サブタイはとりあえず仮題。
伝説の龍は異世界へ(仮)
―― 一体どうなってるんだ?
突如自身の身に降りかかった異常事態に全く理解が及ばず、男は唯々そう頭の中で反芻するしかなかった。
咄嗟にポケットの中身を確認し、財布とそこにある少なくない札や硬貨、そしてイザという時のためのカードを確認する。
どのような状況でアレ金銭は強い味方だ。人も物も金さえあればとりあえずは最低限何とかなる。彼の財布にはそれくらいの、少々の事なら乗り切れるだけの金額が詰め込まれていた。
だが、それを確認してなお彼の困惑と不安は一切晴れることは無かったのだ。
「換金、出来るのか?」
自分の見知らぬ、一瞬にして移り変わった街並みを眺め男はそう呟く。
男は凡庸とは正反対の存在であった。
精悍な顔つきに180を超える大柄な肉体。
着慣れたグレーのスーツの上からでもわかる体つきは生半可な鍛錬では身につかないほどに筋肉質で、隙の無いその佇まいと鋭い眼光は一際男の非凡さを主張している。
例え群衆に紛れてしまっても、一目で分かるといっても過言ではないほどの存在感が男にはあったのだ。
今も例にもれず、道行く人々が通りがかるたびに男に目を向ける。
だがしかし、男に向けられる視線は彼がいつも浴びるものとは全く違った『珍奇なもの』を見るものばかり。
周囲を歩く人々にスーツはおろかジャージや洋服姿なんてものはなく、ローブや鎧といった劇の登場人物の様な恰好ばかりだ。
ただでさえ異質である男は今この場においてより異質な存在として一際目立っている。
「俺は……一体どうなっちまったんだ?」
これまでの短くない人生でも経験がないほど、頼りない声で彼はそう呟き、そんな彼の前をトカゲの様な動物が馬車の様なものを引き、颯爽と横切っていくのであった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
桐生一馬は普通という言葉とは限りなく縁遠い人生を歩んできた。
40年余りの彼の人生は、常に過酷と不運。そしてほんの僅かだけの幸運で彩られる。
それらを語るには彼の年齢の優に倍の時間は必要であるだろうが、それでも一言で表すなら『桐生一馬はヤクザである』といったところか。
それもただのヤクザではない。日本における最大の規模を誇る暴力団『東城会』。その四代目会長であり、その筋の人間からは『伝説の龍』として恐れられてきた
まさに生ける伝説という存在である。
彼のことを俄かに知った人々は、さぞ満ち足りた人生を送っていると思うだろう。
だがそれは大きな間違いだ。前述の通り、彼の人生において幸運というものは(本人は否定するであろうが)雀の涙よりは気持ち多めくらいのものだろう。
両親とは生き別れ父替わりの男は跡目争いで殺され、親友もまた結果的にではあるが己の手で殺したようなものだ。
愛した女も、自分を慕う若者たちも。彼の周りには不幸な死で溢れていた。
そしてそれらを乗り越え、ようやく手に入れた小さな幸せもまた彼は手放さなければならなかった。
複雑な権力争いに巻き込まれ、それでも己の大切なものを守ろうと命を張った結果がそれだ。
だが男は人を憎み世界を恨む事はなく、ただ最後に一目自分の守った大切なものを見届け人知れずどこかへ消えようと――
「そうして、歩いていたはずなんだがなぁ」
沖縄にある小さな孤児院、そこに残してきた幸せを見届けた後。喜びと未練がない交ぜになった複雑な感情を胸に歩いていたのが彼の直前の記憶だ。
だが気が付くと自分が立っているのはまるでタイムスリップでもしたかのような西洋風の街並みだ。
無意識に歩いていたとしても、自分が知る沖縄にこんな町並みは存在しない。
目に見える風景だけでなく、日差しも風も空気も匂いも。五感で感じ得る全ての感覚がここが沖縄でないことを告げている。
「ならここはどこだってんだ?」
そう自問するが答えは出ない。
目に見える全ての事柄が、彼にとって理解の範疇を超えていたのだ。
故に彼は――考えるのを放棄する。
どう考えたところで自分の身に何が起きたかなど想像もつかない。
ならばまずは、この状況に対応することが最優先だ。
原因など落ち着いてからいくらでも考えればいい。そう桐生一馬は判断したのだ。
