鈴木悟の人生において胸を張って輝ける記憶と言い切れるのはユグドラシルの記憶だった。大切なものはユグドラシルだった。両親も、兄弟も、恋人も、縁深い上司も同僚も後輩もいない彼にとって、リアルは限りなく彩度の薄いものだった。反比例してユグドラシルは美しかった。高い彩度で彼の人生を彩った。
その世界の理の中で、今彼は生きている。終わり行く荒廃した世界ではなく、可能性に満ちあふれた彩り豊かな世界で、骨の髄まで生き生きとした世界で、『生きている』。
素晴らしい世界だ。得がたい世界だ。肺腑があれば緑豊かな大気を肺胞の一片も空で残さぬために吸い込んだだろう。味のわかる舌があれば生物の姿を感じられる食事を口にしただろう。潤す喉があれば透き通った湖に唇をつけただろう。鈴木悟にとって夢みたいなことができる世界だ。
そんな世界に友人を誘わない理由なんてあるだろうか?
鈴木悟は、モモンガは、アインズ・ウール・ゴウンは、光満ちる図書室の中、美しくおぞましく素晴らしく身の毛もよだつ女神に白骨の手を伸ばした。それは彼の答えだ。宝石色の目をした女神は満足そうに頷くと、彼の手を取った。
命を賭ける。友に会うため。友を楽園に呼ぶため。その決断をした骸骨の眼窩に浮かぶ炎にアンデッドらしからぬ凜とした決意の色をみて、リュウズは心底楽しげに笑いながら歩み出す。図書室を出て、廊下に至り、彼女はずんずんと階下に向かって進んでいく。
「奇跡、ですか」
進むほど暗くなっていく廊下の途中でアインズがぽつりと呟く。松明も採光用の窓もないため四方を石壁に包まれた闇の中、リュウズは振り返りもせずアインズに頷いた。
「ええ、奇跡。モモンガくんは奇跡の末にテーブルに座る権利を得たの。おめでとう!」
「なんだかそこまで嬉しいことには思えないような気もしますが」
「普通の人みたいなこというのねぇ、アンデッドになったのに」
くすくすと笑う声が彼女の唇から漏れる。その声には先程の飲み込まれるような存在感を感じない。注意深くリュウズを観察したアインズは押さえ込んでいた小さな緊張を真似事の溜息にして吐いた。
「そりゃあ、そうですよ。俺がなったのは
「あら、私だって
それ本気で言ってるんだろうか。アインズは真剣に悩み、悩んだ末に言葉を紡ぐことをやめた。何を言ってもやぶ蛇になる気がしたのだ。揚げ足を取られるというのも考えられる。とにかく、デミウルゴスやアルベドの勘違いで踊らされるのとは違う形で踊らされるだろうという未来はよく見えた。それを回避するためにはただ黙ればいい。だからアインズは黙り、黙ったアインズをリュウズはちらりとみて「臆病な人」とわらった。
臆病だからこそ生き残ってこれたのだ。伊達に情報メインのPK術を納めてはいない。もしもアインズの顔が骸骨でなければ彼の顔は不満げに歪んでいただろう。そんな不満を雰囲気だけで感じ取ったリュウズは、いつもであれば「からかってごめんなさいね」くらいのことを言いそうなものなのにそんな形だけの謝罪もなく先を進んでいく。それが彼女の興奮度合いを示しているのだとアインズが気づいたのは、廊下をいくつか曲がって部屋を過ぎた先にある一枚の扉を開け、その奥の部屋に入る時だった。
部屋はそこそこの大きさだった。具体的に言うと八メートル四方か。ナザリックの自室ほど大きくはないが、エ・ランテルの元都市長室現魔導王執務室ほど小さくはない。床と天井にはモザイク様に石が敷き詰められており、そこがそれなりに手の込んだ部屋であることを示していた。中央に四角のシンプルなテーブルがあり、向かい合うようにして椅子が二脚置いてある。
部屋に入って奥の壁は壁を取り払われ一面ガラス張りになっていた。ガラスの向こうに広がるのは、階下に広がる円状の闘技スペース。それをみてアインズはピンときた。
