―― 一体どうなってるんだ?
桐生は再び。その疑問で頭が一杯になっていた。
突如眼前に広がった見知らぬ中世西洋の様な風景。
そこを歩くのはローブや鎧を身に纏い、およそ日本人とはかけ離れた顔立ちや髪の色の者ばかり。
それだけでは飽き足らず、まるで人型の獣の様な生き物が人間と同じように我が物顔で闊歩し、それを誰も気にすることなく受け入れている。
目の前を横切るのは馬車だ。だが引いているのは馬ではない。まるで大きなトカゲの様な、見たことも無い謎の生き物。
だが、今の桐生を困惑させるのはそれだけではない。
自分の服に目を向けると、それはまるで何事も無かったかのように奇麗なままだ。
スバルという少年の血で塗れたはずのグレーのスーツは染み一つなく、その手もまた同様に。
無限とも錯覚するほどに与えられた苦悶と激痛も跡形もなく消え、最後には握りつぶされたはずの心臓も何事もなく脈打っている。
突然風景が切り替わったことに関しては、もうこの場に来た時点で一度経験しているのである程度観念しよう。
だが、それに伴って全てが無かったことになっているのはどういう事だ。
度重なる理解の範疇を超えた事実に、流石の桐生も頭を抱えて困惑する。
「訳が分からねえ、夢でも見てんのか俺は」
道行く人々が桐生を奇異の目で見ては通りすがるが、最早そんなものは気にならない。
とにかく今は落ち着かなければならない。
そんな時に大切なのは会話だ。
誰かと会話をすれば不思議と心は落ち着くものだ。
そう考え、桐生は先程声をかけた近くの露店の店主に声をかけた。
「すまねえ、ちょっといいか?
金がねえってのに声をかけるのは悪いとは思ってんだが、今はどうにも誰かと話したくてな…。
ああ、なんだったら物々交換は出来ねえのか? タバコか、この財布はそれなりに値の張るもんだ。リンゴ一個でもいいから口にしたい気分なんだが」
らしくもなく饒舌に語る桐生だが、話すうちに少しずつ心が落ち着くのを感じる。
気休めではあるが効果はあったななんて思う彼だったが、声をかけられた疵顔の店主は怪訝な表情で。
「なんだ初対面でべらべらと。しかも金がねえってお前、もう少し取り繕うってことを知らねえのかよ」
「おいおい、さっき会った客の顔も忘れたのか? そりゃあこれだけの人が相手だろうが、客商売ならそいつは勉強不足じゃねえか?」
「ばっきゃろう、これでも記憶力はマシな方だ。それにあんたみてえな特徴的な男、一度見たら忘れやしねえよ。
お前こそどっかの店と勘違いしてるんじゃねえか?」
「な……」
初対面だと言い張る店主に桐生は絶句する。
確かに何かしら関係を結んだ相手ではないが、それにしたってこの反応は不可解だ。
さほど時間も経っていないはずだ。
まして店主の言う通り特徴的な自分の事を完全に忘れてしまうとは考え難い。忘れるにしても、一目見れば多少なりとも思い出すのが自然というものだろう。
だが事実、店主は桐生が一度声をかけたことをまるで無かった事かのように語るのだ。
「はっ、いよいよ俺もヤキが回りそうだぜ……」
落ち着き始めた心は再びざわつき、今度は不安が押し寄せる。
もう何もかもがワケが分からない。
衝動的に叫びだし走りだしたくなるような感覚を桐生はぐっと堪え、沸き立つ不安と焦燥感溢れそうになるのを必死に押しとどめる。
その時だった。
どこかで聞いた声が聞こえてきたのは。
「衛兵さーーーーーーーーん!!!」
喧噪に紛れ、耳に届く頃にはか細い音になりながらも、彼の耳にはそれが届いた。
大通りの向こう側、あの路地裏の方向からその声は聞こえてきたのだ。
「誰かーーーー! 男の人呼んでーーーーーーーー!!!」
ふざけた様に助けを求めるその声は、先ほど出会った
自分の腕の中で命を落としたはずのジャージ姿の少年、スバルのものであった。
「どう、なってるんだ……?」
あそこから助かったなどありえない。
そもそも彼の死にゆく様を自分は確認したはずだ。
新たな不可解な展開に困惑するも、今度は何故か少し気が晴れる。
鍵はあの少年だ。
彼に聞けば何かが分かるかもしれない。
そんな漠然とした期待を抱き、桐生はその場から駆けだした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「今度はダメか……」
残念そうにスバルはそう呟く。
僅かな期待を抱き、『前回』助けに来てくれた人がいた事から思いつき試した行動。
大通りには届いたはずのその大声はしかし、なんのアクションも無いまま僅かに静寂が場を支配した。
