お玉物語   作:詞連

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当小説は性的マイノリティを差別する意図はございません。
けど大河ドラマでホモ描写ぶちかますNHKは未来に生き過ぎじゃないでしょうか?


悪左府の章

 その男の佇まいには、公家らしかなる気風があった。

 細身ではあるが痩せてはいない。肩幅は広く背筋も伸びている。今も常に鍛えている、という風ではない。しかし人生の一時期においては、それこそ日々体を鍛え続け、今でも折を見て鍛錬を施している様子だ。

 目つきも鋭い。目の前の人物をどう使うべきか、どう利用しようか、あるいはどう倒そうか。常に自ら動く期を探す、能動的、いや苛烈とすら言える攻撃的な目だ。よく見る公家達の、相手の意図を探り、失態を探し、どう出てくるかを探る受け身の眼ではない。

 

 これらの印象はその男――藤原頼長の経歴、行動、そして人格と、そう矛盾していない。

 

 左大臣藤原頼長、通称悪左府。

 

 私は、この京における台風の眼とも言える人物が最初に投げかけてきたのは、次のような言葉だった。

 

 「ほう……お前が、美福門院殿の所の子ギツネか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 事の始まりは、数日前だ。

 

 皇后呈子様は、元は美福門院様の養女である。それが急な関白殿への養子入り、入内のため、着物や物品がいくつかがまだ八条殿に残っていた。

 それらを運び込む算段もでき、一度関白殿の三条殿に運び込んでから内裏に持ち込むこととなった。

 さて、荷造りもできて3日後には運搬作業といたその日、一通の手紙が関白殿より送られてきた。

 

 『暲子内親王様に、ぜひ三条殿にお越しいただきたい』

 

 なんでも少し話したいことがあるとのことだ。

 行くべきいや行かざるべきでまた女房同士の面倒なやり取りはあったが、結局は暲子様の

 

「いいよ~、暇だし~」

 

 の一言で、行くこととなった。

 まあ、関白殿からの直々のお招きを断るのはまずありえないことであり、既定路線だ。

 

 さて実のところ、この時点で関白殿の企みは”見え”ていた。

 なのでそれについて美福門院様と相談。許可を得た上で牛飼いを響の息の掛かった者に変え、指定された本日、長月の16日。三条殿へと向かった。

 

 三条殿にて、関白殿の暲子様へのお話は要領を得ないものだった。

 やれ今上様(近衛天皇)も会いたがっているだの、美福門院様の様子は最近どうかだの。

 わざわざ呼びつけてまで話すような内容でもない。

 最初の頃は久しぶりに会う小父さんと、ニコニコ顔で四方山話に花を咲かせていた暲子様だが、この陽だまりの蒲公英が如きぽややんとしたお方は、頭の中身もたしかにぽややんではあるが、決して愚かというわけではない。

 しばらくして不審に思ったのか、

 

「おじさん、何か困ってるの?」

 

 と直球で、関白殿に尋ねられた。

 その刹那、わずかに関白殿の顔に浮かんだ表情はきっと罪悪感と自責、あるいは後悔とでも言うべきものだっただろう。

 目の前の蒲公英のような少女を、自分達の権力闘争に利用しようということへの、人として当たり前の罪悪感だ。

 もしこの後もう少し猶予があったらこの人物がどのようなことを言ったか少し興味があるが、実際はその時間は与えられなかった。

 表門より大声が上がった。

 

「関白殿!藤原長者に相応しからざる!」

 

 前々より予言されていた悪左府陣営による三条殿の接収である。

 流石にあくまで三条殿の接収が目的であるので狼藉や略奪はされないだろうが、相手はあの源氏武士だ。何があってもおかしくない。

 すぐさま暲子様を連れて乗ってきた牛車に向かう。

 呈子様の荷物を積んできた方の牛車も、今すぐにでも出立できる状態にあった。ご丁寧に呈子様の荷物を入れてきた”空になったはずの葛籠”も詰まれていた。

 予想通りである。

 私は荷物を積んだ方の牛車に近づくと――懐に忍ばせていた刃を抜いた。

 

「お玉!?何をしているの……!」

 

 という声は関白方の女官のものだったか。

 私はそれに取り合わず、牛の手綱などの紐の類を片っ端から切り落とした。

 そして牛車に積まれた葛籠を開けて、なるべく男の声に聞こえるようにと、音程を低くして

 

