"来月から大本営直轄の鎮守府に行きたい"
その旨をはっきりと提督に伝えたのは、9月初句のある夜のことだった。
深夜に提督室を訪ねた私を、提督は飄々たる態度で出迎えた。
「やっぱり行くのか。寂しくなる」
さして驚く様子も見せないでそんなことを言う。今までの私の様子からある程度は察していたらしい。
あくまで生真面目な顔で立ったままの私に、提督はようやく笑みを少し収めて、向かい側のソファを示しながら問うた。
「八幡くんの下にいて、考えが変わったんだね?」
私は静かにうなずいた。
八幡さんの下に派遣されたのが5月。およそ4ヶ月の日々が思い出される。
「そうだ、北川さんからは何か言われた?」
いえ、と答えつつも、脳裏をよぎるのは呉鎮守府を去る日の昼間の光景だ。
"どうもお世話になりました、赤城さん"
鎮守府の入り口で杖をついた龍三老人は、にこやかな笑顔で告げたものである。
その眩しげに空を見上げる姿はまるっきり人のよい好々爺で、あの日、部屋で見せた迫力が嘘のようだ。
傍らの羽黒はというと、私に対してはいささかのぎこちなさを残しつつも、祖父に付き添う横顔には喜びが溢れている。祖父への態度が少しは変わるかと案じていたが、祖父思いの少女にとっては、そういうものでもないらしい。
瑞鶴に呼ばれ、立ち去ろうとした私に、龍三老人は私に近づいて、そっと右手を差し出した。
「本当にありがとうございました」
腰をかがめてそっと骨ばった手を握り返した。乾いた手が私の右手を握りつつ、
「赤城さんに会えて、本当に良かったと思っておりますよ」
身に余る言葉にただ頷くしかない。
そんな私に対して、老人は左手も添えて、両手で私の手を包み込んだ。まったく過分な感謝だと恐縮した次の瞬間、驚くほど強い力が私の手を握りしめていた。80を超えるとは思えぬ
「あんたはいい戦士になる。しっかり頼むぜ」
太く、腹の底まで響く声であった。
あの、孫を一喝した豪傑の声であった。
慌てて視線をあげれば、しかしそこにあるのは、相変わらず人のよさそうな顔だけだ。傍らの羽黒も、他のひとも、一瞬の出来事に気付くはずもない。
呆気にとられたままの私に背を向け、老人は愉快な笑声とともに去って行ったのである。
提督室へ足を運んだのは、そのしばらく経った日の夜半であった。
「大本営に行きたいだなんて、赤城も真面目だね」
卓上のカレンダーを手にとって眺めてから、
「まぁ、頑張って」
実にあっけらかんとした態度だ。
我ながら、勝手と猛進を足したような乱暴きわまる希望であることは十分理解している。怒鳴られるかどうかは別として、煙に巻かれるか、聞こえないふりをされるくらいの反応は覚悟していたが、それすらない。かえって途方にくれる感がある。
「理由の一つも聞かないのか、って思っているだろう?」
「おわかりなら、聞いていただけると、私の頭の中の整理がつきます」
「嫌だね」
にべもない応答だ。
「赤城の愚痴聞いてあげるほど、物好きじゃないからね」
「愚痴、ですか」
いささか乱暴なその表現が、しかし思いのほか的を射ているような気がする。
もとよりなぜ大本営か、と問われてそれほどはっきりとした答えがあるわけでもない。散々悩んだわりには、理由ははるかに見えにくく、根源的で、衝動的なものだ。
「それでいいんじゃないか」
手元の書類を捌きながら言う。
「あの場所が、赤城の希望に叶うかどうかは分からない。しかし行ってみることに意味があるはずだ」
「提督は読心術ができるんですか?」
「そんなわけないじゃないか。心なんて読まなくても、赤城の場合は全て顔に書いてあるさ」
これも身もふたもない返答であった。
「連絡は私がとっておく。来週にでも元帥に頭をさげてくるといい」
広げていた書類をとんとんと整えながら、あくまで
唐突な申し出を、大本営が受けてくれるかどうかという問題は口の端にも上らない。そのために必要な、手続きや交渉の面倒といったものも、一切話題に出てこない。こないものを色々問いかけれる立場でもないので、これは提督に任せるしかない。
私が案じるべきは、もっと別のことだった。
「空母たちの負担は…………」
恐る恐る口にすれば、提督は意味ありげな笑みとともに、
「みんなでカバーしてくれるさ」
それだけだった。
