キネティとズシは修練場にて組手を行っていた。だが、その動きは非情に遅い。あえてゆっくりとした動作の中で精密にオーラを制御する技術を磨く組手“流々舞”である。
「遅い動作でできないことが速くしてできるわけがありません。焦らず正確に相手のオーラを目測し、それに合わせたオーラ量で互いに攻撃と防御を行うように」
流々舞は『流』を鍛える基礎訓練である。念法の基本にして奥義と呼ばれる応用技だ。これを使うには最低でも『堅』と『凝』をある程度のレベル習得していなければ話にならない。つまり、キネティはウイングの目から見ても次の修行段階に進むに足ると言えるほどの技術を身につけたということだった。
素早く目にオーラを集める凝の技術を仕込み、そこから発展して体の各部に凝のオーラを巡らせる流の修行に入っていた。午前中は流々舞、午後からは堅の持続時間延長訓練というメニューだ。
まだ天空闘技場に来て1か月余りしか経っていない。既に念を覚えており下地はできていたとはいえ恐ろしい成長速度である。スポンジが水を吸うように教えられたことを覚えていく。
普通はどれだけ熱心に修業に打ち込もうと、その日10覚えたことを次の日も10覚えているということはない。一日の特訓で体に沁み込む感覚には限度がある。もちろん個人差はあるが一晩経てば、残っているのは3か4程度だろう。
その3の感覚はさらに日を越せば1になる。技術は絶えず身体から抜け出ていく。はっきりと言語化することも難しいあやふやな身体感覚は、知識を頭に入れるよりも定着させることが難しい。とにかく毎日修行に取り組むしかない。少しでも多く次の日に持ち越すため繰り返し体に覚え込ませる。
その日できたと思ったことが次の日にはできなくなっているなんてことは当たり前だ。進んでは下がり、進んでは下がり、前進と後退を繰り返し、すぐ目の前に見えているような場所にすら到達も困難な途方もない道のりである。武を志す者のほとんどがその苦行に堪えられず楽な方へと流れていく。
キネティはその技術の“定着化”に長けていた。それは彼女が持つ感性に由来するものだろう。日々、自分という作品を見つめ直し、作り直していく。より完成された作品へと生まれ変わる。10覚えたことを10覚えてくるのだ。成長もするはずだった。
「ズシ、オーラが乱れていますよ」
「押忍!」
ズシにしてみれば嘆きたくもなる。念を覚えてからというもの、血の滲むような修行に明け暮れてきた。ようやく200階級闘士となり、夢の展望が開けてきた頃合いだった。まだまだ未熟さを自覚しながらも、強さに自信を持てるようになってきたところだった。
キネティの成長を喜ぶ気持ちはある。同じ師のもとで学ぶ弟子として誇らしくもあった。だが、人の感情はそう簡単に割り切れるものではない。今のキネティの強さに至るまで、自分がかけた時間を考えれば拘泥たる思いを抱かずにはいられなかった。
ゴンやキルアと出会った時もそうだった。自分が苦労した時間は何だったのかと思うほど簡単に周りの人間は頭上を飛び越えていく。悔しくないわけがない。焦るなと言う方が無理な話だ。
「ズシ!!」
ウイングが珍しく怒声を飛ばす。その声に身がすくんだ時には遅かった。雑念に気を取られたズシはオーラの制御に粗が出ていた。
流々舞は同程度の実力者同士で行ったとき最も効果が出やすい訓練法である。いかに急成長を遂げているキネティでも、ズシと比べればまだ実力は発展途上だ。そのためズシはキネティのレベルに合わせてオーラを制御していた。
これではズシにとってあまり有効な訓練にならないのだが、もともとウイングから2か月の念使用禁止を言い渡されていたので、あくまでこれはキネティのための協力だった。だが、キネティがめきめきと腕を上げていることにより、徐々に実力差が縮まりズシも組手中にひやりとする場面が何度か出始めていた。
練習組手と言ってもオーラを使った技の応酬には変わりない。どんなにゆっくりとした技であっても、それを受ける側もゆっくりとしか動けないため不思議とその一手に驚かされる場面がある。まさにこの時、キネティが放った攻撃は、わずかに集中を欠いていたズシの隙を突いていた。
