姫島朱乃が十歳の頃の事である。
母を殺され、父を拒んで一人放浪生活を送っていた彼女は、T県のとある町にある廃寺に潜伏していたが、森の中で大叔父の率いる修験者の一団に捕まってしまった。
力を封じる特殊な術を仕込んだ網で捕らえられ、修験者に取り囲まれた幼い少女に、大叔父が歩み寄り、敢えて感情を抑え込んだ冷たく乾いた声で言った。
「ようやく見つけたぞ、朱乃。此度はもう逃さぬ。姫島の汚点を今日こそは摘ませてもらう」
「それ、校長先生の話並みに長くなるやつ?」
──そう返したのは、朱乃ではなかった。
一同が声のした方を見やれば、一本の大木の根本に、男の子が一人立っていた。歳は朱乃と同じか、やや下くらい。野球帽を被り、オレンジ色の無地のTシャツとジーパン、スニーカー。肩から透明なプラスチック製の虫籠を下げ、手には虫取網を持っている。
「…………何だ貴様。いつからそこにいた?」
「最初から」
大叔父の問い掛けに、男の子は平然とした顔で答える。
(い、いたかしら……?)
朱乃は放浪生活を通して勘も鋭くなっていたと、この時既に自覚していた。しかも追っ手やこの土地に棲む悪魔を警戒し、周囲に気を配ってもいた。なのに、この男の子に気付かないものだろうか? しかし言われてみれば視界の端にチラチラと、明らかに草花とは違う色合いが見えていたような……。
「……こんな所で、何をしている?」
「見りゃわかるだろ」
大叔父の次の問いに、彼は手にした虫取網を小さく振り、肩に下げた虫籠をポンポン叩く。
「悪いけど続きはよそでやってくれる? あんまり騒ぐとクワガタが逃げちまうから」
「み、見られたからには生かしてはおけぬ! 悪く思うな!」
修験者の一人が、男の子の胸元目掛けて錫杖を突き出した。鋭く尖った石突きは、男の子の背後の木の幹に突き刺さる──が、男の子はいなかった。
「思うに決まってるだろ」
と声がするが、四方を見渡しても、どこにいるのか姿が見えない。しかし修験者はふと、仲間や標的である小娘の視線が自分に向けられているのに気付いた。正確には、自分の頭の上に。
「うおっ!?」
不意に、頭がズシリと重くなった。何か重い物を乗せられたかのようだ。耐えきれずたたらを踏み、ついには転倒してしまう。
倒れた修験者が見たのは、あの男の子。しかし足首の辺りから、黒い翼が生えていた。足首の外側の翼は1メートルくらいはありそうだが、内側の方はその半分の長さもない。その翼を広げて、空中に立っていた。
男の子は繰り出された錫杖をいつの間にかかわしており、そしていつの間にか修験者の頭の上に立っていたのだ。しかし誰にも、その動きが見えなかった。気が付いたら頭の上に瞬間移動していたようにしか、見えなかった。更に奇異なのは、いくら子供とはいえ、自分の頭に人が乗っているのに、その修験者がその事に全く気付かない事だった。
「何者だ、小僧……人間ではないな?」
「人間だよ」
大叔父の言葉にそう答えた後、男の子は奇妙な事を付け加えた。
「テングだけど」
「何を戯れ言を!」
別の修験者が二人、同時に地を蹴って跳躍した。手にした錫杖で、一人は男の子の足を狙って横薙ぎの一撃を、もう一人は頭上からの打ち下ろし。
縦と横から頭と足を狙った、同時二重攻撃!
これもむなしく空を切った。
男の子は──朱乃の傍らに立っていた。そして右手を広げて──団扇で扇ぐように──一振りすると、風が吹いた。強烈な突風が修験者の一団を吹き飛ばして一ヶ所に集めた。朱乃を捕らえていた網も吹き飛ばされ、修験者たちの上に覆い被さる。
「な、何だこれは!」
「おのれ小癪な!」
「ぬうう、力が、吸い取られて……!」
「おのれおのれおのれ!」
修験者たちは網から抜け出ようともがくが、異形異類さえ絡め捕る特別製の網から、そう簡単に逃れられるはずもない。しかも謎の突風で一ヶ所に集められた、押しくら饅頭状態である。お互いの動きがお互いを邪魔してる有り様であった。
男の子がもう一度右手を一振りすると、彼等の姿はパッと手品のように消えてしまった。
「まぁ、浅いから溺れたりはしないだろ」
男の子はあらぬ方向を見て、何やら呟いた。視線の先には、森の木々を挟んで街道が走っている。
「…………あ、ありが、とう?」
朱乃はおずおずと礼を言った。しかし、余りにも突然かつ未知の助っ人の登場に、そして自分とほとんど変わらない年齢の助っ人が、大叔父たちを苦もなく追い払ってしまったという現実に理解が追い付かず、半ば疑問形になってしまった。
男の子はそんな朱乃に目もくれず、さっき自分が立っていた木の下に戻り、木の幹を改める。クワガタがどうのと言っていたので、それを探しているのだろう。しかし幹にはクワガタはおろか、他の虫もいない。
「あ、あなた、お名前は? 私、姫島朱乃っていうの」
そんな彼の背中に問い掛けると、
「ヒコサンブゼンボー」
そんな言葉が返ってきた。
「ど、どうしてこんな所にいたの?」
「クワガタ捕りに来たんだよ。ここにでっけぇーのがいるのが見えたから。お前等のせいで無駄足だったけどな……んー……」
ここで男の子は奇妙な仕草をした。両手の指を丸めて筒を作り、それを双眼鏡のように自分の目に当てがったのだ。
「おっ、見っけ!」
少ししてから、嬉しそうにそう言うと、彼の足首の黒い翼が大きく羽ばたき、凄まじい風が一瞬だけ巻き起こった。
思わず目を閉じるほどの強風であったにも関わらず、地面の落ち葉は一枚も舞い上がる事はなく、朱乃の母親譲りの黒髪や穿いていたスカートも全くなびかない、奇妙な風。
それが止むと、男の子の姿はどこにも見当たらなかった。
それから数分ほどして、リアス・グレモリーが現れて朱乃の身柄を引き取った。
森とは街道を挟んで反対側にある河の中に落ちていた大叔父たちとも話を付け、
・姫島の管轄領域に立ち入らない事。
・行動する時は常にリアスのそばにいる事。
この二点のみを条件に、朱乃には手を出さないという約束を取り付けたのだった。