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PTSDという病がある。
日本語で心的外傷後ストレス障害、と言うらしい。心的外傷──すなわちトラウマによって、精神に異常をきたす病気だ。この病は命に関わる出来事が原因であることが多いらしい。
無論、俺や艦娘たちのように戦地へ赴く者にとってはとても関係が深い。仲間の死や攻撃を受けて海の藻屑と化す恐怖などといった精神的ダメージが大きいのだ。
まだ艦娘たちへのサポートが不十分だった時代はこの症状に陥る娘が後を絶たなかったらしい。当然だ。屈強な男たちですらその障害に陥り、苦悩する。ましてや、つい此間まで普通の女の子たちだった艦娘だ。そう耐えられるものではない。
金切り声を上げ、体を震わせすすり泣く艦娘の姿を見たことがある。その艦娘はそこそこ経験を積んだ者だったらしいが、その瞳には恐怖の色しかなかった。目を閉じれば、仲間が海に沈む光景が広がり、まともに眠ることも叶わなくなった。
もちろん、今では艦娘たちへのメンタルケアはとても厚くなった。兵装の進化や深海棲艦への調査が進んだことで、艦娘たちが轟沈することもほとんど聞かなくなった。そのお陰か、PTSDとなる艦娘も減っていると言う。我が鎮守府もその点については手を抜いてはいない。しかし、いかんせん小規模な鎮守府だ。なかなか手の届かないところもある。ひとりひとり手厚く対応するのは難しい。だが、今もこうやってやれているのは、この鎮守府の艦娘たちが優秀である他ない。それどころか彼女たちに自分が助けられている始末だ。
夜も深まり、ただ波の音しかしない港で突っ立ている。
黒い波が月を揺り動かす。押して、返して、静寂の中を波の音が響く。この景色を眺めていると、とても心地が良い。
波の音が自分の記憶さえ押し流してくれる気がする。
恐怖、悲哀、憤怒、そう言った負の感情を巻き込んで消してくれる。
目の前で仲間が吹き飛んだ瞬間、鼻の先に深海棲艦がいた瞬間…………、提督としてそのような死地に年端もいかない娘たちを送り込むこと…………そんな苦悩も。
この海を眺めていると、そういったものから解放される感覚になる。自分は波に飲まれ消えていく…………。誰も気づかぬうちに。
ある日、精神科かどっかの医者からこのPTSDという言葉を聞いた気がする。親友を失い、仲間を失った俺がそうではないかと。俺はそれを認めなかった。ひたすら戦地に赴き、暇があれば鍛錬を積んで、その傷を押さえ込もうとした。無用な感情を徹底的に排除し、戦いに支障が出ないようにした。それが他人から見れば異常だったらしい。
自分自身、おかしいとは思っていた。
傷を隠しても次第に膿んでいく。布を当てて誤魔化しても、その傷から徐々に膿が出てくる。その膿は膨らみ傷を広げていく。膿を出さなければ大変なことになる。
だから、俺は自分で膿を出すしかない。無理やり仕事というメスを入れ膿を出す。しかし素人では、ただ傷を増やし、膿も増やす。
ダメだと分かっていても止めることはできない。何か仕事をしていないと、その膿に取り込まれる気がして。それで熟睡を何年もできていないのだから、きっとPTDSなのかもしれない。
こうやって港に来るのも、何度目であろうか。
いつもただぼーっと海を眺めている。
波によって傷を洗い流した後、部屋に戻る。
だが昨日はそうしなかった。いや、できなかったのが正しいのか…………。戻ろうと足を踏み出したのだが、平坦な地面を踏み外した。
簡潔に言うと、俺はぶっ倒れた。慢性的な睡眠不足、過度な労働、艦娘がら傷つつくたびに自責の念に駆られる…………、よくよく考えれば立っていられているのも不思議なくらいではある。長たるものが情けない。
民間軍事会社"鎮守府"ができて、初めて自分が医者の世話になった。
何年ぶりかに病院のベッドの上で目覚めた。腕には点滴がつけられている。外傷もないのに病院送りなのは初めかもしれない。
司令官? と言う声が聞こえる。
