自由人のための天空城【完結】   作:おへび

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第14話

 それは初めての感覚だった。例えるなら、ひねり出されるマヨネーズと言えばいいのだろうか。自分という存在の四肢を、胴を、頭を、己の肉体を肉体たらしめる全てを奪われ、まるで粘土のように丸められ、改めて作り出されるような感覚。あまりの苦しさに悲鳴を上げようともそも口も声帯も肺もなく、逃れようと手を伸ばしたくとも腕がない。暴れるための足もない。だからひたすら押し流される先に少しでも早くいけるよう願うしかない。

 

 はやく。

 

 はやく!

 

 はやく!!

 

 願うままに押し流されている方向に意識を向けると、視界を知覚するための眼球がないというのに光をみた。いや、たぶんそれは見たのではなく「見た気がした」というのが正解だ。けれどそんな些末な違いを気にする余裕もない。先へ、その先へ、あの光の下へ。思考というより本能と現す方が相応しい衝動が形を失った身の内側を満たし、己の身を先へ進ませる。

 光に届き、その光の縁に手をかけ、身を乗り出したその瞬間。

 

 目の前に広がったのは、なんとなく見覚えのある綺麗な夜空だった。

 

「―――は」

 生きていた頃は絶対に見たことがないもの。けれど何か見覚えのあるもの。一体どういうことかと首を傾げてみる。

 はて一体どういうことか、と思いつつ視線を下げると、自分の手が目に入った。人間の手ではない。鳥の足のような手だ。思わず凝視した瞬間、己の背の上に「べちょり」という水音を立てて何かが現れた。それが誰かなど考えるまでもない。気配でわかる。

「ね」

 ねえちゃん、と。彼は反射的に言おうとして、けれど言う前にぐらりと身が傾ぐのを感じた。途端に強い風が全身を撫でる。どういうことかと思って目を周囲に走らせれば、自分が落下しているのだと気づいた。しかし待って欲しい。見たところ今彼がいる「場所」はどう考えても地上まではあと何秒もかかる高さだ。ということは、このまま落下すればどうなるか。熟れて落ちたトマトもびっくりなことになりやしないか。

 そのことに気づいた瞬間、彼は叫んだ。反射的に身をすくませ、彼は叫んだ。

「死ぬううううううう!!?」

 びりびりと大気を震わせる叫び声。開いた口に唇の感覚はなく、硬質な嘴の感覚が、それが今生の我が身我が肉体なのだと告げてくる。だがそんなことはどうでもいい。それを堪能する前に、鳥人を堪能する前に、今現在彼は進化先としてトマトを選ぼうとしている。

 刻一刻と近づく地面。現実世界で見たことの無い茶色をしている。ユグドラシルでだけ見られた土色が彼の前に広がっていく。死ぬ前にせめて一度だけでもシャルティアに会ってみたかったなぁ。そんなことが彼の思考に過ぎる。

 思わず身をすくませ、衝撃と痛みを覚悟し目を閉じる。背中の姉を下敷きにすれば多少は痛みを逃れられるかもしれない。けど、そんなことできないししたくもない。彼は弟であるけれど、弟ということはつまり男なのだ。例え相手が姉だとしても、女を盾にすることなんてしたくない。あっでも戦闘中は別だ。この姉は防御力に特化した盾役なのだから。

 痛みの自覚を前にしてその現実から思考だけでも尻尾を巻いて逃げ出していく。あと数秒。あと3秒。あと2秒。あと1秒。

「――――、…?……!?」

 けれど、あと1秒先に来ると思われた痛みは来なかった。自分の目の前で、ぴたりと赤茶けた地面が止まっている。どういうことかと考えてぐるりと首を回すと、本能的に見やった方向、古びた建物の上に杖を差し出した状態で荒い息を吐く「少年」を見つけた。見覚えがある。ばりばりある。そしてよく見える。色の違う左右の目に薄く張った涙の膜も、そこからつうとこぼれ落ちる涙も、硬直した頬も、荒い吐息で上下する胸も、見える範囲にあるものは全てが見える。人間の目ではあり得ないレベルで、詳細に。

 だから彼の目は見ることができた。彼の唇が震えながら開き、言葉を口にする瞬間を。その唇が紡いだ言葉は。

 

「お゛、おが、え゛り、なざい…!」

 

