フェイト/スクリーミングソウル   作:ユート・リアクト

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 何の前触れも無く、唐突に、ネロはバゼットの元・パートナーとの邂逅を果たした。

「……ランサー」

 その名(クラス)を硬い声で呟く。ランサーは旧友に向けるそれと同じような笑みを浮かべて応じた。

「如何にも。んで、そこのあんたはアーチャーでいいとして――坊主、テメェは何者だ?」

 ランサーは気軽な態度でアーチャーを一瞥した後、口元の笑みを消してネロを睨み付ける。訊ねる声は、軽口ながらも有無を言わせない迫力を含んでいた。

「見たところマスターでもサーヴァントでもねえが……いや、それ以前に、人間か?」

 ランサーは独特の感覚で違和感――ネロの無意識に放つ、瘴気とも言える闇の気配――を嗅ぎ取っており、それに対する疑念のままに訊ねた。

 その釈然としない問いを嘲笑うように、ネロは意味深げな笑みを浮かべて問い返した。

「人間じゃないんなら何だって言うんだ?」

 その薄い笑みを見た瞬間、ぞわりと、凛の全身が総毛立った。

 何故かは分からない。ただ漠然と、言い知れぬ悪寒を感じた。

 まるで、あの笑みに秘められた意味、それを知ることを本能が恐れて警鐘を鳴らしているかのように。

「質問に質問で返すんじゃねェよ、坊主。テメェの正体なんざ、正直どうでもいい。だが、マスターでもサーヴァントでもないんなら、さっさと家に帰ってクソして寝ちまいな」

 そう言って、ランサーは彼の目的である敵サーヴァント・アーチャーへと振り向いて踏み出そうとするが、それを遮るようにネロが声を上げる。

「つれねェな、世間話の一つでもしようぜ。――『今の』マスターとは仲良くやってるかい?」

 その途端ランサーの動きと思考は凍り付いたように止まった。

「な……に?」

 我知らず、問い質すように声が洩れていた。再びネロへと視線を戻せば、まるで全てを知っていると言わんばかりの冷笑が迎え入れた。

「勝手な推察だが、アンタのマスターは陰険で姑息な野郎だから、しばらくはアンタを使って敵サーヴァントを偵察しようって腹なんだろ?」

 言葉通り、全くの推察だったが、それは奇しくも完全に核心を突いていた。それこそがまさに、ランサーが『今の』マスターから不承不承ながらも承った仕事だった。

 無意識だったが、ランサーは何か信じられない事を聞いたといった表情でネロを凝視していた。それでネロは確信した。どうやらその通りらしい。

「滑稽だな。ケルトの大英雄<クー・フーリン>ともあろう者がコソコソ偵察なんてよ」

 その言葉に今度こそランサーは愕然とした。正体不明の男が、いきなり自分の<真名>を言って見せたのだ。驚かない筈がない。

 同じくそれを聞いていた凛は目を見開き、凛を守るように立ち塞がるアーチャーもわずかに眉を跳ね上げる。

 三人が抱いた疑念は、やはりと言うべきか共通して同じものだった――なぜ知っている? ともすれば叫んで糾問してしまいそうだった。

「テメェ、一体……」

 ランサーが懐疑的に睨み据えながら呟いた、その時――彼のマスター、言峰綺礼から新たな指示が下された。魔力の経路(パス)が繋がったマスターとサーヴァントの間には因果線(ライン)が結ばれ、遠く離れていても念話(テレパシー)のように通信が可能なのだ。

「……ああ、わかったよ。残念だったな、坊主。うちのマスターが『不確定要素(イレギュラー)は速やかに始末しろ』だとよ」

 それは紛れもなく死刑宣告だったが、その言葉にネロは……満足そうな笑みを浮かべた。

 これはネロの望んだ流れだった。

 監督役の言峰綺礼からしてみれば、自分のようなイレギュラーは看過できない筈だ。しかも、監督役である身でサーヴァントを従えて聖杯戦争に介入している後ろめたい事実を知られている。

 ならばランサーへの指示は必然だった。

 それすなわち、死を以っての隠蔽工作。死人に口なし、という奴だ。

 だが、それでも。

 バゼットと立てた作戦を前提で無視する形になるが――それでも、ランサーを通じて言峰綺礼に挨拶をしておきたかったのだ。

 そう、ただそれだけの理由で。リスクなど考えもせず。宣戦布告には丁度いいと、自分の『思ったように』行動しただけなのだ。

「そうかよ。なら、アンタのマスターに伝えてくれ」

 その野良猫のような自由気ままさこそが、何にも縛られないネロの行動力の体現だった。

「『テメェのケツに十字架をぶち込んでやる』ってな」

 その言葉に一瞬呆気にとられた後、ランサーは愉快そうに「ハッ」と小さく笑った。

 いいね、面白い。

 どういう経緯があったのかは知らないが、どうやら相手は言峰綺礼を敵視しているらしい。その『表向き』の職業に対する挑戦的な啖呵も見事だ。

 正直、個人的には是非ともそうして欲しいところだが―――。

「サーヴァントは、マスターを守らなくちゃいけないんでね。例えソイツが、殺したいほどいけ好かねェ奴でもな。だから――」

 槍を構えたランサーの腰が沈む。まるで獲物を狙う肉食獣のように。同時、ネロも閻魔刀を発現し、構えた。

 曇天の下。蒼白い月明かりに沈んだ世界を、炎のように熱く、刃のように鋭い、戦いの意思に満ち満ちた空気が侵略する。ぎしりっ、と空間が音を立てて軋んだ。

 その致命的にまで不穏な気配と殺気とが漂う中、戦いの権化と化した二匹の獣が獰猛な微笑を刻むのは同時だった。

「『それ』をやりたきゃ、まずはこのオレを倒してからにしな―――!!!」

 ランサーが豹のように踏み込むのと、ネロが狼のように駆け出すのは、全くの同時だった。

 

