民間軍事会社"鎮守府"   作:sakeu

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MelodyFlag・後編

 マサさんが救急搬送。

 そんなとんでもないニュースが鎮守府を駆け巡ったのは、9月も半ばを過ぎたある朝のことだった。

 早朝の鎮守府の階段で、散乱した書類に重なるように倒れているマサさんを、通りかかった艦娘が発見したのだ。呼びかけても反応が弱く、意味不明の発言もあるために、ただちに救急車が呼ばれて、近くの自衛隊病院へと搬送されたのである。

 鎮守府中を驚かせたこの事件が、大和にとって、ひときわの大事件となったのは、マサさんが航と一緒にいる友人だからではない。彼女がまさにその倒れたマサさんを見つけたからである。

 折しも、1日休みで朝早くに鎮守府を訪ねていた大和が、航を探していたところであった。

 白い軍服から、大和はマサさんではないかと思い当たったが、救急車が来てしまえば、あとはその人たちに任せるだけだ。余計なことを考えずに済んだことは、大和にとってむしろ幸いだったかもしれない。

 

「お疲れ様、大和」

 

 ぐったりとして広間の椅子に座っていた大和は、懐かしい声を聞いて顔をあげた。

 廊下から手を振ってやって来たのは、久しぶりに会う先輩の大鳳であった。

 

「久々にここに来て、マサさんが倒れるなんて、あんたも災難ね」

 

 そう言って、大鳳は大和を朝食に誘ったのである。

 朝食とは言っても、大鳳が連れ出した先は、鎮守府の端の方の、日当たりのよいベンチであるし、袋から取り出したのは、鎮守府ないの売店で買って来たサンドイッチである。そんなざっくばらんな大鳳の態度が、しかし大和にとってはむしろ有難い。まだジャージ姿の大鳳から、大和はハムサンドを受けとった。

 大鳳は野菜ジュースにストローを突き刺しながら、

 

「マサさんはどんな感じ?」

「頭を強く打っていたらしいですけど、命に別状はないそうです」

「良かった。それさえ聞ければ充分よ」

「でも、肝臓は良くないみたいで…………」

 

 大和の言葉に、大鳳は眉を寄せる。

 

「お酒か…………」

「多分…………。みんなからの話だと、昨日今日の話じゃなくて、最近はずっと飲んでいたらしいです。多分、倒れていた時も酔っ払っていたんじゃないかって…………」

「つまり、酒飲んで酔っ払ったあげく階段から転げ落ちて、倒れていたってわけね」

 

 ひどいもんだ、と大鳳が小さく呟くのが聞こえた。

 最近マサさんが、執務のストレスで飲酒量が増えてきている、という話は大和も航から聞いていた。しかしこういう事件を起こすような状況にまで発展しているということは、さすがに予想だにしていなかった。

 

「マサさんて、そんなに弱っていたんですか?」

「さあね、無責任な感じになっちゃって悪いけど、私もここんとこ、集まり休みがちだったから…………」

 

 大和が、思わず口をつぐんだのは、大鳳の身辺についても、航からいくらか話を聞いていたからだ。

 

「とりあえず入院?」

「はい、数日は入院だそうです」

「待つしかないってことね」

 

 ほら早く食べたら、と大鳳は控えめに笑って大和をうながした。

 サンドイッチを頬張る大和は、なんとなく辺りを眺め、砲撃音の聞こえる海を方に目を留めた。

 青い空を背景に、静かに波打つ海が見える。元気な声をあげて駆け回っているのは、また戦線に参加できない訓練生たちだ。大和にとっては、つい先日まで居た居場所だというのに、ずいぶん昔のように感じられる景色である。

 視線を止めた大和に気づいて、大鳳も目を細めた。

 

「懐かしいわね、あの空気」

「ええ、こうして大鳳さんと後輩たちの演習を見るなんて、2年ぶりくらいですね」

「2年、か…………」

 

 大鳳の声に重なるかのように、砲撃する音が聞こえてくる。

 

「たかが2年の間に、ずいぶんいろんなことが起こるものね」

 

 大鳳の静かなそのつぶやきに、大和は少しだけ間を置いて答えた。

 

「荒木さん、帰ってきたんですね」

 

 大鳳が軽く苦笑する。

 

「広瀬くんから聞いたの?あなたたちって、なんでも話しているのね」

「ワタルさんも八幡さんもみんな心配してますよ」

「大丈夫。酒飲んで階段から落ちて救急車に運ばれたりしないから」

「当然です」

 

