圧倒的な死を纏って振り抜かれた斧剣。必殺のタイミングで繰り出されたそれは、躱す手立ての無い標的を惨殺する――はずだった。
「……うそ」
イリヤは小さく息を呑んだ。その目を大きく見開いて。
まるで幽霊か――<悪魔>でも見たかのように。
「危ねェな……」
隠しきれない焦りと緊張とを声に滲ませ、ネロは軽やかに着地した。
それは同時に、バーサーカーとの間合いを取っていた。迫る岩塊の刃を、当たる寸前で跳躍して躱して。
そう……有り得ないことに、ネロは空中で『もう一度跳躍した』のだ。
それを可能にした手段こそ問題であり、異常だった。あの一瞬、突如ネロの足下に『青い魔法陣』が出現し、ソレを物理的な足場にして空中でもう一度跳躍したのだ。
それが、どれほど異常な事か。
あの<異能>は、世界に干渉する程のモノだった。
世界に干渉する能力。確かにそれ自体は存在しない事もない。
魔術師の間で大禁呪と畏れられ、しかし一つの到達点として目標とされる<魔法>に最も近い異能中の異能。
<固有結界(リアリティ・マーブル)>
それは自身の心象世界で本来の世界を塗り替えるという出鱈目。
だが、やはりそんなモノは<世界>からの修正を受けて長くは持ち得ない。事実、あの青い魔法陣も役割を終えた後は霧散するように消えた。だからアレも、固有結界の類かその劣化版なのだろう。
だが問題なのは……。
魔術師でもない男が。
なんの魔術詠唱も無く。
たった一瞬で。
物理的に干渉できる足場を形成したということだ――。
故に魔力の使用が確認でき、そこでようやくイリヤはネロの異常性に気がついた。
ネロの体から目に見えると錯覚するほど立ち昇る魔力。形のない魔力に色など付くはずがないが、イリヤにはそれが<青い炎>のように見えた。
おまけに感じる、その禍々しさ。距離は離れているのに、皮膚が焼け付くような感覚を受ける。無作為に発散するだけで、これほどの影響力。
そして違和感を感じる。
革製のグローブと包帯に覆われたネロの右腕に。どこか邪な魔力とそこから来る嫌な気配を、ネロの右腕は特に放っているのだ。
いや、それは放っているというより、むしろ『抑え切れずに溢れ出ている』ような―――。
「貴方……『何』なの?」
イリヤは警戒を露わにして問い掛ける。
何者とは聞かない。もはやネロが、ただの人間とは思えない。
今はまだ知る由もないが、その直感は間違っていなかった。
バーサーカーとは違う意味で、ネロもまた人を外れた<化物>なのだ。
「『何』って聞かれてもな……」
ネロは困ったように苦笑した。自分のことを漠然と『何』と訊かれては、どう答えていいか判断に困る。あえて言うとすれば……
右腕が■■の人か。
自嘲気味に自分を皮肉ってみる。もちろん、そう答えるつもりは毛頭ないが。
「聖杯戦争に首を突っ込む酔狂な傭兵だよ」
だから適当に言葉を濁して笑った。しかし、その笑みは焦燥感に引き攣っていた。
現状は変わっていない。
あちらが自分を警戒した分、むしろ悪化したと言っていい。形振り構わず脇に抱える女性――バゼットを見捨てたところで、あの巨人から逃げ切れるとも思えなかった。
冷たい汗が頬を伝う。やり切れない緊張感と危機感の中、ネロはイリヤとバーサーカーの動向を必死になって警戒する。そして、イリヤの表情を見て訝しんだ。
イリヤは、笑っていたのだ。見た目相応、子どものように無邪気な笑顔で。
それはネロの言葉に奇妙なユーモアを感じたが故の反応だった。
初めこそ魔術師でもないネロが聖杯戦争に参加すると聞いた時、笑えもしない腹が立つだけの冗談だと思っていたが、どうやら本当のようだ。一応だが、参加するのに見合う力も持ち合わせているらしい。
ならば、今ここで潰すのは勿体ない。