ベッドの脇にある椅子に座っていた叢雲のものであった。まだ状況を把握できていない俺の顔を見て、叢雲は顔を少し歪めた。
「…………倒れたのよ、あんた。過労だってね」
ため息まじりにそうこぼした。それに対して、俺は何も言わずにただ天井を眺めた。何か言うべきかもしれないが、言葉がなにも浮かばない。
「司令官…………、無理しすぎなのよ」
叢雲がそう言う。
「自分の体調もわからないとはな…………。面目ない」
「あんたのせいじゃないわ。私たちがあんたに甘えてたせいなのよ」
「…………」
違う、その言葉がなぜか出ない。
はあ、とため息をつく。すると叢雲は俺の頭に手を置いた。長い銀髪が微かに揺れる。
「ごめんなさい」
「君たちのせいでは…………」
「私たちのせいなの。あんたは絶対、私たちのせいにはしないから。それに私たちが甘えていたから…………」
普段、ズバズバともの言う叢雲が珍しい。ただ粛々と自分のせいだと言う。それが俺にとって、非常に苦痛だった。こうなったのは他でもないこの俺のせいなのに。
ごめん、を繰り返す叢雲に対し、俺はなにも言えなかった。なぜ俺はこういった肝心な時に、必要な言葉をかけられないのか。どうして、こんな時に口を噤んでしまうのか。
「とりあえず鎮守府の方は大丈夫だから。広瀬さんが切り盛りしてくれてる」
そうか…………。
「あんたはとにかくゆっくりして」
そうか…………。
「司令官、聞こえてる?」
ああ、聞こえている。
「…………大丈夫だ」
「嘘つき。大丈夫ならこんな風になってないでしょ」
叢雲の呆れ顔がそこにはあった。
「大丈夫じゃないでしょ」
「すまない」
「謝らなくていいから、今は休んで。みんな心配してるのよ」
「そうか…………」
迷惑をかける、そう言いかけて俺は口を閉じた。急激に吐き気を感じたのだ。だが腹の中には出すものがない。ただ咳き込むだけだった。
「大丈夫? 司令官」
心配そうに叢雲が覗き込む。それに対してジェスチャーで大丈夫だと伝える。
「しっかり寝てちょうだい。仕事に復帰するのは全快になってから」
「ああ…………。そうしよう」
「元気になってね」
そう言って、叢雲は微笑む。その可愛らしい笑顔に、一抹の不安を垣間見たような気がした。少し頭がぼやけているのかもしれない。なんだか視界も…………。
なんだか、ぼーっとしてきた。おそらく睡魔がやってきたのだろう。睡眠薬か何かの類のせいだろう。波のように襲いくる睡魔に対抗することもなく、俺は意識を手放した。
「おやすみなさい、司令官」
そんな声が聞こえた気がした。
────
穏やかな寝顔。
司令官が眠る瞬間がまるで息を引き取ったように見えて、私は一瞬焦った。
初めて見る司令官の熟睡姿。本来ならこの寝顔を独り占めできることに喜びを感じるはず。だが実際は違う。心を占めるのは後悔や申し訳ない気持ち。
ここには私以外誰もいない。長門が私に秘書艦なのだから付き添ってくれと言った。着替えや暇つぶしとなるような物を持って行き、私だけが見舞いに来た。
「司令官…………」
2人っきりの空間。
私にとっては願ってもない空間のはず。それは熊野や榛名たちにとっても…………。普段なら誰が見舞いに行くかで、一悶着もあってもいいはずだろう。
私は安らかに眠る司令官の頭をゆっくり撫でた。堅い髪の毛の感触が手に。
その顔色ははっきり言ってとても悪い。
「全く、少しくらいは休むと言うことを知りなさいよ。あんたが倒れたらみんなが心配するでしょ」
そう言いながら、どの口がそう言っているのだとも思っていた。
少なくとも司令官に異常があることは心のどこかで感じてたはず──。
「分かっていたはずなのにね。どうして言えなかったのかしら」
司令官が倒れていたのに気づいたのは長門だ。港で倒れていたらしい。
その時間は2時過ぎ。もちろん夜のだ。秘書艦の私はというと、呑気にも眠っていた。そのことを責める人は誰もいない。港に行く時、司令官は何か悩んでいる。そう教えてくれたのは長門だった。
ああ。あの時、あんたは悩んでいたと言うの? なにをあんたを悩ませたの?
