民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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アンケートの結果から、八幡たちの過去の短編をいくつか投稿していきたいと思います。
手始めに、まだ鎮守府ができる前の話を広瀬航を中心にお送りしたいと思います。



第0章 Live on each story
MelodyFlag・前編


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数輪の花が咲いている。

 とある鎮守府の寮の庭先である。

 8月初句の眩い日差しが降り注ぐ庭に、花弁が、時折頷くように揺れ、ときに考え込むようにぴたりと止まる。

 白い光の中に色の映える、色鮮やかな夏景色だ。

 広瀬航(ひろせわたる)は、食堂の椅子に腰かけたまま、その夏の象徴のような花を眺めやった。

 そうしながら、こうしてこの庭先を眺めるのも、今年で最後だという淡い感慨が胸をよぎった。

 航は、この鎮守府の指揮官補佐で、来年には補佐が外れ指揮官になる予定である。

 夏というのは、艦娘たちもとびきり忙しい時期で、今も室内に視線を戻せば、大きなテーブルを囲んで、黙々と昼食を食べている。かくも航も、日々の業務に加え、勉学に励んでおり、艦娘に負けず忙しい。

 

 "もっとも、提督になったら、毎日の大変さはこんなものでは済まないだろうけど…………"

 

 航は、目の前な積み上げられた書物を眺めて、小さく苦笑した。

 

「気色の悪い男だな、なにをひとりでにやけている」

 

 ふいの声は、よく知った者の声であった。

 分厚いファイルを持った八幡武尊(やはたほたか)が、いたずらに怜悧な視線を向けている。

 

「大の男が、庭先の花を眺めてにやにや笑っているのは、あまり気持ちの良い景色じゃないな。せっかく綺麗に咲いている花が枯れるんじゃないのか?」

 

 武尊が毒舌を振る舞うのはいつものことだ。

 "黒風隊"隊長のこの友人は、華奢な見た目に似合わず、筋トレマニアで、下手すれば1日トレーニングをしているというほとんど異常な特技の持ち主だ。変人が多い黒風隊の中でも、ひときわ変人だが、航とは入隊以来の長い付き合いがある。

 

「それは悪かったです。花に謝っておきますよ」

「お気楽で結構。じき司令官の余裕か」

「やっかむんじゃないですわ、武尊さん」

 

 口を挟んだのは武尊の隣にいた上品な艦娘である。自称お洒落な重巡、熊野だ。

 

「航さんは、わたくしたちと頭の出来が違うのですわ」

 

「ちょっと待て熊野」と武尊が、冷ややかな目を重巡に向ける。

 

「ワタルの頭の良さにケチはつけないが、君と俺を『わたくしたち』でひとくくりされるのは、心外だ」

「照れているのですの?何度も一緒に戦った仲じゃありませんか」

 

 オホホ、と上品に笑う熊野の横で、武尊がため息とともに額に手を当てている。

 

「お気楽というのなら、みんなそろってお気楽よ。私なんか、艦娘なのに試験があるんだから」

 

 航のすぐ隣に座っていた艦娘が、肩肘をついたままぼやいている。

 大鳳。装甲空母という少し特殊な空母で将来の主力を期待されている艦娘だ。武尊と同じく運動神経は抜群だが、少々頭脳が足りず、

 

 "少しくらいの問題なら、どうにかなるわ"

 

 などと発言しておきながら、しばしばどうにもならなくなって、航に泣きつくことも珍しくない。

 

「頭脳明晰、容姿もまあまあ、おまけに美人な彼女がいるんだから、羨ましい話よ」

 

 ちらりと航に目を向けて、そんなことを言う。

 

「"まあまあ"というあたりは賛同できないね」

「余裕かましちゃって。どうせ、花眺めているふりをして、彼女のことでも考えていたんでしょう?」

「そんなことを考えていらしたの?」

 

 にわかに熊野の声が飛び込んできた。

 

