「……いい加減にしてくれよ、オヤジ。組の面子を潰そうとしてるのはどっちだ?」
「いつからそんなデケェ面するようになったんだ、ジンジ。ヴェンディッティ組の頭は誰か言ってみろ」
親子喧嘩では済みそうにもない一触即発の空気が漂う。人の心は複雑だ。ほんの少しの要因で解れもするし、頑なにもなる。積み重なったゼンジの恨みをこの一件だけで解きほぐすことはできなかった。
「オレも含め、ここにいる組員どもはあんたのために命を投げ出す覚悟がある。もしノストラードがオヤジの命を救えなければ戦争を仕掛ける覚悟があった。だが、あちらは筋を通したんだ。憎い敵とはいえ命の恩人でもある。ここで弓を引くような真似はできねぇ」
ゼンジの強硬な組の運営方針に不満を持つ組員は少なからず存在した。表立って口には出せないが、快く思っていない者は多い。ジンジはそうした組員たちの間に入り、関係を取り持つために努力してきた。次期組頭として認められた確かな人望があった。
「どうしたお前ら!? 何を黙って見ている! さっさとノストラードのクソどもを捕まえろ!」
しかし、いかに人望があれどジンジはまだ若頭だった。マフィアのファミリーにおいて組頭は絶対の存在だ。頭が白と言えば黒だろうが白になる。皆がジンジの言い分に間違いはないと思いながらも、ゼンジの決定に逆らうことはできなかった。
ノストラード組は意識不明者を抱えた三名だ。ここに集まったヴェンディッティ組の手勢なら苦もなく捕えることができた。邪魔者が間に入らなければ。
二つの組の間を遮るようにチェルが降り立つ。レオリオたちに背を向けた彼女の姿からどちらの味方であるかは予想できた。
「おい!? お前はオレの護衛だろうが! 裏切るつもりか!?」
「護衛として無用な戦闘は回避させてもらうぞい。マフィアの抗争に巻き込むでない」
悪びれもなく言い放つアイクにゼンジは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「クソが! ならもういい! 役立たずはク――」
「ダメです頭! それだけは!」
ゼンジはカーマインアームズをクビにして追い払おうとしていたが、それを後ろから子分らが必死に抑え込んだ。ここで解雇してしまえば怪物たちを契約という名の檻から解き放ってしまうことになると危惧していた。
幻影旅団との戦いぶりを見ていた子分たちは念は使えずともこの傭兵団の常軌を逸した強さを目の当たりにしている。ヴェンディッティ組の主戦力が集まった今の手勢をもってしても造作もなく蹂躙されてしまうだろう。
「ちぇっ、もうちょっとじゃったのに……」
少女がこぼした恐ろしいぼやきに子分らは震え上がった。彼女たちの強さを知らない後発組の戦闘員たちも、チェルが放つ強大な威圧と展開された円の異様なオーラを警戒して慎重になっている。ゼンジを除いた多くの者にとって組同士の全面抗争はできれば避けたい事態であり、その思惑が消極的な態度に表れていた。
「どいつもこいつも日和りやがってぇ……! もうお前らには頼らん! 復讐はオレの手で果たしてやる! 早く緋の眼を持ってこい!」
現在、緋の眼はアイクの手にあった。クラピカとジンジの間で取り交わされた約束が果たされるまで、二つの組のどちらにもない中立な状態を保全する措置として両者が納得し、アイクの手に預けられたのだ。
「ひうっ、そんな大声で怒鳴られたら怖いのじゃ~! え~ん、え~ん!」
完全に馬鹿にしているとしか思えないアイクの態度にゼンジの怒りは頂点に達した。ゆでだこのように顔を赤くし、小刻みに体を震わせる。そして爆発した。
「ふぅ……」
怒りの限界を超えたゼンジは、逆に冷静になった。
「葉巻」
「え、あ、はい!」
淡々とした言葉に子分たちが応じる。ゼンジは雨の中、受け取った葉巻が湿気るまで一服した。一息ついたところでチェルに指示を出す。
「そこのガキ、こっちに戻って来い。もうそいつらに手を出すつもりはねぇ」
「信用できないね」
「生言ってんじゃねぇぞ。明らかな越権行為だぜ、それは」
