私は戦っていた。
砲弾が雨のごとく降り注ぐなかで。
横で叢雲さんが何かを叫んでいる。しかし、私はそれが何かは聞き取れなかった。みんな艤装がボロボロだ。それは自分も同じ。
私は何もできない。
手にした弓は壊れて、艦載機も飛ばせない。目の前で仲間が今にも倒れそうだというのに。
川内さんに砲撃が命中した。
「川内さん!」
そんな自分の叫び声も幾多のおぞましい咆哮に掻き消される。
煙の中から川内さんの姿が見える。しかし、その身体は糸の切れた操り人形のように力なく倒れていった。急いで彼女の元に駆けつけようとするが、何故か彼女の元にたどり着けない。
そうしている間にも、轟音とともに敵の攻撃が嵐のごとく襲いかかる。
また一人、また一人……
取り残されたのは自分と絶望だけだった。所詮、他の艦娘に劣等感を抱きながら逃げるようにこの場所に来た自分が、旗艦を務まるはずがなかったのだ。
もしかしたら、自分も旗艦を務めることができる……そんな甘い考えを持っていた自分が愚かだ。身の程をわきまえれない自分が……
目の前には黒い波が押し寄せていた。ただただ呆然と立ち尽くしていた。
自分には才能がないのだ。
目を開ければ口を開いた深海棲艦が見えた。
ああ…………
────
軽空母祥鳳の朝は6時から始まる。
布団から出た祥鳳はすぐに着替えると、歯ブラシをくわえて部屋を出る。2階の奥の部屋から、うっすら明るみ始めた廊下を歩いて1階のキッチンに向かう。
「おはようございます、祥鳳さん」という涼しい声は、誰よりも早起きな霧島のものだ。
コンロで湯を沸かしながら、片手で本を開いて読書にいそしんでいる。
「おはようございます、霧島さん」
歯ブラシをくわえたまま窓の外を見上げれば、夏の空は雲ひとつなく晴れ渡っている。
「今日もいい天気になりそうですね」
「空は晴れども、心は晴れず…………」
そんなつぶやきに、霧島が苦笑する。
「相変わらず、緊張しているんですか?」
「ええ、情けないことですが」
祥鳳も苦笑しつつ答えながら、祥鳳は広間に向かう。広間の1番隅の天井に神棚が祀られている。以前は埃まみれになって忘れ去られていたのが、先日、祥鳳が数時間かけて拭き掃除をして、今は多少、見た目だけは往時の威厳を取り戻しつつある。
その古びた神棚に向かって、祥鳳は手を合わせた。
「神頼み、ですか」
「せっかく艦娘になったのに、神頼みだなんて、恥ずかしいですが…………」
ため息混じりにキッチンに戻って歯磨きを再開する。
「とにかく数時間、艦隊が持ちこたえればいいんです。ただそれだけのお願いだから、意地悪な神様も、今度ばかりは聞き届けてくれるかもしれません」
不思議そうな顔をした霧島はしかし多くは問わない。元来が細かな詮索はしない人だ。
歯ブラシを洗ってうがいをして、ありがたくお茶を手に取ろうとした祥鳳は、霧島が広間の神棚に向かって手を合わせているのに気づいた。
顔を上げた霧島がにっこりと笑う。
「何かできるわけでもありませんが、どうせ祈るなら、ひとりよりふたりの方が良いでしょう」
「ありがたいことです。私はあまり神様には好かれていないようですから、霧島さんの参戦はとても心強いです」
「あら? どうしたの、霧島さんがお祈りなんて」
声の主は、千歳だ。
パジャマ姿で、寝癖だらけの髪を無造作にかき回しながら、眠そうな顔を向けている。
「なんのお祈りなの?」
「いえ、大したことじゃありません。それよりも、少し身だしなみをきちんとした方がいいんじゃないんですか。せっかく綺麗な髪が勿体無いですよ」
