この鎮守府から見える朝日はとても美しい。
昇りゆく太陽が、海の水平線からのぞくころ、空は目もくらむほどに朱に染まる。東を染め抜いた朱の色は、少しずつ上へと進み、やがて真っ青な空になる。
日常を彩る束の間の非日常は、光と色の饗宴だ。
軽空母祥鳳が、しばし身じろぎもせず艤装を身につけたまま空を見上げていたのは、その見事な朝日に心を奪われていたからではない。ただ単純に、眼前の現実から目をそらしたかったのだ。
当たり前だが、目をそらしたところで、事情は変わるわけもないので、ゆるりと首を巡らして、ろくでもない現実へと舞い戻る。ろくでもないない現実とは、すなわち突然の出撃命令と、これから出会う多くの深海棲艦だ。
「今日もよろしく、祥鳳さん」
後ろから顔を出してそう言ったのは、今回の艦隊の副旗艦を務める軽巡川内だ。覗き込んだ川内は、ぐったりとした祥鳳に苦笑する。
「戦闘前から、疲れていない?」
「戦闘前だから、疲れるんだと思います」
そんな祥鳳のささやかな皮肉もあっさり押しやられるように、鎮守府からの連絡がやってくる。
応答した川内がしばらく話した後、「少し寄り道するよ」と告げるのを聞いて、祥鳳は軽く息を吐いた。
「どこかで深海棲艦が発見されたんですね」
「説明が省けて助かるよ。今のところ、駆逐艦と重巡が2つずつ。今夜も"引きの強さ"は、十分だね」
「引きの強さ?」
「知らないの?祥鳳さんが旗艦だと、深海棲艦との会敵率10割になるジンクス」
祥鳳は眉をひそめる。
「私はまだここにきて1ヶ月も経ってませんよ…………」
「新人だろうとベテランだろうとずっと戦闘なんだから仕方ないよ。勤務およそ1ヶ月で、絶対夜戦までできる魅力的なジンクスを築き上げた祥鳳さんに、みんな感心してるし」
「もっとも」と、偵察機を飛ばしながら続ける。
「他の艦娘にとっては、感心もしていられない、死活問題らしいけどね」
当の新人にとっても充分死活問題だが、その点は考慮されないらしい。
「8時の方向に敵を発見!」
と周りを警戒していた駆逐艦が振り返った。
「臨戦態勢にはいります」
川内もすぐに気を切り替えて、構える。
「どうする?今日待機しているのは隼鷹だけど、最初から呼ぶ?」
「つい先ほど、隼鷹さんに、"あたしがあんたの頃には、1人でどうにかしてたぜ"と言われたばかりでして」
「頑張れってことだね」
肩をすくめた川内に、祥鳳は弓を構えながら答えた。
「少しでも不利になったらすぐに応援を呼んでください」
「もちろん」
「頼りにしてます」
答えた祥鳳は、すぐに艦載機を飛ばした。
ーーーー
祥鳳は鎮守府にやってきて間もない軽空母である。
所属する鎮守府は、国内で唯一の民間軍事会社だ。護衛から緊急応援など深海棲艦がらみなら幅広くこなす軍事会社である。
軽空母として艦娘となった祥鳳が、自衛隊ではなく小さなこの鎮守府への所属を選択したことに、格別の志があったわけではない。ただ一線で戦う正規空母たちの活躍を見て自信をなくしたことと、どんな依頼も受け入れているこの鎮守府の、いささか無謀とも言える働きに惹かれるところがあったからだ。
無論、その高い働きぶりはそれを支える艦娘のたゆまぬ努力によって成り立っているのであって、ここに所属するということは、まさにその努力の側に回ったこととなる。
時候は降り注ぐ陽光も鮮やかな8月。
祥鳳は、この鎮守府では数少ない軽空母として、驚きと困惑と緊張に満ちた目の回るような日々を送っている。
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「やっぱりさぁ…………」
すぐ目の前を歩く背の高い女性が、肩越しに祥鳳を顧みながら口を開いた。
