民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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 瑞鶴の旗艦としての初陣は容易なものではなかった。

 敵の強さの問題ではない。環境の問題だ。もともと小さな島々が点在する場所であったため、深海棲艦が突如現れることが多く、いちいち目的地まで行く手を阻まれる困難な出撃だったのだ。その上、昨日は一段と暑い日であったためなおさら大変だっただろう。

 脳裏に、昨夜の光景が思い出される。

 その時の、工廠には、まことに奇妙な沈黙が満ちていた。

 佐久間さん、提督、広瀬さん、私と最後にやってきた加賀さんと、共通の話題を持たない集団であるから、落ち着かない。加賀さんと話をしている私の横で、提督は夜食を取っている。佐久間さんはコーヒーを飲んでいたが、途中から目を閉じ、仏像のように瞑想に入ってしまった。その背後で広瀬さんは、ノートパソコンを開いて忙しげに指を動かしている。

 そうして8時を回った頃、ところどころ損傷し、汗まみれになった瑞鶴と、同じ艦隊の艦娘たちが戻ってきたのである。

 作戦は成功であった。

 あの無尽蔵のスタミナを誇る五航戦が、ほとんど放心状態の体ではあったが、一同起立してこれを出迎えて、喝采を送ったことは言うまでもない。にわかに賑やかなる工廠の中で、どこからともなくビール一箱を取り出したのは、他でもない佐久間さんだった。まだ艤装を外したばかりだというのに、祝宴の開催を宣言したのであるから、佐久間さん自身も、瑞鶴の出撃を案じていた者の1人だったということだろう。

 乾杯ののちに、嬉しげに缶ビールを飲む五航戦の後輩の横顔は、なかなかに貫禄のある空母の風情だった。

 それを見守る私に、同じ艦隊であった1人の艦娘がそっと告げた言葉がある。

 "一度も集中力は切らさなかった。大した人だ"と。

 その人は、顎に指を添えて、かすかに微笑した。私は一礼してのち右手の缶ビールを飲み干した。昨今まれにみる旨い缶ビールであった。

 

 

 ーーーー

 

 

 大作戦が成功した次の日は、大雨であった。

 海辺ではあるから天候が変わりやすいのはいつものことだが、今日はいつもにも増してひどい大雨であった。

 風とともに降り注ぐ大粒も雨はたちまち外に水のカーテンを広げる。

 このようでは、海に出ることは言わんや、外に出ることも憚れる。そのおかげで、今日の呉鎮守府は驚くほど静かであるという、奇妙な副産物が生じたのだ。

 作戦終了後、提督を含む首脳陣からは報告は後日行うとして、とにかくしばらくは休んでよいとの通達があった。本来ならこの日に調査隊を送り出して、深海棲艦の調査を行うはずだが、この雨だ。もちろん、調査隊を護衛するのは艦娘であるから、しばらくはここに滞在しなければならないだろう。

 だが、せっかくの休みだ。私は手に一冊の本を持って、足を進めていた。

 降って湧いたような静寂の日であるから、誰もいない広間のソファにでも寝転がって、久しぶりに読書にいそしもうという算段である。

 夜の8時に珍しく愉快な構想をかかえつつ広間のそばまで行けば、そこには意外な先客を見つけて、足を止めた。

 電灯を半ば消した広間の隅で、ソファに身を預けながらテレビを眺めていたのは、誰であろう、八幡さんであった。

 

「お、相変わらず遅くまでお疲れだな」

 

 肩越しに振り返った八幡さんを見て、いささか当惑する。片手に缶ビールを持っていたからだ。

 

「酒には厳しい人だと聞いていましたが」

「厳しいからと言って飲まないわけじゃないさ」

 

 くすりと笑った目元には、普段からは見られない陽気さがある。顔色などは普段から変わらないが、妙に明るい雰囲気が漂っている。要するに酔っている。缶ビールの出所は、先日の、瑞鶴の祝宴の残り物だろうか。

 