「なぁおい。少しいいか?」
「ん? なんだ?」
「いや、少し道を尋ねたくてな。すまないがこの辺で飯を食えるところがあれば教えてほしい」
「なんだ観光客か? こんなご時世に珍しいねぇ。ほら、向こうの大通りの右側に看板が見えるだろう。ルグニカじゃあそこが有名どころだよ」
「ありがとう、助かった」
近くを通りがかった男性に道を尋ね、少なくとも意思の疎通が不自由なく可能であることを確認する。
ついでに今ここにいるのが恐らく『ルグニカ』という地名であることも知ることが出来た。
予想はしていたが聞きなれない地名に再び頭を抱えそうになるも、桐生はもう一つ大切なことを確認するため近くの露店へ近づいて行った。
「いらっしゃい、何か入用かい?」
「ああ、この――リンゴはいくらだ?」
「リンゴぉ? リンガの事かい?」
疵顔の店主はそう訂正すると聞いたことのない通貨を提示する。
金貨、銀貨、銅貨……。
どうやら少なくとも日本円は使えないらしい。この事実に桐生は僅かに焦りを覚える。
なにせ最も頼りになるはずであった金が役立たずになるのだ。
食事さえ賄えればどうにかなる自信のあった桐生だったが、それもままならない可能性が出てきたとなるといよいよ身の振り方を考えなければならない。
「おい、リンガ。買わねぇのか?」
「え、ああいや、すまねぇ。金を忘れてきちまったみてぇだ」
「あんだい冷やかしやよ。ったく、文無し小僧が店先でぶっ倒れたかと思えば今度はこれかい。ほら帰った帰った!」
手を振ってぼやく店主を尻目に桐生はとりあえず街を散策しようと歩き出す。
一文無しの天涯孤独という状況に僅かに陰る桐生の表情とは対照に、大通りの賑わいは相変わらずだ。
あちこちから人々の喧騒が聞こえ、それらは桐生でも分かる言葉だというのに目に付く文字は見たことも無い模様の様なものばかり。
大通りの中央、石造りの道路に目をやれば盛んに馬車―― 引いているのは大きなトカゲの様な生き物だが。が行き来し、歩道を歩く人々は桐生と変わらない人間だけでなく
人型のトカゲの様な者や犬や猫の耳が付いた者までバラエティ豊かだ。
髪の色も多種多様で、それでいて桐生の様な黒髪はとんと見かけない。
彼が人目を引くのも、その黒髪の珍しさ故であった。
「持ち物は使えねぇ金にスマートフォン、タバコとライターくらいか」
歩きながら改めて持ち物を確認するが、役に立ちそうなものはない。
金銭は言わずもがな、スマートフォンも電源は十分にあるが電波が無い。
「財布が換金できりゃいいんだがな。一応安物じゃあねえんだが……」
とはいえこんな謎の土地でブランドが威光を発揮するとは到底思えないため殆ど期待はしていない。
いっそチンピラでも絡んできていつものように――等と冗談半分に思いつつ歩みを進めていると……
「そーら取ってこーい!」
どこか抜けた声と共に、目の前の横道から『ビニール袋』が飛び出してきた。
「あれは…!」
コンビニのビニール袋。
近代的な街並みとは程遠い中世風の街並みには似つかわしくない文明的なアイテムを見つけ、何かの手掛かりになるかと考え駆けつけ手を伸ばす。
すると、桐生がビニールを拾おうとすると同時に2本の手がそこへ伸ばされた。
「あぁ?」
「ん?」
「え?」
三者同様に顔を突き合わせ間の抜けた声を出す。
どうやら桐生以外の2人もまたこのビニール袋を拾おうとしたらしい。
そうして鉢合わせになり、お互い見つめあって僅かの沈黙が過ぎ――
「あんだおっさん?」
「こいつは俺達のもんだぜ?」
威嚇するように、鋭い目つきと歯茎をむき出した挑発的な下卑た笑みを浮かべて2人の男が桐生に顔を向ける。
だが桐生はそれに臆する事無く対応する。
「ゴミが飛んできたもんだから拾おうと思ってな。横取りするつもりはなかったんだ」
「はぁ? ごみぃ?」
「あんのやろぉ! バカにしやがって!」
そう言って二人は顔を怒りに染めながら来た道を振り返る。
それにつられるように桐生も彼らの視線の先、路地裏へ目を向ける。
するとそこには背中を見せて逃げ出そうとするジャージ姿の少年と、その背中に向けてナイフを振りかぶる男の姿があった。
「危ねぇ!」
咄嗟に桐生が叫ぶ。
その大声に驚いたのか男の腕が一瞬止まり、少年は振り向きながら足を滑らせてその場に転び尻もちをついた。