「大和さんは、ほんと美人ですわね。この前、会った時に挨拶されましたけど、あの笑顔は犯罪ですわ」

「犯罪は君の存在だ、熊野」

「そんなこと言ってますけど、武尊さんだって大和と話しているときは楽しそうだったじゃないの」

 

 熊野の言葉に、武尊はこれ見よがしに、ファイルをめくりながら、

 

「言いがかりも甚だしい。俺が楽しいのはトレーニングだけで、あとはどうでもいい」

「強がっちゃって。嬉しかったくせに」

 

 無遠慮な大鳳の言葉が飛び込んできて、武尊が鼻白む。

 大和は、最終兵器とも呼ばれるほどの実力を秘めた戦艦である。大鳳の1つ下の後輩であり、大鳳と大和は特別仲が良い。

 

「横恋慕でなくても、甲斐性なしは確かね。大和とあんだけ一緒にいながらら結局広瀬君に全部持っていかれてるんだから、ざまないわ」

 

 容赦ない大鳳の言葉に、武尊が珍しく絶句している。

 航と武尊が、大和とを挟んで三角関係を築いていた、という話は、昨年のトップニュースであった。事実を言えば、三角関係らしいことは何も起きておらず、武尊がそっぽ向いていただけであったのだが、この場合、細やかなことはどうでもいい。

 

「大鳳、君こそ人のことどうこう言う前に、自分のことはどうなんだ?荒木(あらき)とはあまりうまくいってないと言う話を聞いてるぞ」

「いつの話をしてるのよ。あんなエロ士官、もう半年も前に振ったわ。相変わらず世の中の情報に疎いのね」

 

 武尊は渾身の反撃を、あっさりと大鳳の鼻息に吹き飛ばされて、再び絶句している。

 

「青春ですねぇ…………」

 

 ようやくぼそりと呟いたのは、それまで黙って一同の騒ぎを眺めていたもう1人の男だ。

 すっかり薄くなった頭髪の下に、人の好さそうな笑顔を浮かべた男性は、どうみても軍人には見えないが、れっきとした提督である。杉田正憲(すぎたまさのり)は、一度社会人として管理職まで出世してから提督になったという風変わりな経歴の持ち主で、52歳と言う年齢で、新人提督である。

 

「やっぱり皆さんと一緒に仕事をするのは、いいものですね。1人でやるより不思議と進みます」

 

「だといいですけど」と遠慮がちに航が答える。

 

「半分はこの馬鹿騒ぎです。マサさんの邪魔になっていなければいいですが…………」

「楽しくやってますよ。おかげでもうお昼です。今日はそろそろ店じまいですかね」

 

 朝から始めて昼に終わるのが、この集まりのいつもの流れだ。マサさんは剛毛の太い腕で書類をしまいながら、

 

「仕事仕事と言いつつも、時にはこういう楽しい話がないと長くは続きません。男女の問題は、いつだって人間生活の最大の関心ですからね」

 

 ふふふと意味深な笑みを浮かべている。

「マサさんてさ」とにわかに大鳳が振り返った。

 

「まだ彼女はできないの?」

「また大鳳さんは、ハゲの中年に向かって、ひどいことを聞きますなぁ」

 

 あははとマサさんの応答はひどく陽気だ。

 

「だって、マサさんは優しいし落ち着きがあるし、年っていってもまだ50過ぎだし、全然射程範囲内よ」

「嬉しいことを言ってくれますね。でも脳の方は確実に劣化してきていますから、今は目の前の執務で精一杯です。恋愛はもう少し落ち着いてから。現場で可愛い艦娘を探します」

「出た、犯罪者マサさんの野望!」

 

