青年期の激流 作:こたつ猫
窓を開けると冷たい風が当たり、少し体が強張る。空は曇り、光りを通していない。ひどく暗い空だ。蜜柑を取り、部屋に戻る。彼女の座るソファの対面に座り、皮を剥く。
あの夏から時が流れ、学校側に変化があった。進路に向けて動き出してきたのだ。学年集会で自分の将来について考えるよう勧めたり、高校のパンフレットの配布、保護者向けの配布物にも、ご家庭で話合って下さいと書いてあったり、色々本格的になってきた。それに伴い生徒達も自然と、進路関係について話題にするようになった。みんな身近な人間の進路が気になるらしい。誰々はどこに行くの?とか、あいつはあそこに行くらしい、とかそんな話がクラスで流行っていた。そんな会話を休憩時間に手洗いへ行った時、耳に挟んだ。休み時間は似たような話題がそこら辺で展開されていた。話をする相手も、気もないので手洗いから帰って、席に着いたらいつも勉強していた。誰とも話さず、静かに淡々と。内心、彼等の事を馬鹿にしていた。無駄な時間を過ごしてるなぁ、そんな喋る暇があるなら、やるべきことをやればいいのになと。そんなことを考えながら学校生活を送っていた。勉強よりも会話を優先にする。そんなのは他人の自由で、そこに対して自分がジャッジするのはおかしいことにも気づくこともなく……。
いつからか3回に1回は彼女の家で暇潰しの相手をすることになった。きっかけは良く分からない。たぶん、こちらの財布事情を重んじられた可能性が高い。少し恥ずかしい。蜜柑を彼女と食べながら、話をしている途中に、ふと気づいてしまった。いつも俺を馬鹿にする奴らと同じことを学校でしていたことに。彼女は俺の話に対して善し悪しの判断は下さない。それはあくまで推測だが、人を尊重してるからだろう。他人を自分の物指しで測るのは、烏滸がましいことだし、そんな権利もないとでも言うかもしない。俺は学校で話をしている奴らの時間を無駄と判定し、笑っていた。そんなことより勉強しろよと。それは彼らのことを深く知ろうとせず、表面的な行動での判断だ。それはそこでしか得られない、とても貴重な、大人になっても残る大切な時間だったのかもしれない。時間は有限だ。どう過ごすかは他人の自由だ。勉強しようがしまいがそれはその人の人生だ。確かに、話をするより、時間を惜しみ行動した方が実利が有るかもしれない。だが、その他人の生き方に対して判断を下し、馬鹿にする。それだけはやってはいけないことだった。人を自分の価値観で一方的に測り、心の中で見下す。浅くなぞり、他人を揶揄する。俺が他人にやられ経験し、忌避していたことだった。他人の噂に乗せられ、馬鹿にしてきた奴らと根本的には同じことを俺はしてしまったのだ。俺の顔が陰ったことに気づいたのか、彼女が声を掛けてくれたた。何でもないと返答すると。それ以上は深く踏み込まず、そうかと返ってきて、静かな時間が訪れた。とても穏やかで静粛な空気。それとは逆に俺は激しい自己嫌悪に襲われていた。自らへの憤りや、悲しみ。色々な感情がぐちゃぐちゃになり、訳が分からなくなった。片手で顔を覆い、天井を仰ぐ。声は零れず、涙だけが顔を伝っていった。みっともない姿見せてしまったとか、そんなことを考える余裕がなかった。静かに、静かに泣いていた。胸の中は雑然としているのに、それとは逆に外へ現れる行動はひどく小さかった。気づけば隣に気配があった。顔にタオルを押し付けられ、そのまま横に倒される。後頭部に温かい感触が伝ってくる。物静かに彼女は語る。
「今まで私に対して、応えようとしてくれたお礼みたいなものだよ」
穏やかな声色だった。憐れみは含まれていなかった。ただ、愛でもない。上の者が下の者に与えるようなものでもない。あくまで、対等に。そんなものだった。瞼が重くなり意識が遠退いていった。
