夢を見る。それは最近の出来事の回顧。
本の中で出会い、心を躍らせ憧れ続けていた<アイルランドの光の御子>と謳われた英雄との邂逅。
『―――問うぜ。あんたがオレのマスターか』
記憶に刻み込まれた彼の声。
胸が躍った。歓喜が心を支配した。
思わず崩れそうになる魔術師としての佇まいを必死に持ち直して、私は彼の問いに頷いた。
『―――ここに、契約は完了した』
私は彼のパートナーとなった。聖杯戦争を共に駆けると誓い合って。
それからと言うものの、まさか彼があれほど粗野で自由奔放で飄々としてるとは思わなかった。振り回されるこちらの身にもなって欲しい。……まあ、悪い気はしませんが。
そこで場面は変わり、赤い夢を見る。いや、赤いのは私だ。
血に濡れる自分。失われる左腕。その左腕は、言峰が『持って』いた。彼の持つ代行者の武器<黒鍵>で、私の左腕を切り落としたのだ。
何が起こったのか解らなかった。思考が激痛と困惑で弾け飛んだ。目の前の光景が何処か遠くの出来事のように感じる。それでも、ただ一つの思いが頭の中を埋め尽くした。
何故―――?
『疑う自由は与えた……信じたのは、君だ』
言峰は嘲笑うわけでもなく、見下すわけでもなく、ただ無感情に告げた。
唐突に理解する。ああ、そういう事か。
彼への<友人>という認識は私の独りよがりだったんだ―――。
その時、ランサーが現界し、手にする真紅の槍で言峰の心臓を貫かんと吼えた。殺意に瞳をギラつかせて、紅い穂先を閃光のように奔らせる。
だが、それより早く。
言峰を<マスター>として、私の令呪が発動した。
直後、槍の穂先が言峰の胸に突き刺さる寸前でランサーは沈黙した。歯を剥き出しにし、過剰なまでの殺意の視線が言峰を射抜く。だが、それ以上槍が進む事はなかった。
令呪が発動したその時点で、ランサーのマスターは言峰になったのだ。
―――私は、ランサーを奪われた。
大量の出血で朦朧とし、痛みで焼き切れそうになる意識(しこう)でも、それだけはハッキリと理解できた。
理解せざるを、得なかった。
『……っ、何してやがる!? 早く逃げろバゼットぉ!!!』
ランサーが叫ぶ。その声に弾かれたように体が動いた。
頭の中がゴチャゴチャしててほとんど無意識だったが私は走った。脇目も振らず。
ひたすらに走って、走って、走って、気が付いたら森の中を走っていて、そこで―――。
「…………ぅ」
意識が浮上する。上がる瞼、少しずつ色を取り戻す滲んだ視界。最初に目に映ったのは、見知らぬ天井だった。
「……ここは?」
私とランサーが拠点にしていた空き家の洋館とは違うようだが……だとしたら一体?
「―――目ェ覚めたか?」
「っ……!?」
横から聞こえた声に咄嗟に体を起こ――そうとして、しかし力が入らなかった。
「あ、あれ……っ?」
思わず情けない声がこぼれた。体が重くて言うことを聞かない。
「無理すんなよ。まだ顔色が悪い、血を失い過ぎたんだ……傷は無かったんだけどな」
最後の方は声が小さくて聞き取れなかったが、頭だけを動かして声のした方を見る。
視線の先、銀髪の男がソファーに座っていた。大人びているが、年齢は十六、七くらいだろうか?
しかし油断はしない。
あの男から魔力が確認できた。それも……私を遥かに上回るほど膨大な。
私は警戒を露わにして男に訊ねた。
「貴方は……?」
「俺はネロだ。そんなに警戒するなよ」
「此処はどこですか?」
「新都の<グランディアホテル>って所さ。あんたが倒れてたから此処まで運んできた」
「それは……、っ!」
そうだ!
