不道千景は勇者である 作:幻在
『だめだ』
電話越しに師から返された言葉は、それだった。
「ですが・・・!」
『悪いが園子の事は諦めろ。むしろ、いい機会だったのかもしれない。あいつは、これ以上強くなれない。そんな奴を連れて行けば、必ず死ぬ。今のアイツの実力では、あまりにも、生き残る確率は低い』
「・・・・でも、このままじゃ、そのっちは・・・」
『元々、俺たち初代の世代が不甲斐ないせいで、お前たちにも戦わせてしまっているんだ。これを最後に、アイツは、戦いから離れさせたほうがいいかもしれない』
電話越しの辰巳の声は、何かを思い詰めているかのようだった。
『お前はどうする気だ?このまま園子を探すつもりならやめておけ。アイツが余計苦しくなるだけだ』
「・・・・分かりました」
園子の実力では、あの戦いを乗り切る事は出来ない。それを理解してしまっている美森には、そう返すしかなかった。
もう、これ以上、友達が死ぬのが嫌だから。
受話器を置いて、溜息を吐く美森。
「須美」
ふと、声をかけられて振り向けば、そこには、今このゴールドタワーにいる勇者部の面々がいた。
「どうだった?」
「・・・探すのは、やめておけだって。これを機会に、戦いから離れさせたほうが良いって」
「そんな・・・」
樹が、驚いたように声を漏らす。
「ここに来て、戦力が減るのか・・・」
「上里家の動向はどうなの?」
「今、ここにいる以外の奴らが探し回っているようだが、まだ見つかっていないようだ」
美森の質問に、春信が答える。
初日にあんな事を言っていたのだ。一人でも多くの戦力を投入したいのだろう。
だから、園子を全力になって探している。
「探すのはこっちに任せて訓練に集中しろっていう事ね・・・」
その言葉で、自分たちが置かれている状況を改めて再確認する。
園子は、武道においては逆の意味で非凡であっても、頭脳の方は凄まじい程だ。
寝ている状態でも指名された時の寝ぼけていても対応できる無自覚力はかなりすさまじく、勘の鋭さも勇者部の中では随一だ。
そう簡単に、捕まる事はないだろう。
「とにかく、俺たちは訓練に戻ろう。その方がいつかの為に確実だ」
春信はそれだけを告げて、踵を返して訓練場の方へ向かった。
夏凜、樹も、それに従ってついていく。
その様子を、美森はその場に佇んで見ている事しか出来なかった。だが、そんな美森の肩に、銀が手を置く。
「銀・・・」
「大丈夫だって。きっと戻ってくるさ。戻ってこなくても、きっと元気にやるよ」
「でも・・・」
「心配すんなって。アタシは園子を信じてるから」
その言葉で、美森はハッとなる。
そうだ。こんな所でくじけるような彼女ではない。
「・・・・そうね。行きましょう、銀」
「おう」
今は、自分の事に集中しよう。園子が参加しないのならそれも致し方なし。
だが、それでも、自分は彼女を信じている―――――
沈んでいた意識が、浮き上がる。
何やら、足がとても痛いうえに、体の節々が痛い。
一体どうしたというのだろうか。
そんな痛みに苛まれながら、目を開けた。
目を開ければ、まず初めに目に入ったのは、薄暗い灰色の壁だった。
「・・・・あれ」
硬い冷たい地面、水の流れる音、横―――体が横たわっているから上から聞こえてくる、エンジンの音。
ここは、橋の下だ。
とにかく、置きなければ。地面に手をついて、起き上がる。
気付くと、肘や膝を擦りむいていた。すでにかさぶたが出来て血は止まっているが、零れた血が硬いごつごつとしたアスファルトの上に付着していた。
腰をついて、背中をコンクリートの壁にもたれさせて、何故自分がここにいるのかを考える。
そして―――
「・・・そうだ。逃げたんだった」
ぼんやりと、園子はそう呟いた。
自分は、ゴールドタワーから逃げ出した。
これ以上、強くなれない事を知って。足手纏いになると知って。だから、逃げ出した。
