マリアンネ・フォン・メルケンドルフ。
前世の記憶に引っ張られたのか、最初は『マリアンヌ』だと勘違いしてた。
うん、勘違いしてたんだ。
ろくな自己紹介もせず、『マリアンネです、マリーって呼んで』って言われたからね。
最初は彼女のことを、ヒルトブルクハウゼン侯爵の孫娘だと思ってたんだよ。
そりゃあ、世話もしたし、親切に声もかけたよ。
奥方との会話の流れで『クロプシュトック』の名前を出さないわけにはいかなかったのはわかるだろう?
言ってみれば、私という存在は、帝国貴族社会における鼻つまみ者だ。
同盟への亡命という事情でもない限り、普通に接してくれるなんて……それが表面上であろうとも、期待もしていなかった。
だからまあ、帝国でいろいろあって、しかも侯爵が倒れて意識不明だ。
女性の年齢に触れるのは厳禁だが、奥方はまあ、経験も含めた年の功なんだろうね。
帝国貴族社会のあり方を思えば、女性のそれも、なかなかに過酷な世界だろうと思うし。
その一方で、孫娘たちはやはり心細そうにしててね。
声をかけても、返事をするのが精一杯で、『これから私たち、どうなるんでしょう?』などと、将来の不安を口にするぐらいだったな。
まあ、気晴らしのネタをいくつか提供する程度には親切で、紳士な対応をしたさ。
その中で『気丈にも』と思えたのが、マリアンネ嬢だった。
不安そうな姉妹……まあ、私がそう思い込んでいたわけだけど……を、励まし、時にはなだめ、私が提供した気晴らしのネタに彼女たちを連れ出す。
ああ、この3人の娘たちの中で『お姉ちゃん』なんだなと思ってた。
でも、あらためて話してみれば、彼女はメルケンドルフ伯爵の娘だという。
彼女いわく、『ヒルトブルクハウゼン侯爵様の孫娘とはお友達だから、フェザーンまで亡命のお見送りと、同盟に亡命しても連絡を取り合うことができるようにフェザーン観光を兼ねながら、コネ作りをしようと思った』そうだ。
正直、それを聞いてドン引きした。
あれだ。
前世日本人で言うところの、親の顔が見てみたいってやつだ。
ちなみに、メルケンドルフ伯爵も、たぶん原作には出てこなかった貴族だ。
ある意味、モブ未満の『その他の帝国貴族』ってことになるのか。
後で父から聞いた話が元になるけど、イメージとしては、原作のマリーンドルフ伯爵に似てるかな。
あまり争いを好まず、しかし一線を超えてきた敵には容赦しない。
権謀渦巻く帝国貴族社会だからね、優しいだけじゃいられないさ。
おそらく、マリーンドルフ伯爵も『帝国貴族としては』穏やかな人柄に過ぎないんだろう。
ああ、伯爵には内緒でやってきたと言うから、即座に連絡を入れさせた。
もちろん、ヒルトブルクハウゼン侯爵の奥方も立会の上での通信連絡だ。
放任主義なのか、それとも仕事が忙しいのか、連絡を入れるまでマリアンネ嬢の行動を認識していなかったのには、少々呆れたね。
2ヶ月以上家に帰っていないのに、何を……と思ったが、伯爵はオーディンにいて、マリアンネ嬢はメルケンドルフ領で生活してたそうだから、どちらかというと使用人の問題だったのかも。
しかしこの奥方も、強かというかいい性格をしてる。
伯爵に向かって、『男の世界には踏み込まないから、女の世界に踏み込むのも遠慮なさってくださいな』、ときたもんだ。
私の話だとピンと来ないかもしれないが、夫である侯爵が意識不明の状態、私がクロプシュトック家の者と知って『よくわからない話』をほのめかすんだぜ?