「なにか良いことがありましたか?」

「やっと参謀としての仕事が終わったんだよ」

 

 常にない朗らかな口調に、むしろ私が姿勢を正した。

 2ヶ月にも及ぶ仕事がようやく終わったのだ。表では大きな損害もなかったのは、彼の綿密な計画があったからだろう。

 

「お疲れ様でした」

「疲れた。疲れたが…………」

 

 缶ビールに口をつけてから続ける。

 

「作戦が大成功したってもんなら、そんな疲れも吹き飛ぶさ」

 

 さらりと独り言のように告げて、そのままゆっくりと缶ビールを傾けた。

 不思議なものだ。

 時に依頼者を選び、時に説明さえ拒否する人物が、連日で作戦を練り、作戦の成功を喜んでひとりで祝杯をあげている。どれほど哲学が異なっても、いかほど法論が一致しなくても、結局、八幡さんも私も目指しているのは同一なのだ。

 

「飲む?」

 

 ぽんと卓上に差し出された缶ビールを「結構です」と丁重に断って、八幡さんの向かい側に腰を下ろした。

 

「いつも忙しそうな赤城が、のんびりしてるなんて珍しいんじゃないか?」

「今夜は雨が大暴れですから。雨が止むまでは、静かなものです」

 

 淡々と答えつつ、ポケットから缶コーヒーを取り出す。1本は眼前に置き、もう1本は八幡さんの前に置いた。

 

「俺に?」

「加賀さんから、お疲れ様でしたということです」

 

 告げた途端に八幡さんが微妙な顔をしたのは、私が苦笑していたからだろう。

 

「なんだよ。早めに和解しろって言ったのは、君じゃないか」

 

 少しむっとしたその素振りが、なにやら少年めいてかえって微笑を誘う。私はこぼれる笑みをおさえつつ、告げた。

 

「とりあえず、八幡さんの頭脳に乾杯です」

 

 八幡さんは一瞬戸惑いを見せたが、すぐに苦笑して缶ビールを持ち上げた。

 アルミ缶とスチール缶のぶつかる情緒のかけらもない金属音が、妙に華やかに響いた。

 

 

 ーーーー

 

 

「なに?佐久間さんから俺の昔の話、聞いたのか?」

「聞いたというほどではありません」

 

 素っ頓狂な声をあげる八幡さんに、私はあくまで静かに応じる。

 傍らのテレビでは、プロ野球が流されており、1人の男性が快音を鳴らして打球を飛ばして、そのボールを別の人が追いかけている。

 窓外の雨は相変わらずの豪雨の様相で、視界は限りなくゼロに近い。二重サッシのおかげで音が聞こえない分、砂嵐のテレビモニターのようだ。

 

「佐久間さんが言うには、優しい懐の広い上司のもとで、八幡さんがのびのびと鍛えていた、とのことでした」

 

 目を丸く開いて、八幡さんはほとんど呆気にとられたような顔をした。

 

「違うんですか?」

「違うどころじゃない。ほんと、ひどい時代だったんだぞ。佐久間さんが教官の頃は、言うなれば俺の暗黒時代だ」

 

 パタパタと手を振って、あぁ思い出したくもない、とつぶやいた。

 驚く私の顔を見て、八幡さんは眉をひそめる。

 

「赤城はいいよ。あんなに優しい佐久間さんのもとで学べるんだから」

「佐久間さんが怖くないということはありませんが、そんなに?」

「とんでもなく怖かったぞ。まだ入隊したてなのに、少しぼーっとをすると、いきなり頭殴るんだよ。びっくりして振り返ると今度は、"訓練中に動きを止める奴があるか!!"ってもう1発」

「滅茶苦茶ですね」

「"鬼佐久間"といえば、ほかの同業者なら知らない奴はいない」

 

 昔のことは外国よりも遠い、そんなものだろう。

 

「かと思えば、いきなり俺を対深海棲艦の部隊の隊長に指名するし、艦娘との出撃に同行させるし、でほんと訳のわからん時代だった」

 