アイクは護衛として戦闘を回避する必要があると理由を付けたが、現状においてクラピカたちがゼンジの脅威となることはあり得ないのだから余計な介入でしかない。今後、この件がきっかけとなり組同士の抗争に発展すれば大きな戦闘になるだろうが、やはり部外者であるアイクたちが口を出すべき問題ではない。
「……正論じゃの。下がれ、チェル」
「ぐぬぅ」
本来なら護衛にはいかなる場合であろうと護衛対象を守り抜き、その利益に資する行動が求められる。契約内容に反しなければ好き放題にしていいというわけではない。おとなしくチェルが引き下がったところでゼンジがレオリオたちの前に立った。
「さっきも言ったが、もうこちらから手を出す気はない」
「随分な心変わりだな」
「オレも鬼じゃねぇ。ジンジの言うこともわかる。お前らには命を救われたようだしな」
ゼンジからは先ほどまでの沸騰するような怒気は感じられなかった。そのあまりの急変に、レオリオは逆に疑わずにはいられなかった。センリツはゼンジの感情を読もうとするが、そこからはっきりとした思考までは推測できない。わかることは非常に落ち着いているということだけだった。
「だが、このまま何もなしで終わらせるわけにはいかない。それじゃオレの気が収まらねぇ。だから、折半だ。緋の眼の片方はお前らにやる」
「か、片方……?」
緋の眼は一対、その眼球は二つある。レオリオはゼンジの言葉の意味を理解して焦燥に駆られる。
「じゃあ、もう片方はどうするつもりだ!?」
「ここでオレが潰す」
その行為に何の意味があるのかと、レオリオは絶句した。大した意味などない。単なる復讐だ。他人から見れば馬鹿げたことだろうが、人間とは得てして他人からは理解されない馬鹿げたことに心血を注ぐ生き物だ。
「本当はそいつの目の前で見せつけながら踏みにじるつもりだったが……それも酷だろう。気絶している今の内に潰してやる」
クラピカに意識があれば到底認めるはずがない。無論、レオリオは反対した。
「待ってくれ! こいつにとって緋の眼は生まれ育った一族の形見なんだ! 家族もみんな無惨に殺され、奪われた遺品を必死で集めてきた! どれだけそれが大切な品かわかるだろ!?」
「だろうな。そうじゃなきゃ落とし前にならねぇのさ。片方は返してやるって言ってんだ。情けじゃねぇか、これ以上はない」
「眼を潰せばクラピカは絶対に許さねぇぞ……! 必ずお前らを殺しに行く!」
「あのな、そんな啖呵はオレらの世界じゃガキの脅しにもならねぇよ」
どこまでも冷え切った物言いだった。むしろ怒り狂っていたときの方がまだ状況を覆す余地があったような気さえした。付き合いの長いジンジは、こうなったゼンジが意見を変えることは絶対にないと知っていた。自分の不甲斐なさを恥じ、謝ることしかできずにいた。
「緋の眼を寄越せ」
アイクに向けてゼンジが手を差し出す。彼女は諦めたようにとぼとぼと依頼主のもとへ近づいて行った。
「頼む! そいつを渡さないでくれ! 約束したじゃねぇか! それはクラピカのもんだ!」
「わしはゼンジを治療した上で対価を得られるように説得してみせよと言っただけじゃ」
アイクはちらりとクラピカを見やる。彼はレオリオに背負われたまま、いまだに気を失っている。
「誰が何と言おうとこれはゼンジの所有物。売ろうが捨てようが壊そうが持ち主の自由じゃ。説得できなかったのであれば仕方あるまい。それまでの男だったということよ」
「テメェ……!」
「レオリオ、落ち着いて!」
レオリオがオーラを滾らせる。センリツが隣で宥めようとするが、今にも飛び出していきそうなほど怒りをあらわにしていた。
「おぬしらには危害を加えんと約束はしたが、向かって来るというのであれば傷一つ負わせずに眠らせてやる。緋の眼と一緒に安全な場所まで運んでやろう」
レオリオたちに万が一にも勝ち目はなかった。クラピカは気絶中、センリツは諜報能力に優れるが戦闘力自体は低い、レオリオはまだ一人前を名乗るには程遠い修行中の身だ。マフィアの戦闘員たちを相手にするだけでも苦戦を強いられるだろう。
緋の眼を二つとも取り返すなど夢のまた夢だ。カーマインアームズという巨大な壁が立ち塞がっている。どんな手段を使おうと、この少女二人には通じない。それでもレオリオは懸命に考えた。力で駄目なら別の方法で。
「カーマインアームズ……カーマイン……アームズ……?」
