西暦2138年某月某日。
日付を跨いだ瞬間に一つの夢の世界が永遠に失われると決まっていた日。
その夜、午後10時を少しだけ回った頃。一人の男が病院に現れた。ぱりっとしたスーツ、見る者全てに好印象を与えそうな整った顔、引き締まった肉体、そういったものをバランスよく兼ね備えた男だ。
彼は病院に受診のために来たわけでは無い。難病にかかって入院している娘に会いに来たのだ。その証拠に彼の手には女児向けの玩具が入ったポップな絵柄の袋があった。
重病人ばかりがいるフロアの奥に男が向かう。いくつかの閉ざされた扉を通り過ぎたところで、男はドア横の名札の上に花の形の折り紙が飾られている部屋に着いた。それは彼の娘がまだ元気だった頃に手慰みにと与えた折り紙で作ったものだ。一体いつからそこに飾られているのか、壁に接着されていない花びらの一つが重力に逆らえず下に向かって垂れ下がっている。
それに一瞬視線をやった後、男は娘の病室に入室した。時刻は夜の遅い時間。当然のように、娘は寝ている。寝息は聞こえない。か細すぎるのと、病院という施設自体がもつ消しきれぬ音の方が大きいからだ。
「やぁ」
個室だけど、囁き声の挨拶をする。病院の微かな騒音の中に添えるが如き小さな声で、来訪を伝える。答えが無いのはわかっている。気にすることなく、男は持ってきた見舞いの品を彼女が起きた時に見える位置に置いて、そのまま娘のベッドの横に腰掛けた。
彼が見つめる先ですっかりやせ細った娘が眠っていた。占い師に見せれば「死相が浮かんでいる」と言いそうな、死体のような顔色だ。もしも彼女が貧困層の人間であったなら、彼女の父が警察官という高給取りな職業に就いていなかったら、彼女はきっと今この時間まで生きながらえることはできなかっただろう。そう思わせる顔色だ。
彼は座ったまま寝息を立てて眠る娘の顔をじいと見つめた。その脳裏に、数年前に亡くなった妻の面影が過ぎる。
「っ…」
思わず手を伸ばして娘の頭を撫でて体温を確認してしまった。まだ僅かに暖かい。それに安心しつつ、彼は数日前に主治医に言われた言葉を思い出した。
(そろそろ覚悟を決めておいてください、か…)
薬での延命。機械での延命。そのどちらも大枚はたけば可能なのが今の世の中だ。噂によるとアーコロジーの一つを牛耳る巨大企業の一つである蛇川財閥の一人娘が電脳化手術に適合せず全身麻痺になり、毎月目玉が飛び出るような金をかけて延命されているらしい。脳の一部だけでも生きていれば体が動かなくても「生きる」ことができるという証明の最たる例が彼女だろう。もっとも、彼女の場合は本人の意思ではなく、蛇川財閥の血統主義に基づき「胎」を残すことが目的の延命らしい。
そんな巨大企業対して男には金がない。いや、一般的な基準からみればあるのだが、そんな、世界でも数人しか出来なさそうな治療を行うほどの金はない。さらに生命倫理的な問題もある。頭蓋骨を割り開き、脳に電極を差し、様々な薬品と様々な機械に体をつなげて生きることは、果たして本当の生と言えるのだろうか。そんな生を生と呼んでいいのだろうか。いやそれは生という監獄に人の魂を押し込め、死という救済から人間を遠ざける愚行だ。そんな生は本人が希望する生ではなく、他人が望む我が儘でしかない。
男は娘の頭を撫でていた手をぎゅうと手を握りこんだ。娘は自分の玩具ではないのだと、手のひらに痛みを刻んで言い聞かせるように。そしてそのまま立ち上がり、病室を出ようとした。男には仕事があるからだ。いつまでも娘の顔を見つめていたいが、いつ死ぬかわからぬ娘を見守っていたいが、そんなことはできない。
だが、後ろ髪を引かれる思いをしつつも彼が振り返った瞬間、彼の頭から仕事のことなど吹っ飛んでしまった。何故なら目の前に骸骨が突っ立っていたからだ。
あり得ぬものを見たことで脳内で反応の交通渋滞が起こった男は、きっかり一分後硬直から解き放たれ、男らしい悲鳴を上げながら自身の座っていた椅子を持ち上げ骸骨に殴りかかった。
