満月が出ているが、鬱蒼と生い茂る木々に遮られて、月光が地上まで届かないため、辺りはとても暗かった。
小学生くらいの男の子が一人、泣きながらその暗い夜の山中を歩いていた。
夏休み、母の里帰りに同行した佐久間隼人は、近くの山で『探検』と称して一人で遊び回っているうちに、道に迷ったのだ。
何度も木の根でつまずいて転んだせいか、あちこちに泥と葉っぱがくっついていた。
──ふと、少年の足が止まった。
古びたお堂が一軒、ポツンと建っているのだ。
暗い森の中でも、何故かはっきりと見えた。
隼人はそのお堂の階段を上り、恐る恐る戸を開けてみた。
中に入るなり、少年は驚き、竦み上がった。
中には、天狗が一人、座って酒を飲んでいたのだ。
まだ小学生とはいえ、立っている隼人が見上げてしまうほどの大きさだった。
山伏姿で、赤ら顔の中心から伸びる鼻は、それだけで隼人の腕ほどありそうだ。近くに転がる一本歯の下駄は、隼人の椅子代わりに使えそうなほど大きい。
「何だ、貴様は」
野太い
隼人は泣きそうになるのをこらえ、つっかえつっかえしながら名前と自分の住所(この場合は祖父母の住所となる)を告げ、道に迷った事を伝えた。
「お家に帰りたいです。このチョコレートあげるから、お家まで送ってください」
半ズボンの尻ポケットに入れっぱなしで、体温と気温で溶けてフニャフニャになった板チョコを震える手で差し出し、お願いしてみる。
「何故俺が、そのような事をせねばならぬ。
返ってきたのは、冷たい返事だった。
少年の心に、改めて絶望が押し寄せて、隼人は大声で泣き出した。
「泣くな、うっとうしい!」
怒声が雷鳴のように響き、その激烈な声色に、隼人はピタッと泣き止んでしまう。
「俺の力を写してやろう。それを使って、どこへなりと好きな所へ行け。二度と面見せるな」
天狗は言うなり、懐から羽団扇を取り出し、それで隼人の顔を鼻っ柱を叩いた。
少年は大きく後ろに吹っ飛び、お堂の外へと放り出されてしまう。
起き上がった時、さっきまでいたお堂は消え去っていた。
いったいどこへ消えたというのだろう?
そんな疑問を浮かべながら辺りを見回していた隼人は、お堂の消失以外の変化に気付いた。
さっきまで暗かった森の中が、とても明るい。飛んでくる蚊の動きすらはっきりと見て取れる。
不意に視界が変わった。まるで高い空から見下ろしているみたいに、自分のいる場所やその周辺の景色が、俯瞰視点で見えた。
自分の左手の方向に、民家が集まっているのが見える。祖父母が住む村だ。
視界が元に戻ると、隼人は近くの木を見上げた。高さは、十メートル以上あるだろうか。
軽く屈んでからジャンプすると、まるで空に吸い上げられるかのように軽々と、木のてっぺんにまで到達した。
てっぺんの枝の上に立ち、辺りを見渡すと、村の灯りが遠くに見えた。目を凝らすと、母と祖父母が村の大人たちと一緒にいるのが、望遠鏡で眺めているかのようにはっきりと見て取れた。
隼人は枝を蹴って、そちらの方角目指して跳んだ。
猛烈な風が自分の体を運んでくれたように、少年には感じられた。
そう思った次の瞬間、自分は母の前に立っていた。
◆
隼人は不意に目を覚まし、今自分が部屋のベッドで寝ているのだと認識した。枕元のスマホで確認すると、夜の二時だ。
「変な夢見ちまったな……」
小さい頃の遭難の記憶だろう。それが、最近読んだ山の怪談の影響か、変な風に脚色されてしまったようだ。
「夢じゃないよ」
男の子の声がした。
見れば勉強机の椅子に、一人の少年が座っている。
それは、小さい頃の隼人自身だった。
「僕はあの日、山の中で本当に天狗様に会ったんだよ。そして天狗様の
(──今、コピペって言った?)