 大和の咎めるような声に、大鳳は小さく肩をゆらして笑った。

 大鳳のかつての交際相手、荒木誠は、大和にとっても見知らぬ他人ではない。昔は、大和も一緒になって食事や買い物に出掛けたことがあったのだ。

 

「別の鎮守府に出てたんだけど、人事異動でこの9月からここに戻ってきたのよ。戻ってきた途端、いきなり寮までやってくるとは思わなかった」

「なんて言われたんですか?」

「よりを戻そうって言われた。やりなおそうってさ」

 

 大和はまるで自分に言われたことのように、困惑顔になる。

 

「すごく急な話ですね」

「急な上に、勝手な話よ」

 

 野菜ジュースのパックを飲みほすと、大鳳はくしゃりと手の中でつぶしてしまった。

 

「なんて答えたんですか?」

「答えが出ないから、困ってるんじゃない」

 

 ビニール袋からカツサンドを取り出して、無造作に食いつきながら、

 

「バカな話よね。愛想が尽きて、ようやく別れて、気持ちなんてかけらも残っていないつもりなのに、顔を見たら、急にいろんなわだかまりが消えちゃった気がしてね…………」

 

 淡々と、ときおり考えるような間を挟みながら話す大鳳を見返して、大和は軽い当惑を覚えた。その瞳には、同じ同性の大和すら惹きこむような、深く温かい光が溢れている。

 本当は、今もたくさんの想いを抱えたままでいるのだ。

 そのことが大和にもわかる。

 

「あのバカ、あんな攻撃して…………」

 

 ふいに大鳳が彼方の海に向かって、舌打ちをした。

 思わず大和は笑う。

 海で演習をしているのは、大和と大鳳の後輩だ。現在は訓練生の中でも1、2番の実力だと言われているが、大鳳の目には、ずいぶんと頼りなく見えてるに違いない。

 

 "鉄壁の大鳳"

 

 それが訓練生時代の大鳳のあだ名だった。

 装甲空母という特性から、硬い防御を持つのはもちろんのことだが、その由来は別から来ている。

 どんな攻撃も確実に先読みして正確に指示、回避し、徐々に相手を消耗させて自滅へ導く、というのが彼女の戦い方であった。

 派手な戦い方ではない。むしろどこまでも静かなやりとりだ。だがその背景には、大鳳の驚くほどの怜悧な観察能力と先を読む洞察力がある。大和も何度か演習の相手をしたことがあるが、なかなか効果的なダメージが与えられず、相手の攻撃を受けていると、まるで空気に撃っているような重い徒労感に襲われたものだった。

 そんな心理戦を得意とした"鉄壁の大鳳"が、今はたった1人の男性の登場に戸惑いを隠せないでいる。

 大和はハムサンドを飲み下して、口を開いた。

 

「がんばってください、大鳳さん」

「頑張るったって、まだ何も決められないでいるのよ」

「でも、大鳳さんならきっと大丈夫です。苦しい戦いなら、これまで何度も乗り越えてきたんですから」

「戦いってあんたね…………」

 

 呆れ顔に笑いを交えた、大鳳はどこか嬉しそうだ。

 大和は構わず、握った拳でとんと拳で膝を叩いてから、

 

「それから荒木さんのことだけじゃなくて、ちゃんと勉強の方も頑張ってください。せっかく本艦隊になれるチャンスがあるんですから」

「わかってるわ。なんせ、あなたのワタルさんからノートまで借りているんだもの」

「ノートですか?」

 

 大鳳はカツサンドをくわえたまま、

 

「最近あんまり私が顔を見せないもんだから、広瀬くんが虎の巻のノートを貸してくれたの。最低限、これだけはとにかく頭に入れておけって」

 

 初めて耳にする話に、ちょっと驚いた大和は、いくらか微妙な顔になる。

 

「どしたの?」

「なんだかちょっと妬けます。ワタルさんが知らない間に、大鳳さんにノート貸してるんなんて」

「あんたって…………」

 

 目を丸くした大鳳は、すぐに左手を伸ばして大和の髪をくしゃくしゃにした。

 

「ほんっと、可愛いやつね」

「それってなんか、子供扱いしてませんか?」

「してるわよ。こんな可愛い女を彼女をしてる広瀬くんがうらやましくなるわ」

 

 明るい声で告げて、大鳳は立ち上がった。

 