彼は今回の聖杯戦争を面白く掻き乱してくれるだろう。もちろん、それでもバーサーカーが負けるとは微塵も思っていないが。
だから少しの期待と好奇と、その揺るぎない自信から――ネロを『試して』やろうと思った。
「ふふ。ねえ、お兄さん。わたしが一つテストしてあげる」
「テスト……?」
「そう、わたしのバーサーカーに傷一つでも負わせることが出来たなら――今夜は見逃してあげる」
悪戯っぽく笑ってイリヤは言う。
その言葉にネロは目をパチクリさせた。
「それは……」
願ってもない事だ。
何故そう思うに至ったのかネロは知る由もないが、イリヤの提案(きまぐれ)がこの場を離脱出来る最大の好機となったのだ。乗らない手はない。
「――いいぜ。そのテスト、受けてやるよ」
そして不敵に笑う。闘争の意志を固めた輝きを瞳に宿して。
傷一つ負わせれば、だって? 確かにそこのデカブツは化物さ。ハンデ抱えてちゃ手も足も出ないだろうよ。だけどな――舐めんじゃねえ。
「だが、この女には……」
「ええ、いいわよ。あなたが戦ってる間は手を出さないと約束してあげる」
どこまでも好条件だ。それだけ自信があるのか、あるいは自分を試そうとしているのか、はたまたその両方か。
だが、どっちでもいい。今は戦うだけだ。
ネロは戦闘に巻き込まないように離れた位置の木の根元にバゼットを寝かせた。
そしてトランクケースを開ける。
中から姿を現したのは、巨大な剣と銃。時代に流された武器と、時代の象徴となった武器。どちらも日本には場違い極まりない代物だ。
ネロは片刃の大剣<レッドクイーン>を背負い、腰のホルダーには青い薔薇の名を冠した拳銃を収める。
戦闘態勢はバッチリ。それは自分の右腕も含めて。
闘争と死の気配に、先ほどから右腕が騒ぎまくって落ち着かない。まるで貪欲な獣の飢餓にも似た、闇の眷属ゆえのはしたない魔性だ。
ともすれば勝手に暴れ出しそうなソレを咎めるように右手を力一杯握り締めるが……いざとなったら使うつもりだ。
「準備はいいぜ、お嬢ちゃん」
レッドクイーンを抜き放ち、挑戦的にその切っ先を向ける。
その重量感と凶悪さは、バーサーカーの斧剣にも匹敵する。凶器としては超一級だ。その鉄塊を、まるでレイピアのように片手で軽々と扱う。
しかし、それを目の当たりにしてもイリヤは余裕の態度を崩さなかった。むしろネロの武器に落胆したような表情になっている。
「……何それ? そんな<神秘>も籠もってない武器でバーサーカーと戦うつもりなの?」
「あん?」
イリヤの言葉を訝るように片眉を跳ね上げる。その言葉が意味するものをネロは全く知らない。
胡乱そうな顔をするネロを見て、イリヤは呆れとも納得ともとれる苦々しい表情になった。
すっかり失念していた。相手が聖杯戦争、そして<神秘>ないし<英霊>について何も知らないド素人だと。
「――まあ、いいわ」
この際、何でもいい。ただ単に相手を試すだけなのだから。それ以上も以下もない。
死んだら――それまでだ。
「行きなさい、バーサーカー」
イリヤが号令を下し、巨人が応えるように咆哮を上げた。
『■■■■■■■ーーーーーッ!!!!』
地面を蹴り砕き、驚異的な速度でバーサーカーが駆ける。
同時にネロもまた走り出していた。真正面に、迫る死の巨人に向かって。
真っ向勝負。
高々と持ち上がった斧剣が圧倒的破壊力を孕んで振り下ろされた。迎え撃つように鋭く突き出されたレッドクイーンが激突する。
轟音、そして衝撃。ぶつかり合う刃が閃光と炎を炸裂させ――次の瞬間、ネロの体が薙ぎ払われるように吹き飛んだ。
単純にパワー負けだ。筋力、体格差、武器の質量、どれを取っても正面勝負でネロに勝てる道理など無かった。
凄まじい勢いで吹き飛ぶネロは咄嗟にレッドクイーンを地面に突き刺す。
ガガガガガガガガガ―――――!!