私はコトミネに左腕を切り落とされて、それで……あれ?
「左腕……ある?」
「あん?」
なんとか動かし上げた左腕、肘から先が、あった。傷一つ付いていない。
だけど……令呪は無い。
そして私は今、バスローブを着ていた。彼が着替えさせてくれたのだろうか?
「おいおい、大丈夫か? 左腕はくっついてるのが普通なんだぜ?」
ネロ君の皮肉めいた言葉に少しムッとするも、やはり疑問が残る。
私は確かに左腕を切り落とされた。あれほどの痛み、忘れる筈がない。
「単刀直入に訊く。――あんた、<魔術師>だろ?」
「っ……!?」
その質問に体が強張る。
失念していた。聖杯戦争はまだ終わっていない。
ネロ君から魔力が確認された時点で思い至るべきだった。彼が魔術師で、敵のマスターかもしれないという事に。
「安心しろ、俺は敵じゃない。敵だったら、あんたを助けたりしないだろ?」
「……信用できません。貴方が私を利用しようとしてるとも考えられますが?」
「……まあ、半分はアタリだ」
「半分?」
「あんたを利用しようとは思ってない。ただ、協力してほしいんだ。聖杯戦争について知ってる事を教えて欲しい」
ネロは事のあらましをバゼットに説明した。
依頼の事。聖杯戦争に参加する事。そして、バーサーカーを退けた事。
これにはバゼットは驚きを隠せなかった。生身の人間がサーヴァントと戦える事などあり得ない、と最初はバゼットは信じなかったのだが――百聞は一見にしかずということで、ネロはバーサーカーを退けてみせた自身の右腕を晒したのだ。おいそれと人に見せられる右腕ではないが、バゼットが『こちら側』の人間だということでわりとすんなり見せた。
悪魔の右腕には、バゼットも言葉を失った。見てるだけでも本能的な恐怖に汗が滲む。
バゼットは詳しくは知らないが、確かに聖堂教会――教義の埒外にある奇跡や神秘を、異端の烙印と共に駆逐し葬り去る役を負う、魔術を学問として学ぶ者達の互助会・魔術協会とは対を為す組織――では<悪魔>の存在を認めている。
だが大抵の悪魔は自身の肉体を『持って』いない。この世界に悪魔が顕現するには『人々が創造したカタチ』――つまり<依り代>が必要だからだ。
しかし、この右腕はネロ自身の血肉として機能している確固たる<実体>を持った完全なる魔。ゆえに内包する魔力も神秘も半端ではない、まさに規格外のモノだった。
「まさか、こんなモノが……」
「詳しい事は訊かないでくれよ、俺にもよく分からないからな。じゃあ、今度はそっちの番だな?
おっと、その前にあんたの名前を教えてくれ。そういえば訊いてなかった」
「……バゼットです」
「OK、バゼット。先ずは聖杯戦争についてレクチャーしてくれ――と言いたいところだが、やっぱり今は休んだ方がいいな。さっきも言ったが、とにかく顔色が悪い。まるでゾンビみたいだ」
「なっ、ゾン……」
あまりの物言いに軽くショックを受け、思わずネロを睨む。
ネロは特に悪びれた様子もなく言葉を続けた。口の悪い皮肉屋には、この程度の悪口雑言は無意識の事らしい。
「あんたが起きるまで寝てなかったからな、俺も疲れてるんだ。話は明日にしよう」
大儀そうに欠伸をしながらネロは言った。バーサーカー戦から丸一日経ち、時刻は既に深夜だった。
「とにかく、俺はもう寝るぜ。この部屋は好きに使っていい。俺は向こうの部屋にいるから、何かあったら呼んでくれ」