「春信さんを除いて、一番だっていう自負は、あったはずなのになぁ・・・」
いつの間にか追い抜かされていた。いつの間にか、遠い場所にいた。
日が経つにつれて、差がどんどん開いていくのを感じた。
一分一秒、たったそれだけで、どんどん引き離されていった。
その現実が受け止められずに、我武者羅に槍を振るった。だが、届かなかった。
あまりにも、春信が強すぎた。作戦を考えて、どんな手段でも使った。槍の投擲や捨て身での突撃、自分が思いつく限りの戦術を春信にぶつけた。
でも、ダメだった。
相手が強いのもある。だが、いくらやっても、自分の動きが向上する気配が見られなかった。
どれほど鍛えても、これ以上、強くなれる気がしなくなった。
三日ほどで、自分の強さが信じられなくなった。
春信相手に、まともに立ち回れなくなった。
いや、そもそも、自分の動きが、重かった。まるで自分の体ではないかのように重かった。
意識と体が、かみ合っていないかのように、重かった。
「潮時・・・なのかな・・・・」
自分の手を見て、そう呟く園子。その手には、槍を振り回した事によってできたたこが出来ており、それを見るだけでも、かなり長い間、武術をやってきたのだという事が分かる。
だが、それももう終わり。これ以上、前に進めない事を続けていても、全て無駄なのだ。だから――――
「あれ・・・」
突然、視界が霞みだす。
そして、頬を何か、冷たい液体が流れ落ちた。
「あれ・・・あれ・・・?」
慌てて拭っても、視界はたちまち霞み、その度に頬に何かの液体が流れ続ける。
そして、それはだんだんと勢いを増していき、園子も気付く。
それは、涙。
「なん・・・で・・・もう、全部・・・投げ出した・・・のに・・・・うう・・・」
嗚咽は、漏れ続ける。涙は、溢れ続ける。
服装は、部屋着のまま。風呂を上がった後に、あの会話を聞いたから、そのまま飛び出してしまったのだろう。
ここはどこなのか。どこへ来てしまったのか。ずいぶんと長く走ったような気がする。
「どこなんだろう、ここ・・・・」
お金ももっていない。携帯もない。そんな、あまりにも生きる上で致命的な状態で園子は知らない街を歩いていた。
遠くにゴールドタワーは見えない。相当な距離を走ったようだ。いや、走り過ぎか。
「もしかして、隣の県に来ちゃったとか・・・まさかね・・・・あ」
そんな事ある訳がない。と思っていた時期があった。
この看板を見るまでは。
「・・・・高知県・・・絡久良・・・」
ああ、なんという事だろうか。
どうやら自分は香川とは反対側にある高知に来てしまったようだ。それもかなり端の方。
「あれれ~、私どうしてこんな所に・・・・」
確か、ゴールドタワー飛び出した後、無我夢中で入って、何かの柵飛び越えて、何かが通っている所につっこんでそのまま頭が混乱したままで・・・・
「・・・・ダメだ。思い出せない」
酸欠状態だったのだ。脳の記憶能力が低下していたのだろう。それはともかく、
「おなか、空いた・・・・」
それに、一晩中走った上に、今は昼時。腹が減るのは当たり前だ。
(どうしよう・・・・)
お金はない。誰かに恵んでもらおうにも、知り合いがここにいるわけじゃない。
それに、もうあそこには戻りたくない。
「あ・・・」
つまづいて、地面に倒れる。
「うう・・・・」
立ち上がる気力などとうの昔に無く、その上、意識が急激に遠のいていく。
自食作用とか、そういうものもあるのかもしれないが、それがあったとしても、この飢餓状態はどうにもならない。
(いっそ・・・このままのたれ死んでしまおうかな・・・)
そう、生きる事すら諦めかけた時――――
突然、抱き起されたかと思ったら、口に何かを突っ込まれた。
それには、程よい塩が振りかけてあって・・・・
「んん!!」
思わずそれを手で口の中に押し込んだ。
「そんなに慌てて食うと、喉につまらせるぞ。ほら、もう一つ」
