たっち・みーという男はゲームでもリアルでも完全に勝ち組カテゴリに属する男である。
世界の半数以上の人間は彼の人生の概要を聞いて羨むか嫉妬するかするくらいには恵まれた人生を送ってきた男である。
けれどそれは絶望と縁が無いという訳ではない。生まれた人間が必ず死ぬように、幸福の影には絶望が必ず息を潜めて獲物を狙って目を光らせている。
高い山に登り切ればあとは下るしかないように、彼の幸せはある時を境に崩れていった。といっても彼の崩壊と絶望は、例えばモモンガのような貧困層から見れば「舐めてんのかお前は」と怒りマックスで殴られるようなものだった。
あこがれた警察官の実態は単なる富裕層の肉壁だった―――子を養えるほどの給料と適度な余暇が得られる職なだけよいではないか。
美しい妻はこの世界では逃れ得ぬ肺の病に係り命を落とした―――そんな病は貧困層では珍しくない。
愛しい子どもの体に逃れ得ぬ不治の病が見つかった―――そも生きて生まれただけ恵まれている。
富裕層の不幸と絶望は貧困層にとっての当たり前でしかない。だからモモンガはたっち・みーの状況を聞いて「なんでそんなことで」と思った。だってそれは彼にとっては身近なことだったのだ。当たり前のことだったのだ。仕事に満足できないことも、家族が居なくなることも、自分の力で現実がどうしようもないことも、彼にとっては膝を屈する理由ではなかったのだ。
だからモモンガは思わずそう言おうとした。そんなことで絶望なんてしてたら馬鹿みたいじゃないか、いやあなたは馬鹿だ、と。しかし、それを口にしようとしたモモンガを、たっち・みーを糾弾するような台詞ばかり吐いていたリュウズが片手を上げて静止した。
曰く、絶望というのは人それぞれだから「そんなので絶望するなんておかしい」なんて言えるわけがない。
恋に破れてビルから飛び降りる人がいる。
家族が死んで飲まず食わずになる人がいる。
いじめられて首を吊る人がいる。
就職に失敗して電車に飛び込む人がいる。
仕事が嫌で、お金がなくて、人生が退屈で、命を諦める人がいる。
「絶望と幸福の尺度なんて人それぞれ。人が自ら命を絶つ理由、生きることを諦める理由なんて千差万別。だから、彼に君の価値観を押しつけても意味ないわ。おやめなさい」
そう淡々と口にするリュウズの目には凪ぎきった知性と理性があった。
彼女は人間として生まれながらも人成らざる者に変じ、変じた上で人がその生涯で目にすることの無いものを多く見てきた。だから知って理解もしているのだ。目の前で膝を折った男の人生がどれほど幸福であろうとも、その幸福を全て塗りつぶす絶望があることを。他人にとっての当たり前が当人にとっての絶望となりえることを。
人間としての自分をとうの昔に摩耗で失い、公平な定規のみを手元に残した彼女は、人の幸福と絶望が他人によって測れぬ主観的なものだとよくよく理解しているのだ。手元の定規が意味のないものだとわかっているのだ。
けれどモモンガにはわからない。彼はまだアンデッドに
たぶん、それを言わせなかっただけ
モモンガは言葉を押さえられ、必死に考える。こんなのあんまりだ、きっと何か、まだできることがあるはずだ、と。
そこにはたっち・みーを異世界に連れていって昔のように仲良くするという目的はもう無かった。モモンガはそれを一時期放り出してまで、かつて自分を助けてくれた友をなんとか助けたいと願い、必死に頭を働かせた。
けれど、必死なモモンガの前でぱき、ぱき、と渇いた音を立ててたっちの体が崩れていく。魂というものが壊れる音は、聞いていて気持ちのいいものではない。
周囲の戦闘音はすっかり止んでいる。おそらくはどこかで膠着状態にでも陥っているのだろう、会議場の高くて遠いところからメガホン片手に言い争うような音が断続的に聞こえるだけになっている。だから渇いた破砕音は酷くはっきりその存在を主張している。そんな音聞きたくないとばかりに、モモンガは白い骨の手をぎゅっと握って顔を上げて叫んだ。
「……っ、たっちさん!リュウズさん!」
「な、んですか」
「はいなんですかモモンガくん」
一つ目の返答はたっちの、二つ目の穏やかな返答はリュウズのだ。モモンガは二人のうちリュウズの方に顔を向けた。その眼窩の奥の赤い炎が、あかあかと、赤々と燃えている。
「たっちさんのことはわかりました。でも、だったら最後に娘さんに会わせてあげたいんです!」
その声に、言葉に、たっちは顔を上げてモモンガを凝視した。まさか、とか、うそだろ、とか、そんなことが本当に…?とか、そういった言葉が彼の顔に書かれている。
対してリュウズはひょこりと肩をすくめて首を振った。
「モモンガくん、今私が言ったことを聞いていました?あのね、その人もうここから動かすのも危ないの」
「でもあなたならできるでしょう」
「できるできないって話じゃなくて、しちゃいけないの」
「できないんですか?」
「……」
「ここで死んだ人を、ここじゃないところに連れていくことは、できないんですか?」
問いの形を取っていたが、モモンガの顔には確信の色があった。
―――できないとは言わせない。
―――だってあなたはずっとそれを対価に俺が足掻くのを見て楽しんでいる。
モモンガは最初から答えにたどり着いていた。そのことに、問われて気づいたリュウズは少しだけ目を見開き、直後深いため息を吐いた。
「モモンガくん、卑怯よ、それ」
「何とでも言って下さい。それで、できるんですか、できないんですか」
「えーえーできますとも。可能ですよ。行くところが異世界からこっちの世界な分楽なものです。その分魂にかかる不可も少ないですしね。
でも、だいぶギリギリになりますし、ほんとギリギリになりますし、いずれ消える魂にそんなことをしても意味はないとは思いますよ?それと、向こうに行かないのならば判定は失敗としますよ?」
リュウズの目がたっちの体を見ると、彼の体の胸辺りまで大きなヒビが入り、頬の辺りにも細かなヒビが入り始めていた。これほどわかりやすい「崩壊間近」な様子はそう見られるものではない。行き交う言葉と視線を感じ縋るような目をして顔を上げた男に、モモンガは骸骨の顔に笑みの雰囲気をのせて優しく手を伸ばす。
「たっちさんが満足できるなら俺はそれでいいです。失敗でもいいです!さ、たっちさん、娘さんに会いに行きましょう!」
「も、ももんがさん…」
「さぁ早く!聞いてたでしょう!?時間ないんです!」
白い手が待ちきれないとばかりに手を伸ばして男の手首を掴み、引っ張り上げる。もしも彼らに余裕があれば、この構図がかつてたっち・みーがモモンガを助けた時と同じものだと気づいたかもしれない。
けど、気づけなかったことは不幸なことではない。何故なら気づいてしまい、この後のことに少しでも希望を持ってしまえば、
その先に横たわる巨大な絶望に、心を木っ端微塵に砕かれていただろうから。