「……待ってください」
そう言ってさっさと今いる寝室から出て行こうとするネロをバゼットが呼び止めた。
「少し、無防備すぎませんか? 貴方が寝ている間に私が逃げ出す、もしくは貴方を殺すなどとは思わないのですか?」
バゼットは試すように包み隠さず訊ねた。ネロの厚意には素直に感謝するが、まだこの段階ではお互い信用に足らないはずだ。
だが、心得ているとばかりにネロは皮肉っぽくニヤリと笑って答えた。
「その体で好き勝手に出来るとは思ってないさ。それに、もし襲ってきたら、その時は返り討ちにしてやるだけだ。いいから、さっさと寝ろよ。今のあんたに出来るのはそれだけだ」
「……」
これまた包み隠さない返しだった。あまりにストレートな物言いだが、バゼットの懸念した要所は押さえてある。バゼットは観念したようにため息を吐いた。
その様子からもう文句は無いだろうと判断し、ネロは踵を返して今度こそ部屋を出た。
◇
翌日。ルームサービスで食事を終え、ネロはバゼットの説明を一字一句聞き逃さず聞いていた。
―――その杯を手にした者は、あらゆる願いを実現させる。
聖杯戦争。
最高位の聖遺物、聖杯を実現させるための大儀式。
儀式への参加条件は二つ。
魔術師である事と、聖杯に選ばれた寄り代である事。
選ばれる寄り代(マスター)は七人、与えられる使い魔(サーヴァント)も七クラス。
剣の騎士、セイバー
槍の騎士、ランサー
弓の騎士、アーチャー
騎乗兵、ライダー
魔術師、キャスター
狂戦士、バーサーカー
暗殺者、アサシン
聖杯は一つきり。
奇跡を欲するなら、汝。
自らの力を以て、最強を証明せよ―――。
これは聖杯戦争についての簡略的な説明。その他にも色々訊いたネロは、最後の質問をした。
「それで? なんで、あんたは血塗れで倒れてたんだ?」
その問いにバゼットは苦々しい表情になる。あまり話したい事ではない。
「……貴方ばかり訊くのは不公平だ。私からも幾つか質問があります」
「まあ、いいぜ。<等価交換>ってやつが魔術師の間では重要なんだろ?」
ネロは得意気に笑みを浮かべる。確かにその通りなのだが、そのどこか皮肉めいた言い回しはどうにかならないだろうか。
バゼットは少し不服そうに眉を顰めながら訊ねた。
「……貴方は本当に聖杯には興味が無いんですか?」
「無いね。仕事だって言ったろ?」
「あらゆる願いが叶うと言っても?」
「それでも、さ。確かに魅力的な話だが、そういうのは大抵どっかの馬鹿が作った嘘っぱちだと相場が決まってる。事実、今まで聖杯を手に入れたヤツはいないんだろ?」
「それは……」
「それに、俺はどこで誰が戦争しようと興味は無い。関わった以上は犠牲者を出さないように努力はするけどな? あんたも必要のない犠牲は望んでないだろ?」
「……はい」
「俺の望みは、この馬鹿げた戦争と仕事を終わらせてさっさと家に帰ること、それだけだ。
それで? どうしても話したくないなら別に構わないが、その様子だと別に戦争で負けた訳じゃないんだろ?」
「……はい」
そうして、バゼットはあの夜起きた出来事の概略を話した。
ランサーの事。言峰綺礼の事。
ただ、左腕については伏せた。血塗れなのは令呪を奪われた際の出血と適当に言葉を濁しておいた。ネロは深くは追求しなかった。