 

 金属の激突する音が連続して響く。そのたびに炎が飛び散り、伴って暴風と土煙が巻き上がる。

 ネロとランサーが激戦を繰り広げる中、状況に置いてけぼりにされた赤い二人は半ば傍観するように立ち尽くしていた。

「マスター」

 不意にアーチャーが主に声を掛ける。指示を待っているのだ。

 三つ巴の状況なのだが、赤の主従を無視して事が進んでいる。斬り結ぶ二人の男の間に入る余地など無いが、これは<戦争>だ。不意打ちという手段もある。

 それも含めてアーチャーは凛の指示を仰いだ。

「―――そいつはスタイルじゃないわね」

 凛は鼻で笑って答えた。

 そう、そいつは<スタイル>じゃない。そんな小賢しい選択肢は遠坂凛には存在しない。

 自分の傍に、この赤い騎士が在り続ける限りは。

『―――私は君が呼び出したサーヴァントだ。それが最強でない筈がない』

 彼が自信と信頼を込めて言ってくれたこの言葉を信じている。

 ならば小細工など必要ない。あるはずがない。

「……了解した、マスター」

 凛の答えを予想していたのか、アーチャーはわずかに肩を竦めるだけだった。

 そして凛は目の前の戦いに集中する。自分達の戦いではないので幾分か冷静に傍観する事が出来たが、それでも自身の裡で何かが熱く燻っていた。

 それが<感動>だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。

 そう、凛は見惚れていたのだ。目の前で繰り広げられる戦いに―――。

 それは人智の及ぶべくもない幻想の中に在る死闘であり、魔術師でなくとも誰もが目を奪われる光景だった。ネロとランサーのやり取りから得たいろいろな情報の処理が、今この瞬間だけはどうでもいいと思えるほどに。

 凛は、ただ見惚れていた。

 

 

 鋼が咆哮する。

 刀と槍。性質の異なる二つの刃が、人外の速度で激突し、弾け、光と炎を撒き散らす。

 際限なく速度を上げていく剣戟は、ランサーへと天秤を傾けつつあった。

「クッ……!」

 何度目かの打ち合いのあと、ネロは逃げるように間合いを離した。

「逃がすかよっ!!」

 ランサーの追撃。滑るような踏み込みから加速を乗せて刺突を放つ。

 ネロはその一撃を紙一重で避けるが、次の瞬間それが始まりの合図であったかのように怒涛の連続突きが放たれた。一撃一撃に必殺を内包した紅い雨がネロに向かって降り注ぐ。

 ネロはフェンシングのように剣先だけで捌き、受けきれなかった攻撃は身を翻して躱していく。しかし完全にではない。対応を誤った穂先が掠め、徐々に切り傷が増えていく。

(速ェ……!)

 ネロは思わず苦しげに顔を顰めていた。

 速い。そして巧い。その槍捌きもフットワークも、常軌を逸したスピードとテクニックだ。最速のサーヴァント・ランサーの名は伊達ではない。

「どうした、坊主! 思ったよりも大したコトねェぞ!!」

 ランサーが嘲笑う。それに対して言葉を返す余裕は無かった。

 ネロは直感した。このままでは勝てない。

 ならばどうする?

 ――明瞭だ。『勝てるもの』を使って戦えばいい。

 そして、自分にはソレが備わっている。

 ランサーのスピードとテクニック、それらをまとめてねじ伏せるに足る純粋な力(パワー)が―――。

「そらよっとォ!!」

 無限とも思える突きの連打は唐突に終わり、すくい上げるような薙ぎ払いが繰り出される。真紅の弧月を描く一撃がネロの手から閻魔刀を弾き飛ばした。

 ネロは弾かれた衝撃で仰け反り、たたらを踏む。その隙はランサーにとって十二分な勝機となった。

「終わりだっ!」

 トドメの一撃が心臓を狙って放たれた。

 武器を失い、体勢を崩したネロに為す術はない。

 傍観する凛とアーチャーは決着を、ランサーは勝利を確信する。

 そして次の瞬間、真紅の魔槍は振り抜かれ、ネロの命を断ち切った――かに思われた。

「なん……だと」

 驚愕の声がランサーの口から洩れた。凛とアーチャーも目を見開く。

 その信じられない光景に。

「――ったく。いつもピンチの時に出番が回ってくるな、こいつは」

 ネロは何処か楽しそうに苦笑した。

 必殺を確信して放たれた槍の穂先は、完全に停止していた。寸前で割って入ったネロの右腕に受け止められた状態で。

 しかし。

 しかし、だ。

 三人が真に驚いたのは其処ではない。

 受け止めた衝撃で引き裂かれた長袖の中から現れたのは、ランサーの一撃を防ぐに足る防具ではなく、ましてや当たり前の肌色でもなく――この世に在らざる<異形>の右腕だった。

「仕留めた、と思ったが……凄ェ腕だな。――そいつは何だ?」

 ランサーが凍り付いたように硬い声で訊ねる。その声には目の前のソレに対する困惑と疑念と、そして確かな恐怖が在った。

 傍観するアーチャーは何も言わない。言葉が見つからない。背後の凛は口に手を当て、声にならない悲鳴を噛み殺していた。

 果たしてソレは現実か―――?

