F&R   作:夜泣マクーラ

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戦国世界

 落ちていく、どこまでも深く、深く――

 四肢どころか、心臓の鼓動までもが感じられず、ただ落ちていっている事だけが認識出来る。自分が今まで何をしていたのか、何を為そうと生きていたのかが曖昧なまま、僕は閉じそうになる意識を必死に繋ぎ止める。

 人間が一番恐れるものは何か?それは未知だ。故に人は死を恐れる。その先に待つものが何もわからないからだ。だからこそ僕はこの未知を未知のままにすることに恐怖し、それを拒否する。

 考えろ、思考停止は僕の最も忌み嫌う行為だ。そう、そうだ。僕は未知を解き明かす科学者だ。ならばこの状況を少しでも整理しなければ。四肢が動かない?心臓の鼓動が感じられない?何を馬鹿な。思考出来ているのならば身体も死んではいないということ。つまり、五感を奪われていると推測する。それを前提に考え、まずはなぜこのような理不尽でクソッたれな状況に陥っているのか……残念ながら重要であるはずのそれが思い出せそうにない。

 脳裏には思考とは関係ないはずの顔ばかりが浮かぶ。いや、無関係ではないな。むしろ最優先だろう。

 僕等が戦場の理不尽に打ちひしがれた時、彼女の優しい手が僕達を何度も救ってくれた。相手を殺す事に慣れそうになると、隣で相手を殺す事に怯え躊躇する臆病者が、僕を日常に引き戻してくれた。どれだけ完全な敗北を経験しようとも、彼はその尊い不屈の心を持ち続け、何十、何百と挑む事を止めなかった。そんな僕等を羨ましそうに、でも決して自分の手で汚さぬように、後ろからただ独りで眺め続ける少女がいた。そう、僕の大切な家族達だ。僕のこの小さな命と虚勢と科学を持ってして守らなければならない、唯一無二の家族。そんな少しだけおかしな家族には欠かせないもう一人の、そう欠かしてはいけない僕の半身がいて……

 そこまで思い出した時、五感がないというのに、心臓を直接掴まれたかのような痛烈な息苦しさを覚え、思考に靄が掛かっていく。

 ああ、止めてくれ。僕から一時でも彼女を引き離そうとしないで。引き離されたらそれはもう僕じゃなくなる。彼女が彼女じゃなくなってしまう。それだけはどうしても許せそうにない。科学の神の所業でもそれだけは僕の全てで許しはしない。

 

 

 もうこれ以上、僕から彼女を奪わせてなんかやらない――

 

 

 

 彼が目を覚ますと、目の前には見たこともない木造の天井。人の気配はなく、上半身にはとても温かく柔らかい布が掛けられ、身体の下にも掛かっている布と少し違うが、身体に負担が掛からないような柔らかな布が敷かれている。

 周囲に目を配ると、格子型の戸に白い紙が貼り付けられていたり、草を編み込んだような床。どれもこれも産まれて此の方目にした事のないような物ばかりで、彼は……

(ん~……どうにも思考が鈍いなぁ。これはきっとあれだ)

「睡眠不足に違いない」

 と惰眠を貪る事に。彼にとっての最優先事項は目下睡眠を取る事らしい。が、ふと気付いた違和感。その違和感が何かを彼はすぐに察知し、すぐさま飛び起きる。

「……クス?」

 彼の小さな相棒である光精霊のクスの姿がどこにもない。いつもなら目覚めと共に声を掛けてくるはずの相棒がいない事に焦り、布をどかしたり、室内をくまなく探すがどこにも見当たらない。

「嘘、だろ?」

 精霊が主人の下から勝手にいなくなることなど、本来ならば有り得ない事。冷たい汗が額から頬を伝い、徐々に早くなる鼓動とは裏腹に、彼はひどくゆったりとした動作で恐る恐る戸を押す……が、押しても戸は開かない。どうしてかと戸の上下を見ると、戸の上下に小さな溝が走っており、そこに戸が嵌っている形だ。