「ひっ!?」
一瞬止まった腕はすぐさま振り下ろされ、先ほどまで少年の背中があった場所。今は少年の鼻先をナイフの切っ先が間一髪で掠めていく。
「ちっ、邪魔しやがって……」
ナイフを持った男は声の主、桐生の方へ向き直ると憎々しげにそう吐き捨てた。
その後ろでは少年が青い顔で浅い呼吸を繰り返している。
「おいおい、お前殺すつもりだったのかよ」
「血で汚れちまったら着てるもの売れなくなっちまうだろうが」
「仕方ねえだろ、表に逃げられて面倒になるよかマシだ」
まるで人を殺すことに関心の無さそうな会話を交わし、三人の興味は少年から離れ桐生へと集まる。
「なぁオッサン? 見逃してやるからなんも見なかったふりしてとっとと帰れや」
「見世物じゃねえんだよコラ」
「………」
3人の視線には僅かな殺意が込められている。
この場で見なかったふりをすれば見逃してやると言う事だろう。
男の一人の手には未だに抜身のナイフが握られている。
今はその切っ先は行き場をなくし地面へと向けられているが、ゆらゆらと揺れるそれは言外に、言う通りにしなければ桐生にも向けられる事を仄めかしている。
「はぁ、はぁ……」
奥を見ると、腰が抜けたのが少年は鼻先から流れる血を拭おうともせず、両手を後ろにつき尻もちをついたまま青ざめた顔でこちらを見ている。
もしも桐生が言う通りにすれば、再び彼は三人の殺意に晒されるのだろう。
その後に待っているのはリンチか、或いは先ほどの焼き直しか。
少なくとも穏当な未来が待っているとは到底考えられない。
「………」
「おい、聞いてんのかおっさん!」
小柄な男がズイと前へ出て桐生を見上げるように睨みつける。
だがそんな脅しを受け流すどころか気にする風もなく、懐からタバコを取り出し慣れた手つきで火をつける。
勿論少年に義理はない。
人を殺す事になんの感慨も無い様な連中と事を構えるなんざ百害あって一利なし。
見逃すというのならばさっさと見逃してもらうのが間違いなく賢明だろう。
黙って回れ右、見なかったことにすれば世は事もなし。見知らぬ少年一人の命と自分の危険、天秤に乗せるまでもないのだから。
―― そんな賢明な生き方が出来なかったが故の、桐生一馬なのだが。
「ふぅー……」
肺一杯に吸った煙を大きく吐き出す。
その先にいた男の顔に思い切り吹き付けられ、彼は独特の香りに顔をしかめてせき込む。
「ゲホゲホ! な、なんだこれ!? ど、毒か!?」
「おいこら、こっちが下手にでてりゃいい気になってんじゃねえぞ!?」
「てめーもぶっ殺してやろうか? あぁ?」
「―― るかったんだよ」
「あ? 舐めてんのか?」
一番大柄な男が桐生の胸倉を掴み、自分の元へ強引に引き寄せる。
―― 瞬間、悲鳴が上がった。
「い、ぎゃああぁあああぁあ!?」
悲鳴は桐生のものではなく、胸倉を掴んだ男のものだった。
掴んでいた手首は桐生の万力の様な握力の右手に握りつぶされ悶絶する。
「俺は今、訳の分からねえ事ばかりでよ、すこぶる機嫌が悪いんだ」
たまらず手を離し逃げ出そうとする男の横っ腹に大振りな回し蹴りを叩き込むと、まるでボールの様に派手に吹き飛び壁に叩きつけられ、男の意識はそこで途絶える。
突然の事態に驚愕し未だ事態の理解が及ばず、目の当たりにした光景に目を白黒させる残りの二人に対し、桐生は鋭い眼光で見据え言い放つ。
「運が悪かったんだよ、お前らは」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
路地裏には3人の男が白目をむいて転がっていた。
時間にして1分にも満たないだろうか、哀れ桐生に因縁をつけたチンピラ3人組は圧倒的な力の差を見せつけられ叩きのめされていた。
「今度からは、相手を見て喧嘩を売るんだな」
そう言って喧嘩の前に火をつけたタバコを吸い終え、取り出した携帯灰皿に捨てる。
「おい、大丈夫か?」
「……あ」
未だ尻もちをつく少年の元へ歩み寄り手を差し伸べる桐生。
少年はその手を掴み、よろよろと立ち上がると……
「す……」
「え?」
「すっげええぇぇええぇええええ!!」
満面の笑みと興奮でそう叫んだ。
「お、おい」
「すげえ、すげえよおっちゃん!