あっという間になくなった白いなにかをもう一つ差し出されて、それを無造作に掴んでは口の中に放り込んだ。
足りない。もっと、もっと欲しい。
もう一つないかと、見上げれば、
「すまない。今はそれしか持ち合わせていないんだ」
その人物は、申し訳なさそうにそういった。
その人は、女性で、肌が褐色色。髪の色は色素が抜けたかのように白く、そして何より目に入ったのが、その凄まじいまでの胸のでかさ。
(わっしーより大きいかも・・・)
「まだ何か食べたいなら、私の家に来るか?」
彼女はそう提案してきた。
その問いに、園子は、頷く以外の選択が出来なかった。
「娘が少し遠出をしていてな。家に一人だけで寂しかった所だったんだ」
「そうなんですか」
園子は結局、自分を助けてくれた女性の家で御馳走になり、満足感に浸りつつ女性の言葉に耳を傾けていた。
「もう一週間以上もたつが、だいぶ慣れてきたよ」
「娘さんは、どんな人なんですか?」
「頑固な子でな。それでいて、頑張り屋なんだ。ある人の為に一生懸命強くなろうとして、私のもつ技術を全て叩き込もうとしてやったよ」
「技術・・・何か武道をやっているんですか?」
「すでに潰れた道場にいたが空手を嗜んでいた。ちょっとある事があって、全盛期のような力は出せないが、それでも娘にはまだまだ負けないさ」
「お強いんですね・・・」
「ああ。健気な良い子だ」
そう、嬉しさと寂しさが入り混じった笑顔で答える女性。
(私とは、大違い、かな・・・)
逃げた自分とは、違うのだろう。
そこで園子は、自分の出生について、振り返ってみた。
乃木家――――
大赦におけるもっとも発言力を持つ三家のうちの一つ。
『何事にも報いを』を信条とし、厳格ある風格を持つ家である。
その家紋は『桔梗と彼岸花』。その理由は、乃木家初代を彷彿とさせる花とその友であった者を想起させる花を一緒にすることにより、永遠に貴方を忘れない、という意味を込めているらしい。
そこの一人娘として生まれた園子は、幼少の頃より類稀なる才を発揮していた。
それ故にいい加減で、何事にもマイペース。人の話は聞かない上に無邪気で、おおよそ良家の娘とは思えないほどに素行は悪かった。その証拠に、皿を割ろうが近所に向かって悪戯して怒られてもまるで反省しないでさらなる悪戯に手を出す程だった。
雇われた家庭教師の話も聞かない上、あまりにも散々な性格だった。
そして、いつしか園子にはこんな話が立ち始めるようになる。
『彼女は乃木の娘として相応しくない』
彼女の陰口が屋敷内で立つようになり、そしてそれに敏感な園子は、その陰口を振り払うように、さらに大きな悪戯をするようになり、次第に園子の立場は危うくなって、彼女の両親も、養子を取ろうなどと言い始めていた。
だが、それもいつの日か、終わりを迎えた。
勇者。
それに園子は選ばれ、そして、彼女の訓練指導官として、辰巳がやってきた。
そして、辰巳は、園子の事など一切無視して彼女を鍛え上げた。
これには流石の園子も根を上げて、そして泣いた。
泣き落としなどではない、本気の涙。あまりの厳しさに、とうとう耐え切れなくなってしまったのだ。
当時、辰巳の精神はすさんでいて、何度も死んでいく勇者たちの姿に心を痛めていた。それ故に、今度は死なせまいと、あまりにも厳しくし過ぎたのだ。
そんなある日の事、辰巳が別の用事で数日家を空けるので、訓練が休みとなっていた日に、園子は、乃木家の中に設けられた辰巳の部屋に忍び込んだ。
鍵は盗んで開け、あまり物が置かれていない部屋の中で、何か仕返ししてやろうと思っていたのだ。
だが、その中で、彼の日記帳を見つけた。
そして、日付を見て戦慄してしまった。
平成、と書かれていたのだ。
それは、この神世紀が始まる前の年号。即ち、
そして、その日記は一冊だけではなく、何冊もあり、その全てが、平成のある日から今日にいたるまでの三百年間の、彼の全てが記載されていた。
辞書を率いて、彼女は、それらを全て読み漁った。