「祥鳳、お祓いに行ってきた方がいいんじゃない?」
祥鳳の先輩でもあり、かつ、軽空母のリーダーでもある隼鷹だ。つんつんとした紫髪を揺らしながら磊落な笑い声を響かせている。
その隼鷹が、しかしぐったりとした顔で眩しい朝日に目を細めながら、歩道を歩いていく。
「結局、あたしも出撃して、夜までかかっちゃったじゃないか」
「ここの鎮守府はそういうものだと思ってましたが…………」
ああそうか、と隼鷹は得心したようにポンと手を叩く。
早朝の、まだ人気の少ない歩道に、妙に景気の良い音が響く。
「そっか。祥鳳は毎回引いているからわからないよな。もう少し楽な日もあるんだぜ」
「すいません。隼鷹さんには迷惑をかけます」
「まじめに謝る奴がいるか。川内なんかすごく嬉しそうだったぜ。祥鳳と出撃すると絶対夜戦できるってよ」
「なんでしたら、私が出撃のない日もこっそり艦隊に参加しましょうか。他の艦娘たちの恨みを必ず買うことになると思いますが」
祥鳳の精一杯のユーモアに、隼鷹はまた豪快に笑った。
そんな他愛もない会話をしながら、早朝の町を散歩するのが、隼鷹と祥鳳の出撃のない日の日課だ。
鎮守府がある町は小さな港町だが、今は漁を行う人は少ない。さらに言えば高齢化が進み、過疎化が懸念されている。また、まだこの鎮守府が受け入れられているとは言えず、ほとんどの人が挨拶もくれずに走り去っていく。
初めてここを回ったときは、人の視線の冷たさに、祥鳳も随分と驚かされたものだ。
「相変わらず、あたしたちの風当たりは強いねえ」
歩きながら、隼鷹は無遠慮なつぶやきを漏らしている。
「ま、たまには優しい人もいるけど、やっぱり世間としてはこういうもんなんだよ」
いちいちひやりとする言葉が飛び出してきて、祥鳳としては返答に窮するが、事実は事実だ。いくら反論しても、町の人が突然優しくなるわけでもない。
少なくとも、退去の段幕を掲げ、鎮守府の前に集まり、時には石を投げながら出て行けと叫ぶ人々を、受け入れてくれているとは言い難い。
「おはようございます、隼鷹さん、祥鳳さん」
散歩中に、そんな明るい声をかけてくれる人も、もちろんいる。
それがこの老人だ。この町で75歳という高齢ながら漁師を続けている人物で、過去に何回か鎮守府に依頼してきた人だ。
「調子はどうです?」
「おかげさまで、なんとかやっていけてるぜ」
「なんでしたら、隼鷹さん。また依頼させてもらいますよ。家にいても話す相手もいないもんで…………」
「そうしてくれると嬉しいな。漁れた魚で酒も飲みたいし」
祥鳳の横で、そんな会話が交わされている。信頼があるからこその会話だろう。祥鳳がこういう会話をするには、まだ足りないものが山のようにある。
「いいですねえ、鳳翔さんのところでですか」
そんなことを横から言ったのは、もう1人の老人だ。72歳の男性である。しかしまだ壮健で姿勢は提督よりもいいかもはしないほどだ。
この人も漁師さんで、私たちのお得意様だ。
「どうですか、漁の調子は?」
祥鳳の声に、穏やかな笑みでうなずく。
「すっかりいいですよ。なんで漁れなかったのか、よくわからないくらい」
頭髪には年相応の白いものがまじり、目じりには深い皺が刻まれているが、目元の光は明るい。
「深海棲艦が食っちまったりしてな」
とまた隼鷹がひどいことを言っているのに対しても、愉快そうに笑いながら、
「ここのところは台風をきたものですから」
「大丈夫でしたか?」
「ええ、台風はどうにもなりませんが、深海棲艦なら大丈夫でしょう」
粋な返答がかえってくる。
「また漁がしたいなら、あたしが提督に言っておくよ」
隼鷹が、ポンと祥鳳の肩を叩きながら続けた。
「新人の祥鳳もいるし。真面目だから心配いらないぜ」
