「高橋先生。頼まれていた資料、ここに置いときますね」
「ありがとう、絢辻さん。おかげで助かったわ」
「いえ、そんな」
絢辻さん、と呼ばれた女子生徒は、恐縮した感じに首を振る。
長い黒髪がさらさらと揺れ、いかにも、という優等生の姿を強く印象づけた。
「さて、と」
教え子が職員室を去ると、女教師、高橋麻耶29歳独身は、提出された資料を手に取り、作業を開始しようと……したのだが。
「高橋先生」
年配の男性教員から、横槍が入った。
まあ、要約すればこうだ。
教師の仕事(雑用)を、生徒に任せるのは問題がある。
それも、特定の生徒に偏るようでは、世間の目がうんたらかんたら。
忠告と、自己保身と、ほんの少しの嫌味が混ぜられた言葉を、おとなしく受け止めて、麻耶はそれをやり過ごす。
まあ、麻耶はもともとこの学校の卒業生で、さっき声をかけてきた年配教師は、かつて担任教師だったこともある……微妙と言うか、目に見えない力関係があるだけに、こんな風に口を出してくることが多い。
ため息をついたところを、隣の席の女性教師に笑われてしまった。
そして、ひそひそと。
「……男性の方って、ホント女の子に夢を持ちすぎですよね」
「です、ね」
整った顔立ちの、絵に描いたような優等生。
面倒見が良く、いつも人に囲まれ、教師や人の頼みを嫌な顔ひとつせずに、受け入れるべきは受け入れ、ためにならないと思えば断り、教師の立場としては非常に都合のいい生徒。
先の年配教師の忠告も、多少彼女への入れ込みというか、贔屓が混ざっている……それを、麻耶と同じく同僚の女性教師も感じていたようだ。
まあ、教師は教師で、年配の教師から若手教師に、雑事を押し付けることが多いのが現状で、どの口が……といいたい気分をぐっと押さえ込むのが常ではあるが。
かの女生徒の評価にしても、あくまでも男性から見た一般的評価に過ぎない。
女性の目から見れば、それも人生経験に加え、多くの生徒と接してきた女教師の目から見れば、むしろ彼女が不器用なことが透けて見えている。
クラスの中心人物。
ごく自然に、クラスの委員長のポジションになってしまう。
それを、『演じて』いる。
理解していて雑事を頼むのか、とツッコまれそうだが、麻耶の言い分はこうだ。
仕事はさせる。
ただし、ちゃんと評価はする。
クラスで、押し付けられた仕事に文句しか言わない生徒とは一線を画し、就職、進学の際には、きちんと評価を上乗せしてそれに報いる。
大体、『優等生を演じる』彼女のことを薄々理解して、無報酬で面倒や用事を押し付ける女子生徒たちに比べたらホワイト過ぎてお釣りが来る。
彼女の周囲の人の輪、それは純粋に彼女の魅力だけではなく、都合のいい存在として一部の女子生徒に利用されているのが現状だ。
「……まあ、絢辻さん本人がそれに気付かず、周囲を見下しているのが自業自得とはいえ、ね」
「女なら、大抵わかっちゃうものなんですけどね」
「男子生徒も、勘のいい子は気付いてますよ……」
可愛くて面倒見が良く、クラスの人間に分け隔てなく話しかける。
まあ、そこに違和感を覚えるか覚えないかは、本人の資質と、人生経験次第だろう。
そして、男は男である分だけ、女を理解するのが難しくなる。
それはもちろん、女もまた、男を理解するのが難しいことを意味し……。
「ぼ、僕、高橋先生のことがすきなんです!」
こんなことになって、困惑することになるのだ。
麻耶が担任する、2年A組の生徒の1人で、橘純一。
成績も、運動も、平凡。
おとなしいと言うか、普通と言うか、どこか印象の薄い男子生徒。
1クラス30人から40人の生徒を担当する以上、どうしても目に付きやすい生徒とそうでない生徒との間に、認識の差が生まれるのは仕方が無い。
気を取り直し、麻耶はあらためて男子生徒を見つめた。
私は教師で、あなたは生徒なのよ。
気持ちは嬉しいけど、ごめんなさいね。
……なんてことは、仕事に対してさほど責任感も持たずに、不平と転職願望ばかり口にする馬鹿でもいえる。
