戦艦タ級。
そういう深海棲艦がいる。
戦艦とあるように、他の深海棲艦と比べて硬い装甲と高い火力を誇る敵ではあるが、決して"姫"と分類されるタイプではない。つまりは"姫"ではない。かつてはその防御、攻撃ともに優れた難敵だと知られていたが、現在では艦娘の増加や、装備の進化とともに、ある程度の力を持つ鎮守府なら苦戦することなく倒せる敵となっている。
同じ戦艦であるル級の上位互換と認識されているが、その実態はいまだに不明な点が多い。ただ、ひとつ明らかなことをあげるとすれば、ル級とは違って白髪であることと、慢心せずにいけばきっちりと倒せる敵であるということだ。
要するに、怯えるほどの敵ではない、ということだ。
「その、普通の艦隊でどうにかなる敵を、わざわざ色んなところから集めて、出撃させたということですな」
広々とした会議室に、1人の男性の低い声が響いた。
呉鎮守府の会議室である。八幡さんのところの会議室とは違い、大きな楕円の樫の木の机に向かって、革張りの黒いソファが20ばかり取り巻いた豪勢な部屋だ。
気難しい顔で、先のセリフを吐いた男は、上座に近いソファの1つに身を沈めている。下座のソファでわずかに身を固くした提督を見て、男は、にわかにあごひげを撫でて、笑った。
「というのが、相手方の言い分だ」
大雨も止んだ、8月初旬の早朝だ。
会議室には、今回の作戦に関わった人全員が向かい合って座っている。佐久間さんからの非公式の呼び出しで「議題は召集後に伝える」とのことだが、今回の出撃の件であることは言うまでもない。
召集者たる元帥の席は、一番奥の巨大なガラスを背にした上座であるが、その姿は見えない。また同様に来る予定の事務長も未着であった。
私と提督はただ黙って腰をおろしているだけだ。ソファはさぞかし上等なのだろうが、座り心地を楽しむ気分にもなれない。
ガラス窓の外は、いまだ
「海の様子はどうでしょうか?」
「問題ありません」
もう1人の男性の応答は端的かつ簡潔である。
沈みがちな場の空気を盛り上げようとした上座の男性に対して、端的と簡潔は厄介だ。その厄介を自覚したのか、別の男がおもむろに提督に向かって口を開いた。
「今回の出撃は君の提案とは言え、君個人の問題ではない。出撃に踏み切る前に、私たちも話し合い同意した上で行なっているのだ」
そう、あの出撃を提案したのは私たちの提督だ。いや、厳密に言えば、その提督に出撃の進言をしたのは他ではない私だ。だからこそ、今回の空振りが衝撃的だった。
ふいに無造作に扉が開く音がして思わず姿勢を正したが、開いたのは、上座ではなく背後の扉だ。姿を見せたのは八幡さんだ。
「八幡も呼ばれたのか?」
「呼ばれていませんけど、この出撃の作戦は私が考えましたから。同席する義務があるかと」
八幡さんは、神妙な口調とは裏腹に、いつもの飄々とした態度である。軍服を翻しながら、右手はポケットに、左手には飲みかけのコーヒー缶がある。緊張感がないのは、佐久間さんといい勝負だ。ソファに座る前に、缶を傾けて飲み干した後、空き缶をひょいと投げると、見事な放物線を描いて、隅のゴミ箱に収まった。ゴミの分別の精神とは無縁の人だが、今は環境問題について論ずるだけの余裕も、当方にはない。
缶が収まるのを待っていたかのように、ようやく上座の扉が重々しく開いた。
最初に入ってきたのは事務長だ。続いて佐久間さんが顔を見せる。
「おそろいですね」
事務長の感情のない声が、今日ばかりはひやりと腹の底を撫でるような心地がした。
会議はもとより査問会ではない。
「通常の艦隊で対処できる海域に対し、姫がいると判断して大作戦を決行した件につき、大本営で情報を共有しておく。それが目的である」とは事務長らが冒頭に口にした言葉だった。