必死に思考を巡らせるレオリオだったが、窮地で妙案を思いつくのはクラピカやゴンの役割だった。自分はいつも直情一直線の思考回路しか働かせてこなかったという自覚がある。しかし、そのわずかに紛れ込んだ仲間たちに関する情報が、彼の記憶の底に眠っていた情報とつながりを見せた。
「なんだっけ、聞いたことがあるぞ……?」
鎖のようにつながった記憶の輪を手繰り寄せていく。その傭兵団の名前は、ゴンと交わした何気ない会話の中で出てきた単語であることに思い至った。
「待った! ストップ! タイム!」
まさにゼンジの手に緋の眼が渡ろうとしていたそのとき、レオリオが大声で制止をかけた。
「なんじゃ」
「10分! いや5分でいい! オレたちに時間をくれ!」
呆れた言い分だった。まさか通るはずもない。ゼンジは一瞥をくれただけで無視した。
「……5分あれば何とかなるのか?」
しかし、アイクがレオリオの呼びかけに応じる。レオリオはぶんぶんと首を縦に振った。
「おい、これ以上お前らの茶番に付き合う気はねぇんだ。いいから黙ってろ」
「まあまあゼンジさんや、たかが5分じゃ。最後の情け。これで向こうも心の準備が整うじゃろう」
アイクが半ば強引にレオリオの提案を通した。彼は一目散にその場を走り去る。センリツがその後に続いた。
「ねぇ、どうするの!? 何かいい案があるの!?」
「わからねぇ! それを今から確かめる!」
レオリオは携帯からゴンに電話をかけていた。
* * *
「ぎぶぎぶぎぶ……だんちょおおおぎぶううう!!」
私はルアンにチョークスリーパーをかけていた。
夕食のために仕込んでいたシチュー鍋に謎の薬品を混入しようとした罰だ。今日という今日は許さんぞ。陸に打ち上げられた魚のごとくビチビチと跳ねるルアンを押さえつけ、頚椎をへし折る勢いで締め上げる。
――プルルルル――
あ、電話だ。注意がそれ、わずかに緩んだ腕の隙間からルアンは軟体動物のように脱出した。
「シャハッ!」
本体を口に咥え、四つ足の体勢で団長室から逃げ去っていく。ひとまず奴のことは放っておこう。私は外線電話の受話器を取った。
はい、こちらカーマインアームズ事務局です。
『はあっ、はあっ、も、もしもし!? かーまいん、あっ、クラピカが緋の眼で……』
イタズラ電話かな。私は受話器を置いた。するとすぐに電話が鳴り始める。仕方なくもう一度応対した。
『こちらレオリオと申しますがァアーーーーーア!!』
いつものクレーマーかとげんなりした気分になった私だったが、話を聞くうちにそうではないと気づく。なんとこのレオリオという人物はゴンやキルアの友達だった。確かに名前だけなら二人の口から聞いた覚えがある。
レオリオさんはゴンからここの電話番号を聞いたらしい。なんでもアイクとチェルの仕事先にたまたま居合わせたそうで、そこでトラブルが発生したようだ。クラピカというこれまたゴンたちの友達が巻き込まれてしまっている。
『頼む! そっちから指示を出してチェルとアイクを止めてくれねぇか!』
話を聞く限り、護衛としてアイクたちの行動に非は見られない。許可なく緋の眼をクラピカに譲り渡すようなことをすれば重大な背信行為だ。所持品の保全まで契約に明記されていないとはいえ勝手に他人の物を譲渡していいわけがない。持ち主であるゼンジに返す以外の選択肢はないのだ。
しかし、その緋の眼という品がクラピカさんにとって代えの利かない大切な物であることも理解できた。直接的な面識はないが、ゴンたちの友人からの頼みを無下にはできない。まずはこちらからゼンジ氏に連絡を取り、何とか交渉できないか話を……
『そんな悠長なこと言ってる時間はねぇんだよ! 話が通じる相手じゃねぇ! 早くしないと緋の眼が潰されちまう! あと1分もないかもしれねぇ!』
1分て。交渉する時間なんかない。どうすればいいんだと考えていると、煮込んでいたシチュー鍋が吹きこぼれ始めた。はわわわわわ。
『どうか後生だ……依頼料ならいくらでも払う。あいつの形見の品を守ってやりてぇんだ……!』
最終手段を考えるなら、護衛依頼そのものをこちらでなかったことにするという手もある。だが、それは傭兵としてあるまじき行為だ。