「さて、マサさんの無事も確認したし、たまには勉強するかな」

「たまにじゃダメですよ」

「はいはい、あんたこそ毎日忙しいんだから、なるべく早く寝なさいよ。徹夜は女の天敵なんだからね」

 

 張りのある声でそんなことを告げると、さらりと背を向けて歩き出した。

 暖かな木漏れ日の下、遠ざかっていく背中に向かって、大和はかつて一緒にいた時と同じようにら丁寧に頭を下げた。

 

 

 ーーーー

 

 

 鎮守府にある売店の周囲は、昼下がりということもあって、人通りがにぎやかだ。

 人々の往来の中を静かに歩いてくる友の姿を見とめて、航は椅子から立ち上がった。

 

「マサさんは?」

「無事だ。今は寝ている」

 

 武尊はポケットから2本の缶コーヒーを取り出し、1本を航に渡してその隣に腰を下ろした。航がマサさんの救急搬送を知ったのは、つい昼間のことだ。武尊からの連絡を受け、驚いていたが持ち場を離れることができず、鎮守府で待っていた。

 

「頭部打撲については問題ないそうだ」

 

 武尊、カチリとコーヒーを開栓した。

 

「が、肝機能に問題ありだそうだ」

「だいぶ悪いんですか?」

「肝硬変までではないにしろ、異常があるらしい。話によれば立派な"アル中"だそうだ」

 

 投げやりな武尊の声に、航もため息をついて、窓外に目を向けた。

 入り口の窓の向こうには、晴れ渡った空が見える。2人の間の沈鬱な空気など我関せずの、心地よい日和だ。

 

「マサさん、そんなに参っていたんですか…………」

 

 手元の缶コーヒーに視線を落としたまま航がつぶやいた。

 武尊は、ゆったりと缶を傾けて飲み、しばし沈黙したままだ。眼前を足早に艦娘が通り過ぎていく。

 

「戦果がダメだったんだ」

 

 ふいの言葉に、航は友人を顧みた。

 

「最低限の戦果を出せなかったらしい。降格が確定した」

 

 航はゆっくりと往来に視線を戻して、そのまま目を閉じた。

 

「俺も知らなかった。ついさっき、マサさん本人から聞いたばかりだ。いつもの控え目な笑顔で、黙っていてすいませんでした、などと言っていた。謝るくらいなら、もう少し早く言ってもらいたいものだな」

 

 各鎮守府には達成すべきノルマが課されている。

 最前線のところはやや高めに設定しているところもあるが、この鎮守府がその点格別厳しいわけでもない。だが規定の戦績を出さないかぎり、そのまま指揮官を続行、などということはあり得ない。その厳しさが、年々深海棲艦の勢力を削るのにつながっているのだが、ともに歩んできた者が脱落していくという事実は、どうしても心の奥底に冷え冷えとしたものを感じさせる。

 

「せっかくここまでみんなで一緒に来たのに、マサさんとはお別れか…………」

「お別れというなら、来年になれば我々だってお別れだ」

 

 武尊のさらりとした応答に、航は軽く眉を動かした。

 

「やっぱり行くつもりなんですか?」

「とりあえずそのつもりだ。確定、というわけではないが」

 

 武尊は最前線の戦場に赴くことになっている。彼らは艦娘とは違い、特別な力こそは持たぬが、使い勝手の良さから重宝されている。しかし、一撃でも喰らえば簡単にこの世から去ることになるのに、敢えてこういう道を歩もうとする姿は、いかにも友らしいと航は思う。

 

「百戦錬磨の指揮官がいる場所です。隊長に怪我をさせるようなヘマはしませんよ」

 

 そんな言葉に、武尊はにこりもせず、

 

「いずれにせよ、このままいけば俺は最前線へ、熊野は別の鎮守府、そして君は横須賀で、見事にバラバラだ。格別マサさんとの別れだけを惜しんでやる義理もない」

「それもそうですね」

 

 航は苦笑する。

 

「今年の脱落だって、マサさんだけとは限らない。存外大鳳などは、際どいところにいる」

「そうでした」

 

 ため息をつきながら、どっちにしても、と航は声音を落として続けた。

 

「寂しいものですね」

「…………そうだな」

 

 沈黙が訪れた。

 ふいに往来の騒がしさが、より増したように思われた。

 

「隊長の言う通り、自分の道を自分の足で進んでいくしかないんですね」

 