いや、俺もあいつらをぶっ飛ばしたことはあるよ? でもその時の俺なんかとは段違いっつーか?
まるで熟練者の使うトキみてえな圧倒的な技量差に感激っすよ!
しかも喧嘩してる間左手はタバコ持ったまんまで火も消えてないとかなにそれ怖い!」
「……元気そうで何よりだ」
先程まで青い顔をしていたのが嘘のように興奮を言葉にして捲し立てる少年。
どうやら心配はないようだととりあえず桐生は安心することにした。
「あ、すいません! 俺、菜月スバルって言います! この度は助太刀感謝の極みに候!」
「……桐生一馬だ。礼なら普通に言え」
「ありがとうございます桐生さん! っと、すんません! 申し訳ないけどこれで失礼します!」
大きく頭を下げた後何かを思いだしたのか、ハッとして踵を返すように背を向け走りだそうとする少年、スバル。
どうやら随分と落ち着きのない奴だと桐生は彼をそう見る。
「おい、そんなザマじゃまたくだらねえ連中に絡まれるぞ」
「あー、大丈夫っす! 俺の予想が正しけりゃエンカすんのはこいつらだけっていうか……
ともかく、このまんまじゃあの子を見失っちまう!」
「なに?」
桐生の内心もよそに、スバルは慌てた様子で桐生が来た側とは反対の大通りへと走り去っていった。
ジャージ姿にコンビニ袋を持った黒髪の少年。
おおよそいま桐生が身を置く風景とは異質の、そう、自分と同じように異質な存在に色々と尋ねたい事もあったが、向こうはそれどころではないようだった。
「もしかして、あいつも俺と同じ境遇か?」
とても外出の準備をしていたとは思えない着の身着のままのジャージ姿。
そしてこの中世西洋風の街並みにはありそうもないコンビニの袋。
先程飛んできた、恐らく彼が投げたのであろうそのコンビニ袋を拾ってみると、中には見慣れた菓子やカップラーメンが入っていた。
「この辺りで買った……わけではねえだろうな」
桐生は道を歩いていると突然この奇妙な土地に放り出された。
この状況を見ると彼もまたそれと同じ境遇なのではないだろうか?
