願いします、と頭を下げて秘書艦もとい孫は提督室へ戻って行った。
もう会話から分かるかもしれないが、羽黒と龍三さんの関係は祖父と孫である。話によると、龍三さんの息子夫婦は交通事故で早くに亡くなったとのことだ。すなわち、あの艦娘が両親を早くに失い、祖父である龍三さんの手により育てられたということなのだろう。いくらか戸惑うほどに甲斐甲斐しく龍三さんの周りに控えているのは、そういった複雑な背景があるからかもしれない。
いずれにしても…………、
私は軽くため息をついた。
今回の呉鎮守府への応援は、人間関係までにも気を遣わないといけないということだ。
やれやれと嘆息しつつ呉鎮守府から貸し出された寮に戻ってきたところで、なにやら困惑顔の祥鳳さんを見つけた。
それだけで、なにか問題が起こったということを察せてしまうのは、あの鎮守府の雰囲気に慣れてしまったからなのかもしれないが、見て見ぬ振りもできない。「どうかしましたか?」と聞いてみれば、祥鳳さんはホッとしたかのように口を開いた。
「すいません、赤城さん、少し困ったことが…………」
やっぱり、そういった感があった。
案内されるままについて行った先は、呉鎮守府のとある個室だ。
部屋の中を覗けば、何人かの軍服姿の男性たちが不機嫌そうに座っている。
「今回の作戦に参加する提督たちです。今から作戦会議をするために集まっているんですが…………」
「八幡さんが来てない、ということですか」
「はい…………」
「連絡は?」
「今日はどうしても外せない用事があるからって、午後は出かけているんです。夜には戻ってくると言ってたんですが、電話が繋がらなくて…………」
ちょっと迷うような顔をしてから祥鳳さんは続けた。
「電話が繋がらない可能性もあるから、何か問題があったときは、叢雲さんか、赤城さんに相談しておいてくれ、と言われてて…………」
一瞬気分が萎えそうになる。
どうも民間軍事会社"鎮守府"は使えるなら最大限にまでこき使うらしい。しかし、現に丁度いいタイミングでいたのは私だから、八幡さんの読みは的確だと言わざるを得ない。
「ほかに何か言ってませんでしたか?」
私の声に、祥鳳さんはすぐに「メモをもらいました」と紙切れを差し出した。ざっと目を通せば、八幡さんの微に入り細を穿つ精密な指示が記されている。
「このメモの通りにしていれば問題ないですよ」
メモを祥鳳さんに返して、もう一度部屋の中を伺う。
「とりあえず叢雲さんを呼んで、代理を頼みましょう。それでも問題が起きたら、私を呼んでください」
私の言葉に、祥鳳さんは「ありがとうございます」と答えて駆け出して行った。
作戦会議が終わったのは、その2時間後のことだ。
叢雲さんが会議の内容を淡々と告げ、確認し終えたあと、祥鳳さんは小さくため息をついた。
「提督は確かに海軍にこき使われて大変な思いをしたかもしれませんが、こんな時に、用事があるからって席を外すなんて少し無責任過ぎませんか?」
その、単純すぎる感情の吐露に、しかし私はすぐにはうなずけなかった。
背景の如何に関わらず、トラブルなく落着したことは確かだ。
が、容易に落着しないトラブルが発生したのは、その日の夜のことだった。
ーーーー
電話が入ったのは、休憩していた夜の10時のことだ。艦載機の整備を終えて、机に突っ伏していたところに、着信音が高々と鳴り響いたのだ。
聞こえないふりもしようか、と一瞬思ったが、そういう小細工は問題を先送りにするだけでなく、かえって面倒も引き起こしかねないので、やむを得ず、これを手に取った。
"赤城さん、ちょっといい?"