悩みぬいた私の決断が、まるで予定調和のごとく速やかに進行していく。
叱責も混乱もないどころか、引きとめる素振りすらない。拍子抜けして、少し
艦娘になってよりまもなく9年。この提督には振り回され、時には振り回してきた。最後振り回されても今さら慌てる必要もない。
私は無理やり納得して、提督室を辞したのである。
この間、提督は終始、上機嫌な笑みを浮かべるだけだった。しかし上機嫌に見えつつも、その目にはどこか寂しそうな気配があったことに気づくのは、はるか後のことだった。
ーーーー
今年の夏は容易に立ち去るつもりはなさそうだ。
10月に入っても、昼間の暑さはほころびを見せず、時に大雨が続いたかと思うと台風が接近し、まだまだ夏だと叫ぶような風が吹き荒れていった。
小雨の日の中、大本営を訪ねて行った私を出迎えてくれたのは、空母たちの取りまとめを務める大鳳という人であった。
大鳳さんは、装甲空母と呼ばれる空母で、私なんかよりもずっと先をゆく人であった。驚くことは、その体格が私よりもずっと小さいことだが、戦果は私のよりも数多いことだ。
大鳳さんは穏やか笑顔で私を迎え、「空母」の表札がさがった広々とした部屋へと導いた。
彼女らのプライベートスペースとはいえ、室内はまことに整然としたもので、横須賀のように、飲みかけの湯呑みや、食べかけの羊羹などが転がっているということもない。壁際の本は多彩な本が隙間なく並び、窓際のポットからは湯気が立ち上っている。1人の艦娘が、起立して私に軽く会釈した。
「ここに来るのは、初めてですよね」
テーブルに腰を下ろし、対面する私に続けた。
「話は元帥から聞いています。心配はありませんよ」
その穏やかな声が、返答の全てであった。
もう一度、深々とさげた頭の中に、つい先刻見学してきたばかりの演習の様子が思い出された。
広い海で、10人は超える艦娘の影。
陸には、気難しい顔で演習を眺めている男性や、いかにも切れ者めいた指揮官の姿がある。腕組みをして涼しげな目を向ける壮年の男性もいれば、いささか場違いな茶髪の下に悠々たる笑みを浮かべた少壮の指揮官もいる。それらの視線の中央で、激しい演習が行われている。
まことに多様な人々の集団であった。
その多様な集団の中に、私も加わるということなのだ。
「それにしても、あの佐久間さんから目をかけられるというのは、赤城さんも隅には置けませんね。一緒にいる私の方が、身の引き締まる思いがします」
あくまでにこやかに告げる大鳳さんに対して、私は笑ってもいられない。
「佐久間さんにはご迷惑をかけてばかりでした。ただ恐縮するばかりです」
「"姫"の判別について、1つ私から」
大鳳さんは、目もとの笑みを少し抑えて、
「"姫"はそもそも発見すら困難です。時には突然現れることも少なくありません。大本営でも確定できないまま、出撃になるケースもあります。それが今私たちの限界なんです。艦娘として、その限界を充分に理解しておくのも、大事です」
「誰もが最先端の技術を身につけるためだけの大本営ではありません。最先端の限界を知り、最低限の被害に収めるのも、それは意味があることだと思いませんか?」
眩しい言葉だった。
新鮮と言ってもよい。
ふいに冷たい外気が流れ込んだのは、誰かが窓を少し開けたからだ。
「実はですね」
大鳳さんの声に、いつのまにか少し楽しげな空気が混じっている。
「赤城さんのことは、横須賀の提督さんからだけでなく、八幡さんからも頼まれてるんです」
意外な言葉だ。
「もしかしたら面白い奴が行くかもしれないから、よろしくしてくれって。9年も艦娘を務めている人を捕まえて、面白いって表現はどうかと思いますけど」
「大鳳さんは八幡さんとお知り合いで?」
問えば、ああ、知らなかったですよね、と頷いて説明を加えた。
「まだ八幡さんが現役だった頃は、よく一緒に戦っていたんです」
彼女が言うには、その戦い振りは今でも鮮烈に覚えているものらしい。
生身の身体でありながらも、深海棲艦に肉壁し、殲滅する様はまさに軍神であった、と。
「その時のメンバーは、今でもここに残っています。そこに佐久間さんの弟子とも言われる赤城さんが加わってくれるということは、私としても嬉しいです」
できるのなら、と大鳳さんはほのかに苦笑を浮かべた。