その割には知り合いがいるような言い回しではあった事に少々引っ掛かりを覚えるが……。
「なんにせよ、確かめてみるしかねえな」
スバルが走り去っていった方向を見る。
人間からそうでないような者も含め多くの人でごった返しているが、その中にあってスバルの黒髪はよく映える。
かなり離れた向こうで人混みを掻き分けるように走っていくスバルを視界にとらえ、桐生は走りだした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
スバルは駆ける。
脳裏をよぎるのは自分に向けられた不可解な、怒りに濡れた彼女の視線。
先程助けてもらった桐生という男や自分が現在進行形で遭遇している事態に思うことが無いわけではないが、今の彼にとって些末な事だ。
まずは彼女の誤解を解かなければ。
五里霧中なスバルの現状において、彼女に対するそれは明確かつ明朗な目的であった。
大通りを駆け抜け、商店の喧騒も遠くなっていくと建物はまばらにみすぼらしい物が増え更に走る頃には大通りにいた人々とはうって変わった貧しい身なりの
人々と、湿り気のある空気とすえた臭いが漂い始める。
貧民街。
まるで既知の街並みであるかのようにすいすいと迷わず足を進めるスバルは、そこにたどり着いた辺りで足を止めキョロキョロと周囲を見回し始めた。
「多分今くらいにはこの辺にたどり着いているはずなんだけど……」
どうやら目当ての人物はこの辺りにはいないらしい。
となるともう少し先か、はたまたすでに目的地にたどり着いてしまっているか。
「そうなるとやべえな……」
スバルは苦々しい表情で両目を抑え、大きくため息をつく。
それからほんの少し震える脚をばしんと両手で叩いて空元気を引っ張り出し、再び前を見据える。
「とにかく、行動あるのみだ。まずはなにがなくともあの子に誤解されたままじゃ夢見が悪い」
覚悟を決めた表情で再び歩き始めるスバル。
その時だった、ちょうど目の前の横道から現れた人影にぶつかってしまったのは。
「あだっ」
「あらごめんなさい、怪我はないかしら?」
「あー、だいじょびだいじょび。こう見えて俺って頑丈なのがとり…え……」
軽口は尻すぼみになり、表情には驚愕と、続いて恐怖が浮かぶ。
「楽しい子ね。……本当に大丈夫かしら?」
目の前に立つのは妖艶に髪をかき上げ、艶めかしい声と笑顔で気遣う美しい女性だった。
美人に耐性のないスバルは、本来であればそんな彼女に顔を真っ赤にしてあたふたしていたであろう。
だが、そんな彼の様子は決して微笑ましいそれではなく、むしろ何か恐ろしいものを見てしまったかのように硬直していた。
「あ……う…」
何か言わなければ怪しまれる。そうなれば……。
根拠のない、しかし彼にとってはこれ以上ないほどに根拠のある不安が胸中を支配する。
そんな彼を見かねたのか、スバルとぶつかった女性は薄くため息をついて笑顔を浮かべる。
「そんなに怖がらなくても、何もしないのだけれど?」
「こ、怖がってとか、そんなんありえないんすけどー? 何を根拠にビビり認定してんすか? 困るわーそして超凹むわー……」
なんとか虚勢を張ろうとするスバルに、女は嫣然とした表情で一言「臭い」と言い放つ。
「に、におい? くさいってことっすか? いやー、初対面の人にそう言われるとビビり認定より傷つくっつーか、もう悲しいんでお暇させてもらいますね?」
そういってその場を去ろうとするスバルだが、女性はその美しい鼻をすんとならして言葉を続ける。
「怖がっている人はね、臭いがあるの。恐怖の臭い。私にはそれが分かるのだけれど……貴方、随分と怖がっているのね。
それだけじゃなく怒りと、敵意も」
覗き込むように顔を近づけ、その双眸でスバルの眼底を射抜くように見据える。
スバルは蛇に睨まれた蛙の様に更に硬直し、手は行き場をなくし開閉を繰り返している。
何か軽口を叩こうと口をパクパクさせるが、急速にカラカラになった喉からは乾いた空気が漏れ出るばかりであった。
「私と貴方、どこかで会った事あったかしら?」
つつぅと、スバルの腹部を艶やかな仕草と指先でなぞる。
ただそれだけだというのに、スバルは恐ろしいトラウマを思い出すかのように目を見開き必死にこみ上げる嘔吐感を堪える。
「お、お姉さんみたいな美人、見たら忘れるわけねーし……初対面、っすよ?」
何とかそんな言葉を絞り出し、射抜かれるような視線から目をそらす。
その言葉に納得したのかどうかはわからないが、女性はもう一度鼻を鳴らすとスバルから顔を離し
「ふふ、お上手ね。敵意と恐怖が隠せればなお良かったのだけれど」
そう言って一、二歩後ろへ下がり、そして――
「あ、れ……?」
一筋の鮮血が、スバルの腹を横切っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「あいつ、まあまあ早いじゃねえか……!」
人混みを掻き分け、縫うように走るスバルを同じように追いかける桐生。
だが彼の大柄な体格では通れる隙間などほとんどなく、何度も肩にぶつかっては怒鳴られ謝罪を繰り返す。
幸いスバルの脚は特別早いわけでもなく、桐生の100m10秒台という健脚で見失わずにはいるが、距離を開けられない様に走るのが精いっぱいであった。
(にしても、やっぱりあいつ土地勘があるのか?)