「朱器台盤はこっちにあったぞ!」

 

 叫んだ。

 

 関白殿の企みは、暲子様――美福門院閥の元に朱器台盤を送り、接収から逃れるというものだった。

 もちろんその後、美福門院様が朱器台盤を悪左府側に渡す可能性もあるが、その場合に備えて呼んだのが暲子様だ。

 

『美福門院様はともかく、暲子内親王様は朱器台盤の避難に協力した』

 

 という既成事実を作るためである。

 悪あがきも良いところではある。利用された側の美福門院様や暲子様の心象の悪化もある。

 だが黙って奪われるよりは得――少なくとも関白殿はそう判断したのだろう。

 

 そのため呈子様の荷物を八条殿から持ち込む際に使った葛籠に、長櫃から出した朱器を詰め込み送り出そうと考えたのだ。

 なかなか上手く考えたものだ。しかし残念ながら、こちらは女とはいえ大陸からの”お救い”を続けて数百年の響氏の一員である。その程度の”お救い”では大陸から陶片一つも持ち出せないだろう。

 

 さて、人が集まる気配がする。おそらく源氏の武士だろう。

 このまま暲子様がここにいて、万が一があっては困る。

 

「行きなさい!」

「ヒャッハーッ!」

 

 私の指示に午飼いが威勢よく飛び出す。言葉の勢いとは裏腹に速度はあまり出ないが牛車としては破格の、人が全力で駆ける程度の速さで暲子様の乗った牛車は駆け出した。

 

 その牛車に、私は乗っていない。

 

「玉ちゃん!」

 

 暲子様の、珍しく差し迫った声がする。

 だが私は振り返らず、その場にとどまった。

 

 一点、誤算があり、その修正が必要だからだ。

 

 まさか、いざ源氏武士が乗り込んでくるという段階になって、慌てて三条殿を脱出することになるとは思っていなかった。

 そして、あの瞬間の関白殿の顔を見る限り、関白殿とて想定していなかった事態に違いない。

 

 察するに関白殿は、本日が接収決行の日であることは察していたのだろう。

 普通ならいつ源氏武士が来るか物見の一つでも立てるところだが、おそらくこの公家様は

 

『暲子内親王様がいる内は、源氏武士とて踏み込んでくるまい』

 

 と高を括り、見張りをおざなりにしていたのではないだろうか?

 まったく以て甘い予想だ。武士がそんな風に空気を読む生き物だと思うなど、見込みが甘すぎるというものだ。

 もっとも見込みの甘さという意味では、関白殿がそこまで甘い想定をしているなど思っていなかった私も笑うことはできない。

 

 ともあれ、このままではまずい。朱器はまだ牛車に乗っているのだ。

 予定ならば帰り際に葛籠を開けて、朱器を白日に晒し、降ろして帰り、後日に美福門院様による弾劾にて関白殿に貸し一つ。などと考えていたが、この状態で悪左府側に見つかれば

 

『美福門院派閥が朱器台盤を持って移動しようとしていたが、源氏武士が踏み込んできたので慌てて置いて逃げた』

 

 と言われることになる。後々になって弁明するには苦しく、逆に開き直って『その通りだ』と認め関白側につけば、いよいよ藤原内部の権力闘争に巻き込まれ、中立にして双方に影響力を及ぼすことのできる立場を失う。

 故に、源氏武士に発見される、ではなく、美福門院側の人間から手渡すことで

 

『暲子様が関白側に加担して、朱器台盤を輸送しようとしたわけではない』

 

と弁明する役が必要になる。少なくとも、これでただ牛車に積まれた朱器台盤を見つけられるよりは状況はマシになる。

それができるのは今いる女房達の中で、きっと私だけだ。

 

 そう考えたところで、他の女房――暲子様の牛車に乗りそびれた女房達はどうしたのかと思い出した。あたりを見渡せば、彼女たちは普段の取り澄ましたおしとやかさをかなぐり捨てて、全力で走り去っているところだった。中には壁を乗り越えて逃げていくものまでいる。

 

 なるほど、京女もなかなか強いものだ。と、妙な感心を得た私を、源氏武者たちが取り囲んだのだった。

 

 

 

 

 