 品のない大鳳の高笑いと、意味ありげなマサさんの忍び笑いが和して不気味なことこの上ない。傍らでは武尊がげんなりとした顔で、缶コーヒーを傾けている。

 ほとんど混沌としたその空気を、航はしかし貴重なものだと思う。

 こうして集まれるのは、今年が最後。

 生まれも、経歴も、これから進む道も、まったく異なる人間たちが同じ机を囲むことは、おそらくもうないことなのだ。

 

「ワタル」とふいに武尊の声が聞こえて、航は顔を上げた。

 武尊が、窓の外を目で示している。

 振り返れば、鎮守府の前の小道に、グレーのジムニーが入ってくるのが見えた。

 玄関前の駐車場で止まったジムニーの窓が開いて、身を乗り出した女性が大きく手を左右に振っている。生き生きとしたその動作が、真夏の太陽の下で眩しいほどだ。

 

「あのバカ、ほんと遠慮ってものがないんだから」

 

 大鳳の呆れ顔に、航も苦笑するしかない。

「デートですか?」とにこやかに問うたのは、マサさんである。

 

「お互い、なかなか時間が取れなくて…………」

 

 苦笑まじりに、手元の書籍を片付け始める航に、マサさんは笑顔で続ける。

 

「一緒に過ごす時間は大事ですよ。気持ちさえあれば通じ合えるなんて、言うほど簡単なことではありませんからね」

「マサさんが言うと、重みがありますわ」

「あーあ、私も気持ちが通じ合える男が欲しいわ」

 

 熊野と大鳳が勝手なことを言っている。

 その傍らで、ファイルに視線を落としたままの武尊の、淡々とした声が聞こえた。

 

「明日も9時からだ」

「了解です」

 

 うなずいて航は、立ち上がった。

 

 

 ーーーー

 

 

 8月の灼熱の暑さにも関わらず、街中の黒い道路の上をたくさんの車が往来している。そんな中に、入っていけば、たちまち渋滞につかまってしまうのだが、ジムニーのハンドルを握る大和の心はいつになく弾んでいる。

 訓練生を卒業した大和はすでに実戦が始まり、戦場と鎮守府を行き来する多忙な毎日を送っている。一方で航もまた提督の補佐を務めながら、同時並行で指揮官の勉強もこなしていかなければならないから、なかなか互いに時間が取れないでいたのだ。

 

「大和、実戦は大変か?」

 

 航の声に、大和は前方を向いたまま明るい声で応じた。

 

「見るもの全部が初めてだから、大変は大変ですけど、結構楽しんでます。たぶん、ひたすら書物とにらめっこのワタルさんよりは楽ですよ」

「大和らしいな。今は第5艦隊だっけ?」

「うん、朝が早いのが辛いけど、いかつい顔の司令官たちが、意外にみんな優しいから面白いです」

 

 ひどいことを言ってるよ、と航はおかしそうに笑う。

 

「ワタルさんの方はどうですか?毎日大変そうですよ?」

「まあ毎日毎日大変だけど、半分はお祭り騒ぎだよ。なにせメンバーがメンバーだからね」

「武尊さんに、大鳳さんに…………」

「熊野とマサさん」

 

 思わず大和は笑う。

 

「個性派ぞろいの鎮守府の中でも、最強のメンバーだって、噂になってますよ」

「それはまずいな。僕まで変人扱いをされてしまう」

「ワタルさんだって、あの武尊さんとずっと付き合ってますもの、十分最強メンバーの1人ですよ」

「大和、隊長と大鳳さんから悪い影響を受けてるな、昔はそんなに毒を吐かなかったぞ」

 

 ひとにらみする航に、大和は声をあげて笑った。

 口の悪いことは言っているが、大和は航のことを結構本気で尊敬している。

 実家の和菓子屋を手伝いながら学校に通うという苦学生の時代を経て、今に至りながら、人柄は穏やかで、優秀だ。初めは士官候補生にですらなかったのに指揮官補佐まで務めているのは、やはり彼が有能だからということは、大和にも容易に想像つく。