走りながら桐生は考える。
スバルの足取りに迷いはなく、目的地までひたすらに進むものであった。
土地勘が無ければまずありえないそれが、桐生にとっては少し不可解だった。
(もし俺と同じ境遇だとして、あの身なりじゃあ同じ様にそう時間は経ってねえはずだが……)
考えながら走っていると、段々と人は減り風景も変わっていく。
やがて空気も湿っぽくなる頃にはスバルとの距離も大分詰まるが、同時に桐生は自分が先程までとは全く違った雰囲気の場所に辿り着いた事に気づく。
「ここは、スラムか?」
海外のニュースなどではよく目にするスラム。
彼自身はその目で直接見たことはないが、似た様な雰囲気は知っていた。
覇気のない、それでいてギラついた人々の視線。雑多に打ち捨てられたガラクタとそれを糧にしているであろう浮浪者。
彼がかつて住んでいた日本有数の繁華街、神室町にも一つ道を外れればこういった場所は少なくなかった。
「なんであいつ、こんなところに」
追いかけている少年とは到底似つかわしくないそこで、桐生は思わず足を止め警戒するように目を配る。
こういった場所では気を抜くと背後から刺される事も無いわけではない。まして先ほどの様な殺人に忌避感の薄いチンピラがいるような土地では尚更に。
だが周囲の人間は特に何をするわけでもなく、興味と僅かな敵意の様なものを含んだ視線を投げかけるだけで近づいてこようとはしなかった。
「……誰彼構わず喧嘩を吹っかけてくるような連中ばかりじゃねえか」
慣れぬ謎の土地とそこで出会ったチンピラのせいで、ここの治安はそういうものだと思い込んでいたが杞憂であったようだ。
警戒さえ怠らなければさほど問題はないだろう。
そう思って桐生は僅かに息をつき、もう一度スバルの走っていた方向に目をやると
「あ……う…」
小さな川を隔てた先で、スバルは立ち止まっていた。
そしてその彼の前には美しい黒髪の女性が一人。
美人局にでも声をかけられたか? なんて呑気な考えが頭をよぎる桐生であったが、その彼女の目を見た瞬間、そんな軽い気持ちは霧散する。
「なんだ、あいつは」
思わず息を呑む。
遠目からでも分かる。
あれは―― 真っ当な人間ではない。
仕事柄桐生は多くの人殺しを目にしてきた。
殺人を楽しむ者、仕事として割り切る者。命の重みを背負いながら殺す者。
だがスバルの前に立つその女は、彼の知る誰とも違う恐ろしさがあった。
それは病的に、偏執的なまでに殺人を厭わず楽しむ殺人鬼の目。
彼は知らない。その女が『腸狩り』という名で名を馳せる快楽殺人者である本性を。
だが、彼は気づく。潜ってきた修羅場と多くの出会いが、あの女が普通ではないこと を。
そしてその直後、桐生は後悔する事になる。
彼は見たのだ。
女の指がスバルの腹を横になぞるその犯行予告めいた妖艶な仕草を。
彼は遅れたのだ。
顔を離す女の目に、ほんの僅かに殺意がこもるその瞬間に気が付くのを。
「――― っ!?」
女が顔を離し、一、二歩後ろへ下がったその時スバルの体はぐらりと揺れ、水音を立てて倒れた。
女はそんなスバルを心配する風もなく屈みこむと、愛おし気に嬉しそうに
彼の腹からこぼれ出たそれにそっと手を触れその温かさを愛でると、満足げな表情で一言呟いた。
「ごめんなさいね、貴方がそんなにも臭うものだから、ついその気になってしまったわ」
「てめぇ!」
駆ける桐生。
だがもう遅い。
女は桐生の存在を捉えることなく、満足した表情でスバルを一瞥すると人間離れした跳躍でその場を去っていった。
「おい、おい!」
だが気にかけている暇がないのは桐生も同じだ。
急いでスバルの元へ駆け寄った桐生は彼を抱きかかえ、そして絶望する。
