第1話
―――ああ、もうそろそろか。
長年酷使した肉体が、油を差していない機械が崩壊の間際に上げるような悲鳴を上げている。自分という個体が社会という一個の大型機械を生かすパーツの一部だったと考えるなら、この滑稽な例えは例えではなく真実になるだろう。
そんなことを考えていると、自分の口から漏れる咳という不快極まりない音がいくらか紛れる気がした。だが、これはあくまで「気がする」だけだ。濁った咳には目を背けたくなるような色の痰が絡みつき、肉体の限界を告げている。窓から遠い外を見やれば汚染物質の漂う濁った霧の向こうにアーコロジーの灯が見えた。あそこに住めれば自分の肉体はもう少しくらい長生きできるのだろうか。そんなことを考える自分の思考を、男は嗤った。だってそんなことは天地がひっくり返ってもできない。というか、アーコロジーの外であって六十代まで生きられたことが行幸といっていいだろう。富裕層のおこぼれを頂ける立場にいる我が身の幸福を喜びこそすれ、嘆くなど、自分よりも不幸な者達に知られれば怒りと嫉妬の拳を向けられること間違いなしだ。
―――ああ、それでも。もう少し生きたかったなぁ。
男はゆっくり目を閉じる。男の肉体は限界を告げていても、男の心は生きているのだ。それが叫ぶのだ。まだまだいろんな事を見たい知りたい感じたい、と。男は知ることについてとても貪欲だった。男はたくさんのものを愛した。最たるものはホラー映画だろうか?友達とやったTRPGも捨てがたい。毎度毎度ダイスの女神に踊らされてとんでもない展開になって驚いたものだ。人が遙か彼方に置き忘れた神々の物語も好きだった。生きる土地が違えば創世神話はこうも変わるのか、いや、変わらないのか、など興奮したものだ。
―――ああ、これは、死の間際に見るというものか。
たくさんの思い出が脳裏に過ぎって消えていく。暗い室内で見た古い映画の粗い画面。転がるダイスの音。めくる本の香り。駆け巡った偽りで夢であった世界。そこで出会った少なくとも素晴らしい仲間達。リアルでは決して手に取れない摩訶不思議な物質達を組み合わせて様々なものを作った。多くの物語を参照して、自分で物語を作ってみた。それは素晴らしい経験だった。
人工呼吸器と他の生命維持装置の機械音を押しのけて、仲間の笑い声が聞こえる。仲間の顔が見えてくる。
もう何年も前にのめり込んだゲームの記憶が何よりも鮮やかに蘇るのは何故だろう。動かぬ四肢と思い通りにならない体。せめて腕だけでも動けば、目の前に広がる夢に仮初めでも手を伸ばせるのに。病室の窓越しに見える、かつての友の顔に、手を伸ばせるのに。
―――えっ。
アーコロジーが見えていたはずの窓の向こうに、かつての友の
男は考える。死に神に限らず夢想の世界は見る人によってその姿を変えるという話は文字通り世界中に見られる話だ。その証拠に、例えば日本においても古代ギリシアにおいても「この世とあの世を隔てる河」という概念があるが、日本においてはそれは「三途の川」と呼ばれ、ギリシア神話では「ステュクス」と呼ばれている。前者はただ広く暗い河であるとされているが、後者は女神の姿を与えられている。それと同じように、自分は死に神を知覚した今死に神という存在にかつての友の顔を当てはめているのだろうか。それって至極失礼なことだったりしないだろうか。
死にかけの頭でぐるぐると思考する男の目の前で、ガラス窓の向こうの骸骨はそのガラスをスウッとすり抜け室内に入ってきた。間違いなくこの世の存在ではない。それは確かだ。じゃあやっぱり死に神なんだろうか。思考がぐるぐるする。
生命活動を維持するための装置に繋がれながら、男は目の前の骸骨を凝視する。黒のローブを主体とした装飾的な姿は本当にかつての友そのものだ。骸骨の顔の眼窩には、その奥に眼球の代わりに赤く揺らめく炎があった。その炎が、じいと自分を見つめ返しているのと感じる。しばし見つめ合うこと、一分。
その後、骸骨はすう、とベッドから身を離し、男が横になったまま骸骨の姿の全体を見られる位置にまで下がった。足元までたっぷりとした黒のローブに覆われている。ひらりと翻ったローブの下から、顔に合わせたように骨の手がでてきた。その両手には計九つの指輪が光っている。かつてはその指輪の全ての効果を覚えていたはずだ。ゲームが終わって何年も経った今、一つも思い出せないが。
骸骨は骨の手を露わにすると自分の膝を折った。何をする、と思っている間にささ、と彼は正座する。毎日掃除されているがたぶん床って汚いはずだ。なんでそんなところに正座する。男が困惑のうめき声を上げようとした刹那、骸骨はもっと男を困惑させる行動に出た。
正座して、ぴんと伸ばした上体を、ぐわりと前に倒し。
現した両手を頭の横にばしりとつけ。
おそらくは白く何もない額を、全力で床にたたきつけ。
骸骨は、懐かしい声で叫ぶように言った。
「すいませんでしたアアアアアアアア!!!!」
―――何がだよ。
男…いや、かつて電脳世界でタブラ・スマラグディナと呼ばれた大錬金術師は、心の中で盛大に突っ込んだ。全力で土下座する、友の姿をした骸骨顔の死に神に向かって。
くじという名のダイス、栄えある最初を40分の1から引いたのはタブラさんでした。
……いや、これ、マジな話そうなんですよ。ほんとに私クジ作ってよく混ぜて引いたらタブラさんでてきたんですよ。ねぇ―――!信じてェ―――!!!