唐突な言葉に、軽く祥鳳は目を見張った。
まだこの鎮守府に所属して1ヶ月弱。偵察や小さな艦隊の殲滅などでさんざん経験は積んだが、護衛経験は皆無だ。無論、何事にも"最初"は付き物だが、それにしても不意打ちだ。
しかし、隼鷹はいつもの磊落な笑顔のまま構えもしない。
「漁をしているうちに、あたしたちが勝手に深海棲艦追っかけ回すだけだから簡単なことだ。なんなら明日でもいいぜ」
「そうですか、なら祥鳳さん、お願いします」
おじいさんが丁寧に頭を下げる。
当たり前だが、依頼を受けるのは提督が判断するはずなのだが、ここではそんな常識も通用しない。
祥鳳は精一杯の平静を保ったまま「はい」と答えた。
この鎮守府は、相変わらず困惑と緊張に満ちている。
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"艦娘は最後の希望"
かかるこの言葉を、私は艦娘となってから幾度となく浴びせられてきた。
しかし、今深海棲艦と現場で戦っているのは艦娘だけである以上、事実なのかもしれない。
「何か悩み事ですか。ずいぶんと考え込んでいるようですが」
広間のソファで座っていた祥鳳は、柔らかな声に背後を振り返った。
声をかけたのは、緑のフレームの眼鏡の女性だ。
「ここに来てもう1ヶ月くらいですか。少しは慣れたでしょうか?」
「はい。皆さんによくしてもらったおかげで」
「私は何もできてませんよ。むしろ隼鷹さんの方が」
広々とした広間に、落ち着いた声が響いた。
眼鏡の女性は民間軍事会社"鎮守府"に所属する、戦艦霧島だ。
今いる広間は鎮守府内にある寮の1階にある。かつては正規の鎮守府として機能していただけに、若干古びてはいるものの快適な場所だ。
夕方に寮に帰ってきた祥鳳は、広間でゆっくりしているところで、霧島と顔を合わせた次第であった。
「お茶いれますね」と言った祥鳳に、霧島は「ありがとうございます」と会釈する。
祥鳳は湯のみと急須を取り出して卓上に並べた。
「今日の寮は静かですね。隼鷹さんと千歳さんはどうしましたか?」
「隼鷹さんならあちらに」
霧島が少し声を落としてソファの向こうに目を向ける。
一升瓶が置かれた机の横に、大の字を書いて心地好さそうに眠っている隼鷹がいた。朝の散歩の後、祥鳳は演習に参加し、そのあと個人でも練習をしていたが、隼鷹はすぐに寮に行ったきりだった。無類の酒好きで、こうやって酔いつぶれているのも格別珍しいことでもない。
「祥鳳さんと酌み交わすと言って待ってましたが、ひとり飲んでつぶれました。千歳さんも待つって言ってたんですが…………」
「まだ飲んでませんよ」
不意の声にふたりは振り返る。
「あら、どこにいらしたんですか?」
「ちょっと提督のところに」
霧島の問いに対して、微笑みながら千歳は答えた。
「提督のところに…………ですか?」
「うん。なにか珍しい?」
同じ鎮守府にいるのだから提督に会いに行くのはおかしい話ではない。だが、どうも祥鳳の中では提督という人物は事務的な、言うなれば冷たい人と言った印象がある。
「思っているよりも全然悪い人じゃないわよ、あの人は」
「えっ、いやそれは分かってますけど…………」
「ふふ、案外あなたもわかりやすいよね」
なんだか子供として見られているようで、いい気分ではなかった。
「とは言っても、私たちの提督の第一印象は祥鳳さんと大体同じだと思いますよ」
と、湯呑みを持った霧島が言った。
「でも、ちゃんと話してみると冷たい人じゃないって分かりますよ」
「そうなんでしょうか…………」
注いだ湯のみに祥鳳は視線を向けた。
祥鳳のような反応は少なくない。むしろ祥鳳の反応が一般的であると言える。