これは、もう駄目だ。
冷静に、それは自分でも嫌になる程に。
彼はスバルのその命の灯が消えていくことを、それを止められないことを確信する。
腹は真一文字に切り裂かれ、そこからまるで出口を求めて這い出したかのように彼の腸が漏れ出ている。
それは傷一つなく、さながら解放してあげたとでも言わんばかりで、その卓越した技量と執念に心の片隅で感心する程で。
「おい、しっかりしろ! 目を開けろ!」
だが、そんな現実的で冷静な判断とは裏腹に桐生は焦る。
目の前で失われる無辜の命に対し静かでいられるほど、彼の人間は出来ていない。
服が血に塗れるのも気を向けず必死に声をかけ、何か奇跡でも起きないかとあり得ない望みを抱き、もてる知識を総動員してどれも手遅れでしかない応急処置が浮かんでは消える。
そしてそれら全てが無駄でしかないと冷酷に判断し、それでもなお諦めきれない。
冷静と激情の狭間で彼は迷う。
それが、桐生一馬という男の性であった。
「ぐぅ、あぁ……」
閉じた瞼をこじ開けるように開き、スバルは虚ろな瞳で自分を抱きかかえる桐生を見る。
いい人だ、とスバルは思った。
先程会ったばかりでろくに言葉も交わしていないのに、彼は自分の命に必死になりその死を悲しんでいる。
男の腕で、なんてちと華は無いがこんな風に悲しんでもらえるのなら悪くはない。
自分の命にも価値はあったのかなぁ、なんて死に際にしては呑気な考えに喜びを感じつつ、彼の意識は遠ざかっていく。
そして一言、『今回も』果たせなかった未練を吐き出す。
「約束、また……守れなかった」
そう口にして、彼の意識は途絶えそれに引きずられるように彼の命は終わりを迎える。
「………」
己の手の中で命が失われる感覚。
桐生にとっては何度も経験し、それでも慣れる事のない不快で悲壮な感覚。
「ちくしょう……」
守る義理などない。悲しむ縁などない。
それでも彼は悔恨の言葉を口にし、己の不甲斐無さを呪う。
いつだって、そうなのだと。
「………」
そして心は沈黙する。
彼の中に確かに存在する冷酷な桐生一馬は、今の行動がもはや無駄でしかないとそう判断をつけるのだ。
ならば彼が次にすることは。そんな無駄でしかない中でも多少なりとも意義のあるであろう行動。
「せめて、弔ってやらなきゃな」
本来なら家族や親縁にその死を告げるのが道理だろう。
だが桐生は、心のどこかで確信していた。
ここには、『この世界』には自分もこの少年にも、親類縁者と言えるような人物は存在しないだろうという事を。
そんな不合理な確信に疑問を抱くこともなく、彼の亡骸を埋葬しようと立ち上がろうとしたその時だった。
「っ!?」
ゾクリと悪寒が背筋を駆け巡る。
その刹那の内に世界は黒く塗りつぶされ、風も空気もその流れを止める。
まるで今この空間に己しか生命は存在しないのだと認識させるような、そんな感覚に桐生は戸惑う。
「な、なにがどうなってやが……る……?」
言い終える前に、彼は見た。
目の前で黒い靄が集まり、それが形どっていく光景を。
それはまるで小さな手の様な形になり、彼が抱きかかえるスバルに近づいていきその頬を愛おしそうに撫で――
「が、ぁ……っ!」
そして怒りと憎しみをぶつけるように、桐生の肉体をすり抜けその心臓を鷲掴みにする。
「あ、ぐああぁあぁぁ!」
耐え難い激痛と苦しみが桐生を襲う。
黒い手はこれがお前の罰だと、贖罪だと言わんばかりにその心臓を弄び絶え間ない苦しみを桐生に与える。
それはほんの一瞬で、しかし桐生にとっては無限とも錯覚するほどの間苦しみを与え
『――う……して……』
桐生にとっては理不尽な、非難と弾劾の呟きと共に彼の心臓は握りつぶされた。