聞こえてきたのは、五航戦の元気な方だ。実は、瑞鶴と加賀さんが横須賀鎮守府からの応援として、私と同じく呉鎮守府に召集されているのだ。
その瑞鶴の声は、いささか切迫していた。
「いいですよ。どうしたの?」
"実は深海棲艦が警戒範囲内に現れたんだけど…………"
スマホを耳につけたまま、配られたばかりの夜の監視当番表を見れば、今宵の当番は瑞鶴が所属する艦隊だった。つまり、私は今夜は当番ではない。その一瞬の沈黙を、普段は空気をお世辞にも読めるとは言えない瑞鶴が、珍しく正確に汲み取った。
"今夜は休むはずだとわかってるんだけど…………"
「それなら、八幡さんに連絡した方がいいんじゃないの?午後は用事があるとは言ってたけど、戻ってきてるはず…………それともいたずらか何か?」
"連絡はしたよ"
「よかった。いましたか?」
"うん。顔も出してくれたけど、とりあえず刺激はせずに朝まで様子を見ればいいって言われた"
「…………悪いかどうかはわかりませんが、八幡さんが言うならそれでいいんじゃないんですか?」
"敵艦隊の中には、空母もいたの。それにそこそこ数が多い"
流石に応答に窮した。おまけに瑞鶴の口調には、常にはない緊迫したものを感じた。
どうしたものか、とひと思案したところで、瑞鶴が語を継いだ。
"それで、何人かがやっぱり出撃しようって…………"
「…………!!今からそっちに行きます。とにかく、出撃させないようにしておいて」
私はため息をいったん吐いてから、駆け出した。
ーーーー
「はぁ?出撃するな?」
「ええ、八幡さんもそう言ったはずです」
「敵が攻めてきてるのに、黙ってやられろって言ってるのか!」
「敵は攻めてきてはいません。わざと警戒範囲に出入りして、こちらを誘き出そうとしてるんです!」
「そ、そうか…………」
「ですが、警戒はし続けるべきです」
港で、数々の怒号が飛び交う。今にも出撃しそうな彼女らをやっと抑えて、私は戻ろうとした。
「ごめんなさいね、赤城さん」
少し疲れたような声は、叢雲さんのものだった。彼女も急に呼ばれたのだろうか。
「まだ安心するのは早いわ。いくらこちらを誘き出そうとしてるとは言っても、攻撃しないとは限らないから」
身もふたもないことを言ってるのは、加賀さんだ。
「それにしても、どうして赤城さんが来たの?今夜は当番ではないのに…………」
やっぱり叢雲さんは鋭いところをついてくる。
「赤城さんは巻き込まれた側なのよ」
補ってくれたのは加賀さんだ。
不思議そうな顔をした叢雲さんが、何か言おうとしたところで、その背後から、瑞鶴が姿を現した。
「ごめん、赤城さん、助かったよ」
「やっぱり深海棲艦は引いたようね。夜戦は危険だから、瑞鶴の判断は正しかったわ。それより他の娘たちは大丈夫なの?」
「うん、ちゃんと説得した」
少し咳払いをしてから、
「赤城さんのお陰で助かったよ」
頰をかきながら、率直な態度で言う。こういうところは瑞鶴の長所だ。
しかし、瑞鶴はすぐにぐったりとため息をついた。
「だけどひどいよ、今夜の指揮は八幡さんなのに、あんな態度は…………」
「ええ、そうね。でも、明日にでも私が事情を確かめるから、あまり事を荒立てないでね」
「荒立てるなと言われても…………」
瑞鶴がふいに言葉を切ったのは、近くの扉が開いたからだ。のみならず、開いた先に、コーヒー缶を傾けていた八幡さんが立っていたからだ。
一瞬しんと静まり返ったが、八幡さんの方もずいぶん驚いたようだ。
「ん?赤城、何してんだ?」
いささか場違いな、緊張感のない声が響いた。
どこかで何をしていたのかは定かではない。ただ分かるのは、こちらの修羅場には全く気づいていないという事だ。
どっちにしろ、出てきたタイミングは最悪だ。
瑞鶴がめずらしく険しい顔をした。
私は黙って額に手を当てた。
そんな私と瑞鶴を見比べて、八幡さんもいくらか状況を悟ったようだ。
とりあえず、とずいぶん落ち着き払った顔で、
「中で話す?」
長い指が、奥を指差した。
ーーーー
卓上に、コーヒーカップが2つばかり並んでいる。
いずれも八幡さんが淹れたものだ。
私はソファに腰を下ろしたまま、カップの中の黒い液体を眺めていた。部屋の隅では、椅子に腰おろした八幡さんが、さすがにくたびれたような顔で、天井を見上げている。右手に持ったカップは、一口飲んだだけで、そのまま放置されている。
机の上には山のような資料が積み上げられ、それぞれにメモ書きがなされている。
すでに室内に瑞鶴の姿はない。
沈黙の中、八幡さんの小さなため息が聞こえて、私は口を開いた。
「だから前も言ったはずです。どういうつもりなのか納得のいく説明をしてくださいと」
「意外と、容赦ない言い方をするんだな、赤城は」