 でもな、と八幡さんは、飲み終えた缶ビールの中を覗き込みながら、少しばかり声音を落とした。

 

「佐久間さんの目は本物だった。今は分からないかもしれんが、どんな困難な状況でも、正確に指示をして、かならず結果を出していた。荒いように見えて、繊細な人だったよ。今思い出しても鳥肌が立つくらいに」

 

 ソファにもたれながら、思いをはせるようにそっと微笑む。

 

「暗黒時代とは言ったが、軍人にとっては、黄金時代でもあったかもしれない」

 

 鬼が丸くなっても、慧眼は変わらない。

 その佐久間さんのもとで、かつ最前線で戦っていたということは、八幡さんにとってはたしかに黄金時代と言ってもいいのかもしれない。

 

「その黄金時代を、しかし八幡さんは途中で捨てたというのが、不思議です」

 

 何気なく問うた言葉に、八幡さんはそっと目を細めた。

 陽気な雰囲気が消えたのは、気のせいだろうか。

 

「立ち入った話であれば、話題を変えます。せっかくの乾杯の席に…………」

 

 地雷の気配を感じて撤退の構えをとったところで、八幡さんは突如、迫撃砲を打ち込んできた。

 

「親友が死んだ」

 

 簡潔な一言だった。

 簡潔であるにも拘らず、ただ1発の砲撃音が、雷鳴のように響き渡っていた。

 私は八幡さんの顔を見て、それから手元の缶コーヒーに目を落として、また八幡さんに視線を戻して、ようやく口を開いた。

 

「失礼しました。別の話に…………」

「俺、軍人の時は孤高な奴とか騒がれてはいたが、親友はいたんだ」

 

 プシュッという緊張感のない音は、八幡さんが2本目のビールを開けた音だ。

 

「背が高くて、優しくて、頭もいい。こんな根暗な俺とは対照的な男だった。あいつが偵察部隊として、出撃していた時に、深海棲艦の襲撃を受けて死んだ」

 

 夏の夜であるはずなのに、すっと温度が下がったように感じた。

 私は言葉を持たず、ただ沈黙する。

 八幡さんは、立ち往生の私に「隠すような話じゃないさ」と、また語を継いだ。

 

「俺が軍人になってまだ3、4年ぐらいか経ったくらいかな。はっきり言ってその時の深海棲艦の動きは不審なものがあった。だから偵察部隊を送り出して、様子を見させていたんだけど、上層部の判断はもうしばらく偵察を継続」

 

 今でこそ偵察は、偵察機を用いるため、人が直接赴くことはない。

 しかし、その当時は人間の部隊がわざわざ偵察し回っていたという。

 

「その時の偵察部隊は異変に気付いていた。何か異形のものがいるって。だけど、上層部の指示に従った。そうしたら…………」

 

 かしゃと乾いた音がしたのは、八幡さんの手元でビール缶が、少しばかり変形していたからだ。

 

「いつのまにか、深海棲艦に囲まれていた」

 

 ひしゃげた缶ビールを再び口元に持って行きながら、

 

「慌てて救難信号を出して、脱出しようとしたけど、なんの意味もなかった。全滅するのに20分もかからなかった」

 

 テレビでは、どこかで聞いたことのあるようなCMの音楽が流れていた。

 

「俺はいまだにその時の隊長が許せないんだ」

 

 今度の声には熱があった。

 ぐしゃりと八幡さんの手が、まだ原形をとどめていた空き缶を大きくつぶしていた。そのつぶした行為に自ら驚いたように手元を見た八幡さんは、壊れた缶を卓上に戻しつつ続けた。

 

「現場にいるからこそ分かることがあるはずなのに、ろくに考えもせず、命令を聞き入れてしまったんだ。考えもない隊長は、容易に人殺しになるっていう生きた見本」

 

 だから、と後頭部をかきむしりながら視線を宙空へとあげた。

 

「俺は絶対に一流の軍人になるって決めたんだよ。誰にも恥じない、誰も傷つけない超一流になるって」

 

