鎮守府において工廠はとても重要な場所である。装備の開発や修理など、工廠がなければまず鎮守府として成り立たない。
その重要さ故、この鎮守府では開発関しては提督の干渉もほとんどなく、ほぼ任意で行うことを許可されるほどである。
それは橘さんと言う人物を八幡が信頼している証でもある。彼亡き今、その工廠をまとめるのは彼の教え子である明石と夕張である。
彼女らは技術は確かではあるのだが、少々好奇心が暴走してとんでも機械を生み出すところがある。だから、最初こそは提督は心配していたものの、明石たちは至って真面目に工廠を回していた。今では完全に任せっきりである。
そこで長門は困惑していた。
それは不測の事態や未曾有の危機を想定し、実際に対応してきた彼女にとってもそれは予想外であったからだ。
工廠に顔を出すと執務室を出て行った以来、なかなか帰ってこない提督を不審に思って工廠に顔を出しただけなのだが。
「ふむ…………」
暫く思考が停止していたようだ。
どうしたものか。
「…………」
「…………うう」
彼女と見つめ合う目がそこに。
その目はとても警戒しているようだった。
提督の目は彼女よりも低い位置にある。
それ自体は悲しいがいつものことだ。しかし、違和感があった。
その違和感とはその低さが普段よりもっと低いことである。
提督はちっちゃくなっていた。
「…………ふむ、提督よ。これは何の真似だ?」
とりあえず長門はたずねてみた。
「…………し、知らないよ」
幼い頃の提督そのままだ。
しかし、不思議だ。どんなことも動じず怖いもの知らずとも思われた男が、今ではこんなにおどおどした子供になっている。
「な、撫でないで…………」
全く威厳もへったくれもあったものではない。
というか、正直。
可愛い。
「とりあえず、これはどうしたものか…………。肝心の明石と夕張はいないしな。叢雲あたりに相談するか」
「お、おろして! 肩車しないで! うう…………」
「安心しろ。危害は加えん」
「ほんと? ほんとに? 落ちない?」
肩でビクビク怯える提督(小)を肩車したまま、彼女は歩き出した。
────
広間の前を通ると隼鷹と千歳がいた。
「隼鷹」
「おお!? いやいや、の、飲んでねーよ!」
「落ち着いて隼鷹。余計怪しくなっちゃうじゃない。今は少し暇なだけよ」
「わかってる。別に暇な時に飲んでも構わんだろう。提督が怒るのは、飲んで暴れることだ」
「それはそうか」
「それで、長門は何か用があるのかしら? というか…………」
これが見よがしに肩に担がれた小さな男の子に千歳と隼鷹は気づいた。長門に担がれているちび提督は、長門の頭に隠れるようにして覗いている。
「…………」
「そこの坊主は誰の子だい? よく見ると…………、提督に似ているような…………。って、もしかして! まさか?」
「何を勘違いしているかは知らんが、私の子ではないぞ」
「なーんだ。てっきり、あんたと提督の子かと思ったんだが。それだったら面白いのに」
「何が面白いんだ。そんなことなら一大事だぞ」
「いやまあ、そうなんだけど。それよりも、誰の子なんだよ」
幼き頃からの仲であることは周知の事実である。
しかし、それイコール恋仲というわけでもないのだ。加えて、2人とも根っからの軍人気質であるため、それらしい噂をほとんど聞かない。
とはいえ、2人の気の知れた会話をしているところを見ると、他の娘は気が気でない。
「今はそんな話をしている場合わけじゃない」
「にしても、随分と人見知りだね」
提督(小)は隼鷹に目線すら合わせようとしない。
「それで一体全体なんなんだい」
「そもそもこれは誰だ?」
「あたしが知るわけがないだろ」
残念ながら問題の解決とはならなかった。
とは言え、3人は思い当たる節はある。
「やっぱり、あいつらの仕業かね」
「最近は真面目だなぁ、と思ってたんだけどね」