 航の一言に、しかし返答はない。

 おや、航が傍らを見ると、武尊がいつになく驚いたような顔で、遠くを見つめている。

 視線の先は、売店の脇にある小さな薄暗い廊下だ。その少し奥に、親しげに言葉を交わし合っている男女が見えた。

 背の高い士官と、軽巡の艦娘だ。士官の方は整った顔立ちにさわやかな笑みを浮かべた好青年で、それを艦娘の方は無警戒な笑顔で見上げている。

 ただの仲間同士というにはいささか近すぎる距離感だ。さりげない動作のところどころで、2人の手が触れ合うのが目に痛い。

 

「覗き見は良くないですよ」

 

 苦笑まじりに航は、手元の缶コーヒーに視線を戻しながら続ける。

 

「あまり褒められたことじゃないですけど、咎め立てすることもないです」

「荒木だ」

 

 武尊の応答に、航は一瞬間を置いてから、友を顧みた。

 

「大鳳さんの部屋に来た荒木さん以外に、別の荒木さんがいるんですか?」

「俺が知っている荒木は1人しかいない」

 

 冷然たる武尊の応答に、航はにわかに言葉が出ない。

 航は、やがて軽く額に手を当てて、

 

「大鳳さんは、あの人のことで、悩んでいると聞いてましたけど…………」

「そのはずだが、世の中には知らない哲学のもとに生きている人もいるからな」

「知らない哲学、ですね…………」

 

 小さくつぶやいた航は、そのまま黙って廊下に目を向けて、眉を寄せた。

 そんな航の胸中を汲み取ったように武尊が口を開いた。

 

「なんにしても、ほんの覗き見の一場面だけを見て、人を判断するものではないぞ、ワタル」

「ではそうならないためにも、はっきりと確かめた方がいいんじゃないですか?」

 

 立ち上がりかけた航を、武尊が珍しく慌てて止める。

 

「君の正義感も、こういうときは考えものだ。相手が悪い。さっきも言ったが荒木は俺にとっても顔見知りだ」

「隊長にとってはそうでも僕はにとっては関係ないです。なにより大鳳さんは大和にとって一番大切な先輩です」

「わかった。わかったからとりあえず…………」

「なんだ、八幡じゃないか!」

 

 唐突な明るい声は、通路から出てきた荒木本人の声だった。激論の渦中の本人が、さわやかな笑顔とともに歩み寄ってくる。

 軽く舌打ちした武尊は、「とにかく黙ってろ」と囁いてから、のそりと立ち上がって一礼した。

 

「マサさんが救急搬送されたってな。聞いたぞ」

 

 武尊の当たり障りのない挨拶に、荒木は心配そうな顔でそんなことを告げた。

 少し深みのある低い声、明るい瞳、余裕のある物腰。たしかに魅力的な男性だと、航は当惑を禁じ得ない。

 そんな荒木に、武尊は淡々と答え、当たり前のように航を紹介する。

 

「マサさんは、ちょっと不器用だけどいい人なんだ。よろしく頼むよ、広瀬くん」

 

 そんな言葉を、嫌味のない自然体で口にする。先ほどの光景とのギャップが激しい。

 武尊は相変わらず完璧な社交辞令で対応しているから、このまま素知らぬ顔で撤退するつもりであろう。

 しかし、それを見守る航の心情は、穏やかでない。

 こういう問題は、武尊の言う、見て見ぬふりが穏当なのだという理屈はわかる。しかし、と沈思する航の脳裏に、大和の明るい笑顔が浮かんだ。

 大和ならどうするだろうか。

 そう考えたとき、航はほとんど無意識のうちに口を開いていた。

「荒木さん」と遠慮がちに告げた航に、そっと微笑を浮かべて、先刻の廊下を目で示した。

 

「あそこ、結構見えますから、気を付けてください」

 

「お」と軽く目を見開いた荒木は、すぐに苦笑を浮かべた。

 

「やべ、見られちゃったか。気をつけるわ」

 

 へへっと笑う姿には悪びれる様子は微塵もない。

 

「可愛らしい人でしたね。彼女さんですか?」

「彼女?そんなもん作らないよ。せっかく楽しい士官生活が身動きとれなくなるじゃん」

 

 傍らの武尊がかすかに頰を引きつらせたことに、荒木は気付かない。

 

「女の子との付き合いは、"広く、浅く、楽しく"が俺のモットーだからさ」

 

 少年のような無邪気な笑顔でそう告げると、荒木は「じゃあまたな」と手上げて去って行った。広い背中は悠々と廊下を渡り、はるか向こうの角に軍服を翻しながら消えて行った。

