話は少しだけ遡る。
「信頼を、絆を、賭けましょう!」
喜悦に満ちた女の声が響くと同時にアインズの視界が暗転して暫く。アインズは唐突に全身を生暖かい風のような、細かい触手のような、ぐちゃぐちゃのスライムのような、とにかく「不快」としか表現しようのないものが撫で回すのを感じた。あまりの不快感に腕を上げて全身を払おうとしても、感覚ばかりで実体がないため払えない。
なんだよこれ、と憤慨の色滲む声を出すと、至近距離で「うふふ」と笑う声がした。
「リュウズさんですか」
声でわかったが一応聞いておく。うふふという声が頷く気配がした。
「ええ。ただいま『リアル』に向かっているところですよ。あなたのような常人さんに見せるべきではない景色が広がっているのでもう少し待っていてくださいね」
「見せるべきではない、ってどんな光景ですか」
「んんー。TRPG風に言うと…失敗で1D100、成功で1D10のSAN値チェックが入る光景って所かしら?」
「ひどい」
「あと成功しようが失敗しようが判定が入った瞬間に確定でSAN値が10減ります」
「これはひどい。確定で一時的狂気の判定が入るじゃないですか」
アインズは全身をぺしぺし叩いていた両手をそっと眼窩に翳した。アンデッドにSAN値チェックが入るのかどうかはわからないが、SAN値チェック云々で例えているのが同じ異形種の女性なのだ。入る可能性があるような気がする。ならば見ないに越したことはない。一時的発狂に今この瞬間なった場合、自分という存在がはじけ飛ぶような予感がしたのだ。きっとそれは予感などという曖昧なものではなく確信と言うべきなのだろうが。
「見ざる言わざる聞かざるのみ猿みたいになってますね」
「ほっといてください」
「はいはい。さて、この辺でいいかしらね」
アインズがじっと目を押さえて待っていると、脇の下辺りにすうと手を入れられ、直後、とすんとどこかに下ろされる感覚があった。「目を開けてもいいですよ。といってもモモンガくんにはないけれど」という言葉を聞いて手を除ける。すると目の前には暗い色の小汚い世界が広がっていた。異世界の「小汚い」が例えば糞尿や埃やせいぜいカビ程度だったのに対して、こちらは生物の体を蝕む汚染物質である。空気中に丁寧に散布された毒物の粒子にアインズは心持ち顔を歪めた。骨の顔は歪みようがないので、あくまで心持ちである。
彼が居るのはどうやらどこかの集合住宅の窓の向こうの狭苦しい空間のようだった。百年以上前には窓の外に「バルコニー」とか「ベランダ」というものがある住宅が多かったようだが、いまこの時代にそんなものがあるのはアーコロジーだけだ。汚染物質で満たされたこのような外界にかようなものがあるはずもなく、アインズはとても狭い空間に絶妙なバランスで立たされているのだと理解した。
「どう?元の世界に一時帰還したご感想は」
そんなアインズの上から声が聞こえてくる。見上げれば上の階の狭苦しい空間に長い蛇の下半身をひっかけたリュウズがぶらんとぶら下がるようにしてアインズを見つめていた。木の枝にスタンバイして獲物に飛びかかる前の蛇のような姿勢である。その獲物である自覚があるアインズは姿勢についてとやかくツッコミするような無駄な行為は行わず、一度辺りをぐるりと睥睨した。
「汚い世界だ」
「同意するわ」
短いながらも心からの同意が籠もっていた。同意の奥を探ればもしかすると彼女の内面の一つも見えてくるかもしれない。けれどアインズはなんとなくそれはダメだろうなと察した。女の深淵は下手に覗くと大変なことになるのだ。アインズはそれをアルベドで学習していた。彼女の場合は隙あらば深淵を見せつけてアインズを引きずり込もうとするのでそれから逃げているだけなのだが。
「ところで俺ってこっちの世界ではどうなっているんだ?」
下手にアルベドのことを思い出すと帰ったときにどういう噴火をするか想像するだけで震えそうになる。怖いことわけのわからないことはとりあえず後回しにしておこうという人間の頃から会得している精神安定化を発動させたアインズは、ふときになってリュウズに聞いてみた。仲間のことばかりが気になってそこらへんがすっぽりさっぱり抜けていたのだが、結局自分がどうなっているのかの確認をすっぱり忘れていたのだ。今ここでちょっと聞いてもいいだろう。
「ん?ああ、ユグドラシルプレイヤーの顛末?」
「そう」
「私は少なくとも死んでいた。最も、元から死にかけの状態だったけど。それ以外の人のことは気にならなかったから調べてない」
「それでいいのか」
「それでいいのよ。気になるなら、あなたの後ろで死にかけている人に聞いてみれば?」
ついとリュウズが指さしたのはアインズの背中にある窓だ。アインズが振り返ると、頑丈なはめ殺しの窓ガラスの向こうには人間が一人ベッドに横たわっていた。体の側にあるのは生命維持装置か。
「あれは?」
「私は君の縁をたぐりやすいものからたぐっただけよ」
「つまりわからないと」
「近いて、あなた自身が縁を感じれば見たことなくてもきっとわかるわ」
アインズは自分と病室を隔てる窓をぐるりと見た。二回見た。二回見ても鍵を見つけられなかった。
「この窓はめ殺しなんだけど」
「死に神が不法侵入しないと魂取れないってんなら死に神なんていないでしょうね」
くすくすと笑いながら、彼女はすうと身を乗り出して窓ガラスに人差し指を付けた。その指先が、すうとガラスを突き抜ける。
「なるほど、俺たちには実体がないってことですか」
「そういうことね、さ、入って入って。さくっと魂刈り取れるかチャレンジしてきなさいな」
「人を死に神のように言わないでください」
「ヒトじゃないくせに何を仰るのか」
「これは死を克服した魔術師ってコンセプトなんです!」
「そういうのいいから」
拘りをばっさり切られたアインズは若干しおしおしながら病室の窓をすり抜け、ある意味見慣れた、ある意味懐かしい無機質な空間に入り込んだ。真っ平らな床、真っ白な壁、過剰に清められたために薬品の匂いがこべりついた空気、どれをとっても「病的」だ。あちらの世界とこちらの世界、金がかかっているのはどちらと聞かれたら間違いなくこちらなのだろうが、アインズは改めてこちらの世界に対しての評価を「価値の無いもの」とした。文字の下に二重線を書くほど強調した。であればここから仲間の魂を救い出し、吸い込む大気に草の香り満ちるあの世界に連れていくことは栄誉と幸福ある行動といえるだろう。
そういう点を主眼に置いて、どうやってあちらの世界のプレゼンをするか。ゆっくり歩きながら高速であれこれ考えたアインズであったが、病室のベッドに横たわる死体みたいな顔色の男を見た瞬間、プランの全ては吹き飛んだ。吹き飛んだから、「彼」に会ったらまず最初にしようと考えていた行動を半ば無意識的にぶちかました。即ち土下座である。全身全霊を込めた、魂の土下座である。
「えっ」
窓の外でリュウズが目を丸くしている気配を感じる。だがモモンガは、これを譲るわけにはいかなかった。自分にはこうせねばならぬ理由があるのだ。故に彼は、腹の底から、いや腹は無いのだけどそんな気持ちで、叫んだ。
「すいませんでしたアアアアアアアア!!!!」
アルベドの創造主、タブラ・スマラグディナであった男に。