「そのコトミネって奴は明らかに怪しいな。いかにも悪巧みしてますって感じだ」
「……ええ。聖杯戦争の監督役である彼が、サーヴァントを奪うなどルールに反している」
「気に入らないぜ、そういう裏でコソコソする野郎はよ」
ネロは唾棄するように言い捨てた。
ネロは人一倍、裏で暗躍する存在を嫌う。魔剣教団との一件がそれに拍車を掛けていた。ネロ自身も被害に遭い、大切な人を傷つけられ、そして兄貴分の男、クレドが陰謀の犠牲となっている。
ネロの中ではもう、言峰綺礼は嫌悪の対象になっていた。
「あんたのサーヴァントを奪ったって事は、そいつも聖杯目的か?」
「……わかりません。しかし、何かを願うような人とは思えませんから……何か別の事でしょう」
「あんたは何なんだ?」
「え?」
「だから、あんたは聖杯に何を望むんだ?」
「……特にありません。協会から聖杯を回収しろと命を受けただけですので」
「ふーん」
ネロは特に疑いはしなかった。バゼットが物欲に固執する人柄とは思えないからだ。
「……強いて言えば、ランサーと共に戦いたいです……」
ほとんど泣いているような声でバゼットは呟いた。ネロは気まずげに黙り込み、痛ましいものを見るように目を細める。
「私のせいで……ランサーが……」
渦巻く自責の念。果てしなき後悔。そして何より、ランサーに対する罪悪感に心が痛くて苦しくて……堪らない。知らず、涙がこぼれていた。
情けない。全て自分のせいだ。言峰に裏切られ、友人だと思い込んでいた代償にランサーを奪われた。残ったのは、やるせない<痛み>だけ。
その<痛み>を、ネロは経験している。数ヶ月前の事件の際、クレドが死に、人質になったキリエを助ける事が出来なかった。そして自分も捕らわれの身となった。
だが『あの男』のおかげで自分は解放され、最終的にはキリエを助け出す事も出来た。そう、『あの男』が手を差し伸べてくれたから―――。
この状況は、あの時と酷似している。ならば自分は、彼女が再び立ち上がるために手を差し伸べよう。『あの男』がしたように。あの時の自分のように、バゼットに今必要なのは、誰かの救いの手なのだから。
ネロは決意した。
「なあ、バゼット。やっぱり聖杯戦争に参加するにはサーヴァントが必要だよな? そうだな……ランサーなんかいいね、強そうだ」
「……え?」
その言葉を、バゼットは一瞬理解出来なかった。
ネロは独り言のように淡々と続ける。
「ランサーを手に入れるとしたら、そのコトミネって野郎から奪い返さねェとな。ついでに一発ぶん殴りたいぜ、別に構わないだろ?」
「あの……」
「でもサーヴァントを一人で相手するのは骨が折れるな。協力者が欲しいね、例えば腕に自信のある魔術師とかな」
「……」
捲し立てられる言葉に思考が追いつかず、バゼットは呆然と聞くしかなかったが、ネロの言わんとする事はすぐに理解していた。
「そうだ、バゼット。もしよかったら協力してくれないか? 深くは考えなくていい。お互いの目的のために協力し合うだけだ。どうだ? <等価交換>ってやつだと思うぜ?」
言って、ネロは笑みを浮かべた。何かを理由にするあたり不器用で素直ではないのだが、浮かべた笑みは彼なりの優しさが表れた温かいものだった。
その笑みに、バゼットは顔が熱くなるのを感じた。思わず顔を背ける。
(い、いけません! 私にはランサーが……!)