 

「黒風隊の良心とも呼ばれたワタルにしては…………」

 

 武尊はいくらかくたびれた調子で口を開いた。

 

「ずいぶんと作為的な話術だったな」

「覗き見のひと場面だけを見て、人を判断するわけにはいけませんから」

 

 思いのほか冷ややかな航の声に、武尊はため息をつく。

 

「言ったはずだ。世の中には、我々とは違う哲学で生きている人間もいる」

 

 航は答えない。

 

「何を考えてる?」

「何も考えてませんよ」

 

 航は、廊下の彼方を見つめたまま、抑揚のない声で答えた。

 

「頭に来ているだけですよ」

 

 いつのまにか時刻は午後となり、いくらか人通りの減ったロビーの片隅で、2人の男はしばし言葉もなく立ちつくしていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 航が怒っている。

 武尊と熊野にとって、これはなかなか珍しいことである。と同時にいささか怖いことでもある。

 

「よりによってこんなタイミングで、聞きたくない話ですわ」

 

 熊野の部屋に響く明るい声も、心なしか遠慮がちだ。

 その日、武尊と航が、あからさまに憂鬱な空気を背負って部屋に姿を見せたのは夕刻のことだ。2人して大量の缶ビールをぶら下げて戻ってくると、そのまま問答無用で熊野の部屋に乱入して、酒盛りが始まったのである。

 夏風邪から回復してからはむしろ体力を持て余し気味だった熊野は、願ったりと大喜びしたのもつかの間、航の機嫌の悪さにいささか閉口している。

 

「荒木さんて、確かにそういう噂はありましたわ」

 

 熊野のつぶやきに、酒を飲んでいくらか顔が白くなった航が眉を寄せた。

 

「そういう噂?」

「同僚が荒木さんの女関係を、酒の肴にしているのを聞いたことがありますの」

「有名な話なのか?」

 

「そうでもない」と口を挟んだのは、武尊だ。

 

「あちこちに噂の断片はあるが、真実は闇の中。尻尾をつかませないという意味では、よほど立ち回りがうまいんだろうな」

 

 航の機嫌をなだめたい心持ちがあるだけに、今夜の武尊はいくらか多弁だ。

 

「いろいろ問題ある人ではありますけど、頭は切れるし、面倒見もいい。わたくしもお世話になりましたわ」

「おまけに背は高くって男前、笑顔も話術も隙がないとくれば、みんなが集まるのも当然ですわ」

 

 ぐびぐびと熊野はその日4本目の350ml缶を傾けている。

 

「大鳳さんは何も知らないんですか?」

「何も知らんということはないだろう。半年前に別れたのも、荒木が浮気したからという話だ。だがあそこまで度を越した人だとは知らんかもな」

 

 深々とため息をついてから、武尊は航に目を向けた。

 

「大鳳の部屋に、御注進と駆け込むか?」

 

 無造作に放り込まれた爆弾に、熊野がひやりとしたように肩をすくめた。

 ここの寮は、最上階の5階が空母部屋である。原則的に艦娘の部屋に男性が出入りすることは禁止だが、関門があるわけでもないし、艦娘の方には行動制限もないから、呼べば熊野の部屋にだっていつでも顔を出せる。

 壁に身を預けたまま静かな目を向ける武尊と、缶ビールを口につけたまま上目づかいにそれを迎え撃つ航の間に、声にならないなにものかが往来する。

 

「そうしたいんですが…………」

 

 先に口を開いたのは航の方だ。

 

「君たちが無関心を装うのを、ひとりで大騒ぎするわけにもいかないです」

 

 そのまま一気にビールを空けて、

 

「見守ることにします」

 

 あっさりと告げた航は、もう面倒くさくなったと言わんばかりに、次の1缶を手にとって背後の座布団に身を投げ出した。のみならず、もうこの話は終わったとばかりに取り出したスマホを手元でもてあそび始めた。

 武尊としてはむしろ拍子抜けだ。

 

「おもいのほか、割り切りがいいな」

 

 缶ビールを掴んだままの武尊は、まだ警戒を解かない。

 

「君のことだから、俺や熊野が止めたところで、大鳳の部屋まで乗り込んでいくかと思っていた」

「荒木さんに義理があるといったのは、隊長の方でしょう。いくら僕が知り合いじゃないとはいっても、僕が大暴れしたせいでその、"とってつけたような義理"に迷惑が及ぶのは本意じゃないです」

 