埋まった刀身が地を削りながら強引に勢いを殺す。
土煙を巻き上げながら30メートルほど轍を刻んだところで、ようやくネロは地面に足を着けることが出来た。
「~~~っ! チックショウ、なんて馬鹿力だ……!!」
バーサーカーのデタラメな攻撃力に、思わず悪態が口を衝いて出た。剣を伝って響いた衝撃に手はビリビリと痺れ、それに伴う痛みに顔を顰める。
正面から打ち合ってみて完全に理解した。
まともに戦っては勝ち目は無い。
『■■■■■■ーーーッ!!!』
痺れが取れる間も無く、目前にバーサーカーが迫っていた。迫りながら斧剣が振り翳された。
アレは迎え撃てない。対抗できる威力が自分には無いから。
だったら――足りない威力を補えばいい。ネロはレッドクイーンのグリップを捻った。
ネロの持つ大剣レッドクイーンには、とある装置が仕込まれている。
イクシード・システム。
斬撃の勢いを増すため、剣自体に備え付けられた装置から推進剤を噴射する仕組み。
ネロの剣はその出力を限界まで高められている代物――故にレッドクイーンは改造のし過ぎで、逆にイカレた武器なのだ。
その性能が、あまりにも危険(クレイジー)という意味で。
「Let's do it(いくぜ)……!!」
自分を奮わすように唸り、推進剤を爆発させた。
そして、加速。
その勢いのままにネロは突っ込む。剣の噴射口から大量の炎を撒き散らして。
まるで赤い薔薇が咲いて、そして散っているように見える。
そう、それこそがレッドクイーンの名の由縁。
この剣は<赤の女王>の名を冠しただけではない。爆炎を撒き散らす様が、赤い薔薇<レッドクイーン>を咲かせているように見えるからだ。
そして再び剣と剣が激突した。
「1―――!」
飛び散る光と炎。
今度はネロも押し負けはしない。イクシードの後押しを受けた斬撃が、ぶつかり合う斧剣の勢いを打ち殺して停止させた。
だが一撃では足りない。
すぐさまイクシードを燃焼、解放。その勢いを利用し、踏み込んだ足を軸に体を回転させる。
「2―――!!」
回転しながら更にもう一撃、同じ軌跡で斧剣を斬りつける。二度目の斬撃は、勢いの失った斧剣を大きく弾いた。
無防備に晒されるバーサーカーの胴。
ネロはもう一度イクシードを燃焼、解放。もう一回転……もう一撃!
「3―――!!!」
繰り出された三度目の斬撃が、見事にがら空きの懐に叩き込まれ―――そしてそのまま皮膚一枚切り裂く事も出来ずに停止した。
「なァッ!!?」
思わず驚愕の声が洩れた。いかに鋼のような体とはいえ、肉でしかないそれが、鋭利な刃物を受け止めたのだ。
理不尽にも程がある。渾身の力で振るわれた剣が、まさか一ミリも刃を通す事が出来ないなんて―――!
その自失がネロの隙となった。
『■■■■■■ーーーッ!!!』
動きを止めたネロの腹部に、バーサーカーの足の裏が叩き込まれた。
大砲の一撃を思わせる、あまりにも力任せな前蹴り。強烈な威力がそのまま腹を伝って体を貫く。体内で血が弾け、内臓が軋む音を聞いた。
「ごおっ――――!!」
吐き出した喀血を置き去りにしてネロの体が弾け飛ぶ。凄まじい勢いで衝突した木々をへし折り、それから何度も地面をバウンドしてようやく停止した。
思わず手放したレッドクイーンが一拍遅れて地に落ちる。
「フフフ、ざんねんでしたー。バーサーカーに攻撃を当てた事は褒めてあげるけど、神秘の籠もってない武器じゃ<英霊>を傷付けるなんて不可能なのよ」
イリヤは悪戯っぽく笑って嘯く。
ネロは知らなかった。英霊という最高峰の神秘を打倒するには、それに匹敵する神秘が必要なのだと。
故にいくら強力なレッドクイーンでも、神秘の籠もっていない限り英霊を傷付ける事は永劫叶わないのだ。
「これで終わりね」
拍子抜けした声。
バーサーカーに果敢に挑むガッツとタフネスは買うが、所詮それだけだ。その程度で生き残れるほど聖杯戦争は甘くない。
彼には――ここで退場して貰おう。
「――やっちゃえ、バーサーカー」