「なるほど、横にスライドさせるわけか」

 自分がいたはずの世界との違いに眩暈を覚えそうにもなる。そして今度こそ彼は戸を開き……

「――なッ!?」

 目の前の光景に絶句するしかなかった。

 

 

 これが、彼の……イクタ・ソロークの異世界譚の始まりだった。

 

 

 彼は自分の目を疑った。目の前に広がる光景は彼に現実感を奪わせるには十分なものだったからだ。いや、過去に見て、今でも恋焦がれる風景だったなら少しは違ったかもしれない。胸が高鳴り、期待と幸福感に包まれていただろう。

 だが、彼の目の前に広がる光景は郷愁など微塵も感じさせない、見たことのない光景だった。

「……どこだよ、ここ?」

 辺りに広がるのは農地ばかりで、点々と民家があるばかり。どこかの集落か村なのかもしれないが、とんと彼には見当もつかなかった。

 彼の名は深海直刃(ふかみすぐは)。現代に生きる大学二年生で、剣道の世界では無敗の王者でもある。筋骨隆々ではない、細身の身体だが、しっかり引き締まった筋肉が衣服の下に隠れている。

 そんな直刃は本来ならば混乱して取り乱すものだが、多少動揺しつつも冷静に状況を鑑みる。

 そもそも彼がこのような事態になるのは初めてではない。過去に何度か時間を逆行した経験があるのだ。その経験から、もしかしたらと動揺を抑えていられるのだが、過去と違う点が二つ。

「どういうことだ?」

 一つは自身の服装である。以前はもう一人の直刃という男性の身体を借りて、意識だけが自分だったのだが、今回は違う。服装が黒のパンツにシャツとジャケットという現代の服で、しかも身体も現代の自分そのもののようだ。それだけならまだしも、彼にとってはもう一つの違いが重要だった。

「なんで、赤穂じゃないんだよ」

 そう、彼が過去にタイムスリップしたのは忠臣蔵の時代、大石 内蔵助の住む赤穂だったのだが、今いる場所はまるで見覚えのない場所なのだ。自分がタイムスリップするのなら赤穂しかないはずなのに、これはどうしたことか。

「いや、でも場所が違うってだけで、ご城代達が赤穂にいる可能性もあるよな」

 自分がタイムスリップするのなら、忠臣蔵の時代に違いない。そう、確信していた。なぜなら、彼と忠臣蔵には切っても切れない縁があるのだから。それに、なによりもずっと忘れられずにいる願いが彼にはあった。

 ただただ会いたいと。想いを紡ぎ合った彼女達にもう一度。幾度も夢に見て、幻を幾万抱いたことだろうか。もう一度会えるのならと、切に願い続けたのだ。

 万感の想いが胸に去来し、喜びに打ち震える心。

「ご城代、安兵衛さん、主税、右衛門七、皆……今会いに行きますッ」

 そう決意し、彼は未知の歩みを進める。

「……けど、その前に」

 先程から道行く農民の視線から忌避の目を注がれていた。

「この格好をなんとかしないとなぁ」

 今の自分が明らかにおかしい格好なのは誰の目にも明らか。しかし、どうしたものかと頭を捻る。この時代のお金を持ってはいないし、まさか盗むわけにもいかない。盗むための店も見当たらないのだが。

 とにかくどこかの城下町に行こうと、足を進める。

 農民に道を聞こうにも、とても聞ける雰囲気ではなさそうで、正直野宿もあり得るかもしれないなと、彼はため息を一つ吐いてしばらく道なりに歩き続けた。

「それにしても、ツイてないよなぁ。せめて一魅(かずみ)がいれば……」

 甲佐一魅(こうさかずみ)。吉良家の血筋で、彼女も直刃と同様の過去を持つ。当初は清水一学(しみずいちがく)という吉良家家臣の身体を借りて敵対していた。一魅は浅野家を憎んでおり、本来悪ではなかった吉良上野介が悪となってしまったことで、現代で吉良家は差別されていた事に納得がいかず、過去を変えようと画策していた。上野介が悪となった原因は様々な要因がるのだが、ここでは割愛させていただく。