「大丈夫よ。ちゃんと提督の前ではバッチリ決めてるんだから」
「そういう表とからの使い分けって、意外と外から見てバレるものですよ」
霧島の的確な指摘に、うっ、と言葉に詰まりつつ、千歳はそれでも勢いを失わない。
「女は中身よ。絶対、私の提督、捕まえるんだから」
そんな平和な捨て台詞に、祥鳳と霧島は思わず顔を見合わせて笑った。
────
祥鳳の戦場での懸念は、自分の拙い指揮で自軍がやられるということなのだが、そのことばかり考えても、何か起こるわけでもない。
索敵をしつつ、肉眼でも周囲を警戒する。なるべく"引きの強さ"が発揮される夜前には決着をつけたい。
「敵影は?」
昼の2時に隼鷹の声が響く。
「10時の方向に…………、おそらく航空部隊だと思います」
緊張で青白い顔で応じる祥鳳に対して、隼鷹は余裕の笑みがある。
「なるほど、そこで軽空母が2隻いる自分たちで迎撃するのか。しかしあそこに集中するのもどうよ。敵影はあそこしか見えてないんだぜ」
隼鷹は、あくまで笑顔のままであるから、かえって表情が読めない。
祥鳳は言葉を選びつつ、
「過去のケースで、同じような場面があったようです。そこでは、その艦隊に近づいた途端、取り囲むように深海棲感が出てきたようです」
「じゃ、どうすんの? むやみに近づいたらあたしたち全滅だぜ?」
「そのために3つほどの艦隊にすでにそのことを指示…………」
祥鳳が言葉を切ったのは、傍の隼鷹がニヤニヤと面白がるような視線を向けていることに気づいたからだ。
「私の顔よりも、戦場に集中していただきたいのですが…………」
「十分だ」
隼鷹はひとつ大きくうなずいた。
「まだここに来て1ヶ月。しかしもうだいぶものが見えるようになってるみたいだな」
隼鷹は再びあたりを警戒しながら、「陸奥」と横に声をかけた。すぐに陸奥が返事をする。
「突っ込むってさ」
「大丈夫なの?」
「優秀な旗艦が、適切な判断を下すさ」
「なら大丈夫ね」と陸奥は祥鳳に笑顔を向ける。
まだまだ立ち回りのぎこちない祥鳳に対して遠慮のない批評をくわえる陸奥だが、こういう時は絶対的な信頼を寄せる。
「この前も、提督が褒めてたし、結構な活躍ね、祥鳳さん」
「陸奥、余裕をかましていられるのも今のうちだぜ。今はちっこい艦隊だがじきに援軍がわんさか出る。大破しないようにしとけよ」
「了解」と再び陣形に入る陸奥を横目に、隼鷹は少し伸びをした。
とりあえず、他の艦隊の準備ができるまで待機だ。
「昨日の夜は遅くまで起きてたようだな」
警戒を維持しつつ、そんなことを問うた。
「はじめてのことですから。準備をしっかりしないと…………」
「そりゃ結構なことだ。いろんな人に尋ねているらしいな」
隼鷹の言葉に、祥鳳は遠慮がちにうなずく。
「少し出すぎたことでしょか?」
そんな問いに、隼鷹はすぐには答えない。
この鎮守府は小さくともいろんな人がいる。
これまで意識していなかったが、気がついてしまえば周りの人々は相当な修羅を乗り越えた人たちだ。提督や長門は言わずとも、隼鷹や叢雲、千歳からの話も自分にとっては価値のあるものばかりである。
「別にいいんじゃね」
ニヤリ、と隼鷹は笑った。
「そんなことも新人の特権さ。みんなきっと喜んで協力してくれる。自分のやりたいようにすればいい」
先輩の声には不思議な温かさがある。