 さて、首尾のほどはまあまあ、といった所だ。

 流石に、狼藉者として名高い源左衛門殿も接収予定の三条殿で暴れるのはまずいと分かっていたか、響氏の郎党と同じ程度の大人しさの面子を引き連れてきたらしい。ちなみに、ひょっとしたらと為朝殿の姿を探したが、流石に『最近ちょっと礼法を覚え始めた狼藉者』は、選外だったようだ。

 寄せてくる武士達を前に、私は身分を明かし、美福門院と響の名に相手が少し戸惑った所で

 

『関白方が、暲子様の牛車を奪い、朱器台盤を詰め込んで逃げようとしたところを取り戻したので、朱器台盤をお渡しします』

 

 として引き渡すことに成功した。

 事実は少し異なるが、まあ、大筋では正しいので良しとしてもらいたい。

 

 さて、用事は済んだので早く帰るか、と思った私だが、案の定そう都合よくはいかないようだった。

 持っていた小刀を取り上げられ、他に武器を隠し持ってないか改められ、挙句来ているものをほとんど剥がれて、単衣だけにされた挙句、

 

「お連れしました」

 

 と通されたのが、この男、悪左府の前だった。

 

 

 

 

 

 

 これが、悪左府か。

 

 部屋に通された瞬間、私の中で警戒心や不安より好奇心が勝つのを感じた。

 時は夕刻。暗くなりつつなる部屋で、蝋燭の明かりの下、その男は接収した朱器台盤を手に取り一つ一つ眺めていた。

 戦果を眺めて悦に浸っているのかといえば、そうではない。あれは観察だ。

 それは農民が育てた野菜の良しあしを見るかの如く。悪左府は、接収した朱器台盤に何かの感情を持つでもなく、その保存状態の確認作業を行っているだけのようだった。

 

 やがてその作業に一区切りがついたの、それとも単に飽きたのか、朱器を長櫃に戻し、そして

 

「ほう……お前が、美福門院殿の所の子ギツネか」

 

 朱器に向けていたそのままの眼で、私を見た。

 飲まれぬように、さりとて無礼にならぬようにと、私は型通りに

 

「御目文字、光栄でございます。私は――」

「院(後鳥羽上皇)は今年48歳。堀河帝は29歳で儚くなられました、だったか?」

 

 遮って投げかけられたのは、この前、美福門院様に言った言葉だ。

 

「面白い。

 院の寿命まで視野に入れ、先を見ていることも。それをあの女も考えていると読み、理解したことも。そしてそれを人前で口に出したことも。

 実に、面白い。あの女が後継に選ぶだけある」

 

 何の迂遠も虚飾もなく、切り込むように投げかけられる言葉と、伏しているにも関わらず感じ取ることができる、冷たい刃のような視線。

 肌が粟立つ。感じるのは兄や美福門院様などにも感じる圧力。時代の人物――後世にそう称されるだろう人達から感じる、独特の空気だ。

 

「私などとても恐れ多い――」

「余計な謙遜はいらん。邪魔だ。

 ――あの小娘の側に付けられているのだろ?

 あの小娘は血筋人品はあるが、才がない。あの女の地位は継げても役目は継げん。だから、お前がつけられた。摂政のとしてな。まだ候補といった所だろうが」

 

 あの女、小娘など、仕えている八条殿の方々を言われるのは、少し癪に感じる。

 その怒りの熱のためか、少し体と心の凍てつきが溶け、改めて今自分が対面している人物について改めて頭を巡らせた。

 

 悪左府、藤原頼長。

 関白殿の弟にして義理の息子。

 悪左府の名の通り、非常に有能かつ、苛烈にして型破り。前例を破ることを厭わぬ、妥協を知らない手強い政治家。

 文官としても新嘗祭の御禊の調査と記録編集を、わずか10日で仕上げた辣腕の持ち主。

 政治信条は天下の撥乱反正。聖徳太子の十七条の憲法を基底として、政治行政の腐敗と弛緩を正すことを目標としている。

 個人としては、広い和漢の見識を持つ大学者だが和歌漢詩は苦手とし、詩の才はないと自ら認める程だ。

 昨今の公家にしては珍しく武芸にも優れている。

 その人格も苛烈で「腹黒く、よろずにきわどき人」と世間では言われる。

 その代表的な逸話としては、官人を殺害した犯人が恩赦で釈放されたことに対し激しく怒り、手勢に暗殺させ「天に代わって之を誅するなり」と公言したことがあげられる。

 が、その一方で、子供の頃から飼っていた猫を大切にしたり、幼くして死別した生母への情愛への逸話があったりと、複雑な人物でもある。

 それと

 