 その悪夢の光景を肯定するように、腕越しにネロは微笑した。それはこれまで見てきた笑みとは似て非なる、どこか昏い笑みだった。

「こいつを見た時の第一印象を言ってみな。それが自ずと答えになる……ぜっ!」

 短く叫び、右腕を払って槍ごとランサーを振り飛ばす。後退するランサー。10メートル程の距離を隔てて二人は睨み合う。

「第一印象が答えになる、だと……?」

 何故に第一印象、つまり『初めて見た時の感想』が答えになり得るのか?

 ワケが分からないとばかりに眉を顰めるランサーを尻目に、凛は咄嗟に考え込んでいた。変わらず、その視線をソレに――ネロの右腕をしたナニカに固定しながら。

 およそこの世には在りえない様相。人外の域に在る英霊、精霊とは似て非なる醜悪な気配。腕全体から溢れ出る黒々とした存在感がどうしようもなく恐怖を煽ってくる。

 そこまで脳裏に並べて、整理して、再び想起してみる。アレを見た瞬間に自らが抱いた感想を思い出して。

『アレはまるで―――』

 その続きが答え。

 それ以外の言葉は見つりようもなかった。だって、理性ではなく本能が、理解より先にもう納得してしまっている。

 ―――人は本能的に<闇>を恐れる。

 ゆえに本能は既に『識って』いるのだ。その存在の名を。

 たとえ凛でなくとも、あんな禍々しい右腕(カタチ)を見た者は共通して心に思い浮かべる筈だ。その存在の名を。アレはまるで―――。

「……<悪魔>」

 知らず、その一言が口を衝いて出ていた。

 凛がこぼした瞬間、その言の葉が理外な実感を持って浸透し、脳があの右腕に対して認識する。『そう』だと。

「BINGO」

 ネロは残ったグローブを外した右手で凛を指差して肯定した。

「……ハッ」

 そして、ランサーは小さく笑った。

 ああ、なるほど。合点がいった。最初に感じた違和感もその原因であろう右腕も、全てが自然とこの帰結(こたえ)に行き着く。

 見た瞬間の感想も、その表現も、そして実際にもアレは<Devil(悪魔)>だったのだ。

「そうかいそうかい、悪魔ねぇ……」

 困惑も疑念も、理解不能な恐怖も何もかも吹き飛んで、愉快爽快といった面持ちでランサーは笑う。粗暴な彼にしては不気味なくらい静かな感情の発露は、やがて火の付いた導火線のように熱を上げていった。

「生前、いろんな怪物と殺り合ってきたが……ついぞ<悪魔>はお目にかかる事は無かった。それがまさか、聖杯戦争なんてェところで出逢うとはよォ」

 獲物を狙う狩人が如き眼光でネロを睨み据える。

 彼はこの<敵>との戦いに熱く滾る喜びを見出してしまった。<悪魔>と殺り合うのは初めてだ。『初めて』は、それだけで未知の興奮と喜悦を喚起してくれる。

「ああ畜生、最高だッ! 女運はねェ! マスターはいけ好かねェ! 受けた命令はクソ忌々しい! もうヘドが出そうオエーッて気分だったが、テメェで精算が取れそうだっ! この世ならざるバケモノとの喧嘩だ、これだけでも現世に蘇った価値があるってもんだぜ! よし決めた! 坊主、テメェはオレが殺す! オレが穿つ! オレがその心臓を貰い受けてやるッ! いいか、耳かっぽじってよく聞きな!! テメェは、オレの、獲物だ―――――――――――ッッ!!!!」

 感情が爆発した。

 野獣のように凶暴な、それでいて子供っぽさが残る貌でランサーが吼えた。放たれる強烈な殺気に空気がビリビリと震える。

 発火し、激しく燃え盛る戦意を見せつけるように槍を振り回す。周囲の空気が撹拌され、砂塵が巻き上がり、ランサーを中心に小規模な嵐が吹き荒れた。

 達人の見せる壮絶な槍の舞は唐突に終わり、当初と変わらぬ構えを見せるが、増大した存在感は見えない高波となってネロを威圧した。

「さあ、死合おうぜ悪魔。――赤枝の騎士、クランの猛犬<クー・フーリン>……推して参る」

 ランサーの声は朗々と響いた。

 真名を知られるリスクなど恐れてはいない。相手は既にその真名を知り得ているし、そうでなくとも戦場で名乗りを上げるのは当然の事だ。これから打倒する相手の魂に自らの名と存在を刻み込む。