応援するわけでもない。かといって突き放しもしない。その独特な距離感の中で、しかし確かに見守られている安心感がある。
叢雲の言っていた言葉が祥鳳の心によぎった。
"何も考えていないようで、よく見ている"
そういうことなのだろうか。
「まあ、この戦いを終えても、そのあとにも戦いは続く。そんなに明るい未来があるわけでもないんだ。思うようにやればいいさ」
隼鷹の口調は穏やかでも、言葉は相変わらず冷厳なものだ。
未だに謎が多い敵である。いくつかの試練を乗り越えても、また多くの試練が出てくるだろう。まだゴールは見えていないのだ。祥鳳の中でざわめきがあるのは、この穏やかな海と、深海棲艦と、戦いという言葉が連続性を持たないからだろう。これでいいのか。ふわふわとした不安がいつも祥鳳の中にはある。
ふいに、ドンと背中を叩かれて、祥鳳は我に返った。
「みんなの準備は万端だ」
先輩の悠々たる笑みがある。
「旗艦さんよ、頼むぜ」
祥鳳はうなずいて、指示を出した。
────
「川内たち、だいぶやばそうだな」
夕方となった海に、隼鷹の声が響いた。
作戦通りに、深海棲艦に突っ込んだところ、案に違わず、他の敵もかおをだした。予想していなかったのは、その多さだろうか。
「まだいけますか?」
祥鳳は艦載機を飛ばしつつ、隼鷹を振り返る。
「昨日からの連日の出撃のはずですが…………」
「お互い様だろ? あたしには優秀な旗艦がいるからほどほどに休みながらやってるのさ」
絶え間なく艦載機を飛ばしているはずの隼鷹が休んでいるとは思えないが、そこは自分が口を挟むところではない。
「川内さんたちですが、大破している者が多いようです。もうそろそろ撤退させるべきだと思います」
「提督が言っていた応援は?」
「すでに向かってはくれているらしいですが、道中で会敵したようです」
そうか、とうなずいた隼鷹はすぐに向かうの海に目を向ける。その先には、多数の深海棲艦が近づいており、おぞましい声を上げている。
「祥鳳はどうだ? さっき被弾しただろ」
「大丈夫です。まだ小破で済んでますから、まだ艦載機を飛ばせます。それに陸奥さんも無傷ですし」
「そりゃいいことだ」
と景気よく笑いながら言う。
「こんなタチの悪い深海棲艦相手に、ここまで耐えてるんだ。祥鳳の思いが通じて、神さまが奇跡の1つくらい起こるかもしれないな」
ポンポンと愉快気に笑っていた隼鷹の顔が、凍りついた。その目線の先には今までより大きな艦隊がいたのだ。
軽く目を細めた隼鷹は、束の間の沈黙ののちに語を継いだ。
「eliteか…………」
祥鳳は黙ってうなずく。
先ほどまでは見せなかった敵が、目の前に真っ赤に並んでいる。
「flagship級はなしか。だがやべーな」
もう一度、祥鳳はうなずく。
脳裏には、昨晩夢で見たあの景色が浮かんでいる。
みんなはやる気を出しているように見えるが、やはり疲労は隠せきれていない。それに弾薬や艦載機もそれほど残っていないだろう。
「応援はまだなのか?」
「予想以上に苦戦しているようです。なんとかして1時間以内には来ると言っていますが…………」
どのみち、今の戦力での戦闘は避けられない、ということだ。
「神さまは奇跡が嫌いらしい」
「神棚にばかり日参してましたが、次から教会にします」
祥鳳のかろうじて吐き出した皮肉が、空彼方に消えていく。
「どうする? 退却するか?」
「いいえ」
祥鳳の応答に、しかし隼鷹は眉ひとつ動かさなかった。
「だろうな」
「提督はいつも無理をしているんです。私も少しくらい無理をしてもいいかな、と」