 普段は穏当な人間だけに、その言葉はひときわ毒で、熊野は軽く引きつっている。

 

「大鳳さんだって、強い人です。隊長の言う通り、あまり男女の問題に外から口を挟むものじゃない。言いたいことは山ほどありますけど、隊長たちが、"見当違いの良識"を発揮して沈黙すると決めたものを、1人勝手に騒ぎ立てるわけにもいきません」

 

 スマホから顔も上げずに、また缶ビールを傾けて、

 

「まあ、大鳳さんの身になってみれば随分と辛い話でしょうけど、そういうことに隊長たちが納得するのなら、関係のない僕は何も言いません」

「ちょっと待て、ワタル」

 

 思わず知らず応答したのは、武尊だ。

 

「納得したとは言ってない」

「納得してもないのに、それだけ冷静でいられのはたいしたものです。さすが、軍神ですよ」

 

 航は酒を飲むと色が白くなるタイプである。その血の気が引いた青い顔で、淡々と毒を吐く様は、ときに武尊の毒舌よりも毒だ。

 

「俺は荒木には世話になったこともあるから、告げ口するような不義理はしたくないと思っているだけだ。あの品のない所業に納得していると思わられるのは不本意だ」

「品のない所業を見て見ぬ振りするのも、随分と品がないじゃないですか」

「品がないからと言って不義理が通るわけもない。俺だって、荒木が縁もゆかりもないなら、とうに大鳳のところに行って、屑っぷりを演説してやってもいいくらいだ。屑と復縁するなど、自らゴミ収集車に乗り込んで焼却場に行くようなものだとな」

「落ち着いてくださいな、武尊」

 

 熊野が小さな手を伸ばして制した時には、いつのまにかスマホをしまった航が、白い頰に苦笑を浮かべて見返していた。

 

「少し、安心しました」

 

 航の穏やかな声に、武尊は小さく舌打ちをした。

 

「勝手な男だ」

「隊長があまりにもおとなしいのが悪いんですよ。本音が聞けて安心しました」

 

 航のそんな言葉に対して、武尊も格別、驚いた様子もない。

 

「せっかく建前の門扉を閉じて、本音を奥に閉じ込めているのに、門扉も木戸も取り払って上がり込んでくるなど、野暮なことこの上ない男だ」

 

 にわかに冷静な言葉を交わす2人を見て、熊野は呆れ顔だ。

 

「なんですのよ、驚かさないでくださいな。本気で喧嘩を始めたかと思いましたわ」

「熊野、呑気な顔しているが、君だって俺と同じ品のない傍観者だ。部外者じゃないんだぞ」

「それはわかってますわ。だからとりあえず、大鳳さんが、いつかちゃんとした人に出会えるように祈ることにしますわ」

 

 ぱんぱんと手を当てて、熊野は大げさに天井に向かって祈りを捧げている。

 航は笑って、缶ビールを武尊の前に掲げて見せた。もう一度小さく舌打ちをした武尊はそれでも黙って受け取って自分の缶をカチリと航の缶を当ててから、これを口につけた。

 ちょうどそのタイミングで、トントン、とドアをノックする音が聞こえ、熊野の返事とともに扉が開いた途端、3人が3人とも凍りついた。

 

「なに?どうしたの?」

 

 ひょっこりと顔を見せたのは、噂の渦中の大鳳であった。

 微妙な空気の中を、不思議そうな顔で眺めまわす。

 

「なんだか、ずいぶん楽しそうにやってるじゃない、なんの宴会?」

 

「宴会ってほどのものじゃありませんわ」と部屋の主人の熊野が慌てて答える。

 

「それよりも大鳳さんこそ、わたくしの部屋に来るのは珍しいことではありませんこと?」

「広瀬君に借りてたノートを返そうと思って来ただけよ。ここで飲んでるって聞いたから」

 

 うわっ、散らかりすぎよ、といつもの無遠慮な声が降ってくる。

 熊野は引きつった笑顔で「す、すみませんわ」などと不自然きわまりないリアクションをしているが、大鳳は格別気にも留めない。

 

「広瀬君、ありがと。とりあえず全部コピーしたわ」

 

 自信満々でそんなことを言う大鳳に、航は白い顔ですぐに笑い返した。

 

「コピーしたからって頭に入るわけじゃない。最低限の知識を書いてあるんだから、全部丸暗記が必要だよ、大鳳さん」

「了解、そのつもりよ」

 

 肩をすくめてから、武尊に目を向けた。

 