「まず現状を把握しておくという意味ですが、海の様子はどうですか?」
口火を切った事務長に、提督の右側の男性が応じる。
その男性は、太い腕を組んだまま、経過が問題ないこと、調査も終了し、現在は深海棲艦1つも見当たらないことを説明した。
「作戦的には、極めて順調、と報告させていただく」
「作戦的には、という限定的な表現の理由は?」
事務長らしい鋭い指摘だ。わずかに男性が細めた目を動かした。
「作戦的でない部分で、順調とは言い難いところがある、という意味でしょうか?」
「この作戦に関わった者の中から数名ほど、作戦前の判断と後の結果の相違について、少なからず意見が出されている」
「具体的に説明いただけますか」
なお踏み込む事務長を一瞥して、男性ははっきりと告げた。
「いたずらに艦隊を動かしたのか、とお怒りだ」
低い声はむしろ淡々とした語調で響いた。淡々としていただけに、厳しい内容との対照がかえって際だった。
いきなりの核心に、事務長はむろん眉ひとつも動かさない。血の気の薄い顔で静かにうなずいただけだ。
事務長が、胸元から黒い手帳を取り出した。
「私のところにも、艦娘たちの方から、今回の判断の相違について抗議の声が出されていると報告が来ています」
「事務長、あんまり人をいじめるもんじゃありませんぜ」
にわかに能天気な声で遮ったのは、佐久間さんに負けず図体の大きい男性だった。大げさに肩をすくめたその人は、右手でボリボリと頭をかきながら、
「"姫"だなんて、そうそう出くわすような敵じゃない。ちゃんと殲滅できたし、姫じゃなかったんだから、それでいいじゃないですか」
「そういう感覚的な説明では、納得しないと思いますが」
「具体的な説明なら、私の方がしよう」
提督の右側の男性が再び腕を組みながら、
「姫という存在は極めて稀な存在で、未だにその動向はつかめていない。今回、ここまで慎重になったのは、深海棲艦が今までとは違う動きをしていたという、特殊な背景があったからだ。1つの鎮守府だけで対処しようとすれば、混乱していた可能性もある」
事務長は再び静かにうなずいだけだ。
この間、佐久間さんは、頭を微動だにせず、目を閉じ、まるで瞑想するかのように沈黙している。八幡さんはと言うと、何を今さら、と言わんばかりの態度でソファに片ひじをついて、欠伸をひとつ噛み殺している。気づいたこちらがひやりとするほどの、緊張感のなさだ。
「そちらの方の意見も聞きたいですね」
ふいに事務長が矛先を変えた。
変えた先は、我が提督だ。
「判断し、出撃すべきと意見したのは、あなたでしたね。そのように判断のした根拠と、誤判断についての考えをお聞かせいただきたい」
誤判断、と言う言葉が、金属バットで脳天を殴られるような衝撃を受けるが、ここで参っていてはいけない。
私は隣で、外貌だけはあくまで端然と構えた。
深海棲艦の動き、出現頻度、艦隊の様子、そして過去の記録。様々な情報を順に述べて、最後に提督は総括した。
「以上より、総合的に"姫"を疑うべき結果です」
「しかし偵察において、その"姫"の存在は、確認されてませんね」
「…………偵察だと言っても、正確に把握できるものではありません。偵察では敵影が全く確認されなくとも、艦隊に遭遇したということは珍しくなく、これを決め手に判断を行うわけではありません」
「しかし、姫が確認されていないのにも拘らず、大艦隊で大作戦を行い、結果として姫はいなかった」
「…………理屈だけでは戦えません」
「理屈ではなく、良心によって、無駄足を踏ませるのですか?」
ざくっと何かを切り裂くような音が聞こえた気がした。
周りの人たちなや顔から一斉に感情が消えた。
満ちたのは、かつてないほどの緊迫した空気であった。
図式は現場と事務との対立であった。