『有能だし面白い人物だが、人の尻をネットリと眺めるのはやめて欲しい。本当にやめて欲しい』

 

 と言う兄の証言からわかる通りの、男色家であり好色家だ。

 まあ、兄の貞操の行方はともかく、その兄からの情報や聞こえる噂を統合すると、一つの人間像が浮かび上がる。

 

 すなわち、『原理主義的な保守派にして改革派』だ。

 

 現在の政治・社会情勢と、法や行政の成立理念とを一直線に結び、それに沿った行政を行う。

 かつての社会情勢、政治情勢によって生まれ、現状には合わなくなって慣例や前例を、不正や非効率として切り捨てることに一切の躊躇なく、また理念に反せず、現実に沿っているのなら、前例のない政策、人材登用をするのにも躊躇しない。

 その効率主義は、私の実家である響氏と、どこかに通ったものを感じる。

 

 ともあれ、人物評はこのくらいでいいだろう。

 今重要なのは、この効率主義の悪左府がなぜ私を目の前に連れてこさせたか、だ。

 何の用もなく、噂の狐憑きを見物してやろう、などという風流ではないだろう。

 顔を上げ、悪左府の視線を正面から受け止める。

 

 許可も取らず顔を上げるのは不敬であるが、公の場でもない限り、この男はそういうことを気にしないと思った。

 実際、顔を上げた私を待ち受けていた悪左府殿は、それを気に留めることもなく

 

「やはり兄弟妹よな。響六位に似ている」

 

 と軽く笑うにとどまった。

 ここで美福門院様なら、余裕の笑みを浮かべ、穏やかに軽口の一つでも叩くのだろうが、あいにく不出来な子狐は、表情を硬め、飲まれぬようにするのが精いっぱいである。

 精いっぱいのまま、一つ気になっていたことを聞いてみた。

 

「随分、美福門院様のことを高く買っておいでのようですね」

「京雀のさえずりなど当てにならぬのは知っておろう。

 私はあの女を邪魔だとも、忌々しいとも思ってはいるが、心底軽んじているつもりも侮っているつもりもない」

 

 問いの答えに、納得を得る。

 よくよく、『悪左府殿は諸太夫の女として美福門院様を軽んじている』と噂される。そして、実際に軽んずような言動を見せることも多々ある。だがこの人物が、本心から軽んじている相手に、無意味に軽んじた態度をとるとは思えない。

 

 この朝廷、いや、日本という国の政治界における互角の差し手として、この男は美福門院様を評価しているのだ。

 だからこそ、あえて軽んじるかのような言動を以て、威圧と牽制をしているのである。

 

 そして、この男が美福門院様を有力な競争相手としてみているのだとしたら、私は 『美福門院様が目にかけている女房』 という立場で呼ばれたのだろう。

 私を『保護した』ことを以て、美福門院様に対し小さいながらも貸しを得るつもりか、それともあえて『美福門院様や暲子様が朱器台盤の避難に協力しようとした』という言質を私からとり、政治的な攻撃の大義名分を得るつもりか。

 どちらであろうか、と頭では考え――

 

 ―――いや、違う。

 

 私は、その考えを否定した。

 そうは”見え”なかったからだ。

 自分でも説明できない、しかし無視できない生まれ持った感覚が、この男の目的が、それらではないと告げている。

 しかし、では一体……。

 

「おい、子ギツネ、三条殿に部屋をくれてやる」

 

 思い当たるより先に、悪左府が答えを告げた。それがどういう意味かというと、

 

「側室だが、十分だろう」

 

 流石に、これには私も驚いた。

 だが言われれば、納得できる内容だった。

 

「そこまで買っておいでですか、兄を……いえ、響の家を」

「両方を、だとも。響も、六位もな。

 田舎の武士とは言え、さすが遠の都の出。礼節学識に優れ、律令にも従う、近来希な武家である」

「……恐れながら、響は格別勤皇の心が篤いというわけでは……」

「商いや徴税にあたり、朝廷の権威が有用だから従っている、というわけであろう。

 良い。存分い振る舞え。むしろそれこそ、あるべき姿よ」

 

 単純に、響の家の財や、兄の才覚や尻だけが狙いで、引き込みにかかっているわけではない。

 真剣に響の家を見分し、理解し、その上で取り込みに来ている。

 

「恐れながら、響の家は、そのような力は……」

 

 さて、どうしたものかと、頭をひねりつつ、並行して言葉を返そうとすると、

 

「―――なぜだ?」

 

 と、悪左府は遮った。

 

「なぜ、断らんとする?