特別な理由もなく一方的に契約を解除すれば傭兵団としての信用を完全に失う。まあ、今もそんなに信用があるわけではないが……団の根幹を揺るがす事態になることは間違いない。傭兵を名乗る以上、外聞よりも矜持の問題として容認できない。
ルールを崩さず、それでいてレオリオとクラピカを救う手段とは何か。
残念ながら、そんな都合の良い方法は思いつかなかった。
* * *
レオリオたちは帰還した。ゼンジの手には、まだ緋の眼は渡っていない。
「へっ、どうやら間に合ったみたいだな」
「ばかたれ。もう5分なんぞ過ぎとるわ」
レオリオが来るまでアイクが引き渡しを渋って延ばしていたのだ。帰ってきたレオリオの姿は特に何も変わっていなかった。強いて言えばクラピカを背負っていない。その役はセンリツが引き受けていた。体格差の問題で若干、引きずっているが。
「すまない、センリツ、レオリオ……」
「いいのよ。後は私たちに任せて」
クラピカは意識を取り戻していた。だが、目が覚めただけで体はぴくりとも動かせない状態だった。全身のオーラを使い果たしている。少しでも気を抜けばまた意識を失ってしまうだろう。絶望的な状況に変わりはない。
「心は決まったか?」
「ああ、ばっちりな。まず一つ目!」
レオリオは勢いよくアイクを指さした。
「ゼンジの治療費として緋の眼を渡してもらう。もちろん一対、完品でだ」
ゼンジは鼻で笑って済ませた。到底聞けない相談である。しかし、次にレオリオがゼンジを指さし放った言葉により顔色が変わる。
「そして二つ目! これからオレが、お前の腐り切った根性をたたき直してやる。もう二度とくだらねぇ逆恨みで復讐なんざ思い立たないようにな」
これには落ち着き払っていたゼンジも腹に据えかねた。命の恩人の一人であるレオリオの言葉だろうと許せるものではない。彼が合図を送ると組員たちが戦闘態勢に入った。
「てめぇが物を知らねぇ青二才だってことはよくわかった。勝ち目がないとわかりながらも歯向かうと?」
「確かにオレ一人じゃどうにもならねぇ。だから助っ人を呼んだぜ」
訝し気にゼンジが首を傾げたそのとき、異変はにわかに生じた。アイクの背後に一匹の猫がどこからともなく現れる。その猫は俊敏な動きでアイクの手から緋の眼のケースを掠め取った。
『ニャ!』
「なっ……!?」
予想外の事態とはいえ武道の達人であるはずのアイクが遅れを取ることなどそうそうない。しかしその猫の念獣は、ある人物が遺した死後の念だった。亜人型キメラアントの護衛軍の一角、この世界の歩む歴史が少しばかり違っていればアイザック=ネテロと相まみえていたであろう強敵。
疾風のごとき身のこなしはアイクをもってしても不意を突かれるほどだった。彼女は瞬時に千百式観音を発動させようとするが思いとどまる。使えば猫と一緒に緋の眼まで破壊してしまいかねない。シズクと共に解毒剤まで粉砕してしまった先ほどの二の舞である。
「チェル!」
「応――おうっ!?」
アイクはチェルの重力操作に捕捉を任せようとした。そこへ赤い閃光が空を裂きながら肉薄する。チェルが回避した直後、彼女が立っていた場所が砲撃を受けたかのように弾け飛んだ。赤い槍がアスファルトを深く抉りながら突き刺さっている。
よく見れば、それは槍ではなかった。全長2メートルほどの細長い甲虫だ。ナナフシのような形をした赤い甲虫がギチギチと牙を鳴らしている。
チェルはずっと円を展開し続けていた。この甲虫の一撃も接近を事前に察知できていた。その上でギリギリ回避が間に合うかどうかという凄まじい速度の攻撃だったのだ。この虫を“誰が投擲したか”チェルとアイクには心当たりがあり過ぎた。
「なぜおぬしがここにおるのじゃ、メルエム……!」
濡れた大地が蠢いた。大きさ1ミリ程度の赤い蟻の大群が地を埋め尽くす勢いで押し寄せてくる。その群れを踏みつけながら一人の少女が姿を現した。赤と黒を基調としたドレスのスカートをつまみ、優雅にカーテシーを披露する。遠目に見れば美しさが目立つ姿も、近づけばそのドレスが何でできているかに気づき恐怖することだろう。
「仕事だ」