 その雄々しい姿は紛れもなく、神話に描かれる誉れ高い騎士そのものだった。

「そういえば坊主、名は? なんでかは分からねェが、オマエはオレの真名を知っていた。魔術師然とするワケじゃねェし、等価交換とはちょいと違う気もするが、オレの真名の対価として教えてくれても構わないだろ? 名乗れよ」

 打倒する相手の名を知っておきたい、その思いでランサーは催促した。

「…………ハッ」

 そしてネロもまた、小さく笑った。

 ランサーの行動に気圧されるように呆然としていたネロだが、相手の正面切っての宣戦布告に、自然と闘争心が白熱する。

 それは好戦的な男としての性か、はたまた本能的な悪魔としての性か。死闘への期待と歓喜に空っぽになった頭の中は、しかし高揚という名のアドレナリンで溢れ返っていた。一度火が付いたら、もう止まらないだろう。

 今、ネロの胸中を占める思いは一つだけ――頭ン中真っ白にしてゴリゴリ戦り合いてェ……!

「――ネロ。今からアンタをぶち殺す悪魔の名だ、覚えときな」

「ネロ、ねぇ……」

 吟味するようにランサーは反芻した。

「いい名だ。だが、オレをぶちのめすとは聞き捨てならないな。そんな簡単には殺られてやんねェぜ? それに……テメェの右腕、震えてるじゃねェか」

 完全に露わになったネロの右腕は、ランサーの言葉通り、震えていた。

 それを嘲るようにランサーは続ける。

「オレの一撃を防いだだけでもうガタが来てるのか、それとも……ビビってんのか?」

 安い挑発だ、と。言ったランサー自身が思った。

 ネロがあの程度で腰が引けるような手合いではないと、相対するランサーがよく理解している。だから、あの震えは武者震いの類だろうとランサーは判断していた。

 果たして、それは当たらずとも遠からずな答えだった。

 ネロの右腕は高揚も興奮もしていたが、正確には卑しくも『空腹』を訴えていた。

 もっと血を。

 もっと闘争を。

 そして、もっと■を。

 その叫びを聞き入れ、呼応するように更に高ぶり、ネロの笑みはいよいよ凄絶なものに変貌した。もう我慢できない。

「ああ、これはな……」

 獲物を目の前にした、よだれを垂らすまで飢え切った獣のように、牙を剥く。

「早く暴れたくてウズウズしてんだよ―――!!!」

 燻っていた暗い闘争心が烈火のように激しく燃え上がった。

 燐光を帯びる右腕を突き出す。その瞬間、ネロのもう一つの右腕、デビルブリンガーが顕現し――それが『伸びて』ランサーに襲い掛かった。

「「「!!?」」」

 凛、アーチャー、そしてランサーはその理解不能な現象に目を見開いて驚愕した。

 まさかこの世に在らざる異形の右腕から、さらに実体を持った幻影の右腕が発生し、あまつさえソレが伸縮自在などと誰が予想できようか。

 目前に迫るデビルブリンガーに、ランサーが慌てて飛び退く。

 だが一瞬の狼狽、その僅かなタイムラグで逃げ遅れた右足を、デビルブリンガーに掴み取られた。

「捕まえたぜ……!」

 ネロの口角が獰猛につり上がる。

 そして、ランサーの体を力任せに大きく振り回し始めた。力任せに。

 そう、この右腕には備わっているのだ。

 ランサーのスピードとテクニック、それらをまとめてねじ伏せるに足る純粋な力(パワー)が―――!

「ぐうぅぅぅぅぅぅ…………!!」

 凄まじい遠心力に体を絞られ、ランサーは食い縛った歯の隙間から呻きを洩らす。巻き込まれ、撹拌された空気が渦を巻く。

 滅茶苦茶に振り回しまくったネロは、回転の勢いを利用しながらその軌道を上に逸らし、右腕を大きく振りかぶると、

「おるぁあああああッ!!」

 次の瞬間、思いっきりランサーを、ぶん投げた。

「うぉおおおおおお――――――――っ!!?」

 青い残像を帯のように伸ばしながら吹き飛ぶランサー。まさに人間大の砲弾と化して、その凄まじい勢いのまま校舎の壁に激突し、ぶち抜いて、崩れ落ちる瓦礫と粉塵の向こうへと消えていった。

 嵐が通り過ぎた後のような、束の間の静寂が漂う。

「どうだチクショー」

 ネロはしたり顔で嘯いた。

 直後、再度デビルブリンガーを伸ばして地面に突き立つ閻魔刀を回収し、柄を握り締める。

 瞬間、なんとも言えない<しっくり感>に自然と笑みが浮かんだ。

 先ほどと違って右手を覆っていたグローブという隔たり無しに、柄を直に握っているという僅かな感触と手応えの変化だけで、ネロは己自身と閻魔刀が同化したような心境だった。手の『馴染み方』一つだけで戦士は変貌を遂げる。もはや閻魔刀が腕の延長であるかのように、その切っ先まで研ぎ澄まされた感覚が行き届いていた。