 親愛と情愛と懇願と切望と熱望エトセトラ。ありとあらゆる胸を熱くする感情の奔流をぐちゃぐちゃに混ぜてそれをそのまま言葉の型に入れてむりやりひり出したような、万感籠もった言葉だった。

 

 

 

 マーレ・ベロ・フィオーレが至高の御方の降誕現場に遭遇できたのは完全な偶然だった。彼はナザリック内のあちこちで不規則に現れる至高の御方に皆が狂気乱舞し始めてから、たぶんぶくぶく茶釜はお茶会の会場に現れるだろうと思って姉とともにずっとそこに張っていた。

 だが数日前にナザリックの混乱を見て取って期と見たらしいどこかの誰かが軍隊を率いてナザリックに襲撃をしかけるという事件があり、その後処理に追われて、お茶会現場から出ざるをえなくなってしまった。その仕事は姉でもできる仕事であり、姉弟のどちらかがやればいい仕事だったためどちらもやりたくないと顔をしかめた。故に純正なるジャンケン対決の結果負けたマーレが外に出ざるをえなくなったのである。

 どうか戻ってきますように、と祈る心の反面、僕がいないときに戻ってはきませんように、と願いつつ、彼は彼の可能な最高速度で仕事を終わらせた。そして彼はナザリックに戻り、お茶会会場にまた戻ろうとしていた。

 指輪の転移機能を使えばナザリックの好きなところに戻ってこられる。外から戻ってきた彼は、外に行く際預けていた指輪を返してもらって左手薬指にはめ直し一瞬でお茶会会場に戻ろうとした。けれど、ふと思い立って第一階層から第六階層まで歩いて移動することにした。何故そう思ったのかはわからない。後のことを思えば何かの意思の思し召しと思うのが適当だろうか。とにかく彼は歩いて移動し、故にお茶会会場に戻る途中で走っていた円形劇場の廊下の一つで聞き慣れた声を耳にすることができたのだった。

 

 ―――死ぬううううううう!!?

 

 物騒な言葉。やかましい声。ナザリック外の存在が出したのであれば髪の毛一本分も気にすることのないそれを、マーレの尖った耳が捕らえる。捕らえた瞬間彼は電撃攻撃でも受けたかのようにびたりと立ち止まり、音のした方向を振り返り、考える前に走り出した。魔法を使って己の足を強化し、古びた空間を走り抜ける。開けた外に出た瞬間、間違えるはずの無い至高の御方の気配を総身に感じ、その気配の源が地面に激突しそうになっているのを視認した瞬間、彼は握っている杖を前に掲げて叫んだ。

「<全体飛行>!」

 魔法が空を走り自由落下でそこそこの速度に達していた塊に接触する。途端に何かに掴まれたかのように急激に速度を落とした塊は、地面に接触する直前でその自由落下を止めてふわりと浮いた。

 塊は二つの影でできていた。一つは下にある、鳥っぽい見た目の影。純粋な鳥ではない。もう一つはピンク色のどろどろした塊。その姿を見た瞬間、マーレの中に形容しがたい感情の奔流が吹き荒れた。

 

 ―――どうやってお迎えしようか。

 

 ―――き、気持ちよく、お迎えしたい、よね。お、お茶だけじゃ、足りないかな…

 

 ―――最低限がお茶とかのおもてなしだよ!服はこれでいいかな?ぶくぶく茶釜様が選んで下さった一番の服だからこれでいいんだとは思うんだけど、もうちょっと特別感が欲しい気も…

 

 ―――ドレス、とか…着る?

 

 ―――マーレが?

 

 ―――や、やだよぅ…

 

 ここ数日姉と交わしたいくつもの会話。その全てがふっとんだ。今の自分は帰ってきたばっかりで汚れているし、髪も乱れているし、だいたい目からも鼻からもたいへん色々出ていて見苦しい。それでも、それでも、今以外に言える時がなく。というか押さえる術がなく。

 マーレは口の中に入り込むしょっぱい涙を飲み込みながら、今まで寂しさで流した涙と苦しさで得た痛みの全てを吐き出すように、叫んだ。

 

「お゛、おが、え゛り、なざい…!」

 

 ―――会いたかった、至高の御方。僕たちの創造主。母上。

 

 後に続けるべき言葉の全ては、涙に飲まれて流れ去っていった。

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