元来が、危険を排除するためにはときに運営を度外視して多額の資材を注ぎ込む現場と、健全な運営のために尽力する事務とは、対立の要素をはらんでいる。その中で、事務長が、明確に現場に対する影響力を強めようと乗り出した瞬間であった。
きわどい沈黙が広がった。
言葉はなくとも、言葉以上に激しい何かが、室内を往来した。
息の詰まるような膠着状態は、しかしさしたる時間も置かずに解除された。
「少し、しょうもない論戦やなあ」
それまで一言も挟まなかった佐久間さんの声であった。
元帥の口から放り投げられた言葉には、失望と失笑と
「理論でと良心でもええ。ワシが知りたいのは、この出撃は正しかったのか、ちゅうことだけなんやで」
太い指を動かして、佐久間さんは顎を撫でた。
"この出撃は正しかったのか"
いかようにも解釈できる、摑みようのない問いであった。
判断が間違っていた以上、出撃が正しいということはあり得ない。それでも問うたことに、佐久間さんの真意がある。
「出撃の是非についてなら、議論の余地はありません」
応じたのは意外なことに、恰幅の良い男性でも提督の隣の人でもなかった。一貫して傍観者の風を決め込んでいた八幡さんであった。
事務長の感情のない目と、佐久間さんのギョロリとした目が、同時に下座の闖入者に向けられた。恰幅の良い男性が「何を言うつもりか」と眉を動かしたが、八幡さんはわずかも
「この場合だと、今回の出撃はもっとも安全で確実な選択肢であったと判断します」
誤解の余地のない明瞭な応答に、しかし事務長は、その無感動な態度をわずかも崩さなかった。
「説明を願います、八幡さん」
「先ほどもそちらの方が言ったことですが」
髪を掻きつつ、
「今まで"姫"の出現は、突然でした。つまり、まったく予測できていなかったんです。ゆえに正確に予測するのはほぼ不可能。くわえて"姫"が出現したときは必ず大被害を受ける。今回、深海棲艦の動きは前例のないものでした。その異常性と姫による被害の考えれば、先手を打って、殲滅するためにも出撃することがもっとも妥当な判断であったと言えます」
「その不穏な動きをしていたのは大したものではありません。1度様子を見るという選択肢は…………」
「まったく安易、かつ無責任な選択ですね」
ばっさりと切り捨てるように八幡さんが告げた。さすがに事務長が血の気のない頰をピクリと動かした。
「過去に、そういう安易な考えのおかげで、大被害を受けたことは少なくありません」
「しかし八幡さん」とわずかに熱を帯びた事務長の声が続く。
「今回の艦隊はかなり規模の大きいものです。"姫"の証拠もなく、ただの一艦隊の可能性もあるのなら、大きな出撃に踏み切る前に…………」
「小さめの出撃でもしますか?」
八幡さんの目もとに怜悧な光がきらめいた。
声音の奥に、底冷えするものが加わったことを私は聞き逃さなかった。
「"姫"の疑いが2割あるから、8割くらいの出撃にしておきますか?6割くらいの敵なら、こちらも6割の力にしておきますか?」
「そういう揚げ足取りは…………」
「戦いは投資信託じゃないんですよ、事務長」
有無を言わせぬ一言であった。
早朝の会議室に、より冷たい空気が立ち込めたようであった。
見れば、いつのまにか足を組んだ八幡さんは、その目もとに冷ややかな光を浮かべている。普段の気だるげな挙措からはかけ離れた冷然たる態度だ。
"赤城には失望してるんだ"
そう告げたときの、あの、刃物ように冷たい瞳であった。
第三者の位置に立って、初めて了解したことがあった。
八幡さんがこの冷たい目を向ける対象は、戦いを甘く見ている全ての人間だということである。相手の立場など関係ない。同僚であろうと部下であろうと、たとえ事務長であろうと、戦いの厳しさを忘れ、ときに軽んずる者に対して向けられる根源的な嫌悪であり反発であった。