貴族社会ではよくある、言葉にしない契約ってやつだ。
財産はあっても、奪われたらおしまいだからな。
同盟に亡命してからの生活の保証と財産の管理の手助けというか、フェザーン商人や権利関係の力になれる人間の紹介。
それと引き換えに……さらりと、夫を私に売ったんだよ、この奥方。
医者から夫の病状を聞き、もう頼りにしても意味がないと判断したのかはわからないけどね。
男の嘘泣きはただの嘘だが、女の嘘泣きは本気の嘘泣きとはよく言ったもんだよ。
この奥方達が先に同盟に亡命し、落ち着いたところで、ヒルトブルクハウゼン侯爵は、延命に近い処置を打ち切られて、死んでいったというわけ。
まあ、元々医者からは回復の見込みはほぼないって話だったから……寿命だったんだな。
復讐という程のことじゃない。
と、ヒルトブルクハウゼン侯爵と奥方のことはまた後で。
マリアンネ嬢だ。
『せっかくだから、クロプシュトック領を見物させてくださいな?』
やや話が行ったり来たりしているが、これは侯爵の奥方と孫娘が亡命を認められて同盟へと旅立った後のことになる。
もちろん、侯爵はフェザーンの病院でまだ生きている。
この頃になると、最初のドン引きの感情は薄れて……やや警戒するような気持ちを抱くようになっていた。
リア充死すべしとか、そういう話じゃない。
これでも、前世では少年期からいくつかの恋愛を経て、結婚もし、孫も抱いた経験があるんだ。
女性が男性に向ける好意に関しては、鋭いとは言えなくとも、鈍くはないと思う。
彼女が私に向ける視線は、好意でも、興味でもなく、『観察』だったからね。
まあ、この時期、私は『復讐に関して』いくら探られても、何の問題もなかった。
実際にヤってないからね。
問い詰められたところで、『復讐の気持ちがないと言ったら嘘になる』と返せばいいだけの話。
復讐対象が『皇帝』となると、その発言だけでもやばいけど……父はともかく、私としては『生贄の件に関して皇帝は無関係』だと思っている。
まあ、復讐以外の話になると……まあ、ね。
復讐に関してはチェリーなボーイではあったが、人殺しという面では、何度か経験済み。
お金が絡むとね、どうしても色々とあるとだけ。
彼女に関しても後腐れのないように、こっそりと殺ってしまえばいいという気持ちがなかったわけではないけど……まあ、甘いんだろうね。
どうしても、女子供に手を出すのはためらいがあったんだ。
母や姉、妹に弟の事を考えると、余計にね。
許せないという気持ちが強ければ強いほど、そういう行為に忌避感を覚える。
ましてや、彼女は私に敵対しているわけではなかったから。
考えてみれば、クロプシュトック家に、一族とは無関係の帝国貴族のお客様を迎えるのは15年以上ぶりってことだったのか。
まあ、伯爵本人ではないにせよ、だ。
そして私は、父にヒルトブルクハウゼン侯爵の件を告げた。
奥方から聞いた話も添えて。
じっと話を聞いていた父が、私の左手を見たときの表情は……うん、父親の顔だったね。
原作の『私』が戦死したときは、どんな顔をしたのだろう。
この時の私の感情の動きというかうねりは、少し説明しにくいね。
血筋や貴族の格はどうでもいい、この父に『孫』を抱かせたい……ただ無性に、そう思ってしまったんだ。
復讐とは別の、父親に希望を、未来を与えたいという想い。
それが強くなったとでも言うのかな。
気が付くと、口に出してしまっていた。
血筋や、貴族の格はどうでもいいじゃないかと。
うん、それでも父は頑なだった。
久しぶりに殴られたなあ。
愚かと思うかもしれない。
それでも、これもまた貴族の誇りの一つの形だ。
私には、そのどちらもわかる。
折れることができない父と、それが理解できる私と。
そして、それ以上のことがわかる私。
原作の歴史には、帝国貴族の終焉が描かれているから。
原作のとおり、ラインハルトが台頭してきたら……クロプシュトック家が味方する?