「もしかしてここが攻略の時に戦った場所ですか?」
アインズが問うとリュウズは頷いた。
「そうですよ。私はここで仲間の装備と命を賭けてこの城の攻略に挑みました」
リュウズはがたがたと椅子をずらして座る準備を整えながら答える。このへんかな、いやもうちょっと後ろかな…と四苦八苦しているのは彼女の下半身が蛇だからだろうか。女性を無碍にして悦ぶ趣味はないもののこの人を今この状況で手助けするのはなんだかしゃくだという理由だけでアインズは四苦八苦する女性を見なかったことにした。逆に気になったことを聞いてみる。こういう時は相手のペースに嵌まる前に自分のペースに持ち込めばいいということを彼はギルドマスターの経験からよく知っていた。
「この城ってそんなに価値のある城に見えませんが…何かいいドロップ情報でもあったんですか?」
ユグドラシルプレイヤーならば当然の疑問だろう。アインズはこの問いに当然是が返り、けれど彼女の気分によってドロップ情報の内容か隠されると思っていた。けれど彼の予想は裏切られる。この城ではいつものことだが。
「いいえ?ドロップなんて無いですよ」
結局いい感じには座れなかったらしいリュウズが椅子をずりずり引っ張って部屋の端によけている。次はおそらくテーブルだろう。力仕事をしながらリュウズはアインズの方を身もせずに否定した。
「えっならなんでここ攻略したんですか」
「面白そうだったからです」
テーブルを持ち上げ、迷った挙げ句に彼女はそれを入り口のドアの前に置いた。侵入者があれば入るのに一瞬困る位置だろう。だが机も扉も防御力はあってないようなものだ。アインズは彼の拳でたたき割れば壊れそうなもので作られたバリケードそ視界の端に納めつつ、閉じ込められたなど微塵も感じずにリュウズを凝視した。
「は?」
「おもしろそうだったから、です」
かみ砕いて言い聞かせるように、リュウズはもう一度答えた。その手は壁をあちこち叩いている。木の壁の一部を叩いた時僅かに音が違うところがあり、彼女はその端にある小さなへこみに指を入れて引っ張った。直後、からくり扉がぱたんと開いて顔を出す。中に入っていたのはクッションの山。アインズの脳裏に「押し入れ」という単語が降って湧いたが彼はその言葉を思考の隅っこに押しやった。
だって中に入ってたクッションを抱えて振り返ったリュウズの笑みが、にんまりとした、獲物を前にした蛇のような笑みだったのだ。肌がないのに鳥肌がたつ感覚を覚えたアインズは、無意識のうちに一歩後ずさりそうになって、そんな自分に驚愕した。その驚愕はすぐに強制的な精神の平定で穏やかにされたが、それで驚きの全てが消えるわけではない。
リュウズはぽんとクッションを放る。少し埃っぽいが座れないほどじゃない。黒色のクッションを受け取ったアインズは、青色のクッションを抱きしめるリュウズの唇が笑みの形のまま開くのを見た。
「仲間の命と装備をチップに得る物がわからない賭けをする。すっごくぞくぞくするとおもいません?私思ったんですよ。仲間も。ギルマスに賭けますわー、って。皆で言ってくれて」
「私賭け事なんてやったことなかったからけっこう序盤で殆ど毟られたんですよ」
「でもね、仲間はどうせやるなら最後までやろうって言ってくれて」
「まあ言われなくてもやるつもりだったんですけど」
「それで勝って、私達はここを手に入れたんですよ」
「仲間の命で賭けをするって、すごく楽しいことでしたよ」
アインズは思う。るし★ふぁーさんごめんなさいと。
あなたって結構常識人だったんですね、と。
目の前の狂人から、精神だけでも逃避するために。