 まさに人刃一体。

 この境地なら、まるで目が覚めたように底力を発揮できる。ランサーにもそうそう引けを取らないだろうし、取られてやらない。

 ネロは力強く閻魔刀を構えた。油断なく、ランサーの消えた先を睨み据える。

 視界の端で、顔を顰めるアーチャーと、口をあんぐりと開けて呆然とする凛の姿が見えたが、今は自分の戦いに集中する。

 そして、束の間の静寂を打ち破って状況が動きを再開した。

 校舎の壁に空いた大穴から、紅い牙を伴って青い獣が飛び出してきた。そのスピードに物を言わせた愚直なまでの突進は、しかし先ほどにも増してなお疾い。その身を一本の槍と化して、ネロの心臓目掛けて一直線に疾走する。

 もはや視認が危ぶまれる速度だったが、鋭敏になったネロの感覚はしかとランサーを捉えていた。

「シッ!!」

 迫る来る気配に、無心で閻魔刀を一閃。刃が激突する。

 轟音、そして烈光。稲妻のような刺突を、閃光のような斬撃が弾いて逸らした。

「なにっ!?」

 ランサーは思わず驚愕の声を上げていた。

 今の一撃は、先ほどネロを圧倒した時以上の速度と力を以って繰り出された渾身の一撃だった。それを捌かれた事に対する動揺。その隙を突いてネロが反撃する。

 ネロは振り抜いた閻魔刀を一瞬手放し、すぐさま逆手に持ち替えると、その柄尻をランサーの鳩尾に叩き込んだ。

「ぐぅ……っ!」

 小さな動作から繰り出された、思いのほか強烈な打撃にランサーの体が押し飛ばされる。押し飛ばされながら槍を払って、咄嗟に防御した刀ごとネロの体を打ち据えていた。

「ぐっ……!」

 ネロは短く苦悶を上げてたたらを踏む。互いに後退する形となった。素早く体勢を立て直し、迸る戦いの熱気にギラつく視線をかち合わせる。

「はっ! いいねェ、敵ながら活きがいい!」

 ランサーが嬉々として叫び、ネロも共感するように歯を剥いて笑って、次の瞬間二匹の獣は同時に地面を蹴り砕いて踏み込んだ。刃が交錯する。

 白熱するボルテージのままに激しさを増した斬り合い。相克する凶器が奏でる金属の歌。高速の世界で剣戟を繰り広げ、刃の激突が生んだ光と炎だけを残し、時間を置き去りにしてなお速度を上げていく。大気の悲鳴のように巻き起こったソニックブームが赤の主従の髪を扇いだ。

 やがて無限の交差の後には、主の凶暴な意思に塗り固められた魔槍と魔剣ががっちりと刃を噛み合わせていた。渾身の力を振り絞り、互いに武器を押し込め合う。

「おっらあ!」

 ギリギリと刃金の鳴る膠着状態からネロは右腕を離し、クイックモーションで素早くボディブローを放った。ハンマーのような攻撃性を持った殴打が相手の横腹に深々とめり込む。

 鈍い音と乾いた音が混ざり合って響き、ランサーの肋骨が何本か折れた事を知らせた。

「うぐぅ! ……こんのっ」

 痛みに顔を顰めながらランサーも片腕を伸ばし、ネロの胸ぐらを掴む。

「クソガキァッ!!」

 グイッと引き寄せながらネロの鼻っ柱に頭突きを叩き込んだ。

 鈍くも鋭い痛みに堪らず怯むネロ。そこに第二の衝撃。畳み掛けるように持ち上がったランサーの膝が、抉るようにネロの脇腹を打ち抜いた。

「がふぅッ!」

 肺を絞られ、苦しげに息を嘔吐する。

 ネロは歯を食い縛って苦痛を噛み殺し、刃を翻して胸ぐらを掴む手を切り落とす――その寸前で手を引きながら飛び退いたランサー。追撃するネロ。

 カウンター気味に槍が突き出される――が、ネロは目前に迫る穂先を半身ずらして避ける。穂先を掠めた頬から血が飛んだ。

 肉薄する勢いはそのままに、次の瞬間横薙ぎの一閃が相手の首を刈り取らんと繰り出され、しかしランサーは頭を下げてその一撃を躱していた。逃げ遅れた青色の毛が数本、暗闇に溶け込むように散っていく。

 刀を振り抜き、すれ違うようにして相手の後ろの位置で停止したネロ。すぐ背後にはランサー。二人の間隔は、どちらかが一歩下がれば体が触れ合うような超至近距離。お互い、武器が使える間合いではない。

 ほとんど背中合わせのような状態から、二人は弾けるように次なる行動を起こした。

 軸足を中心に鋭く体を反転させる。視界に捉える敵の姿。振り返り様、伸び上がるような蹴りを繰り出すのは、全くの同時だった。

「だりゃあっ!!」

「しゃあァッ!!」

 雄叫びが重なる。

 次の瞬間、ネロとランサーの脚が交差し、その足裏が容赦なく相手の頬を打ち据え、二人は互いに正反対の方向へと弾けるように吹き飛んだ。

 ネロは受け身を取るようにバンッと地面を叩く。その反動で浮き上がり、空中で体を回転させながら体勢を立て直した。身体の『使い方』を良く理解した、しかし全く人間味の無い獣じみた動きだった。前を見れば、ランサーも同じような野性的な体捌きで起き上がっている。