出来るだけ落ち着いた口調で言ったつもりだが、実際に出た祥鳳の声は、ずいぶんと頼りないものだ。
隼鷹もしばし何も答えず、空を見上げている。
「間違った判断でしょうか?」
「それは分からねえ」
「だけど」と隼鷹は深海棲艦に目を向けている続けた。
「あたしが祥鳳の立場でも、たぶん同じ判断をしたと思うぜ」
よし、と構える。
「ぜんぶ自分で背負い込むなよ。あたしたちがいるんだ。祥鳳の判断が間違ってるって思ったときは、遠慮なくぶっ飛ばすから」
そんな声も深海棲艦の声に消されかけた。
近くの音さえかき消されたとき、祥鳳は大きく息を吐き、弓を構えると、隣で同じく構えている隼鷹に心の中で深く頭を下げた。
────
重巡、戦艦、空母。
大本営からの応援が来れば、敵の深海棲艦もあっという間に片付いてしまった。自分たちがあれだけ苦戦したのに…………。応援が敵を一掃するのをただ呆然と祥鳳は眺めることしかできなかった。
旗艦の差なのだろうか? 色々考えても答えは出ない。
帰投してドッグに入ってから、いつのまにかそのドッグの時間も終わっていたが、日の暮れた食堂で呆然と天井を見上げる祥鳳は、なおも虚脱の中にある。叢雲が先ほどコーヒーを1杯持ってきてくれたが、それも手をつけずに卓上ですっかり冷えている。
夜警のために、いつもよりみんなの動きが慌ただしい。つい先刻は、橘さんがいつもの青白い顔で工廠の奥へ足早に過ぎて行ったから、ほかにも中破ないし大破した者がいるのだろう。
「どんな様子だ、祥鳳」
唐突に降ってきた声は、言うまでもなく隼鷹のものだ。隼鷹もドッグから戻ってきたのだろう。
隣の椅子に座った隼鷹の様子は、常と変わらぬ堂々たるものだ。その頰にはいつもの笑みさえある。その変わらなさが祥鳳にとっては、あまりにも遠い。
「深海棲艦はあれから姿を見せてません。提督はもう警戒する必要ないとおっしゃってますが、応援の方がまだ警戒しろとうるさいので…………」
「そのことじゃなくて、祥鳳の方さ」
へ? と我ながら間の抜けた声が出てしまう。
「そっちは、やれることはもうやった。今さら確かめることもない。心配なのは戦場より、真面目すぎる軽空母だよ」
思わぬ言葉に、祥鳳は1度2度ほど瞬きする。
「あんなに美味しいと言ってた叢雲のコーヒーをほったからして呆然としてんだ。心配にもなる」
「大丈夫です」
「本当に具合の悪い奴は大体そう言う」
無造作に伸ばした手で、コーヒーカップを手に取り、そのまま一息に飲み干した。
「飲もうぜ」
突然の言葉だ。
「こんな時にですか?」
「こんな時にだからさ。疲労困憊でやつれた顔で食堂に居座るくらいなら、酒飲んで寝て、明日に備えるのがあたしたちの仕事」
「でも…………」
言いかけた言葉を隼鷹が遮るように言った。
「たまには先輩らしいことをさせろって」
隼鷹の手が、祥鳳の肩を強く叩いた。
────
飲みに行くのだからてっきり、鎮守府から出るものだと思っていた祥鳳だが、隼鷹の連れて行った場所は、鎮守府の中だった。
鎮守府の隅っこにこじんまりと構えているのは居酒屋だった。
店内は、全体に灯りを落とし気味だが、暗いというわけではない。
「来たことがあるか?」
「初めです」
「だろうな。教えてないもん」
ニヤリと笑って隼鷹は座った。
お客は自分たちだけだ。
奥から出てきた女将らしき人を見て、祥鳳は目を見張った。なんとその人は鳳翔であった。
「めずらしいですね。人を連れてくるんなんて」