「おどかしやがって……ほんの少しばかりだが、ビビっちまったじゃねえか」
「ほんの少しだけな!」
「ほんのちょびっとだけだけどな!」
反応を見るに自分の行動はそう間違ったものでは無かったらしく我ながら感心するも、結果が伴わなければ減点対象だ。
こうなれば自分で切り抜けるしかないか、だが死ぬわけにはいかない。
こいつらは人を殺す事に損得以外の感情は無く、今目の前で抜かれたナイフは機嫌を損ねれば何の躊躇もなく自分に突き立てられるであろう事をスバル自身が経験している。
『あの時』は間一髪で助かったが、今回もそう上手くいくとは限らない。
むしろあれが出来すぎというか、平行世界というものが存在するのならあそこで背中を刺されて死んでいた自分もあるのではないか
なんてスバルは自嘲しながら、トンチンカンと勝手に名付けた目の前の三人組と対峙する。
「にしてもお前だけ素手かよ。武器を買う金なかったのか?」
「うるっせえな! 俺は武器ない方が強いんだよ! あんま舐めた口きいてっと、本気で殴り殺すぞクソがッ!」
「知らないとはいえ苦しい言い訳だなおい……」
彼が二度その素手で無様に叩きのめされた事を知るスバルは、呆れたように呟く。
それに気を悪くしたのか、男は指をゴキゴキとならしスバルを睨みつける。
こんな軽口に意味はない。
ただ相手を逆撫でするだけで、結果的に言えば自分の死亡率が上がるだけでしかないのだろう。
だがスバルにはこれが必要な時間稼ぎだと思っていた。
それは漠然とした期待。あんな風に自分の死を嘆いてくれる人なら、きっとまた助けてくれるのではないかと――。
そんな淡い希望はしかして、現実のものとなるのであった。
「言ったはずだぜ、お前らは運が悪いんだってな」
待ち望んだ声が、三人の背後から聞こえてきた。
「な、なんだてめえは!」
「おいオッサン、邪魔するならてめえも容赦しねえぞこら」
「今なら見逃してやるからとっとと消えな」
抜群のコンビネーションで小物ぶりを発揮する三人に目をくれず、桐生は再び絡まれている少年の姿を捉える。
「……やっぱり訳が分からねえな」
そこに立っているのはスバルだ。
凄惨な腹の傷も、光を失った瞳もどこへやら。
初めて目にした時と同じ様に(今回は尻もちをついていないが)何事もなかったかのように彼はそこに立っていた。
分からないのはもう一つ。
少し前に叩きのめしたこの三人もまた、桐生を初対面かの様に煽る。
あれだけやれば力の差など明白だろうに、凝りもせずに喧嘩を売ってくる三人。
神室町にもそういう途方もない馬鹿が居なかったわけではないが、ほんの少し前の事を全く覚えてすらいない様な連中は流石に初めてであった。
「おい、今度からは相手を見て喧嘩を売れって言ったはずだ。……まあ、その時はてめえら揃って気絶していたか
まあいい、ともかく今度は手加減しねえぞ」
そう言って鋭く睨む。
例え忘れていても、喧嘩慣れしたチンピラの本能が危険を告げるのか、その迫力に三人は気圧され無意識に後ずさる。
こうなると後は実利とプライドのせめぎ合いだ。
実利を取るならば一目散に逃走。プライドを取るなら敗北必死の特攻。
後者を取るなら余程の馬鹿しかありえないが―― 残念ながらトンチンカンは余程の馬鹿であったようだ。
「舐めんじゃねえぞコラぁ!」
「身包み剥いで簀巻きにしてやる!」
「後悔したって遅えぞボケェ!」
精一杯の虚勢を張って後ずさる足を止め、引きつる顔で威嚇しながら戦闘態勢に入る三人。
桐生は呆れつつも拳を握り、せめて殺さないようにと相手を見据え――
「そこまでだ」
現れた二人目の乱入者が、それに待ったをかけた。
そこに立っていたのは一人の青年であった。
燃え上がる炎の様に紅い髪、勇猛さと清廉さを兼ね揃えた瞳は碧く輝きその立ち居振る舞いに隙は無い。
すらりとした細い長身と整った顔立ちはどこか頼りなさを感じさせるはずが、そんな印象は青年とは無関係であった。
「………」
皆一様に目を奪われる。
それは桐生もまた例外ではなく、特に彼を驚愕させたのが青年の全身から放たれる圧倒的な強者のオーラであった。
多くの強者と出会ってきた。
多くの戦いを経て、時には猛獣すらも相手にしてなお桐生はそれらを打ち破ってきた。
またある時はたった一人で百人以上の武装集団を相手取り、それでも勝利を収めたこともある。
故に伝説の龍。不敗神話の体現こそ生ける伝説である桐生一馬そのものであった。