八幡さんにとっては、戦っている理由を見失った艦娘も、多忙を理由に自らの研鑽を忘れる人も、特殊な背景を理由に深海棲艦の恐ろしさを軽視する事務長も、皆がことごとく同じなのだ。
「我々の仕事は常にゼロか百かのどちらかです」
八幡さんの落ち着き払った声が続く。
「"姫"が出てくる可能性が80パーセントだからって、80パーセントの出撃なんてないんです。10体の深海棲艦のうち8体倒しても誰も褒めてくれません。10人、人がいて8人しか救えなかったら、大失敗です。10体が10体、全て殲滅し、10人が10人とも確実に、絶対に、誰も死なずに、助けられないと、軍人として失格なんです」
事務長は沈黙のままである。佐久間さんも他のみんなも、それぞれの態度で沈黙のままである。
その圧倒的な沈黙の中でさえ、八幡さんな語調は微塵も揺るがなかった。
「たとえ1パーセントでも被害が出る可能性があるのなら、我々はそこに100パーセントの力を注ぐんです。そして、すべての責任を負うんです」
「今回の出撃は、もっとも妥当な選択肢であったと?」
応じた事務長の声が、心なしか当初の勢いを減じている気配があった。その撤退する殿軍に対して、八幡さんのとどめの一撃が繰り出された。
「同じケースが100回あっても、100回今回と同じ判断です」
ふいに会議室が明るくなったのは、朝日を隠していた雲が消え去って、その光が会議室に差し込んだからだ。
「結構」
しばしの沈黙は、その
佐久間さんだ。
「どうやらわしが口を挟む必要はあらへんようやなあ」
「心配ないって言ったじゃないですか、元帥」
恰幅の良い男性はソファにもたれまま、能天気な笑みを浮かべている。
「ま、相変わらず礼儀はなってへんが、軍人としての仕事に口を挟む必要もあらへんようやな」
「ええ、そうです」
告げたのは隣の男性だ。
「ただし」
と佐久間さんは口を動かす。
「あんたらの哲学と、他のやつらの心理とは同一ちゃう」
ちらりと傍らの事務長を見た。事務長は機械的な無駄のない動作で、手帳をはらりとめくる。
「一部の艦娘から、今回の件に関して、説明を希望する旨の連絡が入っています。本日の午後6時を希望しています」
佐久間さんがゆるりと視線を動かして提督を見た。
「できれば最初に進言したあんたからの説明を求めてる、とのことだ」
太い眉の下の2つの光が真っ直ぐに提督を見つめていた。
「責任を持って対応します」
起立し一礼した提督に、佐久間さんは、かすかに頷いただけであった。
ーーーー
「大丈夫ですか?」
気使うようなその声が、私を現実に引き戻した。と同時に、白い腕が伸びて眼前にコーヒーカップが置かれた。
豊かな芳香が鼻孔をくすぐり、散漫だった思考と視界とがゆるやかに舞い戻ってくる。視界の先にあるのは、柔らかな夕刻の差し込み始めた窓だ。
日中の仕事を早めに切り上げ、寮に戻ってきたところで、いつのまにか思考の沼に嵌まり込んだいたらしい。我に返るとともに、腹の底に沈殿していたずっしりとした疲労感を、自覚することになった。
「大丈夫ですか?」
もう一度先の言葉を繰り返した加賀さんは、そのまま腕を組んで、広間のテーブルに腰をもたれかけさせた。
私は軽く指で目もとを押さえながら、
「会議の件なら、これから説明会が開かれることになりました。判断が違ったからといって、方針が間違っていたわけではないので大丈夫です」
「そのことを心配しているのではありません」
「事務長さんなら、八幡さんがどうにかしてくれましたので、恐れる必要もありませんよ」
「私が心配しているのは、会議の件でも事務長でもありません。今私の目の前にいる、すっかり意気消沈した赤城さんです」