おかしな予兆はあった。最近は仕事の効率化が進んだこともあり、その日の執務は夕方には終わるようになっていた。しかし、司令官は前のように夜遅くまで働いていた。今すぐやらなくてもいいこともやり、工廠にも顔を出したり、何故か彼は常に何かの仕事をしていた。相変わらず寝る時間も削って。
司令官の頬を撫でる。その手を止め、ここに向かう前に長門から聞いた話を思い出す。
あいつは病気なんだ──。
なら何故、司令官を助けなかったの?
私ならそれを知っていたらすぐにでも助けるのに。こんな姿に絶対させなかったのに。
本当にそうだろうか?
後から言うのは簡単だ。それに長門が何もしていないわけでもないだろう。でも怒りがないわけではない。なんで教えてくれなかったのか。彼女にとって私は信頼できる人物ではないのか。いくら考えても答えは出ない。
今はその答えは重要ではない。
今は司令官の傷をゆっくり癒そう。傷があるまま復帰しても、また膿ができて今回のようになる。
だからこそ秘書艦の私が、付き添ってケアをしよう。話をすればきっと心も軽くなるかもしれない。好きなことをすれば忘れることもできるかもしれない。
司令官が、過去を忘れ…………、いや、しっかり向き合い、乗り越えることでその傷は治るのだろう。
今は、とにかく私がそばにいることだ──。
あせってはいけません。 ただ、牛のように、 図々しく進んで行くのが大事です──司令官が前にそう言ったように、今はゆっくりしよう。
「私がそばにいるわ」
司令官の顔はピクリとも動かない。今こうして司令官を見ると、とても昔は前線で異形と戦ってきた者とは思えない。現役はとにかく鍛えていたと聞いた身体も細い。
司令官はいったい何者か。
「…………」
もう短くない時を共にしているのに、この人のことを何も知らない。
「司令官…………。どうしてそこまで隠すの?」
何故伝えてくれない?
「私はいつまでも待つわ。…………でも、あんたが壊れてしまうのは見たくないの。だから…………教えて。あんなの傷を…………。それとも私じゃダメなのかしら?」
────
司令官が退院するのは1週間後と伝えられた。まだ夜は冷え込むこの季節。
たとえ司令官がいなくとも鎮守府に依頼がなくなることはない。地道に築き上げた信頼である以上、簡単に壊すわけもいかない。とにかく今は司令官なしでどうにかしていく他ない。
それ故に司令官に大勢で見舞いに行くこともできないため、私が代表として行くことになった。広瀬さんが代役として指揮し、長門や熊野を筆頭に古株が引っ張って鎮守府を回している。ただ司令官の不在はこの鎮守府によくない流れを作る。
ある日、護衛任務を依頼され、霧島を旗艦とした艦隊を送ったが、その艦隊が手ひどくやられた。幸いにも護衛する貨物船に被害はなかったが、千歳と黒潮が大破、他も中破ないし小破という有様であった。もちろん大破した経験はあるこの鎮守府だが、最近は大破どころか中破もあまりなかったので、今回の件は鎮守府全体に不穏な空気を送った。
戻ってきたみんなの艤装はボロボロ、大破した2人は重症で、特に千歳が酷かった。
「ごめんなさい…………。こんな時にこの様じゃねぇ…………」
立つこともままならず、霧島に肩を借りてやっとの状態だ。装甲はほとんど剥がれ落ち、肩から
広瀬さんは慣れた様子で、指示を始めた。大破の者は赤、中破の者は黄色へ──。黒潮と千歳に関しては手の空いてるものが連れて行くように。
「千歳、横にするわよ」
「霧島ー! 担架を持ってきたぞ!」
「隼鷹、千歳さんを乗せるわよ」
担架で運ばれる千歳と黒潮を見送った後、広瀬さんの方を見た。横須賀で指揮官を務めた経験もあるだけのこともあり、とても冷静で正確な指示をしている。それに呼応するように皆も動く。