 彼女はとても利巧で歴史に造詣も深い。このような場合でも何かと役に立ってくれるのだが、頼みの綱の彼女の姿はない。今では蟠りもなく現代で連絡を取り合っている位の仲なので、いてくれたのなら心強い。

「チッ、無いものねだりしても仕方ないか」

 歩きながらとりあえずタイムスリップしてしまった原因を考える。

 ここに来る経緯はまったくわからないが、直前まで何をしていたのかを思い出す。大学から帰って、夕食を食べ、就寝前にナニをして寝て……そこからの記憶がない。意識が目覚めたらいきなり道の真ん中に立っていた。以前はとある呪いで過去に辿り着いたが、今回はそういうことでもない。まるで理解出来ないのだ。

「となると、第三者の手によるものって可能性はあるが、目的はなんだ?」

 赤穂浪士を救い、因縁に終止符を打ったのだから、もう彼が忠臣蔵の時代に戻る理由はないはず。

「……わかんねぇなぁ」

 自分を呼び戻す理由に見当がつかず、兎にも角にもどうにかして赤穂を目指そうとしていると、少し離れた民家からなにやら野蛮な声が聞こえた。

 そちらに目を向けると、数人の刀を持った粗暴な男達が、貧しそうな家の娘の手を引いて無理矢理馬に乗せようとしている。

 この時代、野盗が貧しい民家を襲うなんて事は良くあり、治安を安定するための法などなかったため、様々な犯罪が横行していた。その一つが人攫いであり、直刃の目の前で行われている行為もその一つだった。

 赤穂では見られなかった光景に、少々唖然としたが、彼はすぐさま民家へと駆け寄って声を上げた。

「おいッ!何してやがる!」

 背を向けている三人の野盗が一斉に振り向く。一様に濁った瞳をしており、まともな倫理観を持ち合わせていないのはすぐにわかった。

「あ~、んだテメェ?」

 最も体格の良い男が威圧的な声を上げるが、幾度も死線を潜り抜けた直刃には脅しなど利くわけがない。

「通りすがりの者だが、そんなのはどうでもいい。その子の手を離せ。さもなくば斬るぞ?」

 冷え冷えとした声には、命の遣り取りをした者だけが発する事の出来る殺気が含まれており、猛禽類のような視線に男達は喉を鳴らす。

 なるほど、男達の実力は自分の足元にも及ばない。そう確信し足を一歩踏み出しながら腰に手をやる……

「……あ」

 のだが、直刃は一つ大きなミスを犯していた。この時代に慣れていた直刃は完全に失念していたのだ。

 しまった、刀がない!?

 この時代にいた時は当たり前に腰に差していた刀だが、現代の服装のままの直刃が刀を持っているはずがない。それに気付いて冷や汗が頬を伝う。

「おい、あいつ刀持ってねぇぞ」

「ああ。しかも変な格好してやがるじゃねぇか」

 まずい。刀があればこんな三下なんざ、とっとと切り伏せられるが、その刀がないのでは話にならない。素手でどうにか出来るほど、刀の間合いは甘くない。その事を直刃は誰よりも知っていた。

 どうする?白刃取りをしたとしても、残りの二人に殺られる。二人まではなんとかなっても、残りの一人を対処するなんて出来やしない。

「ふぅ、脅かしやがって。威勢が良いのは買うが、お頭(おつむ)は空らしいな。囲めテメェ等」

 三人に囲まれ舌打ちを一つ。これではどうしようもない。だが、赤穂浪士としての魂が逃げることを彼に許さない。仁義を貫けなければ、赤穂浪士として名乗ることなんてこの先出来やしない。その魂に泥を塗ることだけはなんとしても……