 すごい人と付き合っているのだ、と大和は時々ふいに実感することがある。と同時に、胸をよぎるのは、かすかな不安だ。

「広瀬さん」と呼んでいたのが「ワタルさん」になるまで、ずいぶん時間を積み重ねた気がするが、まだ1年程度だ。その短い時間のうちに航は指揮官になってしまう。

 なんとなく、ちらりと大和は助手席に視線を走らせた。

 航はいつもと変わらぬ寡黙さで、静かな目を窓の外に向けている。

 

「横須賀での研修の件、どうすることにしたんですか?」

 

 できるだけ自然体のつもりで尋ねたが、それでもかすかに陰りを隠しきれなかったことを、大和は自覚した。

 航は、そんな不安に気づいているのかいないのか、少しだけ考え込むように沈黙してから答えた。

 

「まだ、迷っているところ。僕も案外、優柔不断だ」

 

 横須賀鎮守府は神奈川にある大きな鎮守府だ。

 士官の教育にも力を入れていて全国から多くの希望者が殺到するが、鎮守府の水準を維持するために人数枠に制限がある。その枠に挑んだのは、まだ桜も艶やかだった3ヶ月半前。そして、合格の通知が来たのが、つい先日だった。

 

「横須賀の研修は水準が高いだけに厳格だ。行けばしばらく帰ってこれなくなる。それも年単位の話だ」

「ワタルさんのお母さん、1人なっちゃいますもんね」

「それは覚悟していたことだよ。だけど今の僕には、大和もいる」

 

 てらいのない一言に、大和は思わず助手席に首を巡らせた。「前を見て、前を」と苦笑まじりに航が声をあげる。

 

「そんなに驚くことはないだろ」

「驚きますよ。だってせっかく合格した横須賀と私なんかを比べて…………。だいたい、そんなことは初めから分かっていましたよね?」

「いや…………、正直受かるとは思ってなかったんだよ」

 

 困惑顔で首をかしげる航の様子に、大和は呆れるしかない。

 

 "ワタルは頭がいいわりには、阿呆な男だ"

 

 たしか、八幡さんがそんなことを言っていたな、とふいに思い出して、大和は今さらながら妙に納得した。

 

「せっかく手に入れたチャンスをこのまま手放したら、ワタルさん多分後悔すると思います」

「なるほど、大和はむしろ、横須賀行きを勧めるわけだ」

 

「それは…………」と大和は返答に窮する。ため息まじりに大和は航に一瞥を投げかける。

 

「…………そういう言い方って、ワタルさんも結構性格悪いですよ」

「自覚はあるよ。あの集まりに居続けて、朱に交わりすぎたんだろう」

 

 思わず大和は小さく肩を揺らして笑った。

 ちょうど赤信号でジムニーが止まったところで、大和は、とんとハンドルを叩いてから、

 

「私は何も言いません。ワタルさんの思うようにやってください」

「あ、大和得意の"問題先送り"だね」

「いいんです別に。どっちにしたって私が横須賀に行くわけではないんですから」

「違ったか。先送りというより、"投げやり"だな」

 

「その代わり」と大和は少しだけ声を大きくして遮った。

 

「その代わり、横須賀に行くまで時間はあんまりないから、もう少しだけ時間をつくってください」

 

 唐突な大和の要求に航は2度ほど瞬きする。

 

「補佐の仕事もあって大変だと思いますけど、少しくらいワタルさんとどっかに出かけたいんです。そうしたら気持ちよく送り出してあげます」

 

 返事がないからちらりと見返すと、航は思いのほか真面目な顔で考え込んでいる。

 

「それは構わないけど、どこに行きたい?」

「どこって言われても…………」

 

 意外に大和は細かいことは考えていない。

 

「どこでもいいけど、どこかに行きたいです」

「なんだよ、それ」

「なんでもいいんですら何か珍しいもの見に行くとか、綺麗な景色のある場所とか、とにかくワタルさんと一緒の思い出を作りたいんです」

 