「明日も同じ時間に集まるのよね?」

「来られるのか?」

 

 思わず問うた武尊に、大鳳は軽く眉を動かす。

 

「なんで?来ちゃダメなの?」

「そんなことはない」

 

 珍しく慌てる武尊に、航はすぐに助け舟を出した。

 

「明日の9時だよりマサさんは来られないけど、とりあえず4人で続けよう」

「了解。じゃ、よろしくね」

 

 言ってパタリと扉が閉じ、一挙に室内の緊張が緩んだ。

 

「今日は仏滅かなにかか?」

 

 ようやく武尊がそんなことを言う。

 

「朝から驚かされっぱなしでいい加減、心臓に悪い」

「同感です。マサさんに、荒木さんに、大鳳さんと。この分じゃまだあるかもしれませんね」

 

「冗談じゃありませんわ」とぼやいた熊野は、しかし幾分か心配そうな目を扉に向けた。

 

「大鳳さん、この後一波乱来ますでしょうか?」

 

 一瞬の気づまりな沈黙を、武尊がそっと押しのけるように告げた。

 

「来るかもしれんし、来ないかもしれん。だが俺らにできることは、こうして酒を飲んで、大鳳の分までの毒を吐いてやるくらいだ」

 

「だから」と航は缶ビールを持ち上げた。

 

「飲み直しましょう」

 

 武尊が黙然と、熊野がいたずらに景気良く、それぞれの缶ビールを掲げて見せた。

「乾杯」と3人の声が室内に響く。

 いつのまに日は落ちて、窓外からかすかに聞こえてくるのはヒグラシの声だ。

 いささか時期遅れの涼しい声が、静かな秋の日の暮れを歌い上げていた。

 

 

 ーーーー

 

 

 ドライブに行こう。

 大和が航から、そんな唐突な声を聞いたのは、9月末のある週末のことだ。

 ドライブに行こうと言われても、大和はどこへ行くのかはわからない。

 ただ"君を連れて行きたい場所だ"という航の声を聞けば、大和にはそれがどこでも構わない。

 航の案内するままに早朝6時に市街地を出たジムニーは、上高地へつながる道を進んだ。1時間ばかり国道を進んでから脇道に逸れ、さらに山中に分け入り蛇行する林道をゆくこと1時間、小さな看板のたった駐車場には、人里離れた奥地だというのに存外に車が多い。

 車を降りた航は多くを説明せず、朝の陽光の差し込む山道へと大和を導いた。

 

「大丈夫か、大和」

 

 航が振り返って告げたのは、そんな山道に入って10分ばかりが過ぎたところだ。

 秋の山中は涼しいが、晴れ渡る日差しが照らすせいで、少し歩くとうっすら汗がにじむほど暖かい。

 

「誰に言ってるんですか、ワタルさん。私は戦艦ですよ」

「そうだった」

 

 笑って航はまたゆっくりと歩き出す。

 黒風隊を除隊してからはほとんど運動してないように見える航だが、こうして歩いてみると、意外な頑健さが見える。

 

「大鳳さんが、ワタルさんにありがとうって」

 

 大和の声が、森に響いた。

 航は振り返ることなく答える。

 

「怒ってたかい?」

「いいえ。むしろ、みんなの本音が聞けて良かったって言ってました。武尊さんも熊野さんも、ちょっと変わったところがあるけど、面白半分に人の悪口とかは言わない人たちだから」

 

 木々の間から明るい木漏れ日が落ちて来る。

 その光を目で追いながら、大和は数日前の、大鳳からの電話を思い出していた。

 

 "広瀬君にありがとうって伝えて"

 

 返答に窮する大和に、大鳳は丁寧に教えてくれたものであった。

 マサさんが救急車で病院に運ばれた日の夕方、突然、航から携帯電話にメールが来たのだと言う。

 "熊野の部屋にいるから、この前貸したノートを返しにきてくれ"と。

 妙なメールだと思ったものの借りているものは返さねばならないと思って熊野の部屋に出掛けて行った大鳳は、廊下で、部屋の中から聞こえて来る武尊や熊野の話を聞いてしまったのだ。

 話の内容は衝撃的なものであった。にもかかわらず、それは大鳳にとって、まったく予想外の事柄ではなかった。むしろ予感のあった内容であった。

 しばしば耳にする荒木誠の評判。それはいいものと同じくらい悪いものがあった。その後者について、大鳳が耳を傾けなかったのは、世評というものを大鳳があまり信用していなかったということ以上に、やはり心のどこかが冷静ではなかったということであろう。