少年の、若いエネルギーを否定してスポイルするのではなく、本人のよりよい未来に向けて消費させてこそ、人を導く教師の仕事であろう。
長すぎる沈黙は、男子生徒を不安にさせ、逃亡してしまうかもしれない。
頭の中で忙しく考えをまとめながら、麻耶は、柔らかく微笑んだ。
「いくつになっても、相手が誰でも、こうやって誰かに認めてもらうことはうれしいわね。ありがとう、橘君」
否定ではなく、肯定から入る。
コミュニケーションの基本テクニック。
暴走させず、コントロールし、誘導する。
それが難しい。
そっと手を握る。
しかし、それなりの距離は保つ。
男子生徒の気持ちは肯定する。
やんわりと、現実を思い出させるように仕向ける。
教師と生徒。
発覚すれば、ダメージを受けるのは教師のほうであること。
周囲の印象についても語る。
例として、同じクラスの女子生徒、絢辻詞のことを挙げた。
同じことを言っても、同じことをしても。
それまで積み上げたものによって、周囲の見方が変わること。
丁寧に、粘り強く。
麻耶は、自分が望む方向に少年を誘導していく。
所要時間、53分。
「わかりました!僕、先生はもちろん、周囲の人間にも認められるように、がんばります」
まずは勉強。
成績の向上。
少年の、若さゆえのエネルギーは、爆発力はあっても、持続力に欠けることが多い。
周囲に知られぬように、『きちんとあなたのことを見ている』とアピールしつつ、少年の頑張りを持続させ、結果を褒め、達成感を与える。
それを、習慣として定着させればしめたもの。
いつしか、自分に対する気持ちは、周囲の異性に対して向けられていくだろう。
「……想像以上に、伸びがすごいわね」
それまでの少年は、普通の成績。
どうやら、何も勉強せずに、授業をなんとなく消化するだけで、その成績を残していたと推測される。
ならば、努力を続けさせれば……大学進学時に、どのレベルまで到達できるか。
まあ、受け持ちの生徒が結果を残すのは、教師としても悪くない。
さほど手間にもならない、燃料投下を繰り返しながら、時間が過ぎ……少年は2年から3年へ。
担任と教え子から、学校の教師と生徒という関係に。
たぶん、これでフェイドアウトしていく……それだけの関係。
麻耶は、なんとなく……なんとなく考えた。
少年が大学に進学し、卒業して就職するときに、自分は……36歳か、と。
教師は激務だ。
そして、今年で30歳。
ここ数年は、恋人どころか、お付き合いに発展させる出会いとか余裕が無い。
激務に明け暮れる、教職の現状。
6年後の自分の姿を想像。
心の中のぼんやりとした何かが、少しずつ形になっていく。
少年の人柄は、ある程度理解した。
もちろん、人間なんて、経験次第でどんな風にも変わると言われる。
それは逆に、経験そのものを限定してしまえば、ある程度変化をコントロールできるのではないか。
「……よし」
「おめでとうございます、高橋先生。あ、もう、橘先生でしたね」
かつての教え子、絢辻詞が、麻耶に向かって祝福の言葉を投げる。
「いやあ、一回りも違う教え子をくわえ込むとか、想像もしてなかったものですから」
投げると言うか、投げつける。(震え声)
麻耶は、にっこりと微笑み。
「絢辻さんが、私の年齢になるまでに、結婚式を挙げられるかどうか、楽しみにしてるわね」
詞が笑う。
麻耶が微笑む。
「あははは」
「うふふふ」
絢辻詞は、かつてのクラスメイトから『印象が変わった』という、オブラートに包んだ評価を受けている。
絵に描いたような優等生キャラなんて、社会にでたら何の意味もないことがわかったらしい。
余談だが、少年は高校を卒業した後、彼女と同じ大学に進学していた。
成績の向上にくわえ、きりっと『大人びた』成長を遂げた少年の姿は、大学内でもそこそこ人気になったのだが、既に先約済み。
それを知ってなお、攻勢をかけた女性もいたようだが……今日の結婚式から、想像していただきたい。
『よし』じゃないが。(震え声)
個人的に絢辻さんは、仮面をはがして振り回したい。
後、天然らしいあのお姉さんは、処世術としてそれを演じていると妄想してしまいます。