Re:ゼロから始める極道生活   作:勘兵衛

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変わらぬ月と

 桐生は馬車――この世界では馬ではなく地竜という生き物が引くため竜車というらしい。に揺られながら、今日一日の出来事を思い返しながら、幌の隙間からぼんやりと月を眺めていた。

 

 本当に、長い一日だった。

 40年以上の人生の中で、一二を争う程に長く濃厚な一日だったのではないかと思う程に。

 

 異世界の存在や死に戻る少年スバルとの出会い、そして腸狩りという偏執狂の殺人鬼との戦い。

 そしてその戦いを終えた後の一悶着経て、ようやく桐生とスバルは一日の終わりを迎えようとしていた。

 

「ところで、ロズワールってのはどんな人なんだ?」

 

 何の気なしに向かい合わせに座っていたエミリアに話題を振ると、彼女は馬車の揺れに揺り籠のような心地よさを感じていたのか、既にうつらうつらと舟をこぎ始めていた。

 だが桐生の声で目が覚めたのか、エミリアは「ふえっ!?」と間の抜けた声を出すとびくりと体を震わせた。

 

「あ、ご、ごめんなさい。ちょっとうとうとしちゃって……」

 

「いや、こっちこそすまねえ。あんたも大変だったから疲れてるだろう」

 

「エミリアでいいですよカズマさん。私なら大丈夫だから気にしないでください、それでええと……ロズワールの事、だったかな?」

 

「ああ。それと俺も一馬で構わねえぜエミリア」

 

「ありがとうカズマ。ええと、彼については何といえばいいのか……。うん一言で言うなら、変態?」

 

「なんだって?」

 

「あ、心配しないで。とっても優秀な人には違いないから。ただ、そのちょっと……ううん、すごーく変わってる人で、悪い人ではないんだけど」

 

 そうやって困ったように笑うエミリアは、そのロズワールという人物の人となりを把握しきれていないかのように歯切れが悪い。

 ただその言い草から相当な曲者であろうことは何となく予想できる。と同時に、エミリアに対してもちょっとした親近感を桐生は覚える。

 もし彼が誰かに「真島吾朗ってどんな人?」と聞かれて詳しく説明しようとすれば、きっと彼女の様に言葉に困るだろう。

 

「でも客人を、ましてや大恩ある二人を無下にするような人じゃないからそこは安心して。まあ、変態だけど……」

 

 強調するように変態を重ねて付け加える。

 

「大恩と言われても、そう大したことをしたつもりじゃねえんだがな」

 

「そんな事、キリュウには命を救ってもらったし彼には……」

 

 エミリアの視線は桐生の肩に頭を置き、安らかに眠るスバルの顔へと移動する。

 

「大切な物を、取り返してもらったから」

 

 ぎゅっと、先程からずっと手に持っている大切な物、徽章を握りしめるとエミリアは静かに目を瞑った。

 その心中は安堵や感謝、そして自責と後悔の念だろうか。

 少なくともその様子から、彼女にとってそれは相当、それこそ命と並ぶくらいに大切な物であろう事が桐生には見て取れた。

 

(お互い、その徽章に振り回された一日だったな……最後までな)

 

 右には徽章の為に命を懸けて戦い抜いたスバルの姿があった。

 そして左には……いたはずの金髪の少女の姿が無いことに小さくため息をつき、その顛末を思い返し始めた。

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

「申し訳ありません、彼の負傷はすべて僕の不徳の致すところです」

 

 桐生とスバルへと深々と頭を下げ、隠された表情には後悔と悔恨に塗れている。

 

 エルザの姿を見つけられず、戻ってきたラインハルトの目に飛び込んできたのは倒れ伏すスバルと、心配そうにその彼の傍につくエミリアと桐生であった。

 何故あの時気安くその場を離れてしまったのか。

 騎士として許されざる油断か慢心か、あるいはその両方。それらがスバルの犠牲を生んでしまったと、ラインハルトは心の底から悔やむ。

 

「気にするな、元はと言えばトドメも刺さねぇ俺の油断だ」

 

「いえ、ですが……」

 

「もー、誰が悪いかなんてどうでもいいの! スバルは助かったんだからそれで充分です!」

 

 埒のあかない後悔合戦を終わらせようとエミリアが一喝する。

 その目論見は上手くいったようで、ようやくラインハルトは謝罪の言葉を口にするのを止めた。

 

「お心遣い感謝いたしますエミリア様」

 