「ここに八幡さんが戻ってきてくれれば、すべてが安泰なんですが、こればかりは厳しそうです…………」
当方が戸惑うような言葉が漏れた。
と同時に、大鳳さんの苦笑の中に、複雑な感情が含まれていることを私は聞き逃さなかった。
なるほど、大鳳さんの立場からすれば、八幡さんに戻ってきてほしいと考えるのは当然の発想かもしれない。しかし…………、
脳裏をよぎったのは、あの夜に見た、八幡さんの険しい横顔だ。
八幡さんにとっては、現役時代の辛い過去を思い出させる場所でもある。その過去が八幡さんの中では過去になっていない以上、ここに戻るというのは考えにくい話だ。
「その様子だと、八幡さんの事情は聞いているようですね」
ふいな言葉に顔をあげれば、大鳳さんが、凪のように静まった目を向けていた。いささか難しい顔で思案に沈んでいた私の表情から、おおかた察したのだろう。
私はただ静かに頷くしかない。
「八幡さんのような人には、ぜひ指揮官としてここにいてほしいと思って、声をかけたこともあるんですよ。にべもなく拒絶されましたけど。彼の気持ちを考えれば、無理もないことだと思います…………」
大鳳さんは、そっと遠くを眺めるような目をして、ため息をついた。
「悠々と構えているように見えても、昔の自分のミスに、いまだに決着をつけれずにいるかもしれない」
何気ないその言葉を、私は危うく聞き逃すところだった。
短い言葉の中に紛れ込んだ異質な一言を、私はかろうじて引き上げることができた。
「自分のミス、ですか?」
「彼の部隊が壊滅しかけたことです。判断を遅らせてしまった自分の…………」
言いかけた大鳳さんがふいにつぐんだ。
そっと見返す瞳に、問いかけるような色がよぎり、やがて嘆息が漏れた。
「どうやら余計なことを言っちゃったみたいですね」
「八幡さんの親友が、誤った判断をしたために亡くなったという話は聞いていましたが…………」
私はその先に続く問いを、発することができなかった。
その発することのできなかったのものを正確に汲み取ってくれたのだろう。目を閉じ、それからゆっくりと開くと、黙っていてもいずれ分かるでしょう、と断ってから、静かに告げた。
「八幡さんの親友が所属していたところの隊長は八幡さん自身だったんです」
電撃のような一言だった。
「若くしてその才能を認められた八幡さんは、すぐに隊長を任せられたんです」
「では、様子見として判断したのは…………」
「八幡さん自身です」
言葉を失ったのは、私の方だった。
「たしかにあの状況は難しいものでした。あの結果となってしまったのは、運が悪かったんです。でも、敵の動向を掴むのが難しいということは分かってた上で、あの判断は、たしかに軽率だと言わざるを得ませんね」
大鳳さんの述べる言葉が、どこか遠くを通り過ぎていくような気がした。
にわかに事態を了解できなかった。
心中には、あの言葉が鳴り響いていた。
"俺はいまだにその時の隊長が許せないんだ"
八幡さんが吐き捨てるように言ったその言葉は、ほかでもない自分自身に向けたものだったのだ。凍てつくようなあの怜悧な目は、自身に対する悔いと憤りと悲哀そのものであった。
過去に決着をつけるどころではなかった。八幡さんは、今も昔の自分の影と全身全霊で戦い続けている。
どれほどの苛烈な道を歩んできた人なのだろうか。
「赤城さん、どうかしましたか?」
大鳳さんの気遣う声に、私はなんとか自制を得た。
絶句したままそれで何か返答をした私の態度は、お世辞にも自然であったとは言えない。にも拘らず、大鳳さんは多くを問わぬまま、ただうなずくだけだった。
その奥の瞳に、かすか悲哀の色を見せたまま、つぶやくように語を継いだ。
「もしかしたら」
そっと窓外に目を向けた。
「八幡さんは自分にできなかったことを、あなたならやってくれると、思ったのかも」
ふいにまた、冷たい風が流れた。
私はいまだ落ち着く先を見いだすことができない動揺を抱えたまま、彼女の視線を追うように、窓外を眺めやった。
いつのまにか小雨もやみ、空は鮮やかな紅に染められつつあった。
ーーーー
「出撃の準備を!」
明朗な声が工廠に響き渡った。
目の前を、数人の艦娘が駆け足で駆けて行く。その中には祥鳳さんらしき姿も見えたが、無駄口を叩く余裕はなさそうだ。