「あ、あの、叢雲さん…………」
神通がおどおどした様子で声をかけてきた。彼女が何が言いたいのかは言わずとも分かった。
「分かってるわ。司令官のことね」
私は、司令官の容態を説明した。過労や寝不足によって気絶したということ。当面は病院で様子を見るから1週間は戻らない。
すると長門が姿を見せた。彼女もまた忙しいはずだが、なんとか終わらせてきたらしい。普段は自信に溢れ、明朗な彼女も今はどこか余裕がなくなっている。長門にも神通と同じように説明した。長門は終始、深刻な表情で話を聞いていた。
1週間戻らない、それだけで著しく鎮守府の士気がさがる。さらに今回のように任務で大きな被害を受けるとなると嫌な流れができてしまう。最悪の事態にならぬように気をつけなければならない。
思っていた以上に司令官の存在が大きかった。精神的支柱の存在はとても重要であることを再確認せざるを得ない。
「このことはみんなに伝えたほうがいいんじゃない? 長門」
「ああ、そうだな。…………今夜みんな集めて緊急会議を開く。叢雲の方からも伝えておいてくれ」
低い声で長門はそう告げた。
快活な口調も潜め、司令官にも似た、抑揚のない声であった。しかし、その目はどこか決意に満ちた強い何かが灯っていた。何かあるのだろうか。
それとも──。
司令官の"病"とやらを伝えるのだろうか。
「詳しい話は会議でだ。今はとにかく状況を乗り越えることが先決だ」
「それもそうね」
兎にも角にも、疑問は頭の片隅に追いやろう。もちろん長門にはまだ聞きたいことが山ほどある。しかし、今それをぶつけたところで何もならない。今はやるべきことが多い。それを消化してから、じっくりと長門から話を聞こう。
「神通、ちょっといいかしら? 手伝って欲しいことがあるの」
「は、はい!」
私は踵を返して、持ち場に戻ることにした。神通は慌てて返事をして、後を追ってくる。2人の容態も心配だが、そんな暇もない。それにしても…………。
「司令官の病、ね…………」
────
普段はあまり使われない部屋──会議室に今宵は艦娘でいっぱいになっていた。大破の千歳や黒潮はこの会議に出席していないが、中破だった者は入渠を終えている。肝心の長門がまだ姿を見せていない。いったい何をしているのか。
私はふと病室で見た光景について思い返していた。何度思い返しても陰鬱な気分に陥る。その光景は汗をかいていた司令官の身体を拭こうとした時だった。
汗を拭くのだから、もちろん司令官の肌を見ることになる。そこであることに気づく。私は彼の肌をほとんど見たことがない。当たり前だがそれは別に卑猥な意味ではない。彼は滅多に肌を露出していなかった。年がら年中、彼は長袖であり、着替えている姿も見たことがない。
そのせいか、少し自分のドキドキしていたことを白状する。それを置いといて、彼が何故肌を見せないのかはすぐに分かった。その身体には幾多の傷が刻まれていた。弾痕であったり、火傷の跡であったりと、至る所に痛々しい傷を残していた。そりゃあ、生身の人間が深海棲艦と戦ったのだから無傷の方が不思議ではあるが、それでもこの傷は少なからずショックを受ける。ただそれよりももっと気になる傷が手首にあった。
それを見つけた瞬間に、長門がやってきた。その時の長門は苦虫を噛んだような顔だった。
おそらくこの"傷"は誰にも知られたくなかったのだろう。でなければ常に長袖である理由もつく。それに長門の口から、“司令官はこの傷を誰にも見られたくなかった"と言った。そして、彼は「PTSD」であるということも聞いた。
この病気事態、私たちの耳にはよく入る言葉ではある。なにせ戦場に出るたびに命の危機に瀕する環境だ。いやでも大きなストレスを抱える。自分だってそのストレスに押しつぶされそうになったことは何度もある。