緋の眼を奪った猫はメルエムの足元に駆け寄っていた。彼女の放つ円がチェルの円と拮抗する。せめぎ合うように二つの円がぶつかり合い、歪な境界面が発生する。だが、メルエムにとってこれは挨拶程度の牽制だった。本気を出せば周囲数キロを円の支配領域に取り込む事が可能である。
チェルは動きを封じるために重力操作を行使する。敵を円に取り込まずとも目視できる範囲なら問題なく発動できる。しかし、放たれた魔眼の重圧は見えない力にぶつかったかのようにあらぬ方向へと逸らされた。
「そのような児戯で余をひざまずかせようとは、笑止」
メルエムは特別な技を使ったわけではない。凝によりメルエムに視線を合わせようとしたチェルをただ睨み返しただけだった。その絶対的強者の気迫がチェルの生物本能に働きかけ、無意識の内に視線の焦点を逸らす結果となった。
この怪物を超えた怪物がなぜこの場所にいるのか。先ほどのレオリオの強気な態度を見ればおおよそのことは推測できた。レオリオの言う助っ人とはメルエムのことだ。カーマインアームズに渡りをつけた彼は、アイクとチェルを止めさせることはできなかったものの、代わりに強力な助っ人を派遣してもらったのである。
メルエムは自分の細胞が一つでも存在する場所であれば、そこに本体の位置を設定し、1キロ圏内に念人形体を瞬間移動させることができた。瞬間移動系の念能力者を食って得た能力を応用したものである。チェルたちの体内に忍び込ませていた細胞を基点とすれば母艦からでも一瞬でここまで来れた。
別にピトーを使って緋の眼を奪わせずとも、メルエム本人がアイクの背後を取ることすら可能だった。むしろその方が簡単だっただろう。わざわざこのような回りくどい登場の仕方をしたのはレオリオとアイクたちに対する最低限の配慮である。
かくしてメルエムは来た。レオリオはメルエムの助力を得て、アイクとチェルは全力で護衛任務を遂行する。これなら理論上は契約違反に当たらない。二つの難題を両立させたクインの采配だった。チェルたちの脳裏には、良い仕事したと汗をぬぐうクインの顔が思い浮かんだ。
「んなわけあるかああああ!! 何やってんだよ団長ォオオ!?」
「ふぁっく!」
誰がどう考えても詭弁である。特に、最終兵器と戦わせられるアイクたちからすればたまったものではなかった。
「よっしゃあ! とりあえず緋の眼は確保だ! 次は戦闘の方をよろしく頼むぜ!」
「ふむ、久々に喉が鳴るな。何せ、あやつらの脳みそはいくら食ってもなくならない」
「鬼! 悪魔! キメラアント!」
いきなり現れたメルエムとその強さには驚かされたが、正直ここまで事がうまく運ぶとは期待していなかったレオリオはガッツポーズを取る。メルエムが放つオーラは人間一人に扱える次元を超えているとしか思えないほどだった。
彼女が操る膨大な数の虫の一匹に至るまで規格外のオーラが込められていると一目でわかる。敵ならば絶望するしかない相手だが、味方ならこれほど心強い存在はない。それに対するアイクは覚悟を決めた様子でオーラを研ぎ澄ました。
「こうなればこちらも死力を尽くすまでよ。わしが目指した武の極みとは、敗色濃い難敵にこそ全霊をもって臨むこと。見せてやろう、千百式の千百を」
ただの気迫、何ら害意も込められていない自然体のオーラがそこに存在するだけでアイクの周囲に破壊痕を刻み付け始める。それは呼吸から生ずる心臓の鼓動、その活力は血と混ざりあい、全身に行き届く生命の音色。それら命の働き全てが勁となり体内に収まり切れず溢れ出す。力をぶつける相手を探すように大気を走る。
「やべぇ! こいつらが戦ったら地形が変わる! みんな逃げろぉ!」
チェルがマフィアたちを逃がすために声をかけた。ついでに自分も逃げようとした彼女の首根っこをアイクはつかんで引き留める。アイクの表情は煩悩を払拭したかのような厳かなオーラに満ちつつも、道連れの逃走を見逃しはしなかった。
アイクの戦意を目にしたメルエムは不敵にほほ笑んだ。メルエムにとってアイクは正面から本気で戦いを挑み続けてくる数少ない敵(とも)と言えた。それを除けば軍議友達の少女くらいしか他にいない。悪い気はしなかった。
「よくさえずる老兵だ。すぐにそんな元気も出なくなるほど遊び倒してやろう……
と、言うとでも思ったか、愚か者」
メルエムは張り巡らせていた殺気を解いていた。