「別に心遣いってわけじゃなくて……もう、貴方もあの子くらい素直だったらいいのに。

 助けてくれたんだからお礼をよこせーなんて言われた方がよっぽど気楽な事だってあるんだから」

 

「そう、なのでしょうか?」

 

「そうなのです。まああの子のは全然欲張りなお願いじゃなかったけどね」

 

 スバルの欲張りなつもりの細やかなお願いを思い出し、つい笑ってしまうエミリア。

 そんな彼女につられる様に、ラインハルトの唇も思わず綻びかける。

 

「ともかく、私から貴方におくるのはありがとうって感謝の言葉だけ。罰なんて思い当たらないから与えようもない。それでも納得できないのなら、次に活かしてくれればそれでいいから」

 

「分かりました、その言葉ありがたく」

 

 そんな二人のやり取りを見ていた桐生はエミリアの器量に感心する。

 エミリアとラインハルトの立場がどういったものかは分からないが、主従関係やそれに近いものであるならば、エミリアは人の上に立つに相応しい才能を持っているのかもなと

 

 そう感心していたのは桐生だけではなかった。

 

 ラインハルトもまた、自分よりも小さな少女がずっと大きな存在に感じ、器の違いなのだろうと己の狭量さを推し量る。

 加えて『選ばれている』だけの事はあるのだと再確認していた。

 

 そうしてエミリアとの問答を終えると、ラインハルトは改めて桐生へ目を向けた。

 

「ところで、キリュウさんはこれからどうされますか?」

 

「どう、とは?」

 

「先程は断られてしまいましたが、彼の事もあります。治療は終えたとはいえ安静にするに越した事は無いないでしょう。

 こちらで滞在のアテがないのであれば、是非当家にお越しいただければと思うのですが」

 

「そうだな……」

 

 柔和な表情のエミリアに見守られ、壁に寄り掛かって安らかに眠っているスバルを見る。

 大きく開いていた腹の傷はすっかりと癒え、頬にも赤みがさしている。

 恐らく体力的にはもう問題はないだろう。だが、精神的にはどうだろうか。

 

 右も左も分からない異世界で何度も死にかけて、いや何度も死んで。例え死に戻りで体は元に戻っても、彼を取り巻く全てが元に戻ったとしても。

 苦痛や恐怖で蝕まれた彼の心だけはきっと、元には戻らない。

 今の彼には、自分の様に境遇を共有できる理解者だけでなく安全も必要だろう。

 先程は断ったが、やはりまずは衣食住を確保するのが先決ではないだろうか。異世界での身の振り方を考えるのはそれからでも遅くはない。

 

 桐生はそう考え直してラインハルトの提案を受けようと口を開くが、エミリアの言葉がそれを遮った。

 

「それならラインハルト、彼らの身柄はこっちで預からせてもらってもいいかしら?」

 

 エミリアは恩を受けたのは自分であり、それを返すのもまた自分の責務だとラインハルトに告げる。

 ラインハルトは少し残念そうに「エミリア様のお心のままに」と返すと、再び桐生へと向き直った。

 

「すみません、そういう訳ですのでキリュウさんさえよろしければロズワール様の邸宅へ逗留して頂いてもよろしいでしょうか?」

 

「それは構わねえが、男二人が転がり込んでも大丈夫なのか?」

 

「ええ、ロズワール様はこの国でも有数の名士であらせられます。エミリア様の命の恩人とあれば相応の持て成しと謝礼で迎えていただけるでしょう」

 

「謝礼か……」

 

 その言葉に桐生はふと考える。

 エミリアの命を救ったというのが、そのロズワールにとってどれだけ感謝に値するのかは分からないが、ラインハルトの口ぶりからすれば決して小さくは無いのだろう。

 ならば、多少の無茶を口にしても許されるのかもしれないと。

 

 勿論謝礼に目が眩んだわけではない。

 ただ、その謝礼の対象を自分ではなく……別の人物に変えてはもらえないかと、そう思ったのだ。

 

「フェルト」

 

「ん?」

 

 口を挟めず、手持ち無沙汰に桐生の近くをうろうろとしていたフェルトに桐生は声をかける。

 

「お前、ここから出るつもりはねえか?」

 

「は? どういう意味だよ?」

 

 突然の質問に訳が分からないと首をかしげる。

 だがそれを聞いたロム爺は桐生の思惑を察したかのように目を見開いた。

 

「キリュウ、お前さん」

 