食事をとるのも忘れて、ただひたすら、三百年分の辰巳の日記を読み漁った。
いつ、どこで、何をしたか。
今までの勇者が、どれほど死んだか。
そして、一人、また一人死ぬ度に、だんだんと無機質になっていく書き込みを、始まりから終わりまで、全部読んだ。
そして、最後の一ページを読み終えたところで、辰巳が帰ってきた。
その時の事は、あまり覚えていないが、ただ、辰巳に抱き着いて、わんわんと泣いたのを覚えている。ごめんなさい、ごめんなさいと、何度も何度も謝ったような気がする。
それほどまでに、申し訳ない気持ちがいっぱいで、無知である事を、今までにない程に嫌った。
それから、人が変わったように園子は辰巳の指導を受けた。どれほど過酷でも、決して音を上げずに訓練を続けた。
悪戯もやめ、真面目に、おしとやかに(泥まみれになるほどの訓練を受けておいてなんだが)生活するようになった。
マイペースなのは変わらないが、今までよりかはマシになったと思った。
そして、東郷美森こと鷲尾須美と三ノ輪銀、そして六道翼に出会い、ともに勇者として戦って、そして、三ノ輪銀が死んで(実際にはそうではなかったが)その後の戦いで満開をして、須美と離れ離れになってしまい、ベッドの上での生活を強要されるようになってしまい、そして――――
―――三好春信と出会った。
出会いは、決して運命的ではなかったかもしれない。
それまでは、大赦の人間を毛嫌いして、近づく事さえも許さなかったが、この男だけは、どれほど脅しても臆するどころか、逆に自分を組み伏せてきたのだ。
それも、盗んだ勇者システムに対して、生身で対抗してきたのだ。
その圧倒的さは、それなりの自身のあった園子でさえも凌駕する程だった。
散々暴れた後で、取り押さえられた時に、自分は泣いて彼に問いかけた。
『どうして、そんな力があるのに私たちを守ってくれなかったの?』
それに対して、春信は――――
『俺もお前と同じだからだ』
そのあと、訪ねてきた辰巳から、彼の事を聞いた。
彼が、自分より先代の勇者である事、その戦いの最中で友達を二人失った事、そして、友達を失ってからずっと一人で戦い続け、そして、一年間の停滞を作った事。
たった一人で、勇者何人分もの働きをした、歴代最強の勇者。それが、三好春信。
そんな、すごい人だったのかと、園子は驚いた。
そして、暴れたせいで春信の一日中の監視がついてしまった中で、あんなことをした園子に対して、春信は変わらず接してくれた。
その親切さが、無性に心を痛くしてきて、そして、同時に、だんだんと訪問する頻度が少なくなってくる翼では埋められない孤独感を埋めていってくれた。
だから、園子は、春信に恋をした。
年が離れているのは分かっていた。
だけど、日に日にこの想いは募っていった。
塵も積もれば山となる、とはこのことを言うのだろう。
だが――――
(もう・・・無理だよね・・・)
逃げてしまった自分には、その想いを伝える資格なんてないだろう。
「何かあったのか?」
「え・・ああ、まあ・・・はい」
どうやら、表情に出ていたようだ。
「話してみるか?恋の話なら、一応これでも経験者だからな」
「娘さんがいるって言ってましたからね・・・」
ふふん、と自慢して見せる女性に、園子は苦笑する。
そして、何かを思うかのように、切ない表情で、園子は語り出す。
「その・・・実は、友達と一緒に、大きな行事をやろうって事で、えいえいおーでやってたんですけど、その、なんだか足手纏いみたいで・・・その、影で、そんな話を聞いちゃって・・・」
「それで、ここまで逃げてきたのか?遠路はるばる」
「ええ・・・まあ・・・」
「ふむ・・・」
俯く園子に対して、女性は顎に手を当てた。
「精一杯頑張ってたんですけど、限界を感じちゃって・・・実際に成長できなくて・・・」
「そうか・・・いわゆる、壁にぶつかったって感じだな」