 響の家にとっても、お前自身にとっても、よい話であろう?」

 

 いわれて、はっとした。

 館の接収に巻き込まれ、捕縛され、引き出された上で娶られる。

 状況としては、常識外れも甚だしいが……

 

「このまま順調に駒が進めば私は関白となろう。その側室ともなれば、嫁ぎ先としては望外だ」

 

 ――そうなのである。

 私は、政略結婚のための駒として、京に来たのだ。

 たしかに、このまま美福門院様の下に戻れば、いずれは暲子様の側付きとして、出世はするだろう。

 だが、所詮は内親王の側付きである。

 権門たる藤原摂関家に、側室として入る方が、はるかに響の家としては有用なことだ。

 

 合理的に考えて、受けるべき話だ。

 受けるべきはずなのだ。

 

 けれど―――

 

 

 『 ―――やはり、俺はお前のことが好きだ 』

 

 

 ああ、なぜだ。

 なぜ、あの男の顔を、ここで思い出すのか?思い出してしまうのか?

 

 目の前に、影が差した。

 物思いにふけったほんの数呼吸の間に、悪左府が歩み寄ってきていた。

 悪左府は膝をつき、私の顔を覗き込む。

 

「ふむ。やはり六位に似ている」

「あ、兄の代わりというわけですか……?」

「いや、お前の兄も、いずれ私の腕の中よ」

 

 さらりと言い放ち、悪左府は、私の頬に手を当ててきた。

 冷たい手の感触が、あの日のあの男の手のぬくもりを消していく。

 寒気を感じる。だが、私は動かない。

 なぜならこのまま、身を任せることが、理にかなっていることだからだ。利となることだから。賢いことだから――

 

 

 『 愚かでない生に、甲斐はあるのかしら? 』

 

 

 ぱんっ、と、乾いた音がした。

 私の手が、悪左府殿の手を弾いていた。

 悪左府殿の表情が驚きから、続いて不愉快そうなものに変わる。

 

「どういうつもりだ、子ギツネ?損得の通りもわからぬの程、愚かなのか?」

 

 問われて、思う。

 確かに、なるほど。愚かなことだと思う。

 悪左府の、この男の側室に入るのは、なるほど、理にも利にも適うことだ。

 私にとっても、響にとっても、栄達の道だ。

 

 だが、そこに甲斐のある生はない。生き甲斐のある人生ではない。

 もしも、私が生きていてよかったと思える場所は、生きていたいと思う場所は、きっと他のどこでもない、あの男の――あのきらきらとした瞳の、為朝殿の隣だ。

 

 腹は決まった。

 もうくだらない言い訳も、意地もない。

 嵐の過ぎた空のような心持で、私は悪左府殿を―――兄の尻穴をねらうネットリ男色野郎を見据える。

 こいつは私が怯えるかあわてて謝罪するかを予想してたのだろう。

 だが残念なのことに、私はそういう可愛げのある女ではない。

 私は努めて笑顔で

 

「恐れながら悪左府殿。側室へのお誘い、身に余る光栄では存じますが――

 ――誰の尻の穴をまめ回したともわからぬ口で、口づけされるのは、ごめんこうむりますわ」

 

 次の瞬間、世界が揺れた。

 全身に響くような衝撃、つづいて、左の頬に熱を感じる。

 殴られた。床に投げ出されて私は気付いた。

 痛みは感じない。だが全身に痺れが走り、嵐の船に乗ったかのように、上下の別も定かではない。

 それでも、自分の罵倒の結果を見定めるために顔を起こすと、そこにはおしろいの上からでもわかるほど、顔を赤くし、怒りの形相をあらわにした悪左府がいた。

 ふふっ、愉快愉快。

 思わず嘲笑ってしまった私。それがますます勘気の火を仰いだのか、悪左府は私の襟をつかんで引っ張り上げる

 