ここの提督ーー八幡武尊は無表情が多く、愛想もあったものではない。そんな彼をよく知っている者なら問題はないのだが、初対面の者からしたら不機嫌に見える。
「ま、あいつが無愛想なのは今に始まったことじゃないさ」
ソファの向こうからの突然の声に一同は驚いて振り向いた。
「あら、起きたのね」
「まあな、千歳。それより面白そうな話してるじゃないか」
寝ていたはずの隼鷹は、相変わらずのにやけ顔でいる。
「提督が怖いってか?」
「いえそんなわけでは…………」
そんなわけがある。
彼の目を見れば睨まらているように感じ、彼の無機質な声を聞けば萎縮してしまう。そう祥鳳はわりと提督を怖がっていた。
「仕方がないわ、千代田もあんまり好きじゃないって言うくらいだし」
「皆さん、一応提督は上司なんですよ?」
「上司とか関係ないさ、霧島。たしかにあいつの無表情っぷりは良くない」
「ま、私はあのままがいいわ」
ここに来てようやく提督を肯定するような意見が現れた。
「そりゃまた、なんでだ?」
「これ以上ライバルは増えない方がいいからよ」
「へ?」
あっけらかんと言ってのけた千歳に、祥鳳は気の抜けた声をあげた。
ライバルとは好敵手や宿敵の意。すなわち競争相手だ。鎮守府においては戦果を競うこともあるかもしれないが、千歳の様子からしてその意味はない。
「提督のような人は好みが分かれやすいんです」
「そ、そうなんでしょうか?霧島さん」
「千代田さんのようにあまり好きになれない人もいれば、金剛お姉様のように好きになる人もいます」
「私だってそうよ」
「知ってるぜ」
「わ、私は知りませんでした」
「その逆でひどく嫌ってる人もいます」
「嫌ってる?」
「そうだな、あいつが自衛隊時代はあんまり上から良い印象は持たれてなかったな。せいぜい佐久間のおっさんくらいだぜ、真っ当な評価をしていたのは」
佐久間というと鬼と言われるほどの豪傑さで有名な人物だ。同時に海軍の中ではそれなりの影響力も持ち合わせている。
「で、でも提督は軍神と言われるほどの活躍をしていたんですよね?」
「活躍はしてたが…………分かるだろ?ただでさえ愛想がないのに、歯に衣着せることを知らないから」
間違っているのならどんなに偉い人でも真正面から物を言っていたようで、そのまま口論に発展することも珍しくなかったという。
「退役するときも佐久間のおっさん以外は引き止めようとはしなかった。長門と真逆だぜ?普通はありえねぇ話なんだがな」
「そうだったんですか…………」
ほんと酷い話よ、と千歳がお茶を注ぎながら言った。その様子を眺めながら、その頭の中に浮かんでいるのは、初めて提督に顔を合わせたときだ。
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薄暗い廊下である。
執務室の方から、中に入っても良いという声が聞こえたところで、祥鳳は入室した。
扉をあけて、殺風景な部屋が目に入る。
少しぎこちなかったのか、案内してくれていた隼鷹が、「そんな緊張しなくてもいいぜ」と声をかけてくれたが、目の前の男を前には無理な話である。執務中であったらしい提督は、常日頃なのかは定かでは無いが緊張感がある。
軽く自己紹介をして、この鎮守府についての説明を受けた。スムーズてしかも分かりやすい説明であった。とりあえずそんなに酷い環境ではないことに安堵を覚えつつ、力を緩めたところで、しかし突然、射られるような視線を受けた。
無論、それは目の前の提督から向けられたものであった。
"どこの鎮守府にも属さずにここに来るのは、君が初めてだ"
射るような視線とは裏腹にその声はいたって、穏やかだ。
"なぜなんだ?"