「ふむ。妙な機械を作ったのかは知らんが、迷惑な話だ」
3人の頭には、ご都合主義な機械を生み出す2人の機械バカの顔を思い浮かべていた。
「一番簡単な推測すると、提督が小さくなったってことだろうねえ」
「確かにそうだな」
「にしてもずっと長門さんの頭に隠れてますね」
ちび提督に威厳がなければ、長門も真剣味が削げてくる。それにしても締まらない状況。
「しっかし、可愛いなあ。普段あんだけ無愛想だから余計」
「な、なに…………」
ちび提督は隼鷹を警戒している。子供は警戒心が強いものだが、提督は人一倍警戒心が強いらしい。
「じゃあ、便宜上この提督をタカちゃんと呼びましょう」
「お、いいねえ。ほーれ、タカちゃーん」
「タカちゃん…………?」
「か、可愛い!」
普段とのギャップのせいか、可愛らしくなってしまった提督に千歳は興奮している。
「面白いもんだねえ。あの提督がこんなになっちゃって」
「そうか? 今も昔も変わらないと思うが」
「いやあ、全然違うよ。特に目とか。こんなにつぶらな瞳だったなんて」
「こんな時代も提督にあったのね」
「そりゃあるだろ」
「それより、私にも抱っこさせてよ」
「別に構わんが…………」
提督(小)は長門の頭から離れようとしない。無理に引き離そうとすると余計に長門の頭に絡みつく。
「離そうとするとこの通り、足で首を絞められるのだがな。たかが子供だからたいしたこともないが」
「顔が青い青い」
駆逐艦たちなどで子供の扱いはある程度慣れている。しかし、その正体が提督であれば話は別だ。気の使い方が半端ではない。
「とりあえず引き離すか」
「無理すんなって! 閉まってるって!」
「ぐう!」
「顔青いって!」
「結構長門に懐いているのね。タカちゃん」
「うー…………」
「そんな感じだな。もういっそ何か分かるまで長門が母親代わりでいいんじゃない?」
「ぞっとしないな」
この鎮守府のトップがいないのと等しい状況なのだ。早めに解決しなければならない。
「でもさ、明石たちがやらかしたのならいつ戻るかもわからないんじゃない?」
「それもそうだな」
「じゃあ元に戻らない可能性もあるよな」
「それは困る。そうならぬように、あいつらに色々言わなきゃならん」
「そもそも明石たちが原因じゃないならどうするつもりなんだよ」
「そうなったら、あいつらに頼んで元に戻してもらうしかない」
「調子がいいのか、顔の面が厚いのやら」
「状況が状況だ。手段も選んでおれん」
「そんなことよりも、頭の上でうとうとしているタカちゃんをどうにかしましょうよ」
疲れたのか提督(小)はこくりこくりと船を漕いでいる。
「今なら肩から下ろせるんじゃない?」
「ふむ、そうだな」
と隼鷹がゆっくりと提督(小)を長門の肩から降ろした。そして、そのまま近くのソファに寝かせた。すぐに提督(小)は目を閉じた。
「はあ〜、可愛いわ。昔ってこんなに可愛かったのね」
「これがどう成長したら、あんな鉄仮面になっちまうのやら」
「別にいいじゃない。大人の提督も十分素敵よ」
「へいへい。それでこん時の提督ってどんな感じだったんだ? 長門」
「どんな感じと言われてもだな…………」
何せ幼い頃の記憶だ。不明瞭なところもある。
「無口だったな」
「それは今と変わんねぇじゃないか。あたしが聞きたいのは違うところだよ」
「そう言われてもな…………。このくらいの時は、随分引っ込み思案で身体もそんなに丈夫ではなかったな」
「身体弱かったのか。確かに痩せすぎだとは思うが」
長門と隼鷹が会話している中で、千歳はひたすら提督(小)を見つめていた。
「可愛いのは認めるけど、さすがにデレデレしすぎじゃねえの?」
「やばいわね」
「はあ…………やばいってのは?」
「ただでさえ子供は可愛いのに、提督が子供ならもう凶器よ」
「すぅ…………」
「…………」
「さすがにそこまでじーっと見ていると、気味悪いぞ」
「今なら母乳が出る気がするわ」