告げれば、八幡さんは、格別困った顔もしておらず超然と構えている。
「まさか赤城が俺の代わりに出てくるとは思わなかった」
「そういう問題ではないということ、前に言ったはずですよね」
「それもそうか」
八幡さんが軽く肩をすくめて見せた。
"私には、八幡さんが何を考えてるか分かりません"
瑞鶴が大声を張り上げたのは、ついさっきのことだ。
「八幡さんの評判は、どんなことでも完璧に対応してくれるって聞いてるけど、今回はまるで艦娘を見捨てるような行動をしたように見えます。私には、八幡さんが何を考えてるか、さっぱり分かりません!」
「今回のことはすまないと思ってる。みんな理解してくれると思ったんだ」
「八幡さんの艦隊ならそれでいいかもしれませんけど、今回は初対面の艦娘の指揮だったはずなのに、そんな無責任な行動は許されないんです!」
陽気な瑞鶴がこれほど明確に怒りを表出するのは、珍しいことだ。
しかし瑞鶴に対する八幡さんの応答も、事態を収拾するどころかむしろ悪化させただけだった。
「君に言ったところで、分からないだろ?」
平然とそう告げたのだ。
さすがに私と当惑したのだが、もっとも驚いていたのは瑞鶴だろう。
昨今稀に見るほど激していたが、すぐに呼び出されて出て行った。今の深海棲艦は過去に見ないほど活発に動いているから、仕方のないことだろう。
おかげで後に残された私と八幡さんの間には、妙なわだかまりが堆積し、とても雰囲気が悪い。今頃、瑞鶴も不完全燃焼のまま駆け回っているんだろう。しかし、大声を出すタイミングを誤ったのも事実だ。
「で、赤城もあの瑞鶴という娘と同意見?」
八幡さんが口を開いた。
見返せば、この期に及んで私の反応を面白がる気配がある。
どうやらこの人は、最初の印象に反して、相当食えない人のようだ。今更ながら、加賀さんの人物眼には頭が下がる。
私は一考してから、あえて平然と答えた。
「今日の夕方までは瑞鶴と同意見でしたけど、少し変わりました」
「面白い事を言うんだな。好き嫌いで、指揮の質を変えている俺の肩を持ってくれるんだ?」
「八幡さんがそんな短絡的な基準で動いていないと分かった以上は、考えを変えざるを得ませんよ」
八幡さんは再びカップを傾けようとしたところで動きを止めて、目を細めた。細めた目の奥で、あの鋭利な光が灯ったようか気がした。
「へぇ、どういうことだ?」
「八幡さん、大本営所属の鎮守府からの依頼を全部が全部断っているわけではないんですよね。断っていない鎮守府に対しては、非の打ち所がない対応をしています。他の鎮守府と比べれば、雲泥の差です。つまり…………」
一旦言葉を切ってから、八幡さんの表情を消した目を見返した。
「海軍を嫌っているから、そんな理由で相手を選んでいるわけではないということです」
返答は沈黙だけだった。
その意識的な沈黙を嫌って、私は先日と同じ言葉を繰り返した。
「どういうことか、納得のできる理由をしてくれませんか?」
八幡さんの右手は、一口つけただけのコーヒーカップを握ったまま動かなかった。
「…………赤城ってさ」
ふいに八幡さんが口を開いた。
「やっぱり面白い人だな」
「答えになってませんよ」
「褒めてるんだ。佐久間さんの下で鍛えられただけある。観察力があるし、なによりもお節介だ」
「人は、敬服している人物が、理解できない行動をとったとき、その背景にある哲学を知りたくなるものじゃないんですか」
おもむろにコーヒーをすする音が響いた。
「敬服だなんて、光栄な話だ」
でも、と続けた。
「赤城や瑞鶴には、難しい話になる」
またこの言葉が出てきた。
最初から説明を放棄した、上から投げつけるような論評に納得できるはずがない。
「私や瑞鶴には説明に値しない、と言ってるんですか?」
「分かりやすく言えば、そうなる」
肘をついたまま静かに私を見下ろす八幡さんの目には、あの冷ややかな光がはっきりと灯っていた。
それは普段の八幡さんとはかけ離れた、相手を切り捨てるような容赦ない冷徹さを備えていた。
少し言葉が途切れたところで、八幡さんは、平然とコーヒーを飲み始めた。
私は答える言葉もなく、ただ見守るばかり。
なかば以上飲み干したカップを眺めてから、おもむろに八幡さんは口を開いた。
「夜警当番の艦娘たちは、なにか言ってたか」
唐突に話題がつき戻された。
「ただ命令だけするだけしといて、いなくなる無責任な指揮官だ、とか」
頭に思い浮かぶのは、説得した後の艦娘たちの不満げな姿だ。
答えない私の顔を見て、八幡さんは悟ったように苦笑する。
「君や瑞鶴はきっと、目の前に深海棲艦がいれば、どんなことも放り出して、立ち向かっていく人なんだな。それがああいう空気を作ってきたんだろ?」