女性の言葉に、園子は、何も言い返せなかった。
事実、そうだったからだ。
思えば思うほど、自分が惨めに思えてくる。
(いっそ・・・消えてしまいたい・・・)
このまま、誰にも知られることなく、どこかで、静かに・・・
「なら、少し墓参りに付き合ってくれないか?」
突然、女性からそんな事を言われた。
「はい?」
「いや、今日が命日でな。本当なら娘と一緒に行きたかったんだが、生憎娘は外せない用事があってな。だから、代わりに来てくれないか?」
「そんな・・・私、家族でもないのに・・・」
「いいからいいから。それに、あながちお前と関係がないとも言えないぞ?」
意味深な顔をする彼女に、園子は、きょとんとするほかなかった。
そうして連れられてきたのが、この街の墓地だった。
女性がまず立ち寄ったのは、『安座間』と彫られた墓だった。その目の前で、彼女は線香に火をつけ、そして両手を合わせた。
それに、園子も続く。
「私の夫の墓だ。娘が生まれる前に、事件に巻き込まれて、そのまま死んでしまったんだ」
「そんな・・・」
「だから娘は、写真の中でしか父親の事をしらないんだ」
寂しそうに、そう語る女性の背中を、園子はただ黙って見守る他無かった。
そのまま帰るのかと思ったが、彼女は、もう一つの墓に向かった。
それには、『不道』と書かれていた。
「あ・・・・」
不道・・・間違い無い。これは、千景の苗字だ。つまり、この下には・・・
「これは、友人の墓でな。夫婦ともども、死んでしまったんだ。息子を一人、残してな」
「・・・・」
「まだ小学生に上がったばかりのソイツは、街中から酷い虐めを受けていた。私は、そんな彼を助ける事が出来なかった。大切な、友の息子なのに・・・・私は、守ろうとしなかったんだ・・・・」
声が、僅かに上擦って聞こえた。
女性の顔は見えない。だが、手を顔にやって何かを拭うと、また喋り出す。
「知っているか?私の友人・・・不道千歳は、ある女の子孫なんだ。娘がやっている事を大昔にやっていた、我らが英雄・・・『久我楔』の子孫・・・」
「久我・・・楔・・・・」
知らない名前だ。でも、自然と分かる気がする。
きっと、その人は、かつて千景がやっていた『救導者』をやっていたに違いない。
そして、英雄と呼ばれる程の事をしたのだろう。
「ちょうど、その墓が、この奥の山奥にあってな。すまないが、そこまで付き合ってくれないか?」
「・・・分かりました」
女性についていくように、園子は、墓地の奥にあった山道を進んでいく。
やがて、日の光が差し込む、少し開けた場所に、それはあった。
小さな石で作られた、『久我』と彫られた、小さなお墓。
「実は、この話には続きがあってな。久我楔、という名前は、彼女の生来の名前ではないようなんだ」
「そうなんですか?」
「ああ、その女の本当の名前。それはな―――」
女性が、その名を口にする。
「――――『郡千景』、っていうんだ」
瞬間、心臓が跳ねる。
郡、千景。
初めて聞く名前のはずなのに、なぜか、とても、懐かしくて、胸が、締め付けられる名前だった。
「知っているだろう?乃木園子」
隣に立つ、女性がその名を告げた。
「え・・・!?」
「千景から話は聞いている。写真も見た。だから、お前の事は知っている」
「・・・・」
女性は、安心させるかのように微笑む。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。私の名前は安座間椿。おそらく、そちらに邪魔をしている安座間優の母だ」
「ゆーちゃんの・・・!?」
さらなる新事実を叩きつけられて、理解が追い付かない園子。
「え・・・!?え・・・!?」
「落ち着け。まずは整理しろ。ほら、深呼吸」
椿に促されるままに、園子は一度深呼吸をして一旦、頭を落ち着かせる。
「それで、どうして、椿さんは、私をここへ・・・」