実はバゼット、惚れっぽい一面がある。それでも彼女の心の大部分を占めているのはランサーなので、浮ついた心を払うように頭を振った。
思考回路を冷却して冷静に考えてみる。ネロの話は確かに魅力的だ。魔術師としても、一個人としても。
バゼットはコホンと小さく咳払い一つしてネロの提案に応えた。
「……そうですね。私もここで終わるつもりはない。ネロ君、お互いの利益のためにも協力をお願いしたい」
言って、バゼットは『右』手を差し出して握手を求めた。ネロの右腕の事を知った上で、だ。それはバゼットなりの誠意の表れだった。
今までこのような対応をされた事が無いので、ネロは戸惑ったが、少しの逡巡のあと右手を差し出した。何処か照れがあるのか、動作は少しぎこちなかった。握手をする二人。
「『君』付けしなくていいぜ、ネロでいい。あんたの方が年上だしな」
「……そうですね。協力する以上そちらの方が好ましい。――それではよろしくお願いします、ネロ」
「ああ。よろしくな、バゼット」
こうして、二人の協力関係が成立した。
二人は今後の方針について検討していた。
今すぐランサーを奪取するというネロの案は、バゼットに即・却下された。ランサーの<宝具>の危険性を十分承知しているが故だ。
バーサーカーを退けたネロの戦闘力を過小評価するつもりはないが、協力関係とはいえネロを死なせる訳にはいかないので、バゼットは早急なランサー奪取の案を頑なに認めなかった。
「じゃあ、どうすんだよ?」
「――サーヴァントの相手は、サーヴァントが。ランサー奪取の為の戦力に、他のサーヴァントの力が必要でしょう」
「だけど、サーヴァントを奪うっていう点じゃ、それも同じ事だろ?」
「ですが、サーヴァントの持つ宝具が全て、ランサーの槍<ゲイ・ボルグ>のように放てば必殺という訳ではありません。それに宝具の発動には大量の魔力を消費するので、魔術師相手に使うのは得策ではないと勘ぐって使用は控えるでしょう」
言葉を聞きながら、バゼットから得た情報をネロは頭の片隅で整理していた。
魔槍ゲイ・ボルグ。
いつか本で読んだ事がある。ケルト神話に登場する大英雄の持つ、本来は『投擲する為の槍』で、投げると無数の鏃を撒き散らしたとされている。ここから<ga bool'ga(ぎざぎざの投擲武器)>という、稲妻を示した名前が付けられたとされる。
その能力は、放てば『必ず相手の心臓を貫く』というもの。ゆえに、必殺。その能力を既知しているのなら、バゼットでなくとも慎重になるのは当然の事だった。
バゼットは続ける。
「私も少しはサーヴァントと渡り合う自信は有ります。だからこその協力です。私か貴方がサーヴァントを足止めしてる間に、手の空いた方がマスターを叩き、サーヴァントを奪う。そうして手に入れたサーヴァントにランサーの足止めをして貰っている間に、私と貴方で言峰を叩く――確実にいくなら、これが理想的でしょうね」
ここでバゼットは一旦区切る。
方針は決まった。まずは他のサーヴァントを奪い、ランサーにぶつけ、その間に言峰を強襲する。
しかし、バゼットはネロに訊ねておきたい事があった。
「……しかし、いいのですか? 私がランサーを奪取する予定でいくのなら、協力してもらうサーヴァントのマスターは貴方という事になる」
マスターは二体もサーヴァントを使役する事が出来ない――出来ない事はないが、それだと供給する魔力を半分割する事になり、必然サーヴァントの能力値も半分になる――ので、ランサーをバゼットのサーヴァントとして取り戻すのならば、協力して貰うサーヴァントのマスターは必然的にネロという事になる。
「ああ、いいぜ。依頼の内容も『聖杯戦争に参加しろ』だからな。サーヴァントがいた方が仕事も早く終わるだろうし」
「……」
ネロの依頼は聖杯戦争に参加する事なので特に異論はないのだが、バゼットにとって重要なのは其処ではないのだ。
「私がランサーを取り戻したら……私と貴方は敵同士という事になりますが?」
バゼットは『敵同士』という言葉を強調して言った。
そう、聖杯戦争にマスターとして参加するという事は、いずれバゼットと戦うことになるのだ。
しかし。