あきれ顔のどこかに、本気で案ずる気配がある。
私は一瞬沈黙したが、すぐに偉そうにコーヒーカップを手に取った。
「意気軒昂の言い間違いじゃないんですか?」
「提督も赤城さんも間違ってないわ」
力のある言葉が返ってきた。
思わず手を止めて見上げれば、加賀さんの澄み渡った目が見返している。
「誰がなんと言おうとも、私はいつでも大声で言ってあげます。赤城さんは間違ってない。間違っていたって間違っていないんだから、こんなことで変にへこんだりしないください」
「理屈が破綻してますよ」
「理屈なんてくそくらえです」
ずいぶんと品のない言葉が飛び出してきた。
通りかかった艦娘の1人が少し驚いたような顔をしたが、事情の一端は知っているのか、そのまま何も言わずに通り過ぎていった。
「みんな私たちを便利な小道具か何かと勘違いしているんです。昼も夜も戦わせて、土曜にも日曜も呼び出して、散々頼っておきながら、失敗したと知った途端、あっさり掌を返して、やっつけようとする。こんなことをしていたら、真面目な人から順に、壊れてしまいます」
親身になって案ずるがゆえの憤りが、ぬくもりとなって胸にしみていく。
まったくこの親友の声に、どれほど救われてきたか。
「ありがたい言葉ですね、加賀さん」
素直に述べれば、かえって加賀さんは、気味の悪そうな顔になった。
「そんな気色の悪い言葉を口にしたいは時点で、へこんでいるって言ってるんです」
的確な指摘の語尾に、艦娘の加賀さんの呼ぶ声が重なった。
「すぐ行くわ」と応じてから、すらりと肢体を机から起こしつつ、
「もう一度言っておきます。たとえ間違っていたって、赤城さんは間違ってません。それくらい胸張っていいほど、赤城さんは頑張っているんです」
言い置くと、身をひるがえして寮から姿を消した。
日が暮れて徐々に暗さを増していく窓外とは対照的に、不思議なほど眩いその背中を、私は声もなく見送った。
「優しい人だね、加賀は」
聞こえてきた声に、首だけ動かすと、いつのまにやら背後に提督が立っている。
「立ち聞きなんて、いい趣味ではありませんね」
「私も同意見だよ、赤城」
提督が苦笑を浮かべつつ、隣の椅子に腰をおろした。
「加賀の言葉じゃないが、私も同意見だ。結果的に適応外ではあったとはいえ、私たちの選択は間違っていない。気に病むことはない」
「"姫"なんていなかったのに、わざわざ大きな艦隊を出撃させる判断をしたのに、気に病むなというのは、少々気安い応答だと思います」
「100回同じケースがあったのなら、100回とも出撃するのだろう」
会議室で、八幡さんが放った言葉をもう一度提督が放った。
「私も八幡くんと同意見だ。安易に様子見だなんてするとかえって命取りの可能性がある。出撃は妥当な判断だ」
「問題は結論ではないんです」
私はにわかに絞り出すような声で遮った。
怪訝な顔をする提督を見返し、それから視線を足下に落とした。
「私はレーダーからの情報を考えもせずに出撃と判断しました。可能性を考えて出撃を選ぶのと、やみくもに突進するとでは、まったく重みが違います」
提督が軽く目を見開いてから、眉を寄せた。
「しかし、偵察機による写真があったじゃないか。君はそれを考えて…………」
「その写真は実は八幡さんが、私が知らないうちに、指示して撮らせてたものだそうです」
さすがに提督が当惑を示した。
軽く額に手を当てて、ため息をついた。
「これが私と八幡さんの差なんです」
他に向かってついたため息に、そのまま引きずられるように、ずっしりと重いものを両肩に感じた。
「どうにも埋めがたい、大きな差なんです」
"やられたな"
早朝、会議室を出た直後の八幡さんの言葉が蘇った。
