その男は、善人とは言えない。
家族との仲はほどほどだ。
仕事はほどほどにこなす。
愚痴に近い形で、他人の悪口を言うこともある。
買い物で多くお釣りを貰い、それに気づいていながら懐に入れたりもする。
他人もやってるからという理由で、ちょっとばかり社会のルールを破ったりもする。
どこにでもいる小市民だ。
罰せられるのが怖いから、悪いことはしないというタイプ。
まあ、悪人ではないだろう。
ある日、男にはいいことがあった。
気分がいい。
それゆえに、普段ならやらないことをした。
浮かれていたとも言えるだろう。
泣いている女の子に、声をかけた。
外見が10歳そこそこの泣いている少女に、中年オヤジの声かけ。
おまわりさん、こいつです。
後でその状況を思い返し、男は冷や汗をかいた。
根っからの小市民である。
しかし、まあ……。
この男のおかげで、少女が泣き止んだのは事実だ。
別れる時には、笑顔を取り戻した。
いいことだ。
大人として、胸を張っていいこと。
男は知らないが、事実、少女は男の存在に救われたのだ。
声をかけてくれたこと。
話を聞いてくれたこと。
不器用ながらも、話をしてくれたこと。
何でもないようなことに、人は、心を救われたりもする。
男に、不幸が訪れた。
働いている会社が、なくなったのだ。
完全なる不意打ち。
不祥事に、行政指導やら、不調が続いていた経営やら、様々な要素が絡んだ結果だった。
まあ、一言で言うなら、運が悪かった。
よくある、よくある。
どんまい。
男は、ふらふらと公園へ。
奇しくも、以前少女が泣いていた場所。
公園は、心が弱った人間を惹きつける何かがあるのかもしれない。
ベンチに腰掛ける。
空を見上げ、ため息をつく。
失業保険、再就職、養うべき家族……頭の中をぐるぐる回る言葉が、男の心を削り続ける。
会社がなくなることを覚悟はしていた。
しかし、実際になくなると。
視線を地面に落とし、ため息をつく。
心が沈んでいく。
少女が、現れた。
あの時にくらべて、少し大人になった少女。
声をかけてくれた。
話をしてくれた。
現状は変わらないが、男はそのことに救われた気持ちになった。
社会に出ると、結果で語られることがほとんどだ。
それでも、と男は思う。
少女が自分に声をかけてくれたこと。
それは、決して意味のないことじゃない。
無意味なんかじゃない。
男はぎこちなく微笑み、感謝の言葉を告げた。
手を振って、少女と別れる。
男の背中を見送りながら、少女がつぶやく。
……ちょっと早かったかな。
うまくいかない。
再就職は果たしたが、いわゆる金銭面における条件が悪かった。
決してそれだけではないが、家族との仲がこじれた理由に、経済的な側面があったのは確かだろう。
やがて、男の家族はバラバラになった。
守るものをなくすと、途端に精神的な張りをなくすタイプは、男性に多い。
男も、そのタイプだった。
仕事にも身が入らない。
引っ越したアパートでの一人暮らし。
生活が荒れていく。
ふ、と。
あの公園のことを思い出す。
声をかけた少女。
声をかけてくれた少女。
男の心は弱っていた。
なにか、すがるものを探していた。
足を伸ばしてしまう。
かつて、自分の家があった町。
自分の家族があった場所。
……待ってた。
いろいろと頑張った。
お金も、人もたくさん使った。
ようやく、報われる。
来る。
あの人が来る。
心が踊り、笑みがこぼれる。
弱りに弱ったあの人を。
優しく受け入れてあげよう。
あの時、あの人が私にしてくれたように。
こ、こういうのでいいんだよ、こういうので。(震え声)