だが、そんな彼をしてこの青年は―― 自分でさえ未だ手は愚か視界の片隅にさえ届かない、遥か高みにあると感じさせた。
「この王都で大儀無き刃傷沙汰は見過ごせない。どうか僕の顔に免じて、双方この場は矛を収めて頂きたい」
そんな桐生の印象とは裏腹に、青年は謙虚にそれでいて誠実な言葉をもって頭を下げる。
スバルと、そして三人もまた沈黙している。
その顔に浮かぶのは驚愕の表情だが、三人はスバルとはまた少し違った形で驚いているようだ。
「ま、まさか……」
一人が唇を震わせ青年を指さした。
「燃える赤髪と空色の瞳、そして鞘に刻まれた龍爪の騎士剣……」
確認するように自分の知る知識と照らし合わせ、そして最後に息を呑み
「ラインハルト、『剣聖』ラインハルトか!?」
僅かな畏怖と恐怖に濡れた声で、彼らは青年の名を口にした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ラインハルトの出現に恐れをなし、ようやく実利を選んだ三人は捨て台詞の一つもなく一目散に逃げだし、その場には桐生とスバル、そしてラインハルトが残った。
「ふぅ、どうやら事なきを得た様だ」
ラインハルトは心底安心したかのように息をつき、そう言葉を紡いだ。
「すまねえ、俺じゃあこんな風に穏便には済ませられなかった。礼を言わせてくれ」
「いえ、それはこちらの言葉です。貴方の様な実力者がいてくれたおかげで彼らも無駄な争いと悟ってくれたのでしょう
僕一人では二対一……数の上ではまだあちらが有利でしたからね。
寧ろこちらから礼を。貴方のおかげで憲兵の本懐が成し遂げられました」
臆面もなくそんなことを口にする。
余りの謙虚さに寧ろ嫌味にすら聞こえかねないそれだが、口にするラインハルトはまるで真実だと言わんばかりの様子であった。
「そんな事はないと思うんだがな」
そんなラインハルトに毒気すら湧かず、額面通りに言葉を受け取る桐生。
どうやらこの青年は本気でそう思っているらしい。過ぎた謙虚は毒になるとはいえ、こうまで実直だと何も言えなくなる。
「君も無事でよかった。助けに来るのが遅れて怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ない」
次いでラインハルトはスバルに目を向け、怪我一つない様子を見て安堵の表情を浮かべる。
スバルはそんな完璧超人もかくやというラインハルトに、ほんの少しの嫉妬を覚えつつも膝をついて平伏し
「このたびは命を救っていただき、心からお礼申し上げる。このナツキ・スバル、その御心の清廉さに感服いたしますれば……」
「礼は普通に言え、スバル」
「ありがとうございます、ラインハルトさん!」
「ラインハルトでいいよ、スバル
それに礼は不要だ。さっきも言った様に、穏当に事が運んだのはこの御仁が駆けつけてくれた事の方が大きい。
僕一人ではこうはいかなかっただろう」
「え、なにこのイケメン身も心もイケメンな上にさらっと距離まで詰めるフレンドリーさとかもしかしてラインハルト主人公の俺ルート突入間近?」
「はは、よくわからないが面白いなスバルは。それと、申し訳ありません、よろしければお名前を伺ってもよろしいですか?」
「桐生一馬だ」
「キリュウ・カズマ様ですか。改めて、本当にこの度はご助力感謝いたします」
「呼び捨てで構わねえ。それにさっきも言ったが手柄はあんたのおかげだ
連中、三対一だろうが十対一だろうが、あんたを相手にしたら一目散に逃げ出してるだろう」
「呼び捨てはご勘弁を。尊敬すべき人生の先達に対しその様な振る舞いは僕の道義に反してしまいますので
それとお気遣いにも感謝を。そう言っていただければ至らぬ身も幾分浮かばれます」
「気遣いじゃなく事実だと思うぜラインハルト……っていうか憲兵なんだな」
「今日は非番で制服を着ていないがね、そう見えないのは申し訳ない」
「それに関しちゃ否定しねえ。しかし寧ろさっき呼ばれていた『剣聖』って肩書の方がそれらしいぜ」
「未だ身に余る肩書ですよ。期待に足る人間であろうと日々重圧と戦ってはいるのですがね」
そう言って肩をすくめ、「時には押しつぶされてしまいそうだよ」とスバルに笑いかける。
この誠実さに加えユーモアまで持ち合わせているとなるといよいよ欠点が見つからない。
スバルは愚か人生経験豊富な桐生でさえ見たことも無い完璧さに驚嘆する二人を、彼はジッと見据えると
「二人とも黒髪に見慣れない服装、そして名前。同郷と見受けたが出身は?