「前言撤回、今のあんたは気持ち悪い」
すると長門の懐から電話が鳴った。すかさず長門は電話に応答する。
「すまん、提督を頼めるか。隼鷹と千歳」
「いいぜ」
「もちろんよ!」
「本当に頼むぞ、隼鷹。今はお前だけが頼りだ」
「任せとけ」
そう言い残し、長門は足早に去っていった。残されるのは3人のみ。
「よし執務室に運ぶか」
「ちょっと待って。執務室の前に私の部屋に連れてかない?」
「はあ? 騒ぎの起きる前に執務室に入れとかないとやばいだろ」
今日の隼鷹は至って正論を言っている。こんなに隼鷹がまともに見えるのは酒のないせいなのか、千歳が暴走しているせいなのか。
「いいでしょ? 少しだけ! 少しだけだから」
「少しだけって何だよ!? 金剛とかに見られたらどうするんだ!」
「……どうしたの?」
「あ、起きちゃった? ごめんね、騒がしくして」
「…………大丈夫」
「あーもう、可愛いっ!」
そう言うなり千歳は提督(小)をギュッと抱きしめた。明らかに痩せ気味の身体は簡単に壊れてしまいそうだ。しかし、肌は大人の頃よりも明らかにきめ細やかで、女の子のようだ。
「そんなに強く抱きしめたら…………」
「く、苦しい…………」
「あ、ごめんね」
そうは言うものの千歳はその腕を緩めはするが、そのまま持ち上げてしまった。
「自分の名前は言える?」
「や、八幡武尊」
「よかった。自分の名前は覚えているようだな」
「あー、肌ももちもち」
「そんなに頬をすりすりすんなって。早いとこどうにかしねえと」
驚くほど提督(小)は軽い。孤児であることは幾度か聞いてはいるが、子供時代に何があったのかは長門と陸奥しか知らない。
「広間で何を騒いでるのかしら」
「お、叢雲か。今日は非番じゃないのか?」
「ええ、だから司令官の手伝いでもしようかと思ったんだけど執務室にいなかったのよね」
「そ、そうか」
このとき、提督のことを話すか隼鷹は迷った。無闇に今の提督の状態を知っている人は増やしたくない。でも、叢雲くらいのしっかり者なら知られても問題はない──むしろこちらも助かるだろう。
少しは話す話さないの両者は拮抗していたが、元来の面倒くさがりな性格が自分も負担を減らしたいと言う欲望をかき立てた。結果、話してしまおうとなったのは言うまでもない。
「その千歳が抱いてる子は誰かしら? 千歳の知り合いの子?」
「その…………聞いてもあんまり驚くなよ?」
「はあ、もしかして千歳の子とか?」
「それはそれで衝撃だけど」
「それにしても、なんだかとても見覚えある顔ね」
そりゃそうだ。なんせその子はいつも見ている提督そのものだから。
「そいつ提督だよ」
「は? 何を意味の分からないことを…………って、もしかして」
「ああ、そのもしかしてだよ」
すると叢雲の目からすーっと光が消えていった。
「司令官に…………子供…………いたの…………?」
「え? だからその司令官だって」
「恋愛に興味がないって、散々私のアピールをスルーしてきて他の女と子供作ったの?」
「ちょっと落ち着け、叢雲。話が飛躍している」
「どうして? 最近はこの鎮守府じゃ、わたしか一番距離が近付いてるって思ってたのに…………」
徐々に叢雲から不穏な雰囲気が漂っている。というか、もう声がどんどん無機質になっている。
「ちょ、落ち着けって。おい、千歳からも教えてやれ」
「何か食べたいのある?」
「…………アイス」
「よし! お姉さんと今から食べに行こう!」
「いつまでもデレデレしてんじゃないよ! あーもう二日酔いでもないのに頭痛がしてきた…………」
眼前には真っ黒なオーラ全開の叢雲が、後ろには顔が蕩け切っている千歳が。隼鷹もこの鎮守府きってのイロモノ枠ではあるが、それは酒が入っている時の話だ。素面であれば意外と真面目である。
「叢雲! あれば提督の子じゃない」