"正直タ級とは思わなかった。可能性も考えはしたが、総合的には俺も"姫"がいると思ったんだがな"
黒髪の下の額に険しい皺を寄せて、唇を噛んでいた。事務長の前ではあれほど悠然と構えていたものの、これが八幡さんの心情だった。
だが私の衝撃は、これ以前の問題であった。
自分で様々な情報を集めて、判断材料を揃えていた八幡さんに対して、私は十分な判断材料を持たずに出撃への道を直進していたのだ。
言うなれば、私の立場は八幡さんの親友の上司と同じであった。無知ゆえの浅薄な判断であったと言うしかない。私が無自覚のまま歩いていた薄氷を、八幡さんが割れるぬようにと、氷の裏から支えてくれていただけなのだ。
"戦場は総合力で勝負ですから"
そう告げた己の軽薄が、ほとんど滑稽であった。
ただただ戦場を駆け回る艦娘と、毎回毎回全力で戦場に挑み、常に耳と目と研ぎ澄ませている軍神との間の落差の大きさを、私は完全に読み違えていた。
ふいに時計の音が私を思考の泥沼から現実へと引きずり上げた。
5時半の鐘だ。
「顔色が良くないぞ、赤城」
時計を見上げる私の耳に、提督の声が聞こえた。視線を転ずれば、提督は気遣わしげな目を向けている。
「大丈夫か?」
「妙なことを聞くんですね…………」
私はあえて
「私が大丈夫かどうかなんて、今、考えることではないでしょう?」
傲然たるはずの口調は、しかしずいぶんと力のないものだった。
私はおもむろに加賀さんのコーヒーを飲みほして、立ち上がった。
おいしいとで有名なはずの加賀さんのコーヒーが、香りも苦味もなく喉を通り過ぎて行った。
ーーーー
説明会の開かれる部屋を訪れた私を最初に出迎えたのは、窓の向こうに広がる
「なかなか良い景色でしょう、赤城さん」
穏やかな声は、隅に座る龍三老人のものであった。
会釈をした私に、老人はにこやかな笑みでうなずいた。
作戦による消耗は、さすがに隠しきれるものではないのだろう。今朝は体調不良で会議を欠席していたが、今もずいぶんと頰の肉は落ち、首筋も痩せている。それでも老人の変わらぬ和やかな声に、私は人知れずら安堵の吐息を胸の中に落としていた。
「すいません。うちの鎮守府ではなかなか見れない景色なもので、少し驚きました」
「ここの鎮守府で一番景色のきれいに見える部屋なんです」
調子はどうかという問いに、上々ですよと老人はあくまで穏やかだ。
部屋の中にいるのは、静かにたたずむ老人と、その傍らに立つ穏やかならざる重巡であった。
羽黒は言葉を探しているのか、険しい表情のまま、すぐには口を開かない。その隙にというわけでもなかろうが、龍三老人は世間話をするかのような口調で続けた。
「会議の件は、ずいぶんと丁寧な説明を聞きました。わざわざ説明会を開く必要もないと思ってるんですが、孫を筆頭にどうしても直接話しを聞きたいと譲りませんでな。申し訳ない」
身じろぎする孫に構わず、さらに言葉を重ねる。
「まあ、赤城さん、わしとしては、"姫"なんていなかったと聞いて、一安心というところです。それ以上それ以下もありません」
温かな声に、私はただ、いたずらに大きく頷くだけであった。
束の間の穏やかな静けさを破ったのは、言うまでもなく孫の声だ。
「赤城さん、私は納得なんかしてませんよ」
射るような視線とともに、切迫感を含んだ声が向けられた。
見返せば、色白の羽黒が、額まで上気させて険のある目を向けている。
「いなかったっていうのはどういうことなんですか?」
「いたのは、タ級でした」
「つまり意味がなかったんですね」
龍三老人が、何事か制止の声をあげたが、まことに頼らないものである。その頼りなさが、より一層、孫の苛立ちを刺激したようだ。
「タ級って、わざわざ大艦隊を組む必要がない敵じゃないですか。なのになんで、大掛かりな出撃になったんですか」