 再び距離を離し、些かも衰えない闘志を漲らせながら対峙する両者。文字通り息も吐かせぬような攻防が終わり、戦いの音が止む。世界は思い出したように静寂を降ろした。

 凛はようやく忘れていた呼吸を再開し、大きく息を吐き出した。今の今まで息を呑みっぱなしだった。

 目の前の戦いがいろいろとデタラメすぎて、酸素の巡った脳が軽く混乱を始めた。

(なんて鋭い動き……体術の心得でもあるの? ……いや、違う)

 知り合いに八極拳を駆使するエセ神父がいる所為か、中国のものを主とした武術全般を修める凛には、ネロとランサーの格闘的な動きが型もクソもない滅茶苦茶なものだと判断できた。あれは戦いの中で『必要だから覚えた』ような動作を突き詰めた結果だ。正統な技術などではない。

(単純に……戦い慣れてる……!)

 凛は改めて驚嘆と戦慄とを覚えた。視線の先では、ランサーがペッと血の混じった唾液を吐き捨て、ネロは切れた口の端をペロッと舐め上げていた。二人とも、戦いに陶酔し切ったような危ない笑みを刻み合っている。

(ちっ……アバラが二、三本イッてやがるな。畜生、とんでもねー右腕だ。もし体重の乗った一発を喰らったら、文字通り<座>まで殴り飛ばされちまうぜ)

(やっぱり速いな。蹴りも重いし、痛ェ。そう何発も喰らいたくないぜ。この右腕があるからインファイトなら分があると思ったんだが、上手く当てないとノックアウトは無理か)

 相手への警戒から思考を巡らせる二人だが、考えて戦うつもりはなかった。正直な話、考える前に体が勝手に動いている。

 睨み合いと停滞は、わずか数秒。先に行動を再開したのは、ネロだった。

 腰のホルダーからブルーローズを引き抜き、刀を握りながら右手を銃底に添える。そこから魔力を銃身に伝わせ、チャージし、青白い光を纏った弾丸をランサーに向けて撃ち放った。

 迫る魔弾に、しかしランサーは何ら危惧する様子も見せずに槍を構えた。ランサーの保有スキルには<矢除けの加護>がある。目に見える飛び道具は通用しない。

 その対応力は現代の飛び道具に対しても遺憾なく発揮された。弾丸は真紅の一撃によっていとも容易く弾かれる。 

 しかしその瞬間、弾丸に込められた魔力が炸裂(バースト)して小規模な爆発を起こした。

「おおおおッ!?」

 ランサーの体が炎と熱風に揉まれながら吹き飛ぶ。

 <矢除けの加護>も『発生した効果』までは無効化できないようだ。それを知ってか知らずか、ネロの牽制射撃は功を奏して<次>に繋がる事となる。

「ちぃ……!」

 ランサーは急いで体勢を立て直すが、もう目の前にネロが肉薄していた。槍の長いリーチが不利に働く近距離まで踏み込む。それは同時に、刀に有利な一足一刀(ショートレンジ)の間合いも確保していた。

 先の牽制射撃は、この一石二鳥の結果を狙っていたのだ。ランサーに肉薄するまでが早かったのもそのためである。

 ランサーは慌てて距離を離そうとするが、それを許さぬとばかりにネロが詰め寄って自らの優位をキープする。距離が近いほど槍は怖くない。自分の領域も取った。このチャンスを死んでも逃がすな、と自らを鼓舞し、ネロは怒涛の猛攻撃を仕掛けた。

「はぁああああああっ!!!」

 乱舞する剣閃。閻魔刀の刃が四方八方、全方位から降り注ぐ。勝負を決めに掛かった、斬撃の包囲網だ。

 襲い来る魔刃を、ランサーは槍で防ぎ、あるいはフットワークで回避していくが、それ以上の事が出来なかった。先手を取られ、守勢に回るしかないランサーは防戦一方の状況に陥り、さらにネロの攻撃の激しさに反撃の糸口を掴めないでいた。

「ラアァァアッ!!」

 気合い一閃。死の弧月を描く大振りな斬撃が、防御に入る槍をお構いなしに弾き飛ばしてそのままランサーの胸を切り裂いた。

 一直線に走る熱い痛みにランサーは一瞬怯む。

「もらったァ!!」

 猛牛のように突進して渾身の突きを放つ。その鋭さはランサーのそれに勝らずとも劣らない。

 眉間を狙って迫る閻魔刀の切っ先を、ランサーは痛みに顔を顰めながら睨み付け――ニヤリと笑った。

「うおっとォ!!」

 楽しげな声を張り上げ、上体を弓なりに反らしてその一撃を躱す。

 そして、そこから『反撃』へと転じた。

 ランサーは躱したその勢いでバック宙の要領で跳び上がり、そこからサマーソルトキックを繰り出したのだ。具足に包まれたつま先がネロの下顎に深々と突き刺さる。攻防を同時に行った巧みな技だった。

「がっ……!」

 脳天を貫く衝撃にネロの意識が一瞬飛ぶ。すくい上げられるように体が宙に浮いた。

 無様に天を仰ぐ視線を下ろすと、着地したランサーが既に次の行動に移っていた。

「飛べ!!」

 体を旋回させて勢いを加速した回し蹴りが、ネロの足が地に着くより早く彼の腹部を捉えて炸裂した。以前喰らった、バーサーカーのただ力任せなそれとは違う、しなやかかつ体重の乗った見事な脚撃だ。