一時間後。十分かけ落ち着かせ、職場に体調不良による欠勤を連絡させ、さらに五十分かけモモンガはウルベルトとともにたっちに事情を説明した。
彼らにとっての過去、たっちにとっての未来でたっちが死ぬ運命にあること。
その運命にモモンガが下手に干渉したせいで彼の魂が砕け散ったこと。
彼の目的はそんな所業を為すことではなく、たっちを異なる世界に連れていきたかっただけであること。
けれどそれが叶わぬようだから娘との最後の対面だけでもさせてあげようと思っていたこと。
それができなくて彼の魂が砕けてしまったこと。
何故出来なかったかと言えば、彼が亡くなる前に、彼の生きる目的であった娘さんが亡くなっていたからであること。
「それはつまり、私の娘がもう死にそうということですか」
強ばった顔で聞き返すたっちの目は、既に死んでいるらしく半透明のウルベルトがいる。彼は腕組みすると「そういうことになる」と答え、ちら、とたっちの娘を見た。
「言っちゃ悪いが、俺に言わせれば『もう死にそう』っつーか、『ほんとは死んでるけど無理に生かしてる』だぞ、これ」
「っ…」
「家族の命の存続を望む気持ちはわからんでもないがな…」
たっちの娘の腕にはいくつもの点滴の跡がある。今も点滴の管が彼女の体から伸びている。一体いつから起き上がっていないのだろうか、体にかけられた毛布もその下の肉体が薄いことを示すかのようにうすべったい。眠る少女の頬は痩け、髪は最低限の栄養があるだけなのかひどくぱさついている。枕元に集められた子ども用玩具の明るさが、彼女の生命力の枯渇ぶりを逆に強調しているようにも見える。
ウルベルトは半透明の身で冷静にそれを指摘する。たっちは思わず反論しようとしたが、死人に生を歌っても意味ないし、そもそもモモンガとウルベルトは両親を貧困層故の事情ではやくに亡くしていると聞いていたことを思い出し、ぐ、と口をつぐんだ。彼らにはこうやって家族と少しでも長く居ることすらできなかったのだ。何を言っても嫌味のようになってしまうかもしれない。
それに、たっち自身わかっているのだ。かの最高級の延命処置には及ばずとも、これだけのことをして生きながらえさせることが当人のためになるのか、それがわからないことに、彼自身気づいているのだ。
「だ、がっ…なら、どうすればいいんだ!」
たっちは思わず拳を自分の太ももにがつんと叩きつけながら叫んだ。彼とて娘に痛い思いをさせたいわけじゃない。おとうさん、いたい、と、泣く娘を楽にしてやりたい気持ちも確かにある。でも無理なのだ。どうしようもないのだ。
彼の血を吐くような言葉に応えたのは、モモンガでもウルベルトでもなかった。自己紹介した後彼らの後ろでとぐろを巻いて待っている女性だった。薄い青色の口紅を差した彼女の唇が滑らかに開き、言葉を紡ぐ。
「何もしなくていいわ」
「は…?」
「何もしなくても、いいわ。言ったでしょう。娘さんの命はもう長くないと。見ていたわけじゃないから確実なことは言えなかったけれど、どうやら眠っている間に逝けるらしいわね」
白い指先がゆっくりと持ち上がり、たっちの後ろで眠る少女をついと指さす。弾かれたように振り返ったたっちはすぐに娘の手を取った。その、骨と皮ばかりの手首を押さえて脈を探る。
脈は弱くなっていた。一つ鼓動する度に、段々と弱くなっていく。手の中で命が失われていく。たっちは反射的にナースコールを取ったが、それを押し込む前に病院内がにわかに慌ただしくなった。
「な、なにが―――」
「たっちさん、これは俺が前にあなたと会った時にあったテロ事件です。さっき言ったでしょう、あの時あなたが死んだことで俺はそこであなたと会えたと」
おろおろするたっちに答えたのはモモンガだった。彼にはこの喧噪にお覚えがあったのだ。
答えられた内容に、たっちは思いっきり目を見開いた。
「て、ことは私も今この瞬間死んでいた…?」
たっちの手から、ことりと音を立ててナースコールが落ちる。状況の変化と叩きつけられる情報の奔流にいよいよ理解が追いつかなくなってきた彼に、ちらりと時計を見たウルベルトは首を振った。
