朝。
生徒たちも徐々に集まり出し、静かだった教室が、にぎやかになってくる。
そんな中、ゼノヴィアは落ち着かない気持ちだった。
しきりに隣の席をチラチラと見やる。
ホームルームが始まるまで、あと10分。なのに、佐久間隼人が未だに姿を見せない。
それだけで、ゼノヴィアは無性に落ち着かなくなってくるのだ。
(どうしたんだろう……?)
何か用事がある訳ではない。
しかし、隼人が自分の隣にいてくれるだけで、何となく今日という日を安心して過ごせる気がしてくるのだ。
その隼人がいないというのは、ゼノヴィアにとっては何とも落ち着かない気持ちなのである。
(ちょっと、探してみるか……)
思い立ったゼノヴィアは、廊下へと出た。
廊下へと出たところで、その探し人と鉢合わせる。
「──おう、ゼノヴィア。おはよーさん」
「おはよう、隼人」
友人の顔を見て、ゼノヴィアは安心して朝の挨拶を返した。
そしてそこで、彼が額に汗をかいている事に気付く。
「どうしたんだ、隼人。汗だくじゃないか……具合でも悪いのか?」
「チャリンコ漕いで来たんで汗かいただけだよ」
隼人は答え、教室に入り、席に着いた。
そして鞄からタオルを取り出して、顔を拭く。
ゼノヴィアもトコトコと後に続き、隣の自分の席に座った。
「隼人、“ちゃりんこ”とは何だ?」
「自転車の事だよ。寝坊して遅刻しそうになったんでな、それで今日はチャリ通だ」
「チャーリー2?」
「チャリ通だよ、チャ・リ・つ・う。チャリンコ通学、略してチャリ通」
「なるほど」
また一つ、日本語を勉強したゼノヴィアであった。
「ちゃんと許可は取ってあるんだろうね?」
「当たり前だろ。闇乗りなんてアホな中学生のやる事だ」
隼人は答えながら、タオルと入れ替わりに水筒を出した。直飲みタイプのそれは、中に冷えた麦茶が入ってる。それを三口飲んで、鞄に戻した。
「闇乗り……許可なしにチャリ通する事か?」
「正解」
「やっぱりか。……ふむ、それにしても、自転車か……今の時期なら走行風が気持ちいいだろうな」
「朝方はな。帰りは生温いだけだ。街の中を、涼しくなるくらいかっ飛ばす訳にはいかねーだろ」
「それもそうか。隼人、君の自転車を見てみたいな」
「あー、昼休みにな」
「ありがとう、隼人」
ゼノヴィアは早くも、昼休みが待ち遠しくなってきた。
◆
昼休み。
弁当を食べ終えたゼノヴィアは、隼人に連れられて駐輪場へ向かった。
駐輪場は裏門のそばにある。
アスファルトで舗装された広場に、鉄筋コンクリート製の大きなあずま屋があり、その中に生徒たちの乗ってきた自転車やバイクが並んでいた。
隼人が乗ってきたのは、濃いブルーに彩られたクロスバイクだった。メーカーのロゴがゴールドで描かれており、ハンドル部分にはオプション品のバスケットが取り付けられている。
「おお……なかなかカッコいいな……!」
そのカラーリングが、自分の相棒たる聖剣デュランダルを彷彿とさせて、ゼノヴィアは一目で気に入ってしまった。
「俺もそう思う」
素っ気なく返す隼人だったが、中学時代から愛用している物を誉められて、悪い気はしない。
「……乗ってみるか?」
キラキラと目を輝かせて、いろんな角度から自転車を眺めるゼノヴィアに、隼人は聞いてみた。
「い、いいのか?」
「駐輪場から出なけりゃあな」
隼人は言いながら、U字型のロックを外して愛車を広場に出す。
「ありがとう、隼人!」
ゼノヴィアは小さな子供のようにはしゃいで、自転車にまたがった。
スカートが翻り、その下が見えそうになって、隼人が早速後悔したのはまた別の話である……。
そんな事には全く気付かず、ゼノヴィアはペダルに足を乗せて、ぎこちなく漕ぎ始める。
広場の中を、フラフラしながら危なっかしく走り回った。どうやら自転車は初めてらしい。
後ろから支えてやろうかと思った隼人がゼノヴィアに近付いた瞬間、彼女はついにバランスを崩して転倒した!
──かに見えたが、間一髪隼人がゼノヴィアの身体を抱きかかえて、支える事に成功した。
自分から見て向こう側に倒れそうになった少女を、かなり強引に抱き止める形となり、自転車だけがガシャンと音を立てて倒れる。
隼人は動けなかった。
決して狙った訳ではない。狙ったところで出来る事ではない。
しかし、ああしかし……彼の両手は、ゼノヴィアの胸の豊満な膨らみを制服の上からガッチリと鷲掴みしてしまったのである……ッッ!! まさに運命のイタズラとしか言い様のないハプニングであった。
「……す、すまん……ッッ!!」
「──?」
慌てて手を離し、震え声で謝罪する隼人に、しかしゼノヴィアは首を傾げた。
「何故君が謝るんだ?」
「いや、あの、その、む、胸、が、だな……その……」
「私を助けようとしたために起きたアクシデントだ。下心があった訳じゃないだろう? 私こそすまなかった。君の自転車を倒してしまって」
「いや、そいつはどうせあちこち結構ボロボロだから、今更傷の一つや二つは、むしろウェルカムだけど……」
「そうなのか……でも、何だか申し訳ないな……」
ゼノヴィアは少し考えてから、隼人と向き合い、彼の手を取った。
そして、何を思ったか、その手を自分の胸の膨らみに押し当てる。
「お、おい……」
「せめてものお詫びだ。男は、女の大きな胸が好きなのだろう?」
「いやいやいやいやいや! た、確かに好きだけど、これはまずい! スッゲーまずい!」
「何故だ? 私の胸は君の好みではないのか? それなりに自信はあるのだけどね。イッセーだって、毎日私の胸を物欲しそうに見ているぞ?」
ゼノヴィアは隼人が慌てふためく理由がわからず、またもや首を傾げた。
隼人は強引にゼノヴィアの胸から手を離す。
「アイツを基準に考えちゃあダメだ! さっきも言ったけど、こいつ結構ボロボロでちょっとぶっ倒れて傷が付いても大した事ねーんだよ! なのにおっぱい触らせてもらったりなんかしたら、むしろこっちがお詫びの貰いすぎになるだろ! さっきもうっかり触っちまったのに!」
「あれはアクシデントだ、気にしないでくれ」
「気にするわ! つーかお前も気にしろ! ……いいか、ゼノヴィア。今みたいなのは、本当に好きな人に──友達とかじゃあなくて、恋人とか旦那さんとか、そういう関係の相手にしてあげるもんだ。軽はずみにやったりなんかしたら、お前は誰にでも胸を触らせるはしたない女の子だと思われちまうぞ。だから気を付けろ!」
隼人はゼノヴィアの両肩を掴み、強い口調で言った。
「ふむ……そういうものなのか……わかった。君がそう言うのなら、以後気を付けるよ」
「わかればいい」
隼人は自転車を起こして元に止めてあった場所に戻す。
「ゼノヴィア。俺、トイレ行ってくるから、先に教室戻ってろ。道、わかるよな?」
「ああ、大丈夫だ。じゃあ隼人、また後で」
ゼノヴィアはそう言うと、一人パタパタと教室へ戻っていった。
隼人は近くのトイレに入ると、洗面所でたわしまで使って、念入りに手を洗った……これが私のせめてもの罪滅ぼしですと言わんばかりの勢いで……。