 それが強烈にキマり、声も出せずにネロの体が弾け飛ぶ。勢い良く地面を二、三回跳ねた後、グラウンドを囲うフェンスに背中から衝突して止まった。

 ガッシャアアアンッ! と、金属の悲鳴が高々と響き渡る。そしてネロは尻餅をつくように崩れ落ちた。

 まさに一瞬の出来事だった。凛にとっては瞬きの間に、状況は完全に逆転していた。

「やるじゃねェか、ネロ。正直ヒヤッとしたぜ、大した野郎だ」

 ランサーは素直に心からの賞賛を贈る。

 その声が、フェンスに背中を預けながら項垂れるネロに届いているかは定かではないが。顔は前髪で隠れ、何の表情も窺えない。

「だが、若すぎたか。ポテンシャルが高いのは認めてやるが、それだけじゃオレは倒せない。他のサーヴァントもな。なぜなら、オマエには決定的に<経験>が欠けている」

 ランサーの慧眼は、ネロの足りない所を完全に見抜いていた。

 ここまで互角の戦いを繰り広げ、しかし今明確に優劣を決定付けたランサーとネロの差。

 それは潜り抜けてきた死線の数――己の命と存在とを秤に掛けた極限の戦いの場数と、それを続けてきた年月だった。その<年季の差>こそが、ランサーの巻き返す事に成功した何よりの要因だった。

 彼はあのような窮地を幾度となく経験してきた老練な戦士なのだ。ネロのような若輩者に押し切れる筈もない。

「まあ、要するにオマエはまだまだ未熟な『坊や』だって事だ。それじゃあ、そろそろ終いにするか」

 軽い口調で死の宣告が告げられたが、ネロは黙したまま動かない。不気味な沈黙を保っている。

 概ね満足できる戦いだったが、迎える結末にランサーの胸に僅かに去来するものがあった。

(オマエがもちっと歳とってたら、もっと愉しめたのによ)

 知らず浮かんでいた笑みは何処か名残惜しそうなものだった。

「じゃあな、悪魔。オマエとの戦い、思ったよりも愉しかったぜ」

 そしてランサーはトドメを刺すべく、未だ不動のネロに向かって駆け出し―――。

 

 

 瞬間、世界が、凍りついた。

 

 

 いや、そう錯覚させるほどの絶大な殺気が、周囲を圧し殺さんばかりに走り抜けたのだ。

 ランサーは弾かれたように踏み込むのを中断する。赤の主従も思わず目を見開いてネロを凝視した。

 殺気はネロの体から溢れ出していた。

「Don't get so cocky(舐めんな)……」

 まるで呪詛のように呟いて、ネロはゆっくりと立ち上がる。その体からは殺気だけではなく、目に見えて濃密な魔力が溢れ出し始めていた。

 彼特有の青い魔力を炎のように燃え上がらせ、ネロは嗤う。悪鬼のそれと変わらない、死を運ぶ御使いの凶相で。ここへ来て彼のボルテージは最高潮(ピーク)に達したのだ。

 呼応して、ネロの裡では『もう一人のネロ』が檻の中の獣のように吼えまくっていた。

 ―――早く自分(チカラ)を解き放て、と。

 その叫びを聞き入れる。さらなる死闘への渇望と共に。

 ネロの意思が、際限なく滾る悪魔の血流が、秘めたる闇の力を全開にする引き金(トリガー)を引き絞ろうとしていた。

「っ……!」

 凛の顔が強張り、血の気が失せて青ざめる。背筋に走り抜ける悪寒は、もはやネロの右腕に対して感じたソレの比ではない。

 ネロの放つ邪悪な気配はもう何倍にも膨れ上がり、凛の肌を撫でつけ、本能的な恐怖をこれでもかと喚起させた。アレは人間の根底に彫り込まれた、人間である以上決して逃れ得ない闇の威圧感だ。

 主の負担を減らそうとその威圧感を遮るように立ち塞がるアーチャーは驚愕と警戒の表情でネロを睨み据え、ランサーは何処か嬉しそうな苦笑を浮かべた。

「…………はっ、藪蛇ってヤツか」

 呟くと同時、彼の頬を一筋の水滴が流れ落ちた。それは紛れもなく冷や汗だった。

 ランサーの戦士としての勘が、本能が、まるで不可避の死を予感したかのように告げている。

 ―――ああ、起こしてはならないものを呼び醒ましてしまった、と。

「Let's Rock,Baby(派手にいこうぜ、相棒)……!」

 魔力の波動が生む風圧にコートが靡く。それはまるで悪魔の翼のように揺らめいて。

 そしてネロの背後に<何か>の輪郭が顕れ始め、彼の瞳は血のように真っ赤に染まり―――。

 

 

 パキッ。

 

 

 その時、枯れ枝を踏み折る小さな音が聞こえた。

 戦いの意識を逸らし、その場の全員の視線が音のした方向――ネロの後方へと集中する。

 視線の先には、今この場に居合わせてはいけない第三者の姿。しかも学生服を着た一般人だった。

 ネロは目を剥いて『彼』を凝視する。

 フェンスを間に挟み、赤銅色の髪をした童顔の少年と目が合った。

 