「俺はそのロズワールって奴から礼を貰うつもりはないんでな。かと言って、いらねえと突っぱねられても向こうにだって立場がある。だからお前がその礼を受け取るのはどうかと思ってな」

 

「おっちゃん正気かよ、アタシは徽章盗んだ犯人だぜ? むしろとっちめられる側じゃねーか」

 

「その辺は、アレだ。少し口裏を合わせてもらえばいい」

 

 そう言ってちらりとエミリアに目配せをする。

 その桐生の目に少し困惑しながらも、「まあそれがお礼になるなら……」と歯切れ悪く返す。

 

「う~ん、まあ金が貰えるってんなら別にいいけど」

 

「いや、金はダメだ」

 

「は、はぁ?」

 

 心の中で幾らほどせしめられるか強かに計算を始めたフェルトは、突然の否定に驚愕する。

 そんなフェルトを桐生は真剣な面持ちで見つめ諭す様に語り掛ける。

 

「降って沸いた様な金ってのは身を持ち崩すもんだ。まあお前がどうしてもって言うなら無理には止めねえが……出来るなら、お前にはもっと別な事を頼んでもらいたい」

 

「別な事?」

 

「ああ、そのロズワールって奴がそれだけ偉い立場なら、そいつの下で色々と学べることもあるだろう」

 

「もしかして、アタシにメイドの真似事させようってのか?」

 

 困惑は不機嫌へと移り変わり、苛立った表情と睨む目つきを桐生に向ける。

 だが桐生はそれに動じることなく言葉と続ける。

 

「そういうわけじゃあねえ。客人の立場でもなんでもいいからここでは学べない様な事を教えてもらえって事だ。裏稼業を続けるのは構わねえが、知識のねえ奴がある奴に食い物にされるのはどこだって同じだ。

 お前が食い物にされる側でいいってなら話は別だがな」

 

「舐めんなよテメー、アタシがそう簡単に騙される馬鹿だとでも思ってんのか? アタシはここでガキの頃から上手くやってきてんだ」

 

「今まではな、だがこれからも上手くいくとは限らねえ」

 

「んだとぉ?」

 

「例えばだ、もしもある日突然爺さんがあの女みたいな奴に殺されたらどうする? あるいは爺さんが突然病気で動けなくなることだってあるだろう。そうなったらお前は一人でやっていける自信があるか?」

 

「ぐ……」

 

 桐生の言葉に睨みつけていた視線を泳がせ、僅かに言葉を詰まらせる。

フェルト自身にも言われるまでもなく思うところはあった。

 盗品の扱いや交渉など、ロム爺の世話になっている事は少なくない。悪人ひしめく世界で生きていく術を教えてくれたのもロム爺だ。

 それに本人の前では絶対に言わないが、フェルトは彼の事を祖父の様にさえ思っている。

 もし桐生の言う様に彼がいなくなったら、或いは彼を守らなければいけない立場になったなら……、上手くやっていけると、そう言い張れる自信は無かったし、見栄を張れる程身の程知らずでも無かった。

 だが、だからと言って大嫌いな貴族の世話になるなどフェルトには到底了承できない。

 

 そうして正論とプライドの狭間で苦々し気に顔を歪めるフェルトは、助けを乞う様にロム爺の方へと目を向ける。

 しかしロム爺はそれには応えられないといった風に小さく首を振り

 

「まあ確かに、儂もお前さんを貴族に預けるなぞ反対じゃ」

 

「だ、だろ!?」

 

 ほっとするフェルトだが、ロム爺の言葉はそこでは終わらない。

 

「じゃが知識がモノを言うというのは……残念ながら事実じゃフェルト。儂も昔はそのおかげで身を立てることが出来た。そういう意味では、キリュウの提案も吝かではないと儂は思っとる」

 

「……ロム爺」

 

 ロム爺のどっちつかずの言葉にフェルトはほんの少し弱々しく名前を呼んで応じる。

 彼の真意は分かっていた。要するに、自分で選べという事だろう。

 どちらを選んでも自分は味方をする、だがその選択だけは自分でやるべきだと。

 

 フェルトは悩む。上昇志向の強い彼女は元々この貧民街でちんけなコソ泥稼業で一生を終えるつもりはなかった。

 いずれは独り立ちし、ロム爺への恩もそれなりに返して掃き溜めから去る貧民街脱出計画だって心に秘めていた。

 だがそれはこつこつと資金をためて実現するつもりだったわけで、突然こうして実現の機会が訪れるとなると心の準備が追い付かない。

 

「……ロム爺は、チャンスだと思うか?」

 