「殺れぇッ!」

 掛け声に一斉に三人が斬りかかってくる。正面の男が上段から斬りつけてきた刃を、額に触れる寸前で両手で挟み、動きを封じつつ、地面へと叩きつけるように払う。その間に叫ぶように彼は娘へと声をかけた。

「今のうちに逃げろッ!」

 だが、娘は腰が抜けたように地面にへたり込んで動けない。クソッ、と心の中で毒づきながら左からの突きを後方に飛んで躱したが、着地と同時に右から斬り払いにより胴が狙われる。

 野盗のくせに連携が取れてやがる!

 なんとかして躱そうと身体を捻るが、どうにも間に合いそうにない。

 臓物が飛び出る様を想像し目を閉じる。

 死んだらやり直せたあの時とは今回は違うかもしれない。せめてもう一度だけでも皆に会いたかった。

 次々と愛しい者達の顔が過ぎった。

 ご城代、安兵衛さん、主税、右衛門七……すまない。

 覚悟を決めて目を閉じ続けていた……が、痛みは訪れずに目を開けると、そこには……

「どうやら間に合ったようだな」

 目の前にある背中に目を瞬かせる。

 声もなく地に伏した野盗に、仲間がそいつの名前を呼びながら騒然とし始めるが、直刃の耳にも目にも彼等の姿は完全に世界から消えてしまった。

「あ、嗚呼……」

 その背中に何度救われただろう。どれだけ懸命に追いかけただろう。まだその背中に追いついたなんて自信はない。だが、その背中を世界で一番愛している。その想いは永久不変。

 その背に心が奮い立ち、直刃はその背に寄り添うように立とうとした。

「すまない、直刃。今俺の横に立たないでくれ」

 なぜと、野暮なことは聞かず、一つ頷いて立ち止まる。なぜなら、直刃も多分同じなのだから。直刃は横に立とうとしたのではない。

 スッと、刀を一振差し出され、それを背を合わせるように立って受け取り、これまで雪のように徐々に降り積もって、溶ける事のないはずだった想いの全てを込めて、その名を口にする。

「受け取れ、直刃」

「はい、安兵衛さん」

 堀部安兵衛、元赤穂浪士随一の剣士であり武士。そして、直刃にとっては刀の師匠で、最愛の一人。凛とした佇まいと己を律するかのような声色。だが、その声が今だけは微かに震え、やっぱりと直刃は微笑した。