世界にはいろいろな恐怖がある。しかし、命の危機に直接関係する恐怖体験はなかなかない。私たちはいつもその恐怖を味わい、時には身近な人が実際に死ぬ瞬間を目にすることさえする。
だから体だけでなく、心にもものすごく負担がかかると言える。長門曰く、司令官がそうなったのは自分の部隊が壊滅した時からだと言う。その中には親友とも呼べる人物もいたらしく、その人が深海棲艦に喰われる瞬間を間近で見たらしい。その時を境に、司令官は周りからおかしくなったと言われ始めたという。表情を変えず、ただ淡々と戦地に機械の如く赴く。寝る時間も削り、鍛錬に打ち込んだという。とにかく戦い続けないと、その瞬間を思い出し、恐怖や後悔、憤怒といったごちゃ混ぜな感情に呑まれ、どうにかなりそうなんだ、と彼は言っていたらしい。
「PTSD」の患者は、不眠症に陥ったり、感情の麻痺が起きたりするという。昔の司令官がまさにそうだったらしい。しかし、そのトラウマを刺激する戦場からは逃れることもできなかった。
今もなお、彼はそうなのだろうか。
「…………違う」
そうだとは思えない。
だってあの人は…………。
その時、会議室のドアなった。コンコンという音が響いた後に長門が姿を現した。
「すまない、遅れた」
「ずいぶん遅かったわね」
「ああ、少し佐久間さんから電話が来てな」
つかつかと歩き、会議室の上座まで行ったところで、話を始めた。
「みんな知っていると思うが、提督が倒れた」
「…………ええ、過労と聞きましたわ」
熊野が沈んだ様子で答えた。
「テートクは大丈夫なのデスカ!?」
「とにかく体調のほうはしばらく休めば大丈夫だそうだ」
何やら引っかかるような言い方だ。無論、その理由を知る叢雲は何も言わなかった。
「体調のほうは、ね…………。まるで他に異常がある言い方じゃねぇか」
「鋭いな、隼鷹」
「そんな言い方されれば、いやでも勘ぐる」
隼鷹の表情には普段見られる陽気な様子は微塵もない。今までの隼鷹からは想像つかぬほど深刻な顔をしていた。それもそうだ。うちの司令官に何か異常があることが分かれば、そう冷静にもなれない。
「簡潔にいう。提督はPTSDという病気を昔から患っている」
その病名を知っている者は顔を顰め、知らぬ者はただならぬ響きに動揺していた。ただその中で熊野や広瀬さんは表情を変えなかった。知っていたのだろうか。ざわつく会議室の中、隼鷹が切り込んだ。
「そのPTSDと提督が倒れたのには何か関係あるのか?」
「ああ」
長門は少し息を吸ってから続けた。
「それになってから、提督は慢性的な不眠症や感情の麻痺に苦しんでいる」
「感情の麻痺って…………、今は感情の起伏が少ないけど、しっかり笑ったりしてくれるじゃん」
「今はな、川内よ。今はいくらか改善している。ただ相変わらず不眠症は治ってはいない。それに、あいつは無理やり働いて昔のことをフラッシュバックすることを回避し続けている」
長門は堅い顔を崩さない。それに対して、他の皆は司令官の初めて聞く側面に少なからず動揺しているようだった。当然だ。今まで一緒にいた人が精神病を患っていると聞かされれば。ましてや、今回は倒れた要因にもなっているとなると。
長門は咳払いをする。
「それよりもこれからの話が重要だ。しばらくは提督なしでやっていかないといけない。今回の被害で分かったと思うが、提督の存在は大きい。いない、それだけでこのような結果となるくらいだ」
「ええ、それは分かり切ったことでしょう」
沈黙を続けていた広瀬さんはここで口を開いた。その声色は厳しいものだった。そして、どこか非難めいた目線を長門に向けている。