 勝手なことを言っているのは、大和にも自覚があるが、たまに会ったときくらい勝手を言ってもいいだろうという思いもある。

 

「なんとか考えてみるよ」

 

 そんないつも通りの穏やかな声がかえってきたことが、かえって少し悔しくて、大和はさらにつけくわえた。

 

「それからもうひとつ」

 

 とジムニーのギアを勢いよく入れる。

 

「今日はたくさんお肉食べますけど、全部ワタルさんの奢りですからね!」

 

「おいおい」と笑う航に、じゃあ出発!と大和は張りのある声で答えて、アクセルを踏み込んだ。

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府の夏から秋にという時期は、艦娘や士官たちにとって試練の時期である。

 深海棲艦の情報収集や研究を通して活路を模索しつつ、果てなく続く戦いを順次、こなしていかなければならない。しかもそれらは、一番暑い時期に行われることが多い。

 

 "艦娘とて人間である"

 

 それは、指揮する者たちの、心得るべき言葉である。

 かかる重圧が続けばこそ、鎮守府の人々もいろいろな予期せぬ変化が生じてくる。

 それまで仲の良かったカップルが唐突に破局を迎えたり、疎遠であった男女がにわかに交際を始めたり、といった恋愛上の波乱は言うまでもなく、過酷さに耐えきれず睡眠薬に手を出す者や、がむしゃらに戦いに没頭する者、ふいに寮にこもって休んでしまう者など、笑い飛ばすにはいささか苦しい話にも事欠かない。

 

「いろいろ予想外のことが起こる時期だけど…………」

 

 航は「重巡寮」の一室で、ため息交じりに壁際のベッドを眺めやった。

 

「天下の熊野が風邪で寝込むっていうのは、さすがに誰も予想しなかっただろうね」

 

 灯りを落としたベッドの中で、お洒落な重巡が珍しく赤い顔になって丸くなっている。額に乗せた濡れタオルの下に、ぐったりとした熊野の目がうるんでいる。

 

「言ってくれますわね、ワタルさん…………」

 

 声まで弱々しい。

 航は卓上のポットでお湯を沸かし、コーンスープをつくってやる。

「すみませんわ」という弱々しい声は、普段が明朗なだけに一層哀れを誘う。

 熊野が風邪で倒れたのは、夏の日暮れにかすかな秋の気配が漂い始めた9月初句のことである。

 最初は微熱と軽い咳だけであったのが、航が集まりで会うたびに具合が悪くなるようで、結局しばらく寝込むことになってしまったのだ。

 

「これだけ長引くと、肺炎だったりするんじゃないのか?」

「それは大丈夫ですわ…………。今朝、武尊さんが薬をもらってきてくれましたし」

 

 ならばあとは待つしかない。

 せいぜい航にできるのは、スープをつくってタオルを換えてやるくらいだ。

 

「まあしばらく静養だね。幸いここ2週間は大きな出撃もない。タイミングはむしろ良かったくらいだ」

「ワタル、あまりそいつに近づかない方がいい」

 

 部屋の外から武尊の声が聞こえてくる。そこまで空き部屋がないため、武尊の部屋は熊野の隣で、壁が薄いためそのまま声が届くのだ。

 

「体力とポジティブ思考だけが取り柄の重巡をやっつけるような病原体だ。きっとロクでもない変異体に違いない。自分の身を守ることが先決だ」

 

 航が苦笑したのは、武尊が口の割には、いろいろと熊野の世話を焼いていることがわかるからだ。部屋にはペットボトルの水やパンが置いてあり、今航がつくっているインスタントスープも買い置きがしてあったものだ。

 

「なにをまた、ニヤニヤ笑ってやがる」

 

 唐突に、扉の向こうから顔をのぞかせた武尊が、そんな言葉を投げ込んできた。いかにも不快げな顔で、これ見よがしにマスクまでつけている。

 