 微笑する直刃の頬が少しずつ濡れていく。安兵衛の頬と同じように。だから二人はまだ向き合えない。そんな自分を最愛との再会の顔にしたくないから。

 野盗の一人が指笛を吹くと、近くにいたらしい仲間達が五人合流してしまう。数にして七対二。端から見れば絶望でしかないそれを、二人は不敵に笑って迎え入れる。

「ところで安兵衛さん、どうしてここに?」

「ああ、ご城代からの指示でこの辺りで調べものをしていたんだが……そこで俺の唯一を見つけてな」

「なるほど」

 ご城代もいるってことは、皆もいるのかもしれない。

「そうですか。じゃあ、早くご城代に挨拶に行かないと」

「……いや、ゆっくりでも」

「テメェ等ッ!暢気に話してんじゃねぇぞッ!」

 前後から二人、背中合わせの二人に襲い掛かる、が――

「せいッ!!」

「シッ!!」

 上段から袈裟に恐ろしく重い一刀が振り下ろされ、野盗の肩に減り込む。救いだったのは直刃が不殺の精神だということ。峰打ちで相手を昏倒させ、すぐに上段の構えに戻る。

 救いがなかったのは安兵衛へと斬り掛かった者だ。肩から心臓まで綺麗に捌かれていた。おそらく、自分が死に絶えたことにも気付かないほどに鋭い一閃だっただろう。

 二人の実力(ちから)を目の当たりにし、野盗達が二の足を踏む。攻撃に踏み出せないまま、その内の一人が恐怖の隠せていない声で言った。

「何者だ、テメェ等……」

 その問いに、二人が郷愁を込めた声で応える。

「俺達か?俺は元赤穂藩堀部安兵衛」

「同じく、元赤穂藩深海直刃」

「俺達の前に現れたのは運がなかったな。無辜の民にその凶刃を向けるのなら、お前達に明日はない」

「鬼に金棒って言葉知ってるか?だが、俺達に刀を持たせたなら……」

「赤穂浪士に」

『勝利だ』

 二人の言葉が合わさると同時、野盗へと刀を振るう。この瞬間、直刃も安兵衛も同じ感覚だったに違いない。例え神だろうと斬り伏せられると。

 

 

 

 両の眼を見開き、その雄大美麗な景色に息を呑み立ち尽くす。

 海と見紛うばかりの湖がまず目に飛び込んできて、一気に心を引き込まれる。次におそらく山の上にこの建物はあるのだろう、麓に活気に満ちた町並みが心を躍らせてくれる。

 しばらく放心していたイクタだが、自分の現在位置を知るため、吹き抜けから上と下を確認すると、どうやら六階建ての建物の四階に自分はいるらしい。いるらしいのだが、またしても見たことのない建築様式にますます混乱してしまう。

 見下ろした町の景色でも感じたが、建物の造りが帝国やキオカではまずお目に掛かった事のない技術で造られている。材質は木で出来ているのはわかるが、この建物は各階の壁の色が全て違う。どういう理由があるのかはわからないが……

「ふむふむ、これはアレだ」

 幼少時から培われてきた未知への探究心が抑えられず、彼は科学の徒として迅速に行動を開始した。

 壁伝いに歩き、階段に辿り着いて上へと向かう。これがキオカ等の気の許せない国であったなら、こんなに軽率な行動はしなかっただろう。ただ、見るもの全てが未知だというならば話は別で、師匠の行動力をそのまま受け継いでいるイクタは、張り裂けそうな好奇心で子供のように眼を輝かせながら歩みを進める。もう自由に動かすことの出来ない左脚を引き摺りながら。

 一つ上に上がると壁面には絢爛豪華な絵が描かれ、数秒足を止める。あまりに神々しい雰囲気が、人が入っていい聖域なのかと躊躇させた……が、そもそも神なんて非科学的な浮浪者を嘲り笑うイクタは、この知的好奇心の前に神がどれほどの価値がある。と、スキップでもしてしまいそうな足取りで、いくつかの部屋の中を覗いていく。

「ほおほお、なるほど。あれはなんだろう?変な髪形をした彫像があるけれど……その前には儀式で使うのかな?蝋燭や変なお椀があるし、壁も絵に金が惜しげもなく使われてる。となると、あの女性からモテるという概念を捨てた姿の像が神なのかな?」

 宗教なんてどの国にでもあるものだし、それぞれに形が違うのも当たり前だ。ならば、この国の神の形があのブサメンなのだろう……神への冒涜をものともしない姿に好感を覚えるね。なんて罰当たりな思考を巡らせながら、仏像の御前にある物を次々と手にとって眺める。材質は何か、使用目的は何か?一つ一つ細かなところまで眺めて、思考の海に溺れていく。

 幼子が初めて玩具を手にしたかのような無邪気さ。あまりに熱中し過ぎて、きっと周りが声をかけても気付かなかったに違いない。視界の隅にソレが映ってしまうまでは。

 期待なんて、ちょっとしかしていなかった。なぜなら彼にはわかっていたから。これは、彼女の気配じゃないと。自分の片割れの気配に気付けないなんて愚の骨頂は犯さない。そんな絶対の自信があったから。しかし、それでも期待をしないわけではない。幻のような現実が目の前にあっても悪くはないはずだ。