言った。
「でも、その力を調子に乗ってホイホイ使っちゃったせいで、みんなから怖がられたんだ。それでお母さんにまで怖がられるのは嫌だったから、僕は神通力を封印したんだよ。
あれの事かと、隼人は納得した。
時々不意に視界が切り替わるのは、天狗の神通力の一つ『天眼通』、俗に千里眼とも呼ばれる能力だったのだ。
確かに役に立った。つい最近も体育のドッジボールで村山と片瀬を助けたり、ゼノヴィアの恥ずかしい忘れ物を見付けてやる事が出来た。
「ホントは大人になってから戻すつもりだったけど、近々必要になりそうだから、今戻しておくよ」
小さい方の隼人は椅子から下りると、壁のクローゼットを開ける。
そして中から、大きな
「これを開けたら封印が解けて、また天狗様の神通力を自由に使えるようになれるよ」
「……そもそも、お前は何なんだよ。俺自身忘れてた事を、なんで知ってるんだ」
「僕は君で、君は僕だよ。神通力と一緒に、それを手に入れた経緯とかその辺の記憶も封じちゃえば変な欲も出ないだろうと思って、あの時の記憶も封じといたんだ。僕はあの時の佐久間隼人さ」
「あの時の……山で迷ってた時の……?」
「違う違う。神通力で女の人のスカートめくったり、嫌いな奴の頭に小石を落としたり、友達の無くし物を見付けてやったりして良い気になってた時の僕だよ」
小さい自分に言われて、隼人は思い出した。
駒王町に帰ってから、自分は神通力でイタズラをして回っていたのだ。
余りにもオカルトな現象ばかりなので、周りは隼人が犯人だと断言までは出来ないものの、それでも『コイツといると変な事が起こる』と認識して、避けるようになったのだ。
このままだとお母さんにまで怖がられて避けられるかも──そんな危機感が、力の封印に踏み切らせたのだ。
「近々必要になりそうだって言ってたな。それはどういう意味なんだ。何か悪い事が起きるのか?」
「開ければわかるよ。じゃあね」
小さい隼人は大きい隼人に手を振ると、そのままスゥーッと姿が透明になり、消えていった。
隼人はしばし考え込んだ後、思いきって櫃の蓋に手を掛け、開いた。
中には、山伏姿の自分が横たわっていた。今度は今の自分と同い年だ。
そのもう一人の自分が、閉じていた目をパチッと開き、ギョロリと目線をやった。
そしてゆっくりと手を伸ばしてくる。
隼人がその手を握ると──。
◆
「おはよう、隼人」
翌朝。
駒王学園の正門で隼人の後ろ姿を見付けたゼノヴィアは、いつものように子犬めいて小走りで駆け寄る。
「おうゼノヴィア。おはようさん」
隼人は振り向くと、いつも通りに挨拶を返して──、
「ゼノヴィア。スカートめくれてるぞ」
と言った。
思わず下を見るゼノヴィアだったが、何ともなってない。
「後ろだ、後ろ」
「ああ……」
背負っているバッグに引っ掛かって、確かに後ろ側がめくれている。パンチラ防止用にスパッツを穿いているとは言え、この状態で登校してきた自分に恥ずかしくなって、ゼノヴィアはかすかに頬を赤らめた。
「ありがとう隼人」
教えてくれた事に礼を言いながら、めくれていたスカートを直す。
「いいって事よ。次からは気を付けな」
「うん」
ゼノヴィアはコクンと幼い仕草でうなずき、隼人と並んで教室へ向かう。
自分の正面にいた隼人に、何故後ろのスカートがめくれている事がわかったのか。
それについては特に深く考えたりもせず、服装を注意してくれた友人の優しさを嬉しく思うだけであった。