殺伐とした世界に咲く可憐な花。たっちという男にとってそれは家族であった。愛おしい妻子であった。その片方を何年も前に失い、今この時もう片方も失った。その衝撃は筆舌に尽くしがたく、故に彼は己を呼ぶ娘の声にすぐに応えることができなかった。
「おとうさん…?」
そんな彼に、半透明になった娘はもう一度声をかける。最初の言葉が呼吸に近い自然なものだったのに対し、今度の言葉は明確な「心配」の色をのせている。それを敏感に察知したたっちは止まっていた呼吸を再開し、娘に駆け寄った。だがその手は娘に触れること能わない。
生者と死者。それは明確な断裂に隔たれた存在である。互いの岸からお互いを見やることは稀にあろう。だがその手を取ることは叶わない。
「―――、―――っ…」
まるで壊れた音響装置のように彼は娘の名を何度も繰り返した。ただ逝くばかりとなったその身を、心を、僅かでもまだ自分の側に置こうとするように。その姿は紛う事なき子の死を嘆く父親のものだった。哀切を極めた慟哭が、病室の消毒液の匂いに満ちた大気を震わせる。
モモンガもウルベルトも、その鳴動に飲まれていた。彼らは幼少期に親に置いて行かれた側の人間だったために親というものの記憶が酷く薄い。微笑んだ顔も、子守唄を歌う声も、抱きついた体の温もりも、その香りも、とうの昔に彼らの記憶からは消えている。
だからこそ彼らは思う。もしも、もしも、彼らの親が生きていれば、彼らは今目の前で娘のために泣き叫ぶ男のように自分の死を嘆いてくれたのだろうか、と。
その思考が嫉妬心のようなものを呼び起こすその前に、ウルベルトは手に取る娘の手首を僅かに引っ張った。
「お嬢ちゃん」
「はい」
病院着の隙間から見える細い手を引くウルベルトに娘の顔が向けられる。その顔には混乱はあれどその度合いは低いものだった。
(理知的な光を宿した目をしている)
ウルベルトは正面から見つめた目にそう感じた。見目から判断する歳からはちょっとかけ離れた理性の色だ。きっと頭がよく判断能力に優れているのだろう。半透明の自分、泣き叫ぶ父親、部屋の隅に居るこの世のものとは思えぬ異形……そういったものを見て、何があったか、何が起こっているのか、判断できているのだろう。この壊れた大気に毒されて居なければさぞ優秀な人間に育ったに違いない。
ウルベルトは、すいと身を屈めて床に膝を着いた。目線を合わせるためだ。
「今何が起こっているか、説明しよう。落ち着いて聞いてくれるかい」
「はい。あ、でも、おとうさんが…」
「おいたっちお前いい加減正気に戻れ。ここからだぞ、本題は」
「……たっち?」
ウルベルトがたっちに向けて言い放ったぞんざいな言葉を捕まえて、娘は僅かに首を傾げる。聞き覚えがある言葉だったらしい。彼女は暫く考えて、ああ、と頷いた。
「おとうさんの、ゲームでのお名前ですか」
「そうだ。俺はこいつ…じゃなくて、たっち、さん、の、ゲーム仲間だ。まあもう死んじまってるが。ゲームでの名前はウルベルト。リアルでの名前は…死んだ身だ、いらんだろ」
「わかりました。ウルベルトさん、ですね。私の名前は―――です」
「うん」
ウルベルトはゆっくり頷いた。利発で聡明な子どもは嫌いじゃない。辺に騒ぎ立てない辺りたっちよりも好印象だ。僅かに口の端に笑みをのせつつ、彼は「さてそれでは説明しよう」と前置きをして、彼女に今の状況を説明した。
彼女はもう死んだ身であること。
彼女の死に目に会えなかったことで、たっちの心が壊れてしまったこと。
その壊れた心を助けるために、今時間を遡って過去のたっちを病院に留めて彼女の死に目に合わせてあげていること。
だというのにたっちは絶賛崩壊中であること。主に涙腺的な意味で。
何故たっちの心を助けようとしているかというと、部屋の隅にいる骸骨が、たっちの死後魂を別の世界に連れていくために誘いにきており、そも壊れたら話にならないから壊れないようにしようとしているからであること。
説明にかかった時間は体感時間で一時間ほどだろうか。二つの世界に二つの時間が絡みつき、事象がこんがらがっているので説明は困難を極めてしまった。それでも、時折たどたどしくなるウルベルトの説明を、娘はしっかりと最後まで聞いて理解した。きっと彼女は己の命の刻限を悟り理解し納得していたために心穏やかでいられるのだろう。それができていない男はモモンガに背をさすられて部屋の隅の椅子に座っている。ポケットから出したティッシュはとうに空になり、今はベッドサイドのチェストに入ったティッシュボックスを一定ペースで空にし続けている。
そんな父親の情けない姿をちらちらと見ながら、娘はウルベルトが語り終え口を閉じたタイミングで口を開いた。
「つまり、あなたはおとうさんを助けるためにここにいるってことですか」
「そ……そういうことになる……かな……」
ウルベルトが、たっちを、助ける。仲間に聞かれたら確実に一生ネタにされ続ける表現だ。これを口にした人間がアインズ・ウール・ゴウンの仲間であれば魔法の切っ先を突きつけていい笑顔で「訂正しろ」と迫れるのだが、年端も行かぬ子どもにしていい所業ではない。ウルベルトは肯定か否定か迷った挙げ句、歯切れ悪く肯定することにした。後ろで骸骨が噴き出したような音が聞こえたのは聞かなかったことにする。
ウルベルトの肯定を娘はただ肯定と受け止めた。父と母の遺伝子を素直に受け継いだ整ったその相貌に晴れやかで、誇らしげな笑みが浮かんだ。
「おとうさん、いい友達だね」
「えっ…あ、ああ…」
「ユグドラシル、だったっけ。辞めちゃったの、もったいなかったね。私、もっとおとうさんのユグドラシルの話聞きたかった」
彼女は思い出す。ゲームでの世界のことを、異世界の物語を語るように熱く語ってくれた父の声に満ちていた興奮と、心底楽しげな表情を。白熱した語りに苦笑しつつ、母が用意してくれたコーヒーとココアを二人で飲んだ時の、喉を下った熱の心地よさを。腹に収めた熱のままに、電脳化手術をしたら私もユグドラシルをやりたい、と言った時の、夢の世界に心弾ましたその時の興奮を。
彼女にとってユグドラシルは夢の世界だ。父が愛した、愛する、素晴らしい世界だ。その世界から父の友人が父を連れてこようと態々やってきたのなら、父には是非その手を取って欲しい。彼女は、幼い少女は、無垢な魂を輝かせ、心の底から愛しい家族の幸せを願う。
にこりと笑い、娘は涙で目を腫らすたっちに言った。
「行きなよ、ユグドラシル。私のことは、心配しないで」
優しい言葉だ。愛に溢れた言葉だ。ただしそれは、あくまで一方的な愛情だ。
幼い娘の無垢な愛に、たっちはがたりと椅子を倒しながら立ち上がった。そんなことはできない、と彼は涙ながらに首を振る。どこの世界に愛する娘の死を見ながら夢のような世界に旅立つ親がいるだろうか?