「じゃあ誰の子なのよ! 見てよあの顔。司令官に瓜二つじゃない! あれが司令官の子じゃないわけないじゃない!」
「だ・か・ら! あれは提督そのものなの! あれは八幡武尊なの!」
「そ、そうなの…………?」
「そう言ってるじゃないか!」
「ご、ごめん。少し取り乱したわ。それもそうよね。あいつが誰かと寝るなんて想像もつかないし」
まだ叢雲は多少は取り乱しているようだ。
「じゃあなんで、あの姿に?」
「それは知らない。が、長門が工廠に行ったらこの姿の提督見つけたって言ってたから十中八九明石と夕張だと思うけど」
「はあ〜〜。それじゃあどうするのよ。うちは司令官なしじゃ回らないわよ」
「それをゆっくり考えるため執務室で作戦会議でもしようかと」
「ならなんでここではしゃいでるのよ」
「やめてくれよ。はしゃいでんのはあの胸タンクだぜ」
いまだに千歳は提督(小)にデレデレしている。その様子を呆れ顔で見る。
「それで、早いとこ司令官隠さないでいいの?」
「ああ、やっと話が通じるやつが出たよ」
「はあ? こんな姿の司令官見られたら暴動が起きるわよ」
「そうだぞ、千歳」
「さ、早く司令官をこっちに」
そう言い叢雲は手を差し伸ばすも、千歳は微塵も動かない。
「提督は渡さないわよ」
「…………司令官、行くわよ」
ずいと叢雲は提督(小)に顔を近づけるが、怖がっているのか提督(小)は千歳を少し強く抱きしめた。
「あら残念。提督は私がいいみたい」
「司令官? いつもお世話してあげてるじゃない」
「し、知らないよ…………」
「おいおい叢雲、今は子供なんだぜ? そんなに強い言葉をかけたらびびっちまうよ」
「くっ…………」
「そうよ。それにこの子は人見知りだから優しく接してあげないと」
ね、提督? と言いながら千歳は叢雲に見せつけている。
千歳は人当たりも良く、雰囲気的にも接しやすい。しかし、叢雲は確かに仕事もできるがどこか近づき難い空気がある。まして小さい子供はそういう空気を敏感に感じる。
「んまあ、叢雲はちょっとなあ…………」
「何よ」
隼鷹は叢雲のある一点を見つめる。
駆逐艦の中では大きい方。しかし、一般的な女性では…………。ましてや魅力的な女性が多く、体のプロモーションもモデル並みの娘が多い鎮守府の中では圧倒的に戦闘力不足のそれ。
隼鷹がどこを見ているのか叢雲は少し顔を赤くして、
「ばっ! そこは関係ないでしょ!」
「でも、提督も男だぜ?」
「今は子供じゃない」
「子供だからこそ、そういう母性溢れる女がいいんじゃないの?」
「あら私ってそう見える?」
「そんなのどうでもいいわ」
「強がっちゃって。知ってるんだぜ? 毎晩毎晩マッサージしてんの」
「は、はあ!? どこでそんなこと…………」
「そりゃあ企業秘密だ。千歳、このツンデレ秘書艦はいいから執務室に連れて行くぞ。もう満足しただろ?」
「しょうがないわね。ま、私が提督の好みだとわかったしいいわ」
そんなことは隼鷹は一言も言っていないが、そんなことを言わない方が千歳も幸せだろう。
「あ! いました!」
ふと遠くから声が聞こえる。
「明石!」
「いやあ、探しましたよ」
「探したって…………原因はやっぱりあんたかい」
「やっぱりとはなんですか!」
「こんなことを起こすのは明石ぐらいしかいないでしょ」
「いやまあそうなんですけど…………」
「そんであんたの処分は提督が戻った後として、何があったんだい?」
「ちょっとした事故なんです!」
「ちょっと? 司令官がこうなっているのに?」
「これには少し深いわけが…………」
────
「おーい。明石はいるか?」
「はーい。ここにいますよ」
昼前の工廠に提督は顔を出していた。今日も今日とその顔色はひどく、ゾンビに近い何かになっていた。
「相変わらずひどい顔ですね」
「それよりも、君がくれた書類だが少し不備があったんだ。訂正を頼む」
「了解です。ついでにここで少し休んだらどうです? お茶くらいしか出せませんけど」