そして死刑宣告を下す。可憐な、しかし冷たい声で。
『■■■■■■■ーーーーッ!!!!』
主の命を受けたバーサーカーは今度こそ完全なトドメを刺すべく駆け出した。
ゆらり、と。夢遊病者のように立ち上がったネロに死の狂風が走って迫る。
豪腕が天高く斧剣を持ち上げた。対して、ネロは盾代わりとばかりに右腕を差し出した。
それはせめてもの抵抗の意思表示なのだろうが、しかし無駄な事だ。
そう、何をしても無駄。
この剣が振り下ろされた後には、その線上にある何もかもを引き裂いて、残るのは破壊の跡と、事切れた血と肉の塊だけ。それが確定された未来であり、ネロにとっては逃れ得ない死(けつまつ)だ。イリヤはもう確信の笑みを浮かべた。
そして次の瞬間、絶殺の一撃がネロに向かって振り下ろされ、直撃し―――彼の右腕にしかと受け止められた。
「え」
思い描いた結末を全否定する現実に、イリヤはそんな間の抜けた声を洩らしていた。目を疑う。そんな馬鹿な。
激突の瞬間、何か硬いモノを打ち据えたような轟音が響いたが、たとえネロの右腕を覆うグローブと包帯の下に金属が仕込まれていようと、それで防げる程バーサーカーの攻撃は生易しくない。生半可な防御などお構いなしに断ち切られる筈なのだ。
だから、衝撃に引き裂かれたグローブと包帯の下から現れたモノは金属などではなく―――。
「フンッ!!」
ネロはそのまま斧剣を弾き上げた。
バーサーカーがよろめくように大きく後退する。大きく。
「うそっ!?」
イリヤは動揺も露わに瞠目した。あのバーサーカーが押し退けられたのだ。文字通り、力押しで。
予想外の状況に思考が追いつかず、様々な疑念が渦巻く中、不意にイリヤは周囲の異変を感じ取った。
まるで世界が死んでしまったかのように場の空気が冷たくなっていく。
周囲の大気に含まれる魔力・大源(マナ)が凄まじい勢いで『喰われて』いるのだ。
そして突如、鬱蒼と茂る森を一筋の月光が貫き――そう、まるで恐怖に戦慄いた月の女神がソレを指差すかのように、凍える月明かりがネロの右腕を照らし上げ、その全貌をイリヤは見る。この世に在らざる<異形>の全貌を。
それは右腕……なのか?
鱗や外殻を思わせる質感の前腕。鋭く尖った指先。脈動するように絶えず発光する禍々しい魔力。貪るように取り込んだ大源(マナ)に満足し、しかしすぐに闘争に飢えて攻撃的に紫電を迸らせていた。
そんな右腕が、ヒトの持ち得るモノである筈がない。
「っ―――!!」
それを見てしまった瞬間、イリヤは恐怖に声なき悲鳴を上げた。
だって恐怖するしかなかったのだ。人間の、生物の根幹部分が音を上げているのだから。これは本能の悲鳴だ。
何だ、アレは? あんなモノが存在するのか?
アレはまるで……
まるで<悪魔>ではないか。
イリヤはもう確信した。アレは紛れもなく<悪魔>だ。ならば先ほどの異能も説明がつく。
詳しくは知らないが、悪魔という存在は高い世界干渉能力を有するらしい。それに<固有結界>とは本来、悪魔の持つ異界常識として記録されている。
つまりその情報を逆算すれば、あの右腕は……あの男は<悪魔>だということだ―――!
「バーサーカーッ!!!」
小さな体を健気に奮わせてイリヤは吼えた。だがそれでも、背筋を貫く悪寒は消えない。
本能が闇を恐れ、恐怖に泣き叫んでいる。
それは体が小刻みに震えるという形で表れていた。
どれだけ耐えようとしても、その震えが止まる事はなかった。このままではあの右腕が放つ闇の気配に呑まれてしまう。
ならば――呑まれる前に呑み込んでやる。バーサーカーがいる限り、イリヤは最強として在らなければならない。
最強の下僕がそれに応えた。
『■■■■■■ーーーッ!!!』
咆哮。地を踏み砕いて肉薄し、剣を引き絞るように構える。次の瞬間、全てを薙ぎ払わんばかりに剛剣が解き放たれた。
奔る破壊の風。敵が<悪魔>だろうが関係ない。
この刃に裂かれ、この力に砕かれ、ただの肉塊へと成り果てろ―――!