しばし硬直していた祥鳳は、慌てて答えた。
"知人からここの活躍を聞いて、私もその人達と一緒に戦いたい、と思ったんです"
"活躍、ね"
静かな声とともに提督は、少しあくびをした。
"残念だけど、ここは君が思っている以上に大変だから"
そう告げる軍神の目は、まるで自分の心も見えているようであった。
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これも自分が選んだ道だとすれば、ずいぶんと茨の道を選んだものだと、祥鳳は思う。
湯呑みを手にとって、嘆息した。
祥鳳はすでに、主力としてさまざまな戦場へ赴いている。作戦を実行するのも、旗艦としてしじすることも、まだまだ祥鳳は不慣れであるから、一つ一つのことに戸惑い、隼鷹からは笑われ、怒られ、からかわれ続けている最中だ。
「よし、ちょうどいい時間だな」
いきなり隼鷹が声を上げて一同は注視した。
「ちょうどいい時間、とは?」
祥鳳の言葉に、隼鷹は悠然たる笑みで応じる。
「人も集まって日も暮れたことだ。やることといったらひとつしかねぇだろ?」
ほら、とどこに隠していたのか一升瓶を持ち上げた。
「漁師のおじさん達からいいものを譲ってもらったんでね」
霧島がたちまち呆れ顔になった。
「最近、提督から注意されてませんでしたか?」
「大丈夫、普段よりは控えるって言ったから。霧島も一杯やるか?」
「明日は出撃予定なので遠慮しておきます」
「私も同じく」
と千歳も立ち上がった。
祥鳳はしばし沈思していたが、やがて隼鷹に椅子を勧めて答えた。
「一杯だけ、いただきます」
隼鷹が軽く目を細めてから、ニヤリと笑う。
「そうこなくっちゃ」
こうして密かに、小さな晩酌が始まった。
ーーーー
「これはまた派手にやられましたね」
ぽつりとつぶやくように言ったのは、工廠の長の橘さんだ。
一見すると、痩せすぎで顔色も提督と同じくよくなく頼りない印象だが、技術者の少ないこの鎮守府を支えてきた大黒柱の1人だ。
その大黒柱が顔をしかめた見つめているのは、大破した艤装たちである。
昼頃、工廠には、祥鳳の他に、艤装を修理し始めている橘さんとそのすぐ横で腕を組んでいる提督がおり、後ろには、同じ艦隊の艦娘たちの姿もある。毎週水曜日は、偵察の係なのだ。
提督が目で合図をしたのを機に、祥鳳は海の状況を説明した。
「今日はいつも通り、この海近辺のパトロールをしてました」
「この近辺ですか…………」
橘さんが小さくため息をつく。
「空母のelite級を2つ、戦艦のeliteを1つ、他にも複数の敵影はありました」
祥鳳が敵を報告していく間に、「ひどいことになってますね」と橘さんがつぶやいた。
腕を組んでいた提督が口を開く。
「報告を聞く限り、出くわしたのは主力艦隊とみて間違いない。普通は奥の方までいかなきゃ出会うはずないんだがな」
「でも」と少し驚いたように駆逐艦の1人が言う。
「それ以外は見てないから、たまたまってことは…………」
「さあな。だが、知らぬ間に向こうが前線を押し上げた、と考えるかな」
淡々とした声が淡々としているだけに、今の状況が危険に変わりつつあることを伝えている。
祥鳳は黙って眉を寄せる。
一見穏やかそうな海に、恐ろしいやつらが迫っている可能性があることを突きつけられているからだ。
「祥鳳、君ならどうする?」
唐突な問いに、しかし祥鳳は背筋を伸ばしてすぐ答えた。
「あの主力艦隊は放置すれば、こちらまで攻めてくると思います。殲滅するのは困難ですが、その艦隊だけでも撃破したうえで、牽制をしつつ、自衛隊の応援を要請するのが安全だと思います」
「それじゃ間に合わないかもな」
あっさりと提督が告げた。