「いや、そこまで気を使わんでもいい」
「気を使わなくていいと言われても…………」
はっきり言って今の提督を気遣うな、という方が難しい。
「また徹夜ですよね? いい加減身体を労ってくださいよ。もう30なんですから」
「まだ20代だ」
「そこに意地を張らないでくださいよ…………。もう身体の衰えは始まってるんですから、気をつけないと本当にぶっ倒れますからね」
「無駄なお節介だ…………、と言いたいが君のいうことも一理ある。最近はどうも疲れが抜けないし、なによりも眠れん」
「あー、夜も起きてるから身体がおかしくなっちゃってるんじゃないですか?」
「そうかも知れん」
「そうだ。丁度よく最近作った栄養ドリンクがあるんです。少し試してみませんか?」
「断る」
「そんな迷いもなく言わなくても」
「君が作ったものはろくなものがない。その被験体にされてたまるか」
「大丈夫ですよ! ベースは高速修復剤ですから」
「ますます安心できないじゃないか! そもそも、艦娘に使う代物を人間に使う発想がおかしい」
明石はどこにしまってあったのか1つの小瓶を取り出した。
「ここにありますから、1本…………」
「飲まん」
「頑固な男性は嫌われますよ?」
「その手で俺が飲むと思ってるのか?」
「わかってますよ。ちぇっ」
「わかってるなら初めからしまっとけ。ふあぁ…………」
「じゃあ、書類の訂正しますね」
「ああ、頼む」
書類を受け取ると、明石はすぐさま取り掛かった。
しばらく沈黙が続く。さて、今の提督の状態は極度の疲労状態である。それに加えて重度の睡眠不足。今のところまでは不屈の精神でどうにか堪えていた。しかし、今は静かな空間がある。そうなると提督は一気に睡魔に襲われる。
重くなってきた瞼を必死に上げようとするも、まるで気絶するかのように眠ってしまった。
「…………よし、できましたよって、寝ちゃったんですか」
「…………」
「さすがの提督もキツかったみたいですね」
表面上は提督を気遣う健気な艦娘だ。が、頭の中では恐ろしいことを思いついていた。
「今なら飲まさせられるわね…………」
────
「それで司令官にその栄養ドリンクという名の劇薬を飲ましたのね」
「え、ええ…………」
「で、どうしたらその大丈夫な栄養ドリンクであの結果になるんだ?」
「ど、どうしてでしょうね」
「ああ? わからないっていうんじゃねえよな?」
「ひいい…………」
今日の隼鷹は一味違った。酒が入ってないこともあるが、元はかなり真っ直ぐな性分である。この鎮守府の心臓と言っても過言でもない提督には、尊敬と多大な感謝を抱いている隼鷹にとっては今回の騒動は少し許せないようだ。
「ほ、本当に提督の疲労を取るために使ったんです! ただ…………」
「ただ?」
「疲労どころか色々失ったようです」
「よし歯ぁ食いしばれ」
「ごめんなさいごめんさい! 身体が一瞬で治る高速修復剤を上手く使えたら便利だと思ったんですぅぅぅう!」
「隼鷹、少し落ち着きなさい」
少し我を失いかけていた隼鷹を引き戻したのは千歳であった。
「たしかに明石のやったことは褒められたことじゃないけど、別に悪気があったわけじゃないわ」
「悪気があるないと、やったことは別問題だ。上司を実験台だなんて聞いたこともないぞ」
「そうだけど、今ここでそんなに怒らないで。今は子供いるんだから」
千歳の胸に抱かれた提督(小)は怒気の迫る隼鷹に怯えていた。その様子を見せられると隼鷹も鼻白む。
「…………はああ。今は提督に免じてあたしからはもう何も言わない」
「本当にごめん」
「それはあたしに言うことじゃないだろ。提督を元に戻してから、本人に言え」
「…………ええ、そうする」
「それで、明石は元に戻す方法を知ってるのかしら?」
叢雲の問いに明石は答えた。
「多分、数日すれば元に戻るんじゃない? 高速修復剤を使ったと言ってもごく少量だから…………、すぐに効果も消えると思う」