 紅く、紅く……どこまでも紅く染めてしまう、見るもの全てを魅入らせる炎髪。その胸打つ紅だけは、まさしく彼女と遜色のないものだった。

「ようやく目を覚ましたと思うたら、コソ泥とは良い度胸じゃのう」

 慇懃にして粗暴。しかしどこか品を感じさせる声。煙管を指で遊ばせながら、戸に背を預けて笑う姿に、イクタは恐怖と同時に畏怖を覚える。そんな異様な感覚が全身に駆け巡る。

 身体どころか心まで震え出しそうな、その濃密で圧倒的な気配を醸し出す人物に、イクタは戦場で被る仮面で表情を覆い、飄々と会話を続けることにした。

「いえいえ、盗もうだなんて思っていませんでしたよ。むしろ、今まさに盗むべき宝石を目にしたのですから。この世の至宝の如く美しい貴方を、ね?」

「かっかっかっかっ、ワシを前に怯えを隠しながら余裕を見せるか……面白い、実に面白い小僧じゃ」

「ええ、怯えますとも。貴方を前にして怯えない男なんてこの世にいるわけがない。貴方に釣り合う男かどうか、それを試されることが怖いのだから。というわけで、僕は卒倒してしまいそうな美貴である貴方のお名前をお呼びしたいのですが、まずは僕から名乗りましょう。僕の名前はイクタ・サンクレイ。科学者を本職として、軍人なぞを副職でやってます。貴方は?」

 背中に流れる汗を悟らせないよう、ありったけの強がりで微笑を崩さない。今まで出会ったどんな人物よりも大きい。その有り様が、イクタの天敵であるキツネ、もといトリスナイ・イザンマとは正反対のベクトルで振り切れている。

 心臓を直接掴まれたかのような居心地の悪さ。それを気力で踏ん張り続けながら、イクタはその名を脳の深奥まで刻みつける。

「なかなかの胆力よ。その勇気に報いるべく名乗ってやろう。ワシは織田ノブナガ、しがない天下人を夢見る阿呆よ」

 

 

 

 血に沈む野盗を一瞥し、直刃は運が無かったなと心の中で呟く。彼だけが相手だったならまだしも、安兵衛は武士としての矜持を重んじる。そんな彼女を前に悪を成そうとするなど、命を溝に捨てる行為に等しい。

 物言わぬ屍をそのままに、直刃は腰を抜かして動けずにいる娘へと手を差し出す。

「ひっ」

 しかし、先の修羅の如き二人の死線を目の前にし、娘は二人への恐怖を隠せずにいる。

 仕方のない事だとは思いつつも、少しだけ苦虫を噛み潰したような表情。それは安兵衛の過去に起因している事で、安兵衛が過去の傷に悲しんでいるかもしれないと、直刃は彼女を振り向いた……が、そこには直刃の心配を杞憂へと変えてくれる彼女の穏やかな笑み。