「躾が必要なようだな」

「ぁ……ぅっ……」

 

 やってみなさい、ただし一物の一つでも食いちぎられる覚悟はしてもらう。

 

 言葉は出せずとも、意志は伝われと、膝をついた状態で半ばぶら下がった状態の私は、せめてもの抵抗として悪左府を睨む。悪左府は、いよいよ殺意すら帯びた目で、私を睨み返す。

 

 

 

 まさに―――その時、あの人が、来た。

 

 

 

 庭側のふすまが、突き破られた。

 突き破ったのは、人間―――というより人体だった。

 飛び込んできたのは、自分をここまで連れてきた源氏武士の一人だ。

 彼は背中側からふすまに衝突、突き破り、そのまま床に大の字になって倒れている。意識はないようだ。

 自分の意志でふすまに衝突した、という風には到底見えない。

 

 彼を殴り飛ばした誰かがいる。

 それは、突き破られたふすまの向こうに立っていた。

 

「為朝……様……」

 

 まるで拐された姫のような声が、自分の口から飛び出した。

 なんだ、様って。あの男には似つかわしくない、と頭のどこかの、まだ意地を張っている部分が異議を申し立てるが、しかし、いいではないか。現に私は囚われの身であり、まさに狼藉を受けんとした所で、この男が飛び込んできたのだ。

 突然の乱入者に、さすがの悪左府も肝をつぶしたか目を丸くして為朝殿を見る。

 私の襟首をつかんでいた手は話され、私はその場に尻もちをつく。

 

 さて、暇を持て余した若い女房達が書くような妄想日記の男主人公が如き登場を果たした男は、ここから一体どうするつもりか?

 

 我ながら、どこか他人事のようなのんきさで、興味津々と為朝様に目をやったその瞬間だった。

 そして―――そこからは一瞬の連続だった。

 

 風のように、その大柄な体からは想像もつかないほどの速さで、為朝様は悪左府に詰め寄り―――

 

「おい」

 

 棒立ち状態の悪左府の顔面に―――

 

「そいつは―――俺の女だ!!!!!」

 

 こぶしを、めり込ませた。

 

 その瞬間は、妙にゆっくりに感じられた。

 

 接触の瞬間、顔の皮が踏みつぶされた水たまりのように波うち、頭蓋骨があるにもかかわらず、顔全体がなすびの様に歪んだように見えた。お歯黒の塗られた歯が何本か砕け、口から噴出し、首はねじ切れんばかり。悪左府本人は、その首に引っ張られるかのように背後方向に、きりもみ回転をしながら吹っ飛んでいく。

 その先には―――

 

「あ、朱器台盤」

 

 の入った長櫃。

 前述のとおり、悪左府殿は、公家にしてはなかなか鍛えられた、立派な体躯の持ち主だ。

 飛んでくるその体を受け止められるほど、長櫃は頑丈ではないようだった。

 

 長櫃の素材である板材以外の、何か精緻なものが多数砕けたり割れたりする音が聞こえた。

 

 これは……流石に、まずいのでは?

 いや、無位無官の者が殿上人を殴り倒した時点ですでに相当まずいという気もするが。

 

 予想を斜め上に越えた大惨事に、私はどうしたものかと為朝様に目を向け――

 

「お玉」

 

 ――呼ばれて、そのまま抱きかかえられた。

 為朝様の腕の中で、あの日と変わらぬ瞳で見つめられながら

 

「お前は、俺の女だ。誰にも渡さん、分かったか?」

 

 この男は……。

 ずるい話だ。

 源氏武士達が詰めてる三条殿のど真ん中で、悪左府を殴り倒し、朱器台盤の一部を粉砕した今この瞬間。

 他に考えるべきことや、やるべきことなど、いくらでもあるというのに……。

 

「――はい。いつまでもお側に」

 

 こんなことを言われては、こう答えて抱き縋るしかないではないか。

 

 まるで愚かな女のよう―――いや、私は間違いなく愚かな女だ。

 だが、悪くない。

 

 

 屋敷のあちこちで、怒号が響く中、ほんの束の間、為朝様の温かさに身を委ねた。

 

 

 

つづく




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