「戻るのか。それは良かったが…………数日提督なしで切り盛りしないといけないわけだな」
「その辺は私たちが頑張ればいい話よ。問題は誰が提督の子守をするかよね」
「それはこの千歳に任せてほしいわ!」
「んまあ、千歳の動機が多少下心ありでも千歳に任せた方がいいと思うぜ。提督もなついてるし」
隼鷹の言葉に少々叢雲は不満があったようだが、口には何も出さなかった。秘書艦という立場である以上、仕事を放棄して子守はできない。ましてやこれ以上、提督(小)の存在を広げてもいけない。誰が子守するかで戦争が始まるのが目に見えている。
「異論はないのよね?」
「私はありませんよ」
「あたしもだ」
「…………ないわ」
「よし、しばらくお姉さんといようね」
「うん」
あれほど警戒心丸出していた子供が、今ではすっかり安心している。ならば、それを守ってやるのが大人の役目だ。今まで提督がしてきたように。
────
翌朝。
昨日のことがまるでなかったかのように、提督は普段通り執務をしていた。
「提督、あたしはどっから突っ込めばいいんだ?」
「んなことを考えてる暇があったら仕事をしてくれ。結局昨日は何もしなかったのだろ?」
「それはお互い様だけど…………。やっぱり昨日のことは覚えてんだな?」
「そ、そんなことはどうでもいい! 早く持ち場に戻ってこい!」
「へいへい」
威厳もへったくれもあったものではない。
しかし回復するのは提督にとっては急務だ。すでに昨日の失態は明石に説教をすることで取り返しているつもりである。
それで威厳が戻るのかは怪しい話だが。
「調子が戻ったようですね」
「う、千歳か。昨日は、本当にすまなかった」
「何の問題もありません。提督に非はないんですから」
「そう言ってもらえると助かる」
今日の提督は素直だ。
その時の出来事を提督はきっちりと覚えていたのだ。その時、いかに心細かったことか。怯え、警戒したことやら。
そして、千歳にずっと甘えていたことを。具体的なことはご想像にお任せする。
「無事で何よりです」
そして、彼女は悪戯っぽい笑顔を提督に向けた。
「子供の提督さんはとっても可愛かったですよ」
「な!」
あの提督が珍しく顔を赤く染めた。よっぽど今回のことが恥ずかしいらしい。
「そ、そそそそんなことを言わないでくれ…………」
「あら、気を悪くしちゃいましたか?」
「いや、そういうわけでは…………」
「それは良かったです」
千歳はまた笑った。
今までは誰にも頼ることもなく、弱みを絶対に見せたがらない男という印象が、昨日の出来事を経て大きく変わった。
か細く感じた、小さな小さな提督を前にして、優しく包み込みたい気持ち。
あの提督のおどおどした性格は大人になってから無くなったわけではない。成長するにつれ、強がりで隠してきただけなのだ。その隠された部分は今もきっと提督の奥底にあるはずだ。
「今回の件は君たちのおかげで大きくならずに済んだ」
「隼鷹のおかげでもありますけどね」
「ああ、分かってるさ。埋め合わせというわけでもないが、今度3人で飲みに行かないか」
「お酒に厳しい人が飲みに誘うなんて」
「なんだ、嫌なのか」
「いいえ、とっても嬉しいわ!」
嫌なはずがない。千歳にとっては願ったり叶ったりのお誘いだ。
「楽しみにしてますからね」
「…………ああ、いい店を紹介するよ」
叢雲が入室したのを見計らって、千歳はお暇するとこにした。
偶然の出来事とは言え、提督の意外なことを知れたのだ。絶対に忘れないことだろう。
「あら熊野。今から執務室へ?」
「ええ、暇ですから顔を出そうと思っていたところですわ。…………ところで随分と今日は嬉しそうですわね」
「あらそう見える?」
「見えますわ。何か良いことが?」
「んー、そうね」
「あら、何があったのかしら?」
「秘密」
「え?」
「だから秘密よ」