「刺身と揚げ物、あと酒。全部任せるよ」
乱暴なその注文に、鳳翔は微笑ともにうなずいただけだった。
「隼鷹さんはよく来るんですか?」
「まあね。最近は提督に注意されてからあんまり行けてないけど」
「提督は隼鷹さんのことを思って言っているんですよ」
「だけどなぁ、週2に抑えろはきついんだよ」
大げさに肩をすくめながらも、そんなやりとりを楽しんでいる。
ふいに祥鳳の背中をとんと叩きながら、
「鳳翔さん、あたしの後輩だ。これからもちょくちょく来るかもしれないから贔屓にしてやってくれ」
「ありがたいですね」
普段から物腰が穏やかな鳳翔さんは、この場所では流麗なものである。
「提督も忙しくなって、あまり足を運んでくれませんから。ぜひご贔屓にお願いしますね」
「だったら、提督の言いつけを律儀に聞かずにあたしに酒を飲ませてくれたらいいのに」
「はい、祥鳳さん。知り合いからいいのを貰ったんです」
隼鷹の言葉をあっさりと遮って、鳳翔が酒を届けてくれる。
遠慮と無遠慮が絶妙に混ざって、振る舞いに隙がない。
さっそく飲めば、お酒が得意な方でない祥鳳でも飲みやすく、たちまちにして陶然となる。
「うまいだろ」
「危険です。酔って呼ばれたら大変です」
「素面で駆けつけてもできることは限られてるんだ。酔ってるくらいがちょうどいいんだよ」
めちゃくちゃなその問答が、なぜか不思議に温かく胃の底に広がっていく。さらりと2人で一杯を飲み干せば、いつのまにやら次が注がれている。
酒の味も、鳳翔さんの挙措も、爽やかでありながら隙がない。いい店なのだと、祥鳳はカウンターに置かれた一升瓶を眺めたまま素直に嘆息した。
「提督は、私を旗艦に抜擢してくれました」
祥鳳の唐突な言葉に、隼鷹はグラスを片手に悠然と箸を運びながら黙って聞いている。
「しかし私のような経験が浅い人間が正しい判断を咄嗟にできるものではないんです。これで良いのか、もっと良い選択肢があるんじゃないか、そんなことばかり考えています」
なお隼鷹は答えない。
ゆったりと酒を飲み、しめサバを口中に放り込む。
しばし咀嚼し、また一杯飲み、それから口を開いた。
「戦場には、シナリオがあるんだ」
唐突なその声に、祥鳳は顔をあげる。
「なんですか?」
冗談かと思ったが、隼鷹はあくまで真面目な顔だ。
「戦の神さまかなんかがそれぞれの戦場にシナリオを作ってんだ。あたしたちはそのシナリオをなぞっているだけなんだよ」
声をなく見返す祥鳳に、隼鷹は静かに続ける。
「戦いは、勝つときは勝つ。負けるときは負ける。祥鳳がいくら真面目に考えても、その戦いが大きく変わることはない。その戦いにはそのシナリオが準備されてるんだよ。それを書き直すことはできない」
「それは…………、ずいぶんと無力な話じゃないですか」
「そうさ」
隼鷹がゆったりと笑った。
「艦娘でもできることなんざ、限られている」
言いながらグラスを傾けて、「いい酒だぜ」などとつぶやいている。
「あたしらみたいな小さな鎮守府に渡されるシナリオなんて、そうそうにいいものなんてないさ。みんなが平等なシナリオなんて渡されない。あたしたちが一生懸命殲滅したはずの深海棲艦が次の瞬間には倍に増えてる。そういうことさ」
静かだが重みのある声が響いていた。
束の間の沈黙の中、とんとんとん、とまな板の音だけが聞こえる。
「だとしたら、私たちは何をしたらいいんですか?」
「それを考えるのが、あたしたちの仕事」