この日も民間軍事会社"鎮守府"は大繁盛らしい。
それを眺める私に、しかし落ち着きがあるのは、もうここの一員ではないからだ。
「ずいぶん余裕だな」
皮肉っぽい声が聞こえて振り返れば、ポケットに手を突っ込んだ八幡さんが、面倒臭そうな顔をして立っていた。ちょうど指示をしようとしていたらしい。
「ほんと、八幡さんって、よくこんなところで長い間やってきましたね」
私が皮肉を返すうちにも、背後から指示を仰ぐ声が聞こえて、八幡さんは肩越しに振り返った。
「戻ってきた者は、全員休んでいい。今から出撃の予定の者は、広瀬に聞いてくれ。何かあったらすぐに報告するように」
「いつも通りみたいですね」
「くだらないこと言ってないで早く行け。今日は送別会なんだろ?」
その通りである。翔鶴たちが町中で送別会を企画してくれているのだ。
「ドッグは中破している者が先だ。で、大本営には顔を通したのか?」
器用な人だ。
「先週、大鳳さんに挨拶をしてきましたよ。問題なく来月から大本営所属です」
「あいつ一見頼りなく見えるが、いざって時は相当な切れ者だから、信用してもいいぞ」
「信用してって…………、大本営の主戦力ですよ?」
「大本営の主戦力だろうが、お偉いさんだろうがダメなやつはダメなんだ。そういうやつらもいるんだから、ちゃんと見極めろよ。ほら、君の艤装はあっちだ」
話の間に振り返りながら、次々と指示を追加していく。
これに対応する艦娘も、迅速で無駄がない。
「ま、もう赤城は依頼のことなんて気にしなくていいから、死ぬほど飲んでこい。それが君の仕事だ」
「そのつもりです」
「結構。飲みすぎでやらかして、クビになっても、俺が引き取ってやる」
「そんなことしませんよ」と苦笑しつつも、その言葉に表れた変化を私は見逃さなかった。
「安心しました。ダメな人でも助けてくれるつもりなんですね」
「相変わらずくだらんところは、注意力があるんだな」
にこりともせずにそんなことを言う。そのまま、じゃあな、と一言放り出して、八幡さんは身を翻した。
その去りゆく背を思わず呼び止めたのは、具体的な理由があったわけじゃない。胸中に去来するいくつかの感情を整理できないままに発した、多分衝動的なものだった。
ゆえに振り返った八幡さんに、伝えることができた言葉は、これ以上はないほど平凡なものだった。
「短い間でしたが、御指導、ありがとうございました」
「御指導?」と八幡さんは不思議そうな顔をした。
「何言ってんだ?教えたことなんて、一つもなかっだろ」
この期に及んで遠慮も会釈もない人だ。
その語尾に重なるように、八幡さんを呼ぶ声が聞こえる。その声がした方に目を向けてため息をついた八幡さんは、
「くだらないこと言ってないで、さっさと行け。赤城がいると依頼が増える」
ひどい当てつけを投げ出して背を向けた。その意外にたくましい背中を、太陽が照らした。
「言っとくけどな、赤城」
不意の声に顔をあげれば、八幡さんが顔を向けていた。
「向こうで少し学んだからって、俺に追いつけると思ったら大間違いだ」
涼しい声が、喧噪の工廠を貫いて届いた。
「戦場は総合力で勝負、だからな」
軽く頭の上で手を振ると、そのまま八幡さんは、声の方へ飛び込んで行った。
刹那に、唇の端にひらめいて見えたのは、微笑であったのか。
確かめる暇さえなかった。
また、その必要もなかった。
私は、往来の激しい工廠の中央で、姿の見えなくなった八幡さんに向かって、静かに頭を下げたのである。
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横須賀鎮守府周辺の町は、比較的活気のある場所だ。
指定された店は、その町の中にあるので、この鎮守府からもそう遠くはない。
車道から小さな路地に足を踏み入れ、両手を広げれば左右の塀に触れるほどの小道に入った時は道を間違えたかと思ったが、渡された地図を見れば間違いない。
鎮守府の近くにこんな場所があったのかと戸惑いながらも路地を奥へと進めば、ふいに視界が開けて、豪壮な破風を有した古民家風の小料理屋が建っていた。
話には聞いたことはあったが、私が訪れるのは初めてだ。