「いや、お前が死んだのはもうちょっと前だな」
「何故知っている」
「そりゃお前、俺があのテロ事件に参加してて、俺の目の前でお前が死んだからだよ」
「!?」
「!?」
「あ、やっぱりあなたはそのテロのテロリストだったのね」
目を剥いたのはたっちとモモンガ。あっさりとした返答をしたのはリュウズだ。呆然としている中にまたさらに情報を積み上げられたたっちは、よろ、とよろめき娘のベッドにぶつかった。咄嗟に柵にしがみつき、焦点の合わぬ目でウルベルトの半透明の体を見る。
「え、ええと、つまり、お前が私を殺してる…?」
「いや殺したのは別人。つーか、お前は生きてるけどな、今」
「一体何がどうなっているんだ…」
「リュウズさん以外みんな同じ事考えてるから一周回って無視した方がいいですよ、その疑問」
悟りきった声でそう言うのはモモンガだった。彼の言葉にウルベルトが深く深く頷き、さらに彼はがたりと椅子を引いて立ち上がった。半透明の身で一歩二歩と歩を進め、たっちの娘の顔をのぞき込む。濃い死相の浮かぶ彼女の顔を見つめ、布団の外に出ている手をつつき、彼はくるりとリュウズを振り返った。
「あんた」
「私には名前がありましてよ」
「リュウズさん。ちょっと。この子を起こすことってできるか?」
「何をしたいのかによって方法は変わりますが、おそらくは」
「あんたの言葉を信じるなら、この娘はもう死にそうなんだろ。で、この馬鹿は娘の死に目に会えなかったからさらさらーって崩れたんだろ」
この馬鹿、と言いつつウルベルトはピッとたっちを指さした。たっちは額に浮かぶ汗を拭うことすらできず呆然とした表情で話を聞いている。おそらくSAN値チェックに失敗したのだろう。そんなたっちを気にすることなく言葉を紡ぐウルベルトに、はあ、とリュウズは気のない相づちを打った。
「そうですね。まあその切っ掛けを作ったのはモモンガくんですが」
「うぐっ」
「それをしないためのやり直しの機会なんだろ、今。
なあ、この子を起こして、この子に父ちゃんとちゃんとお別れさせてやりたいんだが、いいか。大事なのはそこなんだろ」
「あーそうなりますと……ああ、うん、私が何もしなくてもできますよ。ほら」
ほら、という言葉と同時に、すう、と娘の体がぶれる。微細かつ高速の運動をしたわけではない。娘の体と全く同じ、けれど半透明のものが娘の体に重なっているからそう見えるのだ。
不思議な言い方になるが、その「質感」は今のウルベルトと良く似ていた。つまりは幽霊だ。
「―――!」
たっちの顔に、絶望が表れる。悲鳴じみた声で娘の名を呼ぶ彼の手は、娘の手をすり抜けた。まどろむような目をした娘の手は、すぐにふわりと消えていく。
「幼いし、生に諦めがついているから浮遊霊にも地縛霊にもならずに成仏するのね…まっすぐに育ったよい子なのねぇ」
「そんな、待ってくれ。嫌だ!」
「言うと思った。お嬢ちゃん。ちょっと待ってくれ」
血を吐くような叫び声。それでは止まらず消えて行きかけた少女の手を、ウルベルトはぱしりと音を立てて掴んだ。一見すると犯罪だ。一見しなくてもおっさんが少女の手首を掴んでいるので犯罪だと判断できる。なのでたっちは条件反射で叫んだ。
「その手を離せ!手を上げろ!」
「いや、俺が離したらこのお嬢ちゃんすぐに消えるぞ」
冷静なツッコミである。話の輪からだんだん押し出されていったためなんとなくリュウズと一緒に壁際に寄ってみたモモンガはもっと冷静に「いやそもそもなんで成仏しかけた魂をウルベルトさんが捕まえられたんだろう」と思ったが、特に口にすることはなかった。否、口に出せなかった。
何故か?その答えは簡単だ。何故なら彼が何か言葉を紡ぐ前に、この部屋に最初から居たにもかかわらず今の今までずっと喋らなかった人間が言葉を発したからだ。
「―――おとう、さん?」
半透明の身で、目を見開いた、たっちの娘が。
もうこの話たっちさんが主人公でよくない?