「もし乃木と名乗る者が訪ねてきたら、ここに案内しろっていうのが内の昔からの言い伝えでな。理由は分からなかったが、千景から、先祖の親友がそんな名前をしているからって聞いていたんで納得していたんだ。そして、今ここに、お前がやってきた」
「・・・・」
「園子、先ほどは逃げたと言わせてもらった。私はそれを撤回する気は無いし、お前自身、そう思っているだろう。だがな、それ以上にお前は勇気を持っている」
「勇気・・・?」
「ああ、逃げる勇気だ」
椿は、なんの躊躇いもなしに告げる。
「引けない時というものは確かに存在する。だがな、目の前に強大な敵がいた時、強い人間は逃げようとしない。だが、それじゃあダメなんだ」
園子の肩に、手を置いた。
「相手の力は、自分よりも凄まじく、決して勝てない。だから、殺されてしまうかもしれない。そんな時、生き残る為にはどうすれば良い?戦って勝つ?勝てる相手ではない事は明白だ。このまま何もしない?それでは殺されるのを黙ってみているようなものだ。ならばどうする?尊厳なんて何もかもを捨てて逃げるしかない。だけど、尊厳や誇りを重んじる者にとっては、逃げるなんて事は出来ない。プライドが許さないからだ。どんな危険な状況に立たされようとも、そんな人間は決して逃げる事が出来ない。どんなことがあっても、自分の我を貫きとおすだろう・・・だけど、それじゃあダメなんだ」
逃げたって良い。戦いたくないなら戦わなくていい。大切な人の為に、生き残る事の何がいけない。
「時には、引く勇気も必要だ。仮令、踏み出してしまった一歩でも、それが間違っているなら下がればいい。だけど、それは普通の人間には難しい。だけど、お前は出来た。下がる事が出来た。それは、お前のもう一つの強さだ。生きようとする意志なんだ。その意思は、この世のどんな決意よりも、当たり前で強固なものだ。だから、それは、引く勇気と同じで、進む勇気を遥かに強くしてくれる。お前は、そんな勇気を持っているんだ」
「でも・・・・私・・・・!!」
自分は、逃げたのだ。全ての辛い事から、逃げたのだ。目の前にある恐怖に敗北した。だから、ここまで・・・
「敗北は決して悪じゃない」
だけど、椿の声が自分の胸に響く。
「歴史は勝者が作っていく。自分の言い様に作り替えていく・・・確かに、勝った者が正義、負けた者が悪なんて考えが芽生えるかもしれない。だけど、負ける事は悪い事じゃない。負けて、生きているのなら、次勝つための対策が考えられる。敗北は、そんな時間を作ってくれるんだ。生きているなら、いつか必ず勝てる。勝てなかった相手に、必ず勝てる。沢山の失敗から、人は学ぶ。引く事で得られることは、たくさんあるんだ。逃げたなら、逃げたなりの成功が得られるんだ」
「逃げたなりの・・・成功・・・?」
「よくあるだろう?敵陣に乗り込んで、敵の情報を持ち帰ったから敵に勝つことができた。一旦態勢を整えたから、相手と渡り合えた。ようはそういう事なんだ。お前は、そんな勇気を持っているんだ」
勇気。逃げる勇気。それが、私の勇気。
「・・・・」
園子は、自分の胸に手を当て、そして、久我楔の・・・・郡千景の墓を見た。
「・・・・ッ・・・」
突然、知らない景色が頭の中を駆け巡った。
夕日の茜に照らされた、黒髪の少女の姿が、あまりにも綺麗だった―――
(今のは・・・)
呼び起された記憶が、誰のものだったかは分からない。
だけど、あの墓の下で眠る彼女の事を思うと、自然と、胸が痛んだ。
園子は、そっとその墓の前で膝をついた。
「・・・・あの時は、守れなくて、ごめんなさい」
そして、心の奥底から浮かび上がった言葉を、園子の声で、別の人の意思で告げた。
あの塔から、逃げたから、ここに来ることができた。
逃げたお陰で、憂いを晴らす事が出来た。
逃げる事で、新しい出会いを得た。
「・・・・・椿さん」
園子は、立ち上がる。そして、振り返って、椿に告げた。
「私―――行きます」
次回『覚悟』
それぞれの、想いを――――