戸口へ続く飛び石の前で足を止めたのは、入り口脇の軒の陰で、のんびりと空を見上げている友の姿を見つけたからだ。
「思ったよりも早かったですね、みんなだいたい集まっているわ」
「加賀さんはここで何を?」
「中はうるさくて」
ふう、とため息を吐き出せば、なるほど、店の中からはいつものような喧騒が聞こえる。
「正直、本当にこの時期で大本営に行くとは思いませんでした」
「同感です」
「赤城さんまで同感なら、話の続けようがありません」
すでに日の暮れた夜空をみあげたまま、加賀さんはもう一度ため息をついた。
「あの件、よほどこたえたようですね」
「関係ない」
私は一度息を吸って、大きく吐いてから言った。
「はずがないです」
「まぎらわしい人ですね、赤城さんは」
加賀さんは苦笑しつつ言ったが、ふいにそれをしまって、
「艦娘になったばかりの頃から、赤城さんに支えてもらってばっかりで、ようやく借りを返せると思ったときに、赤城さんの転属です」
「心配しなくても、大本営に行ったからって、踏み倒してもいいとは言ってません。機会を見つけるたびに貸し与えた分は、きっちり請求します」
「赤城さん、私たちは、どこへ向かって歩いていくべきなの?」
ぽつりと吐き出された言葉が、どこかに痛みを持っていた。
「私はあなたという人を誇らしく思っているんです」
「加賀さん…………」
「私は平和を何よりも優先する人です。仲間か平和かと問われれば、平和を選ぶ人です。ですが、あなたはそうではない。いつでも決然と理想に向かって走り続けた人なんです。間違いなく、誰にも恥じることのない戦士なんです。その赤城さんがどうして横須賀を出ていかなければならないんですか」
加賀さんがゆっくりと私に視線を巡らせた。
「今の赤城さんではダメだと言うの?」
「そうじゃないんです」
「でもあなたは、ここを出ていく。それはつまり、今まで積み上げてきたやり方を否定することと同じよ」
「そうじゃないんですよ、加賀さん」
私は敢えて傲然と応じた。加賀さんが一瞬戸惑いを見せるほど、強く飛び出した応答だ。
まったく熱い人だ。
熱い言葉のうちにも、そこにあるのは私のよく知る旧友の姿だ。その清らかな熱が伝わってくるがゆえに、私もまた皮肉も
「今の私には、加賀さんと対等に話すだけの資格さえないんです」
「資格?」
眉を寄せる加賀さんに、「まあ、聞いてください」と私は語を継いだ。
「私たちは兵士です。それも平和を支える兵士です。その兵士が、まるで安物のラップのように、無造作に切り取られては使い捨てられている。捨てられるならまだしも、少し油断すればたちまち吊し上げられるのが今の世の中なんです」
休日という概念が遠のいてずいぶんな月日が経つ。夜に呼び出されれば出撃することがごく当然のように認識されている。その過酷な環境の中で、ただ躍起になって戦い続けるだけでなく、強敵に対応していくための能力や知識を常に更新しなければならない。
これは尋常ではない世界なのだ。
「加賀さん」
私は知らぬ間に呼びかけていた。
「私は加賀さんの生き方に感服しているんです」
友は驚いたかのように私を見た。
返答を待たずに言う。
「加賀さんはこの過酷な現場で戦いつつも、平和を守るという揺るぎない信念を持っています。その結果、生じる歪みに対して決然と責任を取る覚悟もある。でも私は…………」
「私は、どうあるべきかを、考えることすらしませんでした。懸命でさえいれば、万事がうまくいくと、手前勝手に思い込んでいたんです。しかし戦場は、そんな生易しいものではないんです」
声もなく見守る旧友に、私は目を向けた。
「私は加賀さんのように、何においても平和を選ぶという揺るぎない覚悟を持ち合わせているわけでもありません。翻って、八幡さんのように、崇高なまでの使命感もあるわけではない。つまり加賀さん、道を選んだ加賀さんに対して、私は選んでさえいないんです。それでは加賀さんと対等に話すだけの資格もないんじゃないんですか」
「赤城さん…………」
加賀さんは目を細めて、遠慮の2文字を捨てて問うた。
「大本営に行けば、その答えは見つかるんですか?」
「それはわかりません。でもこのままではダメなんです。自分がどう歩むべきなのか、答えを探しに行きます」
秋の少し冷たい風が吹き抜けた。