「褒めているわけではなさそうですね」
「ああ」
一旦言葉を切ってから八幡さんは言葉を継いだ。
「バカじゃないかと思ってる」
口調は穏やかでも強烈な言葉だった。
「ただの兵士なら立派だと言えるだろう。敵も少しずつ強くなっているとは言え、それを上回る速さでこちらも強くなっている。おかげで、こちらが攻めている状態だ。その結果、敵を殲滅することが平和、ということになった。自分の生活を奪われたり、家族を失ったりしている人はいくらでもいるのに、それを無視して戦い続けて、"平和のために戦っている"という輩なんて、俺からしてみれば、信じられない偽善者だ」
こんなに饒舌な人だったのかと、場違いな感慨が胸をよぎっていた。
「俺はな、今まで平和のために戦ってきたことはない。大切な人を守るために戦ってきた。君たちはそんな基本的な事を忘れてるんじゃないのか」
「私だって、漠然と平和のために戦ってきたわけじゃありません。私にも…………」
「君たち、艦娘は年に何回大破する?」
冷ややかな声が漏れた。一瞬口をつぐんだ私に間髪いれずに言葉を継ぐ。
「君たちは艦娘だから、大破で済むのだろう。仮に普通の人間からどうなっている?君は何回死んだ?小破ならセーフなのか?」
立て続けに突き立てられた問いに、まったく私は歯が立たなかった。
「よくそれで、戦場に行けるな」
衝撃的な言葉だった。
ただ激烈なだけでなく、救い難い軽蔑を含めた嘲笑がそこにあったが故にらより一層心にこたえた。のみならず、続いた言葉は、先にも増して苛烈なものだった。
「赤城には失望してるんだ」
声なく見上げた先にある八幡さんの笑みは、相変わらず穏やかで、目もとは相変わらず冷ややかだった。
「佐久間の下で学んで、あの佐久間さんが一目置いていると聞いたから、どんな人か楽しみにしてたんだが、空母だから、他よりも少し強くて、ちょっと頭がいいだけの、どこにでもいる偽善者じゃないか」
八幡さんの手が再びカップを傾けて、全て飲み干した。
「まぁ、心配しなくても、最近は赤城みたいな艦娘は世の中には溢れている。日々の戦闘に追われてどんどん本質を見失う人。よりタチが悪いのは、それでも自分は平和のために戦ってると思い込んでいる連中かな。艦娘という特殊能力に頼り切って平気でダメージを食らう人、ちょっと深海棲艦を沈めれば、平和のためだと思い込む人。そういうやつらが平気で戦場に赴いている。毎日薄氷を踏むような状況にいるはずなのに、自覚もないから、平然とその氷の上を走り回る。いつ氷が割れて冷水に突っ込むか、見ているこっちがヒヤヒヤする。驚くより呆れしかないな」
深々とため息をついて、
「兵士はだな、目的を見失うとき、ただの道具でしかないんだ。俺はそんな覚悟で来ている」
息を呑む思いだった。
いまだかつて、これほど戦いにかける意義を、厳格に規定した言葉を聞いたことがなかった。
「…………だから、八幡さんは他の鎮守府から断ってるんですか?」
「当たり前だろ。大切な人をそんな中途半端な思いでやっているやつらに預けられない」
「じゃあ、逆に依頼を受けた鎮守府があるのは…………」
「そこの人たちは本気で守ろうとしていた」
私は口をつぐんだ。その沈黙を八幡さんの無感動か声が埋める。
「そこの人たちは、自分が死んでも守ろうとしていた。たしかに戦力はあまりにも少なすぎたけど、それでも戦おうとした。そうであるなら、俺も全力で対応する、当然のことだ」
非の打ち所がない哲学の提示だった。
しかし、非の打ち所がなくても、現実の戦場は、かほどに明瞭に割り切れるものではない。
「では…………、私たちは平和のために戦っていない、ということになるんですか」
「さぁ、平和のために戦ったことがないから分からない」
即答だった。
「だが、君たちを見ると平和のために戦いたくはないな」
見返せば、そこにあるのは憫笑だった。
「分かるだろ?赤城と俺では、目的があまりにも違う。そういう人に、俺のやり方は理解できまい」
私は応じる言葉を持たなかった。
胸中にあるのは、喜怒哀楽のいずれでもない。
純粋な驚きだった。
眼前のひとりの兵士の、苛烈な哲学のあり方に驚いただけではない。戦う理由をどこか忘れていたのではないか、と驚きでもあった。
形容しがたい沈黙が降りた。
その沈黙から私を救ったのは、八幡さんの無線機だ。
はい、と応じた八幡さんは、「了解、すぐに行く」と答えて無線機を切った。
「悪いな、呼び出しだ」
言うなり、カップを置いて、立ち上がった。
「コーヒー、飲んでもいいぞ」
たち去り際に、いつもと変わらない声が降ってきた。
もちろん飲む気になんて、なれるわけもなかった。
次も遅くなるかもしれませんが、見てくださる人がいれば嬉しいです。