 

「必ずしもいいことをしたとは思ってないんだ」

 

 頭上から降ってきた航の声に、大和は顔をあげる。

 

「だけど見て見ぬ振りもできなかった」

 

 本当に、優しい人なのだ、と大和は思う。

 そういう優しい心で、この嫌な役回りを演じた航は、きっと大和が思う以上に色々なことを考えたに違いない。

 

「きっと武尊さんも熊野さんも、このこと知っても怒りませんよ」

「ありがとう、大和。だけど熊野はともかく、隊長は気づいているよ」

 

 え?と大和は顔をあげる。

 と同時に、急に明るくなったのは、林を抜けたからだ。

 

「武尊さんが気づいているってホントですか?」

「あの日の夜、帰り際に言われたんだ。"器用なことをする奴だ"って」

 

 大和は軽く瞬きをした。

 

「怒ってましたか?」

「そうでもない」

 

 航は微笑した。

 あの夜、珍しく鎮守府の玄関先まで見送りにに出てきた武尊が、前置きもなく、ぼそりと呟くように告げたのだ。

 

 "まったく君は、器用なことをする奴だ"

 

 その友が、かすかに笑っていたことを航は知っている。

 余計なことを武尊は一言も言わない。だから航も答えない。それで良かったのだと思っている。

 航が歩みを止めたところで、大和もまた歩みを止めた。

 航が遠くを見つめる姿を見て、どこを見ているのだろうかとその先に目を向けた大和は、大きく目を見張った。

 はるか先まで広がる青い海が見えるのだ。

 

「いい景色だろ?」

 

 眺めたまま、航が告げた。

 

「大和が言っていただろ。どこか一緒に行きたいって。遠くへ行けるわけでもないし、海も見飽きているかもしれないけど、こういう景色なら、大和と一緒に見たいって思ったんだ」

 

 2ヶ月前、勢いに任せに口にしただけのわがままを、航はしっかりと覚えていてくれたのだ。そうして色々考えた末にこんな場所に連れてきてくれる。そんな航の優しさが、ちょっと胸が熱くなるくらい、嬉しかった。

 

「横須賀に行こうと思う」

 

 ふいの航の声に、大和は驚かなかった。

 それどころか、航が話すタイミングまでわかっていた。

 

「横須賀鎮守府で研修を受ける。しばらく会えなくなるけど、待っていてほしい」

 

 相変わらず優しい声だと、大和は微笑んだ。

 

「よかったです…………」

「よかった?」

「本当はワタルさんが残るって言ったらどうしようかって思ってたんです。でもやっぱりワタルさんでした」

 

 ちょっと言葉を切り、そして大和ははっきりとした口調で付け加えた。

 

「私も横須賀に配属されるように頑張ります。早く主力になって、ワタルさんの後を追いかけます」

 

 見返せば、珍しいほど驚いた航の顔に出会った。

 こんなに驚かせることができたのはいつ以来だろうかと考えて少し笑ってしまう。

 

「追いかけていったら邪魔ですか?」

「邪魔なものか。でも、大変だぞ?」

「それはワタルさんもでしょう」

 

 大和は空に視線を移す。

 しばし大和を見守っていた航も、やがて天を振り仰いだ。

 

「厳しい道のりになるよ、大和」

「わかってます」

「途中で引き返すのも簡単じゃない」

「それもわかってます」

 

「じゃあ」と航が一度言葉を切ってから続けた。

 

「再来年、向こうで会えたら、結婚しよう」

 

 おお!と何人かの声が重なって聞こえた。

 団体で登ってきた人たちが、山からの景色を見て感嘆の声を上げていたのだ。

 

「聞こえた?大和」

 

 航が少しだけ遠慮がちに問うたのは、反応がなかったからだ。

 見返せば、頰を上気させた大和がじっと空を見上げたまま動かない。

 

「大和?」

 

「うん」とようやくうなずいたその目に、にわかに溢れ出すものがあった。

 視線が曇って、喉が熱くなって、うまく声が出せないまま、それでも大和は航に向かって微笑んで、もう一度、今度は大きくうなずいてみせた。

 航の大きな腕が、そっと大和の肩を抱く。

 

「待ってる、大和」

 

 その声を、大和は宝物のように胸の奥にしまった。

 

「待ってて」

 

 大和の声は、吸い込まれるように空高く昇っていった。


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