恐るべき魔獣の唸り声のような音を夜空に響かせて斧剣が振り切られた。引き裂かれた空気が、まるで悲鳴のように風切り音を響かす。
だが、肉と骨を斬り砕いた感触は無かった。攻撃線上にいたネロは……消えていた。
いや、消えてなどいなかった。
「……っ、バーサーカー!」
イリヤが叫ぶ。そのほとんど悲鳴じみた声が指し示すものをバーサーカーは感じ取った。握る剣に感じる重みと共に。
振り抜かれた斧剣、その上に、ネロはいた。
まるで目が覚めたようにネロの動きは迅く、そして鋭くなっていた。客観しているイリヤでさえ、バーサーカーの一撃を躱したその一瞬を見切る事は出来なかった。
刹那の空白。次の瞬間、弾かれたようにバーサーカーは行動を再開する。
しかし遅かった。急いでネロの方を振り向いた瞬間、視界が埋め尽くされた。
――悪魔の右腕、その拳に。
だがそれは、また『別の右腕』だった。
ネロの右腕から出現する、青く燃え盛る幻影のようなもう一つの右腕。闇の魔力で形成されたもう一つの右腕。それこそがネロの右腕の真価<悪魔の腕(デビルブリンガー)>……それが、バーサーカーの顔面をぶち殴った。
爆発にも似た轟音。インパクトの直後、鋭い風が森を吹き抜け、同じようにバーサーカーが弾け飛ぶ。
跳ね転がるバーサーカーがイリヤの横を地面を削りながら通過し、一瞬遅れて巻き込まれた風がイリヤの銀髪を扇いだ。
額まで露わになった美しい貌に浮かぶのははっきりと、驚愕。目の前を通り過ぎた信じ難い光景に、ただ愕然とするしかなかった。
「……どうだ?」
立っていた斧剣ごと殴り飛ばしたネロは、地に足を着け小さく呟く。
悪魔の右腕(こいつ)であれほど激烈に殴り飛ばしたのだ。もしかしたら、首から上を吹き飛ばしてそのまま殺しているかもしれない。この手に残る会心の手応えが、そんな非現実的な実感を叩きつけてくる。
だが、相手は規格外の化物だ。油断は出来ない。
ネロは勢いのままに倒れ伏したバーサーカーを注視する。まだ抜けない緊張感と、らしくもない期待感とを右手に握り締めながら。
そしてゆっくりと、バーサーカーが身を起こす。あんなメガトンパンチをモロに喰らって尚、バーサーカーはフラつく事もなく立ち上がった。
―――その口元に、一筋の血を流して。
「…………傷、負わせてやったぜ?」
バーサーカーの口元を垂れる赤色を確認した途端、ネロは痛快な笑みを浮かべた。
少し緊張の抜け、不敵な輝きの宿った目でイリヤを見やる。その小憎らしい視線が語りかける――どんなもんだ。
「……」
イリヤは言葉を失っていた。一度に色んな事が起こり過ぎて、頭の中が軽く混乱している。
今一度、疑問に思う。
何だ、アレは?