「すまなかったな。いくら助けるためだったとはいえ、血生臭いものを見たい娘などいぬものな。どうか、許してくれぬか?」

 柔らかな表情で娘に語りかけると、徐々に娘の緊張がほどけていき、ゆっくりと直刃の手を取って立ち上がる。

「あ、あの……助けて頂いてなんとお礼を申したら良いか……」

「礼などいらぬ。ただ悪党を切り伏せただけの事。武士として恥じぬ自分でいるためにな」

 それよりもと、本当は直刃との再会に高鳴る鼓動のままに抱き締め合いたい衝動を抑え、安兵衛は大石内蔵助からの命を優先する。

「少し、話を聞かせてくれないだろうか、奴等は何者だ?」

 なぜそんな事を安兵衛が娘に尋ねたのか、その意図がすぐには直刃には腑に落ちなかった。

「あの野盗達と刀を交えた瞬間、俺はなぜ?と不思議だったのだ」

「安兵衛さん、どういうことですか?」

「直刃は気付かなかったか?」

 もう一度どういう事かと問う前に、彼等との戦いを顧みる。何かおかしな事なんて……と、数瞬考えて、そこで直刃は安兵衛の問いの意図に気付く。

「そう、ですね。奴等、剣術を齧ってる動きでした。刀の握り、振り、間合いの取り方……全員が素人じゃなかった」

「そういうことだ」

 忠臣蔵の時代では早々なかった事だ。中に数人は剣術に精通した者がいても不思議じゃないが、全員となると話は変わってくる。そう、刃を交えて感じた感覚はまるで……

「それはおそらく、合戦で敗れて生きて逃れてきた者達が野盗となったからかと」

 娘の言葉に二人が驚きを隠せずに、お互いを信じられないかのように見合う。

「合戦、だと?」

 合戦なんて忠臣蔵の時代に起こる事象ではない。徳川の世、天下泰平の時代はあの後も長らく続いていくはずの時代だ。そんな合戦なんて起こるわけが無い。

 混乱する思考と感情を抑え、勤めて冷静に直刃は娘へと尋ねる。

 タイムスリップを何度か体験した直刃と安兵衛の頭の中で、最悪な予想が形となっていて、どうかそれを消し去って欲しいと願いながら。

「それじゃあ、ここはどこで、領主は……?」

「はい?」

 知らないわけがないでしょう?と言いたげな娘の様子に、彼等は嫌な汗が流れ出すのを止められず、そしてそんな彼等に娘は応える。救いのない答えを。

「ここは駿河国で、領主は駿府の館におられる今川ヨシモト様ですが?」

 娘の言葉に、二人は理解する。やはり、と。彼等がいるのは赤穂でも、ましてや徳川の世でもない。

(今川義元だって?てことは、ここは戦国時代じゃねぇかよッ!)

 しかも、今川義元が生きているということは、これからまだまだ乱世は激化していく。現代の日本人なら誰もが知っている、殺戮の時代……

 直刃の顔から血の気が失せていく。

「そうか、不躾にすまぬな娘。礼を言う」

 背を向けて安兵衛は歩き出す。一刻も早く行かねばならぬと、その背中は無言で語っている。

「すまん、直刃。本当はお前の温もりを今すぐにでも確かめたいが、そうもいかなくなった」

 まったく、なんて空気を読まない事をしやがるんだ、誰か知らない俺をここに呼んだ黒幕め。愛し合う二人のイチャラブを壊すなんて、馬に蹴られて非リア充になってしまえ。

 などと、まだ見ぬ誰かを呪いながらも直刃は安兵衛の横に立つ。

「ですね。まあ、今は安兵衛さんを抱くのは後のお楽しみにしておきます」

「あ、ああ」

 頬を染めながらそっぽを向く安兵衛。その姿が愛らしくて、直刃はキスだけでもと血迷いそうになる自分を殴り飛ばして黙らせる。

「す、直刃!」

「はい?」

「あ、あのな……その、ご城代への報告が終わったら、そのだな……」

「終わったら?」

「ち、毒吸いをしてッ!すす、する、ぞ!」

 こんな時に何をと他者は思うだろうし、そもそも毒吸いとは何か?と疑問に思うだろう。決して安兵衛は吸血鬼などではないが、毒吸いとはなにかと言えば……

「しゃあッ!早く行きますよ安兵衛さん!戦国時代かかってこいやぁッ!」

 直刃をアホにさせる魔法の言葉……ということで、行為についてはご想像にお任せする。

 安兵衛の手を引いて急ぐ直刃の背中を、彼女は自然と慈しみの笑顔で眺める。彼の手の温度、感触に狂おしい愛しさを胸に宿しながら。

 そんな二人は気付かない。背後の遺体が泥のように土に消えていく様を……

 