私は、瞬きせず、羽黒を見返していた。これ以上はないほど強く握りしめられた彼女の右の拳から、目をそらすことはできなかった。
羽黒のその言葉を、予期していなかったわけではない。ただ予期していた以上の衝撃を私は受けていた。
私は波立つ心を抑え、静かに理路を説き始めた。
たとえ判断が間違っていたとしても、出撃はもっとも確実な手段であった。その事実を明示し続けることでしか、この困難な結果を了解してもらうことはできないだろう。
「いろいろ考えたんですけど、大本営の業績をあげるために、無理やり出撃に持っていったことはないんですか」
さすがに驚くような発想の飛躍であった。
「あり得ません。説明はあったと思いますが、現時点で振り返っても、出撃がもっとも妥当な選択肢であったことに間違いはありません」
「それが、どこまで信用できるんですか?だいたいその旗艦をやった瑞鶴って空母も、赤城さんと同じ鎮守府所属だっていうじゃないですか。判断が判断なら、出撃も出撃ではないんですか」
にわかに凍りつくような言葉が飛び出した。
さすがに私は言葉を失った。
判断は誤った。だが旗艦としての瑞鶴の顔に泥を塗るのは、筋違いだ。あの複雑な海域をほぼ無傷で乗り越えた瑞鶴の手腕は、賞賛こそすれ、このような場に取り上げて乱暴に切り刻んで良いものでは、絶対にない。
絶句したままの私に、羽黒はなお何事か詰め寄ろうとしたその瞬間、異様な声が場を圧していた。
「やめねぇか、羽黒」
大声ではない。だが背筋が寒くなるような、底冷えのする一言だった。
羽黒は、口を開いたままの状態で金縛りにあったように動きを止めた。
誰の声かと驚いてる室内を見渡したが、今は3人しかいない。私と羽黒と、龍三老人である。その3人目がゆっくりと痩せた頰を動かした。
「羽黒、出撃を判断したのは赤城さんじゃねぇ、俺だろう」
ほとんど凄絶と言ってよいほどの、重く分厚い声が響いた。
信じがたいことだが、それは龍三老人の声であった。同時にまぎれもなく、かつての勇猛な将の声でもあった。
見守る私の背に冷たい汗が流れたくらいだから、孫の驚きは想像を絶するものであろう。
「すまねえなぁ、赤城さん」
静寂の中で、老人がゆっくりと首を巡らせた。
痩せた体は椅子に預けたままでも、その眉の下には、
「可愛い孫なんだが、どうも甘やかしすぎちまったらしい。礼儀知らずでいけねえや」
くつくつと、小さな笑声が聞こえる。
当方は無論笑うゆとりもありはしない。傍らの孫に至っては、呆然として声も出ないまま祖父の横顔を見ている。
「このロクでもない年寄りのことを、くそまじめに案じてくれるのは、世間知らずの孫くらいだと思っていた。だが世の中には、存外、物好きもいるもんだねえ、赤城さん」
楽しげに告げた老人が、光る両目をそっと細めて私に向けた。
「深海棲艦を、どう倒すか…………」
戸惑う私に、老人の深みのある微笑が応えた。
「正直、この世知辛い世の中で、あんな青臭いことを生真面目に口にする人に出会えるなんて思わなかった」
また二度三度、小さく肩を揺らして笑ったのち、そっとつけくわえた。
「有り難い言葉でしたぜ、赤城さん」
「北川さん…………」
「忘れたのかい、赤城さん。出撃するかは赤城さんたちが手前勝手に推し進めたものじゃねえ。わしも賛同したうえで決めたことだ」
そうでしょう、と問いかける老人の笑顔は、いつのまにか見慣れた好々爺のものに戻っていた。
「あの夜、わしは本当に嬉しかったのですよ」
龍三老人は静かに頭を下げていた。
答える言葉があるはずもない。
私はただ部屋の中で、瞬きも忘れて立ちつくしていた。
気がつけば、窓の外は夜であった。
活動して報告の方にてアンケートを2つ実施してますので、よければご回答ください。