ルグニカへはどんな理由で来たんだい?
ああ、これは取り調べなんかじゃなく興味本位の質問だから気軽にしてくれて構わないよ。
気を悪くしたなら申し訳ない」
「いや、気を悪くなんてそんな事はねえから気にすんな。
にしても、同郷か……」
そう言ってちらりと桐生に目をやると、桐生も同様にスバルに目をやり二人の目が合う。
どうやら考えていることは同じ様だ。
だがスバルと違い桐生には少し困惑の表情が見て取れる。
どうやらこういった知識には疎いらしい、とスバルは判断し俺に任せろと言わんばかりに会話を続ける。
「ええと、なんと言ったらいいかこういう場合のセオリーだと……そう、東だ
俺達はずっと東の向こう側から来たんだ」
「ルグニカより東って……大瀑布の向こう側って、冗談かい?」
「大瀑布?」
聞きなれない単語に首をひねるスバル。
同時にセオリーが通用しなかった事に一抹の残念さを覚える。
「俄かには信じ難いが、誤魔化している風でもないね。まあいいや、王都の人間でないのは確かだろうけど、何か理由があって来たんだろう?
だが残念ながら今のルグニカは平時よりも慌ただしくてね」
そう言ってラインハルトは桐生に向き直り
「よろしければ先程のお礼を兼ねてお手伝いをさせて頂けますか?
未熟な身ではありますが、何かお役に立てることもあるかと思います」
「……とは、言われてもな」
どうやら桐生を保護者か何かと判断したらしい。
だが桐生からすれば現状は何もかも理解不能な状況だ。
ましてやスバルに状況の解明を期待する始末、事今に限って言えば、スバルの方が余程頼りになるかもしれない。
「ああぁ、ええっと人! 人を探してるんだ!
この辺りで白いローブを着た銀髪の女の子を知らないか?」
それをスバルも察したか、或いはただ欲求に従っただけか
遮るように桐生への提案にスバルが答える。
「白いローブに、銀髪……」
「付け加えると超絶美少女。で、猫……は別に見せびらかしてるわけじゃないか。情報的にはそんなもんなんだけど、心当たりとかってない?」
それがこの状況の解明の鍵となっているのだろうか。
それはわからないが、桐生はとりあえずスバルの判断に任せておくことにした。
そして尋ねられたラインハルトはスバルの質問に対し少し考える素振りを見せ
「……その子を見つけてどうするんだい?」
「落とし物、この場合は探し物か。それを届けてやりたいんだよ」
そのために? と桐生に目配せをするラインハルト。
全くの初耳だがとりあえず頷いて話を合わせておくことにした。
「すまない、心当たりはないな。よければ探すのを手伝うけれど」
「いや、そこまで迷惑はかけられねえよ。こっちには二人いるし気にしないでくれ」
そう言って両手を上げるスバル。
どうやらあまりラインハルトの同行には乗り気では無いようだ。
そういえば先ほどは貧民街へ向かっていた。ああいった場所に用があるとなると、確かに公僕であるラインハルトの存在は色々と不都合があるだろう。
「あー、そういうわけだ。それじゃあ行こうかスバル」
そう思惑を察し、少し不器用に話を切り上げようと桐生が口を挟んだ。
「行かれるのですか?」
「ああ、本当に世話になった。また縁が有ったら会おう」
「ええ、こちらも貴方のような御仁と言葉を交わせたことを喜ばしく思います。
今度は貴方のお話を聞ける機会があれば良いのですが」
「よせ、つまらねえ話しか出来ねえ男だよ俺は」
「ご謙遜を。スバルも、良かったらまた会いに来てほしい。
それに何かあったときはいつでも頼ってくれ、今度は友人として全力で手を貸すよ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。……衛兵の詰め所とかに行けば会えるのか?」
「あぁ、名前を出してもらえれば分かると思う。もしくは非番の日はこうして王都をうろついているよ」
「わざわざ男を探して町をうろつき回る趣味はねぇなぁ……乙女ゲーじゃあるまいし」
そう言って軽口を言うと、スバルは桐生の横に立ち「行こうぜ」と促した。
ラインハルトは大通りに向かって歩き出す二人を「気を付けて」と最後まで爽やかに見送りの言葉を向けるのだった。
―― 二人を値踏みするかのような視線と共に。