「お前だけ置いていけるか!」
「リュウズさん、この子も連れてく方法はないんですか」
ウルベルトは部屋の隅の闇に体を置くリュウズの方を振り返る。誰より遠い場所でこれまでのやりとりをじいと見つめていた彼女は、ぞろりと蛇の体をくねらせて首を振った。
「無いわ」
「可能性すらもありませんか?」
「可能性すらもありません。だってその子、ユグドラシルをやっていなかったのでしょう」
その子、と言いつつリュウズの手が娘を指さす。指された娘は人のようで人ではなく、目のようで目とは違うリュウズの眼球を真正面から見て息を止めつつこくりと頷いた。
「はい、やってません」
「ということは、あちらの世界にはあなたの「魂」を入れる「肉体」がないということになるわ。それじゃあ無理です。あなたという個人を完全に維持したまま向こうに連れて行く方法は、百パーセントありません」
可能性が無いものはどうしようもない。リュウズの能力らしきものは万能ではないのだ。肩をすくめて言いきった彼女に、たっちは「なら」と首を振る。
「私はそちらの世界には行けない。娘を置いて、そんな、こと」
「お前が夢を諦めることで嬢ちゃんが幸せになるわけでもないのにか?」
「それでもだ…!」
血を吐くような叫びで大気を震わせつつ、たっちはそろりと手を伸ばす。触れられぬ故に、添えるようにして、娘の頬にその手を当てる。温度も何も感じないのに確かに手と手の間から自分を見つめる丸い目に、彼は顔を歪ませた。
「子どもよりも幸せになれる親なんているか…」
「でも、でも、おとうさんが幸せなら、私はうれしいよ…?」
「お前が生きててくれることが私の幸せなんだよ…」
どうしようもない。繰り返す。どうしようもないのだ。どちらかの幸せを取ればどちらかの不幸せがやってくる。娘の幸せを取ればたっちは娘の魂の消滅を目に焼き付けて壊れて消えるだろう。たっちの幸せは、もうどうがんばっても叶わない。ならば双方不幸になるしかない。階段を上がれるのが一人しかいないのなら、二人して奈落の底に落ちるしか、一緒に居る術はない。
そんな時、人間はどうするか。大体の場合において人間はその時ともに落ちることを望む。幸せの総和が一番少ない選択肢を何故取るのか。その理由は人間の本能にある。
人間は他のありとあらゆる種族よりも「一人でいること」を恐れる。彼らは知っているのだ。孤独を理解する理性があるが故に、彩度高き目と高度な頭脳を持ったが故に、孤独が何より恐ろしいものであることを。だから彼らは幸せよりも共にあることを選択する。
その知的生命体故の呪縛から彼らを解き放つ鍵は無いのだろうか。赤信号皆で渡れば怖くない、絶望の選択皆で選べば傷を舐め合える、そんな後ろ向きな連帯感を切り裂けるものはないのだろうか。ウルベルトは心底似合わぬ絶望という表情をその顔に刻み込んだたっちの顔と、焦り出す彼の娘の顔を見ながら必死に言葉を探した。道を探した。
そして、唐突に、本当に唐突に、彼は解決策を見つけた。そう、彼は正しく「見つけた」のだ。彼の目の前に「置かれていた」その選択肢を。
「―――ッ!?」
思わず目を見開きつつ闇の中に戻ったリュウズを凝視する。部屋の角を埋めるようにして翼で身を覆いじいとうずくまる彼女の目と、目が合った。
直後その宝石色の目はつうと弓形に細められた。口も、白い歯を見せてニィという音が似合う笑みを浮かべている。してやったり、とか、作戦通り、とか、そういう心の声が聞こえてきそうなその笑みを見て、ウルベルトは全身に鳥肌が立った。彼女にとって、命の瀬戸際で足掻く親子のやりとりなんてただの娯楽に過ぎないのだと思い知ったがために。
神様の愉悦のほんの一端に触れた、その接触面から凍っていきそうになる。貼り付けた視線から凍らされそうになるのを気合いと根性で回避し視線を無理矢理剥がし、ウルベルトは涙と嗚咽の混じる親子の会話に一呼吸置いてから割り込んだ。