「構わないぜ、それも覚悟の上さ。それとも、俺と戦いたくないって言うんなら、話は別だけどな?」
ネロはむしろ挑戦的な笑みを浮かべた。どうやら心配は杞憂らしい。
「……まさか。望むところです。私とランサーは負けません」
「まだ気が早いぜ? ランサーを取り戻してからだろ?」
「問題ありません。絶対にランサーを取り戻しますから」
言って、バゼットも笑みを浮かべた。力強い笑みだった。さっきまで少女のように泣いていたのが嘘のように思えるほどに。
「――ならば早速、準備に取り掛かりましょう。まずは私とランサーが拠点としていた洋館に向かいます」
其処にはバゼットの魔術礼装が置いてある。その他の魔術的な道具や数少ない私物も。
正直、替えのスーツが欲しい。いつまでもバスローブというのは文字通り肌に合わない。
バスローブに着替えさせてあった事に関して、バゼットはネロに対して何も言わなかった。特に理由はない。血塗れのスーツというのは衛生的に良くないと理解しているし、それを訊くのも乙女ながらに気恥ずかしかったからだ。
ちなみに、その話題に触れられなかった事にネロはこっそり安堵していたりする。彼もまた、気恥ずかしかったのだ。バスローブに着替えさせる際に、
『キリエ……これは、違うんだ……』
と、死にそうな顔で呻いていたのは此処だけの秘密である。
◇
夕暮れ前、ネロとバゼットは件の洋館へと到着した。
「少し待っていて下さい」
目的の場所に着くや否や、バゼットは唐突に中には一人で行くと申し出た。
ここに来るまで拝借していたネロのコート――ちなみにホテルに運ばれる際も血を隠すために着(せられ)ていた――を脱ぎ、彼に返す。下からは、ネロが洗って乾かした、まだ血の臭いと痕があるスーツ姿が現れる。その左袖は無い。
ネロは訝しげにバゼットを一瞥する。何故か彼女の横顔は、決然としているが、不安と緊張に強張っているような表情をしていた。
おそらく言峰との一件でナーバスになっているのだろう、と判断したネロは「分かった」と頷き、バゼットが戻るまで待つことにした。
『疑う自由は与えた……信じたのは、君だ』
目的の物があり、そしてあの出来事が起こったであろう部屋の扉の前で、まるでフラッシュバックのように言峰の言葉が蘇った。その声が一瞬、目の前の扉を開けるのを躊躇わせる。
信じた結果、自分は間違えた代償として左腕を失った―――筈なのだ。
しかし、なんら変わらず左腕は、ある。それを切り落とされた痛みと喪失感を、はっきりと覚えているのに。
その矛盾の『答え』が、きっとこの先に在る。
何故か確信できる。出来れば確かめたくない。だが看過も出来ない。
不安に動悸する心臓を押さえるように胸に手を当て、呼吸を正し、ゆっくりと扉を開けた。
そして―――目の前の光景に心臓が凍りつく錯覚を、バゼットは感じた。
「まさか……そんな……」
視界の先、手入れの行き届いていない薄汚れた部屋の中には……血。
血。血。血。
壁という壁には、飛沫のように飛び散ってへばり付いた、血。
床という床には、夥しい流血で染み渡った、血。
錆びた鉄のような臭いが鼻孔を突く。時間と共に黒く変色した血液は、まるで茫漠と広がる暗闇のように見えて。
その殺人現場のような惨状の中で、しかしバゼットが見るのは、ただ一点。
部屋の中央、闇のような黒い血溜まりに……誰かの左腕が沈んでいた。バゼットはそれが誰の物か知っている。
だって、他でもない。
それは、バゼット本人の左腕なのだから。
これで、バゼットは言峰に左腕を切り落とされている事が明らかになった。事実として。現実として。
―――では、『今、生えている』この左腕は一体?
悪寒を感じ、この異常な光景に吐き気を催しながら左腕を凝視する。しかし、それはやはり記憶に在るものと寸分違わない、自分の左腕だった。
その理解不能に、バゼットは言い知れぬ恐怖を感じた。顔色が一気に蒼白になる。
もうワケが分からない。自分は悪夢でも見ているのか?
まるで<悪魔>の仕業だ―――。
とにかく今は、この場に居たくない、その一心だった。
震える体が動きを再開する。半ば恐慌状態のまま目的の物を回収し、バゼットは逃げるようにこの場をあとにした―――。