「さてな。じゃが、二度は無い機会ではあろうな」

 

 悩む。悩む。悩む。

 時間にしてみればほんの僅かだが、直感と感覚で生きてきたフェルトにとっては長く長く思考を巡らせた。

 

 そして――

 

「おっちゃんって、お節介って言われるだろ」

 

「まあ、な」

 

「アタシは嫌な事はしねー主義だ」

 

「そうか」

 

「貴族なんてのも大っ嫌いだ」

 

「それでも利用できるならした方が良い」

 

「すぐ投げ出すかもしんねーぜ? アタシ勉強とか嫌いだし」

 

「それはお前の自由だな」

 

「本当なら金だけ貰っておさらばしてーんだけど」

 

「さっきも言ったが、お前がどうしてもって言うならな」

 

 何度か問答を繰り返し、毅然と返す桐生にフェルトは観念したかのように大きくため息をつき観念した様に両手を上げた。

 

「あーもうわかったよ、ったく今日会ったばっかだってのにどうかしてるぜアタシも」

 

「決まったのか?」

 

「口車に乗ってやるよ、さっきも言ったように嫌な事はやらねー主義だが、ちんけな盗賊で終わるのもまっぴらごめんだ」

 

 そう言って仕方なさげに笑う。

 こうして、ロズワール邸へと向かう桐生とスバルにフェルトが同行することになった。

 

 ここまでは順調だったのだ。そう、ここまでは――。

 

 事が起こったのはロム爺を残した盗品蔵を出て、王都で竜車を手配するべく真っ暗な貧民街を出ようと道を歩いている最中であった。

 

 

 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

 

 

 先頭を歩くフェルトを見守るように、スバルを背負った桐生が後ろにつき、その後ろをエミリアが、そして全員を守るようにラインハルトが殿を歩いている。

 そんな彼らに、コツコツと足音を立てて近づく人影が一つ。

 

「お嬢さん」

 

その人影は盗品蔵の方向から、桐生達を大きく回りこみ先頭のフェルトの前へと辿り着くと彼女に声をかけて立ち止まった。

 

「ん? なんだアンタ」

 

 立ちはだかったのはフードのついたローブを着た怪しげな男であった。

 目深にかぶったフードとダボついたローブはその容貌と体の線を隠しているが、長く伸びた顎髭としわがれた声は彼が老人である事を示している、

 

 老人はごそごそとローブのポケットを漁ると、何かを取り出し

 

「これを、落としましたよ」

 

 そう言ってフェルトに手渡されたのは、先ほどまでスバルが持っていたはずの徽章であった。

 

「落としたって、これ……!」

 

 振り返ってエミリアを見ると、彼女は焦った様子で桐生の背中で眠るスバルの体をパンパンと叩いて検める。

 

「無い、もしかしてあの騒ぎで落としちゃってた!?」

 

 危ないところだったと顔を青くするエミリア。

 フェルトは呆れた様子で老人から徽章を受け取ると、エミリアの元へと近づいて行った。

 

「ったく、大切な物なんだったらもう少し気をつけろよな。そんなんだからアタシに盗まれんだよ」

 

「う、うん……貴方に忠告されるのはすこーし変な気分だけど」

 

 そう言って申し訳なさそうにフェルトから徽章を受け取ろうとするが、その時だった。

 不意に、エミリアへ手を伸ばすフェルトの腕が掴まれたのは。

 

「え……?」

 

 突然の事態に驚き、己の腕を掴む手の持ち主を探そうと腕を伝って視線を移動させると、その先にいたのはラインハルトであった。

 彼は驚愕に目を見開き、呼吸さえも忘れた様子でフェルトの手にある、ほんのりと赤く光る徽章をじっと見つめている。

 

「いて、いてて、おい、ちょっと、離して……!」

 

「おいラインハルト、フェルトが痛がってるだろう。一体どうしたって……」

 

「なんてことだ……」

 

 手を引き離そうと近寄る桐生に目もくれず、ラインハルトは震えるようにそう呟いた。

 

「ちょ、ちょっと待ってラインハルト! 確かにお咎めなしなのは難しい話なのは分かるわ。でも彼女は徽章の価値を知らなかったのだし、盗られた私にも責任はある。だから――」

 

「いえ、そうではありませんエミリア様。僕が問題にしているのは、そういう事ではありません」

 

「待てよ、どういう事だラインハルト」

 