「セオリーとしては悪くない。が、この場所に関しては、この鎮守府に1番近い他の鎮守府ですら応援が到着するのに2日はかかる。ましてやこちらから要請してから、はいどうぞとは向こうは応援をやれない。そう考えると5日はかかる。するとどうなる?」
「…………」
絶句してから、祥鳳は眉を寄せた。
「こちらが壊滅、ということですか?」
「まあ、そうだ。主力やって一安心ってやってる間に、別の艦隊が来れば一巻の終わりだ」
「最初から全力で潰しにいくしかないですね」
橘さんが作業しながらそう付け加えた。
慌てて祥鳳は答える。
「では…………」
「俺らだけでするしかないな。一応、応援を要請してはみるが」
戸惑う祥鳳に、提督の鋭い視線が向けられる。
「君に今回の旗艦を務めてもらう」
「わ、私ですか?」
祥鳳が戸惑ったのは、殲滅作戦もまだ経験がなかったからだ。今まで出撃はしてはきたが、このような苛烈な戦いは経験していない。まして旗艦だなんて。
「自分が見つけた艦隊だ。きっちりお返しをしてやれ」
指揮官の静かな言葉に、祥鳳はただうなずくだけであった。
ーーーー
何事にも最初というものがある。
別に旗艦に限らない。出撃から遠征まで、艦娘になる以上は数年間は初めてばかりが繰り返される。もちろん、初めてに当たった仲間の側こそ迷惑な話だが、初めてを変えなければ次はないのだからこればっかりは仕方がない。
その点八幡武尊という提督は、稀に見る冷静さと判断力を持ち合わせた人物であった。
厳しい状況にも関わらず、祥鳳が報告したその日には大まかな作戦は完成しており、応援の要請まで終えていた。
他の仲間たちは多少は動揺は見せていたものの、提督の指示を聞くとすぐに切り替えて各々の役目を果たすことに集中し始めた。
情けない話ではあるが、この中で1番動揺しているのが旗艦を務めるはずの祥鳳自身だったかもしれない。
提督の話を書き終え、高速修復材でドッグを早々に出て、広間で作戦内容を再確認し終えたのは、すでに夜の8時も過ぎた夜であった。
「お疲れ様。祥鳳さん」
そんな声とともに、ことりと卓上に置かれたのは、コーヒーカップである。
顔をあげた祥鳳の前に立っていたのは、少し心配そうな様子の駆逐艦であった。
勤め始めてまだ1ヶ月過ぎたばかりの祥鳳は、この鎮守府全員の名を把握しているわけではない。しかし、叢雲という名前を覚えていたのは、彼女がてきぱきと仕事をこなし、時に適切なアドバイスをくれる心強い存在だからだ。
「大丈夫?だいぶ疲れているみたいだけど」
「もうこんな時間でしたか…………」
つぶやきながら、祥鳳は軽く目を指で押さえる。
「すいません、コーヒーまで…………」
「隼鷹に、一杯入れてやれって言われたのよ。なんにも考えてないようで、意外といろんなこと見ている人だから」
微笑しながら言う。
「提督は相変わらずだったわね」
執務室の方に目を向けた叢雲の言葉に、祥鳳は深くうなずき返す。
「いきなりのことに、あれだけ冷静でいられるのは見習いたいです。それに私の要領を得ない報告でもすぐに理解してくれる」
「さすがは軍神、てとこね」
叢雲の声に、祥鳳はうなずいた。
どことなく落ち着いた雰囲気と、理解の速さや物静かさは、祥鳳のイメージしていた軍神とは異なる。
「明日には出撃よね?」
「ええ、一応私が旗艦ということですが…………」
「大変な役任せたわね」
「大変ですが、どの道通らないといけません。あとは提督を信じるしかありません」
祥鳳はあえて力強く告げてから、コーヒーカップに口をつけた。
一口飲んですぐに目を見張る。
叢雲の方が戸惑いがちに首を傾げた。
「どうかした?」
「いえ、とても美味しいですね、こんな美味しいコーヒーは初めてです」
率直な言葉に、叢雲はほのかに照れ笑いを浮かべる。
「ただのインスタントよ」
「ただのインスタントでこんなに美味しくなるとは知りませんでした」