 少し疲れたようにため息をついてから、どこかを遠く眺めやるように目を細めた。

 口元に浮かんでいたのは苦い笑みだった。形容しがたい多くの激情をなんとか丸め込み抑え込むための際どい笑みであった。

 

 "兵士はだな、目的を見失うとき、ただの道具でしかないんだ"

 

 そういった八幡さんの言葉が、初めて実感を持って感じられた。

 

「まぁ、偉そうなことを言ってるけど、結局最後の出撃でヘマして大怪我を負って、そのまま引退したんだけどな」

 

 口調を少し軽くして、そのまま話してくれた内容は、退役する時のことだ。

 言うまでもなく退役することには、多くの反対意見があった。ただでさえ数多くの功績を残している上、まだ20代だ。なんとかして、彼をとどめようとする人が後を絶たなかった。しかし、彼の元教官たる佐久間さんは、まことに超然たる態度であったという。

 

「正直、鬼佐久間の逆鱗に触れるかと思っていたが…………」

 

 こじんまりとした居酒屋の片隅で、佐久間さんは穏やかに言ったのだという。

 

 "おつかれさん"

 

「それだけですか?」

「ああ。ただでさえ人員が不足しているのに、勝手を言ってすいませんでしたと言ったら、ひどい言われようだった。"はたちゃんの抜けた穴くらい、艦娘が埋めてくれる"ってな」

 

 佐久間さんらしい言葉だ。

 

「だから」

 

 ふいに八幡さんの声に力がこもった。

 

「俺はあの会社にいる」

 

 過去を現在につなげる一言だった。

 

「俺と同じ経験をしなくてもいいように、俺はあそこで働いている。これからも手を抜くつもりはない」

 

 いつもの堂々たる自信に裏付けされた力強い声だった。

 ふいに胸中で頭をもたげたものは、焦りとでも称すべき感情であった。

 覚悟においては、八幡さんに引けを取るつもりはない。だが覚悟だけでは追いつかないものもある。事実、眼前にそびえる軍神は、艦娘という特殊な能力を加味しても、今の私をどれほど延長しても乗り越えれるものだとは到底思えなかった。

 

 "赤城には失望してるんだ"

 

 そう告げた、八幡さんの言葉が今も耳の奥底で鳴っているのだ。

 私は手元の缶コーヒーをしばし見下ろして、やがてにわかに口を開いていた。

 

「私は一度、大本営に行くべきでしょうか?」

 

 自身の発言に、自身が当惑を禁じえなかった。

 唐突な発案であった。

 唐突でありながら、しかし、はるか以前から心中にくすぶり続けた思いでもあった。それが八幡さんという聞き手を得ることで、形を持って投げ出されたのだろう。

 ソファにもたれたまま、八幡さんが目だけを私に向けている。

 

「1人の軍人として、知識や技術を補って、いずれ八幡さんの信用を挽回したかと思っています」

「大本営に行ったくらいで俺に追いつけると思ったら大間違いだぞ」

「たとえ追いつかなくても、追い続けることに意味はあるでしょう。少しでも強さだけでも八幡さんに近づけば、おのずと答えは変わってくるはずです。戦場は総合力で勝負でしょうから」

「総合力?」

「人望なら私の完勝です」

 

 ちょっと驚いた顔をした八幡さんは、今度は明るい声を立てて笑った。

 3缶目のビールに手を伸ばしたところを見ると、思いのほか興に乗ってきたらしい。一時は消えていた朗らかな雰囲気が戻っている。

 

「となると、赤城が最先端な場所で修行している間に、俺はその不得手の分野を克服しなきゃいずれ軍人として追い抜かれるってわけだな。ほんと、君っておもしろいな」

 

 心底愉快な八幡さんに対して、当方は、そう面白がってもいられない。

 なお迷いを抱えたまま思案していると、八幡さんが口を開いた。

 

「その問いに俺は答える資格を持たない。資格があるのは佐久間さんだけだろう。でもあえて行くって決めた時は言ってやるよ」

 