「今が正念場というのは、長門さんが言わずとも皆理解しています。皆が知りたいのはそんなことではない。知りたいのは隊長の詳細でしょう」
「…………」
長門は何も答えない。
「わたくしも、ワタルさんと同意見ですわ」
「僕たちがかつていた黒風隊は…………、いわば対深海棲艦の特殊部隊でした。しかし、その存在意義は僕がいた頃とその前では大きく違ったんですよ」
「…………」
「ワタルさん…………」
「最初の頃は、本当にただの捨て駒だったんですよ」
「え?」
皆、驚くどころか、絶句している。
「ちょっと待ってよ。艦隊のサポートをする部隊じゃなかったの?」
「僕が所属する頃はそうでしたよ、川内さん」
「で、でも、そんな話聞いたこともないよ? 第一にそんなひどいことをこの時代にできるわけないじゃない」
驚愕する川内とは違い、広瀬さんは驚くほど冷静であった。そして、細い顎に指を添えて答えた。
「できたんだよ、それが」
「は?」
ますます驚く川内に広瀬さんは説明した。
そもそも黒風隊に配属される人物はどんな人だったのか。それは親族がいない孤児であった者たちだった。例え、死んでもそれを悲しむ者はいない、気づきもしない、問題もない、とても都合がいい存在だったと。彼らに与えられる任務は常に特攻に近い。真正面切って深海棲艦に立ち向かい、奴らが黒風隊に気を取られている間に黒風隊もろとも砲撃する。そんな扱いであったと。
「よくここまで生き残りましたよ」
広瀬さんは苦笑しながら言うが、私たちは笑ってもいられない。黒風隊の存在は知っていても、そんなことは知らなかった、そんな表情だった。
「あの人は何度も見ているんです。仲間が死ぬ瞬間を。生身の人間が砲撃に当たる瞬間を。簡単に人が弾け飛んだと、言ってましたよ。そんな瞬間を何度も見て正気でいられる方がおかしいと思うんですよ」
私は司令官がふと見せる表情を思い出した。ただ遠くを眺める司令官を。その目は無機質を通り過ぎて、本当にガラス玉なのではと思うくらい濁りきった目だった。その自嘲めいた司令官の表情が、私は好きではなかった。
まるで生きたくないと言わんばかり。今いることを後悔しているのか。そのまま海に身を投げ出してしまうのではないか、と不安になる。
その姿は軍神ではなかった。死神だ。死神が彼に纏わりついているように思えた。
彼には希望がないのだろうか。生きているとこを悔いているのか。その瞬間だけを切り取るなら、彼は間違いなくPTSDを患っているのだろう。でも、そうではないと思えることもある。
彼には、彼には表情が──。
しっかりとある。
そうじゃないのか。感情の起伏が少ないと
いや、そんなことはない。PTSDだったとしても、彼はそれを癒つつあるはずだ。
「隊長は常にギリギリの状態で戦っていたんです。でも、それも親友を失ったことで決壊してしまった。全ての感情に蓋をした」
「広瀬、もういい」
長門がそう静止する声を上げるが広瀬は止まらない。
「そんな隊長に、僕は何もできなかった。僕はあれほど隊長に救ってもらったのに。でも、今がその恩を返す時だった思ってます」
「もちろんだ。あたしたちだって、提督に恩返しの一つや二つする気満々だぜ?」
隼鷹の言葉に呼応するかのように、沈んでいた空気が変わりつつあった。やはりここは民間軍事会社"鎮守府"だ。一人一人の癖は強いが、こうなったときの結束力はどこよりも強い。
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俺のこれまでの人生は、自分の性格が良くも悪くも強く作用してきたものだと言える。