ただの殴打でバーサーカーが傷付けられた。あの右腕は、英霊に比肩する<神秘>の塊だ。
他にも様々な情報を頭の中で整理して――しかし、今はするべき事があると気が付いた。考えるのは後にしよう。
大きな驚愕と、そして悔しさを滲ませてイリヤは口を開いた。
「……そうね。この勝負は、あなたの勝ちよ……」
苦虫を噛み潰したように言う。『この勝負は』を強調するあたり、完全な敗北ではないと言いたいのだろう。
実際そうなのだが、理屈抜きで悔しがるイリヤにネロは苦笑した。ホントは普通の女の子じゃないか。
「あ~あ、サクッと殺すつもりだったのに……」
「……」
前言撤回。普通の女の子は、あんな物騒なことは言わない。
ネロの笑みは霧散し、その表情は凍り付いた。
「今日のところは帰るわ。でも、次は必ず殺すから……」
その言葉は誓いにも似ていた。ネロは無邪気さと冷酷さを併せ持つ少女の言葉に眉を顰めた。
次に会う時は――お互い敵同士だ。
「あ、そうそう。ねぇ、あなた名前は?」
イリヤは思い出したように訊ねた。
闘争の空気が消えたからか、先ほどとは違う柔らかい笑顔を浮かべている。
そこにいるのは、やはり普通の女の子だった。
「……ネロだ。お嬢ちゃんはイリヤスフィールだろ? ――悪くない名前だ」
「ふふ、貴方もね」
イリヤが笑い、釣られてネロも笑う。
奇妙なものだ、とネロは思った。『あの男』との一悶着の後も、このようなやり取りだったから。
一度ガツンとぶつかり合ってお互いを認め合うような、自分はそんな直情的な奴だったかと疑問と苦笑を禁じ得ない。自分はやはり、斜に構えた皮肉屋であるのが丁度いい。
「それじゃあね、お兄さん」
ひとしきり笑った後、イリヤは別れを言って踵を返した。
闇に溶け込むように去る小さな背中と、鉛色のゴッツイ背中とを見送る。
改めて異常な組み合わせだとネロは苦笑した。
「……」
その小さな背中の主、イリヤはネロに背を向けた直後――表情を凍り付かせた。彼女の顔は、おぞましいモノを見たかのように青ざめていた。
よく我慢できた、とイリヤは思う。気丈に振る舞っていたのは、恐怖を悟られたくなかったからだ。
あの右腕と、そしてネロに対する恐怖を。
<悪魔>に対する暗く濁った恐怖を。
恐れ慄く顔を、プライドの仮面で隠し通せた事にまずは安堵する。
しかし、体がまた震え始めた。小さく震える体を抱き締めるように胸の前で手を結ぶ。神に救いを請う祈りのように。
そしてもう一度、誰にともなく問い掛けた。問わずにはいられない。
それが<悪魔>だと、もう解ったつもりなのに。
―――何だ、アレは?
戦いは終わり、夜の森は本来の静寂を取り戻した。
夜の冷たい空気が、戦闘に昂ぶった体を程よく冷やしてくれる。
ネロは体の中も冷たい空気で満たそうと大きく深呼吸し――そして、その場にヘタレ込んだ。
「……ふぅ」
肺に溜まった熱い空気を吐き出す。それで緊張からようやく解放され、体が糸の切れた人形のように脱力した。
気が緩んだからか、バーサーカーに蹴られた腹の痛みがぶり返してきた。戦闘中はアドレナリンで麻痺して気にならなかったのだ。
痛む腹をさすって、しかしあんな蹴りを受けて『痛み』のレベルで済んでいる自分の体に半ば呆れる。
もっとも、その頑丈な体のおかげで今を生き残れたのだが。
これも自分を人間から『外れ』させた<悪魔>の血の賜物か―――。
……何だか最近、自分の皮肉が多くなった気がする。ネロはため息を吐いた。
色んな事に疲れたようにだらしなく夜空を見上げ、そして先ほどの戦闘を思い返す。
南の夜空を見据えたまま、ネロは静かに呟いた。
「これが……聖杯戦争」
まだ前哨戦に過ぎないんだろうが、目覚めの一発にしては強烈すぎる。
バーサーカー……最後まで戦っていたらと思うと、ゾッとする。
それに『戦争』と言うのだ、他にもあんな化物が控えていると考えて間違いはないだろう。
ならば、情報が必要だ。この聖杯戦争を生き残るためにも。
ネロは木の根元に寄りかかって眠っている女性、バゼットを見やる。
彼女も十中八九魔術師だろう。ゆえに貴重な情報源だ。命懸けで守ったのだ、少しでも情報は提供してもらう。
だが――その穏やかな寝顔には毒気を抜かれるしかなかった。
「まったく……とんだ依頼を受けちまったぜ……」
ネロの力無い呟きは澄んだ夜空へと消えていった―――。