おそらく意味がない。
クロプシュトック家もまた、門閥貴族であったから。
政治的に冷遇されていたから、状況を覆すためのパフォーマンスとしか思われないだろう。
何よりも、私の父がラインハルトの存在を良しとするとは思えない。
絶望というのと少し違う。
行き止まり。
どん詰まり。
気が付くと、私は泣いていた。
そんな私を見て、父も泣いた。
男が。
大人が。
あの日から15年あまり、クロプシュトック家の絶望は、何一つ変わっていなかった。
父が呟く。
この手に孫を抱けば、私は安心して復讐の道を選ぶのだろうと。
私の左手を見て、永遠に失われた左手を見て、胸が潰れそうになったと。
不確かな未来より、確かな『私』を守りたい。
それでいてなお、復讐の想いも捨てられずにいると。
気づくのが遅れた、いや気付かなかった。
そんな父と私を、マリアンネ嬢がじっと見つめていたことに。
『産んであげましょうか?』
彼女の言葉の意味、それを理解するのに少し時間がかかった。
しかし彼女は、その『間』を別の意味にとったのかもしれない。
『数代前には皇族も迎えた血筋……不足ですか?』
あぁ。
笑った。
父も笑った。
子供だ。
何も知らぬ、子供の意見。
メルケンドルフ伯爵が、それを認めるはずもない。
そもそも、貴族の家系図というか血筋に関してはきちんと帝国で記録される。
つまり、貴族同士の婚姻にはそれなりの手続きが必要で、許可が貰えないことはほとんどないとはいえ……クロプシュトック家の婚姻は、その少数の例となるだろう。
『私はただ、御子息の子を産んであげようかと申し上げました』
父は笑うのを止め、彼女に頭を下げた。
『お気遣いには感謝を。そして、我がクロプシュトック家の状況を簡単に説明しよう……その上で、同じ言葉を口にできますかな、フロイライン』
淡々と、父の説明は、ただ淡々としたものだった。
生贄に関しては、言わなかった。
ただ、周囲からは裏切り者として見られていること、そして帝国の貴族社会からはほぼ断絶された状態であることを、私の幼年学校の入学を断られた件を絡めて語っただけだ。
彼女が何を思ったのかわからない。
何を考えたのかもわからない。
彼女は、フェザーンでひっそりと私の子を産んだ。
父が、怖々と、赤ん坊を、孫を抱く。
涙を流しながら孫を抱く父を見て、私は……安心できた。
そんな私を、彼女はジッと見つめていた。
やがて父が、私に孫を……私と彼女の子を抱かせようとする。
それを彼女が押しとどめる。
なんとなく、彼女が言う言葉がわかるような気がした。
『復讐を願う手に、この子を抱かせたくないの』
ああ、そうだろう。
私も、そう思うよ。
父上に、そしてマリアンネに、感謝を。
優しい気持ちは、ここに全部おいていきます。
クロプシュトックの名も、置いていきます。
フェザーンのネットワークと、この、母の形見だけ頂いてまいります。
父が、どこか迷子のような表情で私を見ていた。
マリアンネの、冷めた瞳は相変わらず。
『フランツ』
一礼し、踵を返す。
『もういいんだ、フランツ。もう、いいじゃないか……この子を、孫の出生を、届け出よう。メルケンドルフ伯爵にもなんとか話を通す、だから、フランツ……』
足を止め、振り返る。
母の無念を、姉の苦しみを、妹の痛みを、弟の失われた未来を、そしてなによりも父上の悲しみを……名も無きひとりの男として叩きつけてきます。
フランツ・フォン・クロプシュトックは、死にました。
事故でも、病気でも、理由はなんでも。
一人息子が残した、一粒種。
合わせて、届出を。
ありがとう、マリアンネ。
父に未来を与えてくれて。
『……ずっといらない娘だったからね、必要とされたかったのよ。言ってみれば、親への復讐。私には止める権利なんかないわ』
彼女はちょっと笑って。
『ろくな両親じゃないわ、この子……ちゃんと見てあげてないと、まともには育たないわね』
私はモブである以前に、凡人だ。
何度も同じ失敗をする。
狂気に浸りきれない。
世界を閉ざす。
心を閉ざす。
狂気をまとう。
決意や覚悟では足りない。
氷だ。
熱はいらない。
溶けない氷。
母を思え、姉を思え、妹を思え、弟を思え。
自分にはもう、甘える相手はいない。
偽りの狂気を、自分のモノに。
狂え。
そうでなければ、復讐に耐えられない。
フェザーンの病院。
目を覚まさない、ヒルトブルクハウゼン侯爵。
復讐は権利じゃない、義務でもない、狂気だ。
さあ、後戻りのできない道を。
帝国歴、475年。
ヒルトブルクハウゼン侯爵が、フェザーンの病院で死んだ。
さあ、ようやくだ。