俺は記憶がある頃には親はおらず、消極的な性格が災いして孤独なものだった。体格も同年代の子たちに比べれば小さく、他の子からしてみれば絶好の虐める対象であった。いくら殴られても、仕返しすることもできず、助けも求めれなかった。大事にしてきたクレヨンを捨てられたこともあった。
昔からだ。こういう時に声をあげればいいのに、それができないのは。
そんな俺に手を差し伸ばしてくれる者がいた。
そいつは、女であるのに誰よりも快活で、なによりも腕っ節が強かった。忘れもするまい。いじめっ子に立ちはだかり、男顔負けの強さで追い返したことを。そして、何よりも明るい笑顔で俺に手を差し伸ばしてくれたことを。
それが長門との出会いだった。いつもただ、ぼーっと空を眺めている俺のもとにいつも来てくれ、"何してるんだ? "と声をかけてくれた。あまり動かない俺を引っ張って遊びに無理やり参加させたこともあった。それからは俺は頻繁に彼女と一緒になることが増えた。
ただ、うまくいかないこともある。自分たちは里親を待つ捨て犬だ。しかし、時代が時代だった。深海棲艦のせいで、子供を引き取る余裕がある家庭などほんのわずかだ。いつまで経っても俺たちに新しい親が来ることはなかった。だが引き取る子は増え、成長していく。そうなると孤児院の負担は半端ではない。そんな時、自衛隊の方から深海棲艦に対抗するための隊員養成所の募集がその孤児院に来た。
その話によれば、入るのは無料だといい、それどころかお金がもらえるとのことだった。高校生であった俺は、迷わずその話に飛びつき、高校を中退しそこへ入った。
手続きが完了し、俺が孤児院から立ち去る際、明るい長門は泣きじゃくっていた。そして、こちらが少々痛いほど、力強く抱きしめてきた。
「どうして………、どうして行くんだ?私たちはいつも一緒だったじゃないか………」
高校生になり、面持ちは凛とした雰囲気を持つようになった長門が子供のように泣きじゃくっていた。そんな長門に対して、俺はただ笑顔を見せた。
「そんなに泣かなくてもいいだろ?今生の別れでもないんだから」
「言ってたじゃないか。どんな困難も一緒なら乗り越えられるって………」
俺もそう思っていた。どんなにきつい状況であっても彼女の笑顔を見れば、どうにかなると。しかし、少しずつ"将来"というものが近づき、意識し始めると途端に、その思いが瓦解して行くように感じていた。言ってしまえば自分たちは世間から見れば"弱者"だ。だが、守ってくれる親はいない。
かと言って、防衛手段にも乏しい。そんなと不安を抱きはじめた時に舞い込んできたのが自衛大丈夫からの話だ。そんな美味しい話には裏がある。そうは言うが、まだ子供な俺がそこまで見えているわけでもなかった。
長門は一頻り泣いたあと、その涙を拭い、その目で俺をじっと見据えた。
「お前は一度決めたら強情だからな。いくら私が言ってももう変えないだろう。だから、もう止めやしない。この先辛いこともある。そんな時は、思い切ってやめてしまってもいいんだぞ?」
「………長門は過保護だなぁ。もう昔みたいないじめられっ子ではないんだ。辛いことも苦しいことも乗り越えてやるさ」
「そうか………。なら、言うことはもう一つだけだ。絶対に私たちのことを忘れないでくれ」
「ん?そんなこと、君の印象が強すぎてやろうとしてもできないよ」
「………次会った時に、すぐに思い出さなかったら承知しないからな」
「はは、それは恐ろしいな。まあ、そんなことはないさ。自衛隊は楽な道ではないことは分かっているし、あとは気持ちだけだ」
これから自分は、慣れたこの場所から去っていく。新しい場所で、自分がどうなるかはわからない。だからこそ、自分に言い聞かせるように言い放った。
「………きっと、明日はいいことばかりさ」
また、間隔空きましたがまだ投稿してます。
次も長くなるかもしれません。気長に待ってください。