 

 

 尾張と駿河に異邦の者が来訪すると時を同じくし、各所でも異変が起こっていた。

 近江国、琵琶湖側の森林地帯。世闇の中、慣れたように疾走する幾つかの不穏な影に、眠っていた鳥達が一斉に飛び立っていく。

 月も雲で隠れ完全な暗闇の中、全身を黒で覆っているため、性別等の判断がつかない。そう、常人なら人かどうかも判別が難しいはずなのだ。だが、太い樹の枝と気配を同化するかのような二つの影は、疾走する影を目視して一人は溜息、もう一人は玩具を見つけた子供のように笑う。

「あ~、あの柔らかい体の動かし方は完璧女だねぇ~」

「……なんで楽しそうなのさ」

「えー、だって楽しくない?目が覚めたらこんなファンタジー世界にいるとか、マジ有り得ないっしょ?」

「順応性高すぎでしょ。あのね、状況わかってる?」

「わかってるから様子見してんじゃ~ん」

「もう、ほんと勘弁して欲しいよ。僕、明日採用試験があるんだけど」

「俺も早朝に省庁(お財布)まで遊びに行かないとだけどさぁ、ぶっちゃけ今どうでも良くない?」

「良くないよ。僕がここまで来るのにどれだけ掛かったと思ってるのさ?それなのに、目が覚めたらこんなファンタジー世界にいて、しかもどこかの見張りっぽい人達に見つかって、わけもわからず追い回されて……」

 小さな相方のそんな愚痴を、背の高い影が笑って流す。そんなの、本心じゃない事くらいわかっている。愚痴を垂れ流しながらも、彼はそんな事を少ししか憂いていないだろう。なぜなら、それは本心を隠すための隠れ蓑だ。本当は彼だって懐かしいと思っているはず。

 こんなとんでも展開、彼等は初めてじゃないのだから。

「そんな事よりも~、とりあえずどうしよっかぁ?」

「どうしようも何も、僕達右も左もわからないままなんだけど」

「だよねぇ~。でさぁ、そんな俺達に右と左くらいなら教えてくれそうな親切な人(獲物)達が俺達を探してくれてるんだけど、ちょっとナンパしてきてよ」

 眼下を疾走し、枝から枝へと飛び移る人影を顎で指し示して笑う。

「なんで僕が?」

「だって、俺がやるとナンパで終わるかわかんなくね?」

 彼の言う事には一理も二理もあり、小さな影は押し黙る。むしろ、彼にやらせてしまうと余計に騒ぎを大きくしてしまう可能性が大いにある。面白くしたいという理由だけでだ。

 難なく想像出来てしまい、もう一つ溜め息をついて仕方ないなぁと小さな影は呟く。

「あ、狙うのはなんか陣頭指揮執ってるのでよろしく~」

「気楽に言ってくれるなぁ、もう」

「楽な仕事じゃ~ん。別に相手はマッハで動くわけじゃあるまいしさ~」

 そんな言葉に、小さな影は自然と笑みが零れた。

 それもそうだ、僕達の標的はマッハで動く触手を持った黄色い生物じゃない。

 あの自然の中で活き活きと標的を追っていた過去を想い出し、小さな影は一抹の寂しさと優しい思い出に胸が一杯になる。

「だね。じゃ、ちょっと行って来るよカルマ」

「行ってらっしゃ~い、渚」

 椚ヶ丘中学校元3年E組、潮田渚と赤羽業。ここから暗殺教室という特殊な環境で学んだ二人の、二度目のファンタジーが始まる。

 渚が闇と同化して気配が消えたのを確認すると、業は自分達の世界とは違う、雲から覗き始めた綺麗な形の月を見上げ、かの教室にいた頃のような笑顔を浮かべる。

「異世界、ねぇ……ま、退屈凌ぎにはなるかな。ね、殺センセ?」

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