とんちのような答えが返ってくる。
「と言いたいけど、その仕事はな、もうやってくれてる奴がいるんだ」
「誰ですか?」
「さあ? ヒントを言うなら、そいつはシナリオを覗けるんだ」
ますます分からなくなってきた祥鳳に隼鷹が語を継いだ。
「大切なことは、傲慢にならねぇことだ。シナリオそのものの形を変えられない。限られた戦力の中で何ができるかを真剣に考えることだ」
ゆっくりとグラスを傾けて、そっと付け加えた。
「その意味じゃ、祥鳳はいい仕事をしたぜ」
そのさりげない一言が、隼鷹からの労いの言葉だと気づくのに、数十秒かかった。
再び静寂が舞い降りた。
わずかな時間をおいて、いつのまにか鳳翔が現れ、新たな酒を注いでいく。客の会話に興味がないように見えて、その呼吸のひとつひとつまで拾い上げたような見事なタイミングだ。
「ありがとうございます」
祥鳳は、ほとんど無意識のうちにそんな言葉を口にしていた。
故に隼鷹も何も言わなかった。
刺身が運ばれ、串カツが届けられ、黙々と2人は飲み、食した。
陶然と酒に酔い、しばしの無言の献酬が繰り返されるうちに、ふいに祥鳳の携帯電話が不吉な着信音を響かせた。
隼鷹が「おいおい」と呆れ顔だ。
その場で祥鳳が応答する。2言3言かわして携帯を下ろすと、隼鷹がため息混じりに問うた。
「またでたのか?」
祥鳳は目の前のグラスに視線を落としてから答えた。
「いえ、もう何もいないそうです」
「いない?」
「いくら索敵しても駆逐艦ひとつも見当たらないようで、応援の方は引き上げるそうです」
答える祥鳳の方が、困惑顔だ。
「提督が珍しくイライラしていること以外は、もう大丈夫だそうです」
数瞬の沈黙を置いてのち、隼鷹が愉快そうに笑った。
「言っただろ。シナリオにはそう書いてあるんだよ」
笑いながら空にしたグラスを持ち上げて、「鳳翔さん、もう一杯」と告げた。
隼鷹の聞きなれた快楽な笑い声が響く。
祥鳳はしばし言葉もなく、グラスに満ちた澄んだ液体を見つめていたが、やがて手を伸ばし、静かに傾けた。
────
「おはようございます、祥鳳さん」
キッチンに顔を出した祥鳳の耳に、いつもの霧島の声が響く。
「おはようございます」
「昨日もまたずいぶんと遅かったですね」
霧島の案ずる声に、しかし祥鳳はきまりが悪い。
遅くなったのは、隼鷹と飲みすぎたのだから、あまり胸を張って言えるものではない。
「お茶でも飲みますか」という霧島の言葉にうなずきつつ、歯を磨く。束の間歯ブラシを動かして祥鳳がおやと思ったのは、いつもならそろそろ部屋から出てくるはずの軽空母が顔を見せていないからだ。
「千歳さんはどうしたんです?」
「不在です。ちょっと用事があるんです」
霧島の遠慮がちな言葉に、祥鳳は歯ブラシを止めて眉を寄せる。
「用事ですか?」
「ええ、今回の戦闘で提督のやることが山盛りですから。加えて、長門さんも不在。叢雲さんもまだ休憩中なんです」
霧島は、湯のみにお茶を注ぎながら、苦笑とともにそんなことを言う。
祥鳳はさらに沈思してから、ようやく問うた。
「つまりは、秘書艦代理ですか?」
「平たく言うとそうなります。千歳さん本人の言葉にすると"神様のご利益があった"ということになりますけど」
思わぬ展開に、祥鳳は言葉がない。無闇に涼しげな桔梗が一輪、花瓶に入れられて飾ってある。
「とりあえず、お茶でも飲みますか?」
呆けている祥鳳に霧島は優しく声をかけた。
その提案に祥鳳はゆっくりとうなずくのであった。