暗闇の中に自分がいる。
なぜ俺は彼女を好きになっただろう。恋に理屈はないと言われてみれば、その通りかもしれない。だが、頭が理屈で埋め尽くされていた時に美人を見て、そこまで惚れるとはそんなに思えない。前まではよくわかってなかった。ただの一目惚れで片付けていて、その先を考えていなかった。弱い自分を見るのが嫌で思考停止していた。見たくなかったんだ。今なら少しだけ分かる。多分、限界だったんだと思う。弱っていた所に、綺麗な物を見て惹かれた。美しかったんだ。とても。頼れる物もなく、独りだけ、辛くて何かにすがりたかった。痛みに晒され続け、何も感じてないフリをしていた。本当は痛いのに。何で彼らは痛みを与えてくるのか、俺が悪いのか?俺が悪かったのか?答えなんて返ってこない。返ってこない問いをいつも胸に抱いていた。叫び出したかった。誰も助けてくれない。狭い学校が世界の全てだと思っていた。そんなことはないのに。揺るぎない何かが欲しかった。裏切られない何かが欲しかった。目に見えない確かなものが欲しかった。人を信じたかった。でも傷つられた。信じることが怖くなった。傷つきたくないから離れ、平気なふりをしていた。自分を守るために。でも本当は人恋しかった。寂しかった。いつも飢えて、求めていた。誤魔化すように別の物に逃避していた。そうやって色んなどろどろしたものが自分の中で暴れて、いつも自分自身で傷つけていた。
暗闇の外に自分がいる。
でも今は辛くない。渇きは止まっている。求めていたものは手に入るかもしれないし、入らないかもしれない。多分、それでいいんだと思う。
目が覚める。タオルをどけて体を起こす。彼女は本を読んでいた。いつも通り、静穏な雰囲気を纏い、そこにいた。その姿を見て、自然と言葉が出た。
「ありがとうございます」
何に対する感謝なのかは良く、自分でも理解していない。でも、言いたかった。自分の、彼女に対する、様々な思いがそこには込められていた。ただの自己満足かもしれない。でもそれでいいんだ。彼女がいたことで、俺は確かに救われた。周りが全員敵に見えていた。でも、全てが自分の敵とは限らない。最初から決めつけてフィルターをかけるのは何か違う気がする。相手を完全に理解することは難しい。一生をかけても、全てを知ることはかなわないかもしれない。でも、お互いに歩みより、尊重することは出来る。まだ、誰にでも歩み寄ることは俺には出来ない。でも、少しだけ、ほんの少しだけ、人に優しくなれる気がした。
音を聞いた彼女は気どらずに返事をした。
「どういたしまして」
綺麗な笑顔だった。憧れとか、愛情とか、そういものはいまいち分からない。自分が彼女に抱いていた想いは漠然とした恋愛感情だった。一緒にいるだけで緊張していた。いつ、この関係が終わるか、恐れていた。必死に追い付こうとして、どこか張っていた。相手の望む姿になる。それは自分には合っていなかった。無理をしていた。自分らしく、それに加え相手を尊重する。それでいいんだと、そう決めた。この選択が間違っていると人に言われるかもしれない。でも正解かどうかが重要じゃないんだ。後悔しない道が大切なんだ。今はただ、彼女の側に居るだけで幸せを感じている。
「何か良いことでもあったか?」
「ええ、良いことがありました」
「それは良かったな」
「ええ、本当に」
「少年が笑ったの初めて見たぞ」
「そうですか?」
「いい顔してるな」
「ありがとうございます」
気づいたら夜になっていた。ゆったりと、穏やかに談笑していた。とても楽しく、心落ち着く時間だった。彼女の家を後にして、家路に着く。ふと上を見上げると、暗い雲が晴れ、空が姿を現している。
美しい夜空が広がっていた。