「あまり褒めないでちょうだい。慣れてないんだから、そういうのに。ま、時間があったらいれてあげる」
にこりと笑って、叢雲は身をひるがえした。
祥鳳はしばしその背を見送ってから、またカップに口をつけた。
ーーーー
「なーにが、"こんなに美味しいコーヒーは初めてです"だ」
夜の広間に、隼鷹の面白がるような声が響いた。
「祥鳳って、案外、口がうまいな」
作戦内容の書かれた紙に向き合っていた祥鳳は、ちらりと先輩に目を向ける。
「どこで聞いた話ですか、隼鷹さん」
「そこら中からわいてる話だ。おまけにあの、提督ぐらいにしかデレない叢雲が、"時間があったらいれてあげる"って言ったらしいじゃないか。大したもんだねぇ、祥鳳は」
ドンドンと祥鳳の背中を叩いている隼鷹の横で、祥鳳は額に手を当てている。
「この鎮守府をなめちゃダメだぜ、祥鳳。この町なんにもねぇから、そんなことをしたらたちまち噂になる」
「何が噂の種かしら?」
唐突な声に振り返れば、まさに話の渦中の叢雲が、コーヒーカップを2つ持って立っている。その目元に険があるから、空気が凍りつく。
「お、叢雲、なんか聞こえちゃった?」
「そうね、もうコーヒーはいらないって聞こえた気がしたわ」
「いやいや、祥鳳と一緒に、いかに叢雲のコーヒーがうまいかって話してたんだよ。な、祥鳳」
な、祥鳳、は酷い話だとは閉口しつつも、新人たるものは先輩を立てるのが原則なので、うなずくしかない。
どうだか、と冷ややかな目線でありながら、叢雲はそれでもコーヒーカップを卓上に置いた。隼鷹はさっそく一口飲んで、「たしかにうまいな」などと気楽なことを言ってる。
「旗艦の話に戻しても良いでしょうか?」
祥鳳の声に、隼鷹はようやく笑みを収めて祥鳳に視線を戻した。
今回の旗艦を祥鳳に任せる。
それが祥鳳にとって最大の懸念だ。
昼間に提督がいきなり祥鳳に旗艦を任せると言ってから、祥鳳に初めての重責を担うことになっていた。
まだ経験不足であるから現場においての全権を渡されたわけではないものの、多くの役割は祥鳳が担うことになっている。
「で、金剛たちと話はしたのか?」
「一応、川内さんとは話したんですが…………」
「だめだ。今回は複数の艦隊に分けて出撃するんだから、金剛にも話つけとけ」
「分かりました」
こういう時に、隼鷹という先輩の存在は心強い。
「しかし、金剛さんはどこにいらっしゃるんでしょうか。さっき、部屋を訪ねたときはいませんでした。隼鷹さんや叢雲さんは心当たりはないでしょうか」
「心当たり、ねぇ」
少し苦笑しながら隼鷹は叢雲の方を見た。
「なによ」
「叢雲が知ってんじゃないのかなー、って」
「そうなんですか?」
「なんで私になるのよ」
その通りだ。いくら先輩と言えども、どうして叢雲が知っているなんて言えるだろうか。
「だって祥鳳にあげたコーヒー、ほんとは提督にやる予定だったんだろ?」
「な、なにを言ってるのよ」
「でも先客がいたからやれなかった、てな」
一体この軽空母はどこまで知っているのだろうか。
「はあ、知ってるならいちいち私にふらないでよ」
「さっきのお返しだ」
「あの…………つまり、どういうことなんですか?」
「つまりは、金剛は執務室にいるのよ」
祥鳳は少し首を傾げた。
「さしずめ、提督に構いにもらいに行ったところだな。本来なら明日は金剛たちは全休なんだが、無理やり出撃してもらうことにしたからな。提督が何か褒美をやるとでも言ったんだろう」
叢雲と祥鳳は、思わず顔を見合わせた。
「隼鷹さんって、この鎮守府全体を監視してるんですか?」
「…………さあ、どうだろうねー」
ここの提督は食えない人だとは隼鷹は言っていたが、その隼鷹も相当食えない人物であると祥鳳は思ったのであった。
いろいろ忙しくて、非常に遅くなりました。なんとかして最後まで続けたいと思っていますので、これからもよろしくお願いします。