「それが私の答えです」
加賀さんはしばらく無表情で、こちらを見据えていた。それもやがて苦笑を浮かべた。
「納得してくれましたか」
「冗談じゃありません」
友の目には微笑があった。
「勘違いしないでください、赤城さん。私は納得なんかしてません。でも、私の納得の有無で赤城さんの判断が変わるとも思ってません」
「頭のいい友人を持って、私は幸せです」
応じれば、互いの小さな笑声が、軒先に響いた。
「あれ、やっぱりこんなことろに」
ふいに明るい声が聞こえて振り返れば、料理屋の戸から、翔鶴が顔をのぞかせている。
「来ているなら声をかけてください、赤城先輩。みんな待ってますよ」
すみません、と笑いながら、私は店内へと入っていった。
ーーーーーー
宴は豪奢なものだった。
皿いっぱいの馬刺しに、やや時期をはずれた山菜は天ぷらとなって盛られ、そこに鍋や刺身、そばまである。
かかる馳走を取り囲むのは、横須賀の艦娘たちだ。見慣れたはずの面々が、しかし皆、見慣れぬ私服姿であるためか、いささか当惑を覚えるほど華やかだ。
私たちの宴会は、堅苦しい挨拶とは、もともとあまり縁がない。それでも加賀さんが形ばかりの乾杯の一言をのべれば、たちまちグラスは往来して、酒杯が打ちあわされた。
酒は上々、出される料理は美味だ。おまけに古民家を土台とした店は、ふと見上げれば堂々たる梁を見渡せる味わい深い風情がある。お疲れ様でした、と交互に注がれる酒を飲めばら自分の送別会とも忘れてたちまち陶然となった。
途中から提督も加わりら場は一層の活況を呈した。
「提督が、宴に来るなんて、珍しいことですね」
頰を赤く染めた翔鶴が明るい声で言いながら、徳利を傾けた。
瑞鶴はどうしてる、と問うまでもなく、
「赤城先輩が来るって聞いて、とても喜んでましたよ。やっぱり、運命の赤い糸だって」
瑞鶴の阿呆さの加減は、大本営に行っても変わっていないらしい。
苦笑しつつも、酒杯を干す。すると、翔鶴は思い出したかのように机の下に手を伸ばし、なにか小さな紙袋を取り出した。
はい、と手渡された袋を意味もわからず受け取ってしまう。
「八幡さんからです」
「八幡さんから?」
「暇なときに渡してくれって」
傍らの艦娘が続けて、
「赤城さんがいらないって言ったら、そのままゴミ箱に捨てといてくれって」
ますます難解だ。
とりあえず受け取った袋を開けてみる。格別な包装をしているわけでもない。ありふれた紙袋をセロテープで留めただけなので、すぐに中身にたどり着いた。
出てきたものを見て、私は苦笑した。
手中にあるのは、『葉隠』であった。
こんなときに、この本を渡すなんて八幡さんらしい。
「何か言ってましたか?」
メッセージひとつもない贈り物を見つめたまま問う。
返答はない。
のみならずにわかに静かだ。おもむろに顔をあげれば、いつのまにやら宴席のみんなが、ことごとく静まり返って、それぞれの笑顔を私に向けていた。
いささかたじろいで、なんですか、と声を発する前に、翔鶴がすくっと立ち上がって頭を下げた。と同時にみんなが叫ぶ声が聞こえた。
「赤城さん、ありがとうございました!」
驚く暇もありはしない。
ただ呆気にとられている間に、今度は一同一斉に拍手喝采だ。
これはいけない。
大変いけない。
ただ一献を交わしてさようなら、と投げつけられれば、それで問題ない。それをこうも面と向かって送られては…………、
私はにわかに卓上の徳利を手にとってらそのまま一息に喉に流し込んだ。いまだに、このような酒の飲み方をしたことがない。しかし今夜ばかりはやむを得ない。こんな過分な送別を、素面で受けられるほどに私の神経は太くない。
とんと徳利を卓上に戻せば、たちまち誰かが一杯を手渡した。受ければただちに次の一杯が注がれる。かと思えば、別の人が「乾杯」と叫んで杯を飲み干した。
あとは前後不覚の宴会の再開だ。闇雲な酒宴の果てに、店を出たのが何時であるか、判然しない。
ただ一つ分かることは、私にはこれほどの力強い味方がいることであった。
これにて第3章は終わりです。ここまで読んでくださってありがとうございます。
次回のことですが、アンケート2を10月16日(火)までとって、そこから決めたいと思います。よければ活動報告にてお願いします。