「いや、熊野にもいい友人がいるものだと思いまして」

「それは初耳だ。ぜひ紹介してくれ」

 

 部屋に入ってきた武尊は、そばの座布団に腰を下ろすと、無造作にマスクをとって、ポケットから取り出した缶コーヒーに口をつけた。

 

「みなさん、わたくしの方は大丈夫ですから、いつもの集まりに行っても構いませんわ」

「そうしたいとこなんだけど」

 

 航は出来上がったカップスープを熊野に渡しながら、

 

「いろいろ面倒事が重なっていてね」

 

 カップを受け取った熊野がすぐには問い返さなかったのは、いくらか事情を悟っているからであろう。航はため息交じりに続けた。

 

「マサさんがだいぶ荒れているんだよ」

 

「やっぱり…………」と熊野が心配そうに、武尊に目を向ける。

 

「酒、増えていらしていますのね」

「バカみたいな量の執務は、年配者にはどう考えてもキツイ。おまけに最近は妙に深海棲艦が出てくるせいで、普段の倍以上の執務をこなしているって話だ」

 

 最近、なんとなく暗い顔をしていたマサさんは、どうやらストレスで飲酒量が増えているようで、朝から酒の匂いを漂わせていることも稀ではなかった。ここ数日はそれが顕著で、集まりそのものに来なくなることも多くなっている。

 

「1人抜けただけでも、空気は寒くなるものだ」

「1人じゃなく、2人ですわ。大鳳さんも何かあったんではないですの?」

 

 熊野の突然の問いに、武尊が迷惑そうに眉をしかめる。

 

「普段は鈍感きわまりない君が、妙なときに敏感になるんだな」

「昔から世話焼きで面倒見のいいあの人が、一度も見舞いに来ないのですのよ。おかしいと思いますわ」

「荒木とより戻す戻さないの話で、なにやら面倒になってる。あの、図太い神経の持ち主が、ここのところ集まりに顔を出しても、上の空だ」

 

 荒木(まこと)は、大鳳が"半年も前に振ってやった"と言っていた、年上の男性だ。もともとは同じ鎮守府に所属していたことから、武尊と熊野は面識がある相手だ。その知り合いが、2週間ほど前に、突然大鳳の部屋を訪れたのだと言う。

 最近、大鳳の様子が変わったことは、航も気づいていたが、事情を知ったのは今日が初めてだ。

 

「荒木さんというのは、そういう人なんですか、隊長」

「そういう人、とは?」

「こんな大変な時期に、相手の生活をかき乱すようなことをする人って意味です。今は僕たちにとってはもっとも大変な時期ですよ。本当に大鳳さんのことを大切に思っているなら、あと少し待てばいい話です」

「驚いたな」

 

 武尊が軽く眉を動かした。

 

「珍しく航が怒っている」

 

 言われて航の方がかえって戸惑った。

 

「別に怒っているわけじゃないです。だいたい僕が怒っても仕方ないでしょう」

「その通りだな。よしんば荒木さんがろくでなしであっても、誰かがお白州(しらす)に引き出して、島流しにしてくれるわけでもない」

 

 武尊の毒舌が今一つ切れが悪いのは、元同僚という繋がりがあるからだろう。武尊からすれば、航のような身軽さは持ちようがない。

 

「じゃあなんですの。結局、わたくし抜きで集まれと言っても、あなたたち2人しかいないってことではありませんか」

 

 熊野の呆れ声が、空しく天井に響いた。武尊は座布団の上で黙って缶コーヒーを傾け、航は所在もなく窓の外を眺めるのみだ。

 おもむろに武尊が立ち上がり、熊野の額からずり落ちたタオルを手にとったのは、いつのまにか熊野が静かな寝息を立てていたからだ。さすがの熊野も、今回はよほど消耗しているらしい。