 唇にキレのある笑みを浮かべて、続けた。

 

「"君の抜けた穴くらい、他の奴が埋めてくれるさ"ってね」

 

 私は、反駁(はんばく)せず、ただゆっくりと(こうべ)を垂れた。

 1人の艦娘が抜ける穴を埋めることは尋常なことではない。それを(うけが)うというのだ。裏を返せば、決断の責任は誰にも帰することはできない。自身ひとりのものだということだ。

 これもまた、自分にも他人にも遠慮会釈のない、八幡さんらしい応答だった。

 

「あ、これだと他力本願だな。困ったもんだ」

「酔ってますか、八幡さん」

「そうかもな」

 

 愉快げに笑う八幡さんは、再びビール缶に口をつけた。その素振りが、軍神とは思えないほど、無邪気さを漂わせている。私はただ笑って見守るばかりだ。

 答えなどない。最善の選択もない。

 そんなものがあれば、生きることに苦労はしない。

 最良の軍人と言っても、生き方は様々だ。

 ふいに廊下から足音がした。

 無遠慮な足音に振り向けば、なんのことはない、五航戦の瑞鶴であった。

 

「何をやってるんですか?」

「何ってわけでもないんだけど…………」

 

 瑞鶴の方が驚いたような顔をしている。

 

「昨日は夜遅くまで騒いでいたのに、彷徨い歩いているのは穏やかではありませんね」

「いや、解散になったら、私直接大本営に行くことになってて。色んな人に挨拶しに行くがてら、散歩していたんです」

 

 無粋な瑞鶴が何なら情緒的なことを言っている。

 

「そんなことより、どうして赤城さんと八幡さんがサシで飲んでるんですか?」

「ちょっとした宴だ。君も一緒に飲むか?」

「いいんですか?」

「いいに決まっている。せっかくだし今回の成功に、乾杯しよう」

 

 とんと、缶ビールが差し出されば、昨日飲んだばかりであるはずなのに、喜んで応じるのが瑞鶴だ。

 いつぞやの深夜に、八幡さんに向けて激昂したことなど、とうに忘れているらしい。いやむしろ、かかる些末(さまつ)な問題で、横須賀一単純な五航戦に長期記憶を求める方が無理なのかもしれない。

 

「何ですか、赤城さん。元気ありませんね。私と赤城さんの仲なんですから、朝まで付き合いますよ」

「どうせ翔鶴が夜警で、時間を持て余していないだけなんでしょう?」

「なんでわかるんですか?すごいです赤城さん」

「本当なんですか…………」

 

 がっくりと脱力する私を見て、八幡さんが楽しげに手を叩いている。

 

「ほんと、君たちって仲がいいな」

「いえ、誤解と誤謬(ごびゅう)の産物です」

「そうなのか?なら、加賀と方はどうなんだ。噂だと危ない関係とか聞いているが」

「ええ!?赤城さん!?」

「あなたが驚いてどうするんですか。否定する側に回ってください!」

 

 柄にもなく大声をあげてしまった。

 瑞鶴ひとりが1人飛び込めば、かくも空気は一変する。

 この娘が横須賀を去るのは、この一事をもってしも相当な痛手と言わざるを得まい。言わざるを得まいが、ここはあえて口にしない。瑞鶴の態度が大きくなるのが目に見える。

 渋い顔をしている私の横で、八幡さんがいきなり、

 

「お、いいところじゃないか!」

 

 言いつつテレビのリモコンを手に取り、ボリュームがあげた。

 

「柳田だ。チャンスで柳田だぞ」

 

 当方、いささか当惑する。その当惑に敏感に反応した八幡さんがすかさず、

 

「もしかして柳田も知らないのか?」

 

 完全に呆れ返ったような視線を向けたものの、すぐに画面に視線を戻した。

 無論当方が驚いたのは柳田選手に対してではなく、八幡さんがファンだということだ。まったく人は見かけによらない。

 