 

 

 

 衛宮士郎は<正義の味方>を目指している。

 何故なら彼は、五年前に亡くなった魔術師であり士郎の養父・衛宮切嗣に憧れ、その遺志を継いで<正義の味方>になると心に誓ったから。

 ゆえに、彼は困った誰かを放ってはおけない。自らを顧みず、人助けに奔走する。

 今日も今日とて、友人である間桐慎二に頼まれて弓道場の掃除をし、それを終えて帰路につこうとした彼は、校庭から聞こえる鉄と鉄がぶつかり合うような音に足を止めた。

 そして何事かと気になって、音のした方へと向かってしまい―――そこで、士郎の意識は凍りついた。

「な」

 理解不能な光景が広がっていた。

 銀の男と青の男が、夜の校庭のド真ん中で、文字通り殺し合っていた。

 人外の力を以っての斬撃、刺突、肉弾の応酬。何度目かの激突の後、銀の男が蹴り飛ばされてフェンスに衝突した。その体が力無く崩れ落ちる。

「!!?」

 士郎は目を疑った。

 銀の男の右腕、それが人間(ヒト)のカタチをしていなかったのだ。

『あの男は<悪魔>だ』

 本能の悲鳴を聞いた。脳裏を過ぎるそんな幻想的な呼称に、しかし士郎は何の疑念も挟まなかった。アレは現実なのだ。

 間違いなく、悪魔。

 それ以外に言いようが無いし、何より本能が既に『識って』いる。理外な確信と共に。

 そして、世界が、凍りついた。

 いや、そう錯覚させるほどの絶大な殺気の発露だった。心臓が壊れたように早鐘を打つ。意思とは関係なしに手足がカタカタと震え上がっていた。

「うそだ……なんだ、アイツ……!?」

 悪魔の男から、吐き気がするほどの魔力が溢れ出し始めた。

 士郎は恐怖と同時に直感する。

 あの悪魔の男の裡から、絶対的に危険な<何か>が目を醒まそうとしている。

 知らず、邪悪な気配に気圧されるように一歩後ずさっていた。

 その一歩が士郎にとっての不幸だったに違いない。

 

 

 パキッ。

 

 

 あろうことか、落ちていた枯れ枝を踏み折ってしまった。

 響いた音は小さいものだったが、張り詰めた空気に針を刺すには十分だった。

 狂った戦場に在る全ての視線がこちらに集中する。悪魔の男と目が合った。

「……っ!!」

 圧倒的な恐怖が士郎の全身を貫いた。

 なんて禍々しい瞳なのだろう。暗く深い、真紅の輝き。地獄の宝石が在るとしたら、あるいはこの瞳の事かもしれない。

 アレこそが魔眼。文字通り<悪魔の眼>だ。

「誰だ!?」

 恐怖に縛られた体が、青の男の声で弾かれたように動き出す。士郎は一目散に逃げ出した。

 もうワケが分からない状況で、しかし一つの事だけは分かる。『アレ』は見てはいけなかったものだ。だから……逃げなくては殺される!

 脇目も振らず、ただ全力で走る。走る。走る。

 気が付けば校舎の中に逃げ込んでいた。

「ハァ―――ハァ、ハァ、ハ―――ァ!」

 限界以上に走り詰めだった心臓が暴れるように鼓動を刻む。振り向けば、追いかけてくる気配はない。

 士郎はようやく足を止めた。

 しかし―――。

「よぉ。わりと遠くまで走ったな、オマエ」

 青の男が目の前にいた。

 そう、追いかけてくる気配がある筈がない。青の男は、すでに士郎を追い抜いていたのだから。

「運が悪かったな、坊主。ま、見られたからには死んでくれや」

 紅い槍を持った男の腕が無造作に持ち上がり、そのまま。

 士郎の心臓を貫いた。

「――――ぁ」

 突き刺さった穂先を引き抜かれると同時、士郎は糸の切れた人形のように力無く倒れる。

 穴の空いた胸から流れる血液がゆっくりと廊下に広がっていった。

「―――まったく、嫌な仕事をさせてくれる。このザマで英雄とは笑い草だ」

 声がよく聞こえない。

 体からあらゆる熱が冷めていく。

 暗い。深い。海の底に沈むような。

 この感覚を、士郎は知っている。

 これは十年前に起きた大火災の時、衛宮士郎がまだ■■士郎だった頃にも経験した、人間が死んでいく感覚だ。

「解っている、文句は無いさ。女のサーヴァントは見たんだ。大人しく戻ってやるよ」

 苛立ちを含んだ声。

 その後に、廊下を駆けてくる足音。

「―――ネロか。ケリをつけておきたいところだが……ああ、わかってるって。けっ、とことんいけ好かねえマスターだこと」

 悪態を吐き捨てて青の男はこの場を去っていった。

 足音が近づいてくる。

 ああ、きっと死神が自分を迎えに来た、と士郎は薄れていく思考でそう思った。

 だってホラ、霞んで きた  視界の……先に、禍 々しい……

    右腕を持っ、

……た男が……

 

 ――、 や、って

 

    来 ―――― 。

 

 

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