 武尊は、「手のかかるやつだ」などとつぶやきながら、淡々とタオルを洗面器に浸し、しぼってそれを熊野の額に乗せる。そんな友の心配りを微笑とともに見守っていた航に、ふいに武尊の声が届いた。

 

「横須賀の研修に、合格したらしいな」

 

 唐突な話だ。

 航は軽く肩をすくめて答えた。

 

「情報が早いですね。先月、通知が来たばかりです」

「とりあえず、おめでとう、と言っておこう」

 

「ありがとうございます」と応じた航の声が、わずかに迷いを含んでいたことに、武尊は敏感に反応した。

 ベッドのそばに膝をついたまま、鋭い視線を航に向けた。

 

「まさかとは思うが、行くか行かまいかで悩んでるんじゃないだろうな」

「隊長はすごいですね。僕の頭の中が見えるんですか?」

 

 冗談混じりの航の応答に、しかし武尊は目もとの冷ややかな光を湛えただけだ。

 

「通知が来てから、1ヶ月も黙っていたからまさかと思ったが、どういう料簡(りょうけん)だ?」

「貴重なチャンスだということは分かってます。でも、どうしてもどこかに迷いが…………」

「迷い?」

「うまくは言えないんですが…………」

「大和か」

 

 直截(ちょくさい)な武尊の切り込みに、航はわずかに言葉に詰まった。

 しばしの沈黙をおいて、ため息とともに答えた。

 

「自分の中で、思っていた以上に大和の存在が大きくなっていた。そういうことです」

「だから迷うと言うのなら、君は天下一の阿呆だな。熊野よりもよっぽど阿呆だ」

 

 悩んだ末に吐き出した言葉を、バッサリと切り捨てられ、航はさすがに苦笑した。

 

「相変わらずはっきりと言う人です。僕は大和を大事にしたいと思っているだけですよ」

「阿呆め。君の迷いは、論点そのものがおかしい」

「論点そのもの?」

「じゃあ聞くが、大和はそばに居てくれる優しい男なら誰でもいいと思って、君と付き合っているのか?」

「そんなわけがないじゃないですか、彼女は…………」

 

「なら」と武尊の小さな声が遮った。

 

「しっかりと自分の足で自分の道を進め。大和はそういう君を選んだのだろう」

 

 つと胸をつくような言葉であった。

 淡々とした口調の中にも1本のぴしりとした筋道があって、それがまっすぐにワタルの心に飛び込んできた。航は、黙って旧友を見返した。

 やはりすごい男だ、というのが率直な感想だった。

 答えは最初から航の中にあったのだ。おそらく誰かが背中に押して欲しいと願っていただけであろう。そういう航の心情を正確に汲み取って、遠慮のない一撃を加えてくれる八幡武尊という味方は、得がたい存在だと痛感する。

 もとより航には、武尊に対して大和を話題することに若干の気遅れがある。

 昨年鎮守府を席巻した"三角関係事件"は、けして根も葉もない与太話ではなかったと航は感じている。おそらく大和はもとより、武尊も心を寄せていたのではないかと。

 今は確かめるすべもなく、また確かめる必要もない話だ。

 しかしそういう航の思惑や気遅れなどを一切無視して、必要な言葉だけを、武尊は投げかけてくれる。

 この男は確かに友だ、と航は胸の内で静かに(こうべ)を垂れた。

 いつのまにか部屋の中が少し赤く染まっていたのは、傾いた日差しが室内を照らし始めたからだ。窓外に目を向ければ、いつのまにか西の空は茜色だ。

 空に雲はなく、どこまでも眩い夕日の下には、同じ色に染められた勇壮な水平線が続いている。

「ありがとう」などという軽薄な言葉を、航は口にはしなかった。

 ただ短く独り言のようにつぶやいただけだ。

 

「明日はきっと晴れますね」

 

 何事もなかったようにゴミを片付けていた武尊は、肩越しに振り返り、眩しげに眼を細めながら頷いた。


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