「やっぱ見ていて気持ちいいスイングだな」

「翔鶴姉も野球をよく見ますよ」

 

 とこれもまた、突拍子のない合いの手が入った。

 

「そうなのか?どこのファンなんだ?」

 

 八幡さんは心底嬉しそうだ。

 目を輝かせた八幡さんの、陽気な瑞鶴とが、にわかに会話の花を咲かせ始めた。

 およそお茶の間の雰囲気には不似合いな2人の間で、能天気な空気が立ち上がる。ここに参加するには、私は、まことに不適切だ。

 眼前の奇妙なひとときに、しかし当惑も懊悩(おうのう)も押し流されて、やがて苦笑が漏れた。

 時はまもなく24時。

 私はそっとソファを立ち上がって、キッチンに足を運び、カップを3つ並べて、インスタントコーヒーを淹れにかかる。

 背後に華やいだ声を聞きつつ、粉末一杯をカップに放り込んだところで、はたと思案した。

 しばし首を傾げてから、振り返れば、缶ビールを掲げた軍神と五航戦が、興奮した様子でテレビにかじりついている。

 私はさらに一呼吸考えてから、一旦は置いたスプーンをまた手にとって、ばさりばさりと粉末をカップに追加した。それからそばの棚から今度は砂糖を取り出して、これも同様に大量に放り込む。

 白と黒の粉末がカップの中ほどまでに積み上がったそこに、ポットの湯を流し込むころには、背後ではホームランでも打ったのか大盛り上がりだ。

 私は自分の分のカップを手にとって一口飲んだ。

 

「…………やっぱりこれね」

 

 言葉とともにこぼれたのは、笑みだ。

 ちらりと外を見れば、窓外は稀に見る大雨だ。おかげで鎮守府内は驚くほど沈黙を保っている。

 私は盆を持って、静かに踵を返した。

 この大雨はしばらく止みそうにもない。

 

 

 ーーーー

 

 

 軍港は、普通艦娘たちが出撃し、帰投する場である。

 艤装を装着してすぐに出撃できるようにと工廠が、帰投してきた艦娘たちをすぐに治療できるように入渠施設が近くにある。

 そのため軍港から見える景色を気にかける人は少ない。しかし、こうやってゆっくりと眺めると驚くほど景色がいい。

 眼前を埋め尽くす海は、静かに波打ち、その度に太陽の光を反射してきらりきらりと宝石のように輝く。

 この時代、普通の人々は深海棲艦を恐れて、海付近に近づかなくなった。今では海に出るのは、私たち艦娘や漁師くらいだ。こんな綺麗な景色を見れないなんてずいぶん勿体無いことだと思うが、厳しい戦場に赴く、私たちの特権だと思えばいくら気も楽になる。

 しかし、いつまでも艦娘たちがその海の景色を独り占めするのもよくない。一刻でも早くこの海に平穏をもたらして、再び人々が海を眺める機会がくるようにしなければならない。

 記録的な大雨が止んだのは、あの出撃が成功してから2日後のことであった。

 雨のせいで深海棲艦の残骸はもうどこかにいっているだようから、調査はしなくても良いのでは、という意見が少なからずあったが、予定通り調査隊の調査は行われることとなった。

 瑞鶴が言うには、あまりにも視界が悪くて、どんな敵かは判然としなかったとのことだ。それでも、一瞬で畳み掛けて敵を蹴散らしたのだから、瑞鶴の手腕には頭が下がる。

 

「昨日の雨が嘘みたいですね」

 

 軍港で海を眺めていた私に、声をかけたのは加賀さんだ。

 いつもの加賀さんは、傍らに並んで私と同じように海を眺めた。

 昼下がりである。

 普通なら出撃やなんやらでにぎわう時候だが、今日もこの呉鎮守府は静寂を保っている。聞こえてくる音といえば、波の音くらいだ。鎮守府内も今までの活気が嘘のようになくなり、今でも元気なのは瑞鶴や飛龍くらいだ。