 ただならぬラインハルトの様子に警戒を強める桐生。

 だが彼は一言、申し訳ありませんと首を振って答え、フェルト顔へと視線を移すとその双眸を見つめるように覗き込んだ。

 

「……君の名前は?」

 

「ふぇ、フェルト……だ」

 

「家名は? 年齢はいくつだい?」

 

 矢継ぎ早に質問するラインハルト。その鬼気迫る様子に不安気にフェルトは瞳を揺らす。

 

「か、家名なんて大層なもんはねーよ、年は十五くらいって話だ、誕生日なんてわかんねーし、ってか、いい加減離せよ!」

 

 ようやく調子を取り戻し暴れるフェルトだが、未だ驚きを隠せないラインハルトは歯牙にもかけずその腕を離さぬままにエミリアと桐生へと向き直った。

 

「エミリア様、キリュウさん、彼女を見過ごす事、その約束は守れなくなりました。彼女の身柄は自分が預からせて頂きます」

 

「随分と急な話じゃねえか、せめて理由を聞かせてもらいたいもんだが」

 

「申し訳ありません、こればかりは部外者である貴方には話すことは出来ません」

 

「そんなんではいそうですかと引き下がると思ってるのか?」

 

「思いません、ですから――例え力づくでも」

 

 二人の間に流れる空気が一変する。

 互いに交わる視線は宙で交わり、火花を散らして周囲を緊張させる。

 その空気にあてられるように、エミリアは思わず息を呑んだ。

 

 桐生の放つ闘志を涼し気に、しかし真剣な表情で受け止めるラインハルト。

 そんな彼から滲むのは、桐生のそれを飲み込むほどに圧倒的な強者のオーラであった。

 

 桐生の頬を一筋汗が伝う。

 心臓が掴まれたかのように胸が詰まり、呼吸すらもままならない。

 戦えば間違いなく死ぬと、桐生はこれまでで初めてそう確信した。

 

「……やめましょう、貴方を傷つけるのは本意ではない。非礼はお詫びします、ですからどうかこの場だけはお見逃しを」

 

「おい、アタシを無視すんじゃねー! いい加減に……っ!?」

 

 自分の意思を汲もうともしないラインハルトに業を煮やし再び暴れだそうとするフェルトだが、ラインハルトがすっとその手を首筋にかざすと糸が切れた様に彼女の体から力が抜ける。

 そうして完全に意識を失ったフェルトの体を横抱きにして持ち上げると、再び桐生へと向かって頭を下げた。

 

「……そうしてまで連れ帰る理由ってのがあるのか?」

 

「はい、罪を見逃す事よりも、今目の前で起きた光景を見逃す事の方がよほど罪深い」

 

 そう言って桐生の顔を見据えるラインハルトの表情に嘘や後ろめたさは一切ない。

 ただひたすらに己の正義と使命に殉じているのだと、青い双眸は言葉なく、力強くそう語っていた。

 

「……こいつを傷つける様な真似だけはするな」

 

「不本意を強いる事はあるかもしれません、ですがそれだけは必ず。剣聖の名に誓って」

 

 桐生はそれを聞いて息をつく。

 納得をしたわけではないが、こんな馬鹿正直な物言いをする彼がフェルトに危害を加える事だけはしないだろう。

 それだけは間違いなく信用できる。

 故に今はお前を信じると、そう言外に示しながら桐生は後ろへと一歩下がった。

 

「ありがとうございます、それとエミリア様、これを。」

 

 フェルトの手に握られた徽章をエミリアに返すと、徽章は持ち主の元へ帰ったことを喜ぶように眩く輝く。

 ラインハルトはその輝きを見届けると、空を仰いで浮かぶ月を見た。

 つられる様に桐生も空を見上げると、真円を描く月は怪しく蠱惑的に夜空に浮かび、何かが始まる事を予感させるかのように、その月明かりは演者を照らすスポットライトとなって桐生達を照らす。

 

「月は、変わらねえんだな」

 

 異世界にも変わらぬものはあるのだと、そんな思いを胸に彼はぽつりと一言呟いた。

 

 

 

 老人の姿は、いつしか消えていた。

 

 

 

 

 




ようやく一章が終わりました。
予想よりも遥かに多くの方に読んでいただけて大変うれしく思います。
読んでくださった、感想を書いていただいたみなさん、本当にありがとうございます。
2章はまたこれから、ある程度書き溜めてから投稿させていただきますのでもしかしたら一旦一週間以上間が開いてしまうかもしれませんはこれからもよろしくお願いいたします。

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