 一度加賀さんの方見たが、彼女も私と同様に海に見惚れていた。その姿に思わず笑みが漏れつつ、私ももう一度海の方へと視線を移した。

あいも変わらず、海と空の青一色の世界だがそこに少しだけ白い雲が加わっていた。

 

「こんな綺麗な海に、あんな深海棲艦がいるとは思えません」

「…………」

 

 加賀さんは空を見上げながら言う。

 

「だからこそ、私たちは早く深海棲艦を倒さなくてはなりません」

「相変わらず、ですね」

「赤城さんも同じ考えでしょう?」

 

 加賀さんは微笑した。しかし、すぐに真面目な顔になって、

 

「悩みごとですか?」

「そういうわけでもありません。こうやって戦い続けると、やっぱり人の手でどうにかなることなんてあまりにも少ないってことに気づかされるんです」

「少ない中でも私たちは、精一杯やらなくてはなりません」

「…………加賀さんは真面目ですね」

 

 と言うと、加賀さんは苦笑した。

 

「真面目とは実行することだ、と誰かが言ってました。その意味では、私の真面目もまだまだ不足が多いようです」

 

 本当に八幡さんに劣らずの真面目な人だ。

 穏やかな空気に包まれたところで、その空気をぶち壊すかのように甲高い音が鳴った。加賀さんがため息をつきながら、懐から携帯を取り出した。

 

「呼び出しですか?」

「そのようです」

 

 答えて、加賀さんは電話に出る。聞こえてきた声に思わず加賀さんは眉を寄せた。

 

「なんだ、五航戦ね」

 "なんだはひどいですよ、加賀さん"

 

 大本営に配属が決定したばかりの瑞鶴が呆れ声をかえしてくる。

 

 "今、大丈夫ですか?"

「大丈夫でしたが…………あなたの声を聞いた途端大丈夫じゃなくなりました。今は赤城さんと休憩中です。急ぎでないなら、後日にしてください」

 "急ぎじゃないんですけど…………"

「なら後日に…………」

 "でも、とても大事な話なんです"

 

 加賀さんが沈黙したのは、瑞鶴の声に、常ならぬ重い響きがあったからだろう。天下一の楽天家には不似合いな声だ。

 

 "調査隊の件なんだけど…………"

「襲撃でもあったの?」

 "いや、そんなことはなかった"

「もったいぶって私と赤城さんの貴重な時間を邪魔するのが目的なら、ただじゃすまないわよ」

 "その調査隊の調査結果がさっき出たの"

 

 瑞鶴がまた一段と声を低めた。

 私と加賀さんはさすがに口を閉ざして次の言葉を待った。待った結果、出てきた内容は、容易に了解できるものではなかった。

 

「本拠地ではなかった?」

 

 おうむ返しに私と加賀さんは応じていた。瑞鶴は、私たちに言葉を噛みしめさせるかのように、すぐには声を発しなかった。

 

「…………どういう意味なの?」

 "そのまんまの意味ですよ。本拠地なんてどこにもなかったんです。私たちが沈めた場所からは戦艦が何体かいたくらい。少なくとも"姫"はいなかった"

 

 一瞬の沈黙ののち、瑞鶴が絞り出すように付け加えた。

 

 "初めから本拠地なんてものなかったんです"

 

 衝撃はすぐにはこなかった。

 私は、携帯を片手に呆然としている加賀さんを見つめた。

 軍港の脇でポツンと立っ2人、そのすぐ近くに広がる大海原。先刻と変わらない風景が、静かに横たわった。

 

 "加賀さん?加賀さん、大丈夫ですか?"

 

 瑞鶴の声に、加賀さんがなんて答えたのかさえ、記憶にない。

 見上げれば雲ひとつない夏空は、横切る鳥の影さえ見えず、どこまでも静謐な蒼一色であった。

 風さえはたと止んだようであった。












あと2〜3話で第3章も終わると思います。
次の章について、活動報告にてアンケートを取ってますので是非ともお答えください。

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