だが、ズシはそれを問題なく防ぐ。しくじったのはその先だ。反撃の一手に力を込めすぎた。ズシの拳がキネティの右肩を捉える。彼女はそれを受けきれなかった。バランスを崩して倒れ込む。
「止め!」
ウイングがすぐに止めに入る。ズシの顔は青ざめていた。取り返しのつかないことをしてしまったという実感がある。そんなに威力を込めたわけではなかったのだが、彼の拳には生身の肌を打ったとは思えない、陶器を砕いたかのような異常な感覚が残っていた。
「ご、ごめんッス! 大丈夫スか、キネティ!?」
「大丈夫、何ともないですぜ」
キネティはすぐに立ち上がって平静な様子を見せた。その言葉に偽りはない。アイクと修行していた頃は原形が崩壊するまで殴られていたので、このくらいのことでは動じなかった。むしろズシはキネティに気を使いすぎる節があり、もうちょっと打ち込んできてくれてもいいのにと思っていたので丁度よかった。
「キネティ、その顔……」
だが、ズシとウイングはただならぬ様子でキネティの容体を心配する。それもそのはず、肩口から受けた衝撃により彼女の“念人形”には表面にヒビが入っていた。そのヒビが顔にまで達していたのだ。キネティはそれを触って確認すると、慌てて修復に取り掛かる。
すぐに傷は塞がり、元通りになる。このくらいの傷であれば短時間でなおせた。しかし、ただの人間とは思えないその現象をズシたちは見なかったことにはできない。何と説明すればいいだろうかとキネティは答えに窮していた。
念人形だと明かしたとしても、では術者本人はどこにいるのかという疑問は当然わく。ウイングたちが信頼のおける人物であると彼女も今では思っているが、それでも事情を全て話すことには抵抗があった。
「本当に、体に異常はないのですね?」
「は、はい」
「ならば深くは聞きません。おそらく発によるものでしょうが、念能力者にとって発の情報は軽々しく他人に話すべきものではない。親しい関係でも詮索しないことがマナーです。いいですね、ズシ」
「押忍!」
ウイングは話すかどうかの判断をキネティに任せた。すいませんと謝りながら笑ってごまかそうとするキネティの態度に思うところはあったが、無神経に聞き出すようなことはできない。
キネティの内心を占める感情は暗く沈んでいた。それはウイングたちに対する後ろめたさも少しはあったが、ほとんどは自分自身の弱さに向けられたものだった。
半年前の彼女であれば今のズシの攻撃で肌に傷がつくようなことはあり得なかった。それは彼女の体を構成する材質の差によるものだ。今のキネティにオーラを金属化させた『賢者の石』は使えない。それまで主体としていた戦法を捨てざるを得なかった。キメラアントとなり、アルメイザマシンを使えないという誓約を負った彼女は確実に弱くなっていた。
* * *
それから一週間後。現在、キネティの戦績は150階級付近で落ち着いている。一度190階まで行ったこともあったが、すんなりと上にはあがれなかった。今の彼女なら、手段を選ばず勝ちを狙えば200階に到達してもおかしくない実力があるとウイングは思っている。
しかし、彼女は試合に勝つことよりも試合から学ぶことを重視していた。本気で闘っていないわけではないが、勝ちに拘ってはいない。身のこなし、足運び、視線の動き、攻撃の捌き方、防ぎ方、可能な限り多くのことを学び取ろうとしている。そしてその対処法を一度の経験で体に定着化させていた。
まだしばらくはこの調子で修行を続けるつもりだった。その方が金を稼ぐ上でも都合がいい。今日の試合は150階級で勝利し、1千万のファイトマネーを得ている。いつものように口座に振り込んで修練場に来ていた。
「はい、そこまで。休憩しましょう。絶でオーラの回復に努めるように」
今は堅の訓練をしていた。ひたすら堅を維持し続け、使用可能な時間を伸ばす修行である。多くの場合、堅の使用可能時間が戦闘可能時間と言い換えることができる。これを伸ばすためには、ひたすら発動を維持し続ける訓練を積むしかない。
未熟な使い手では2分と持たずオーラ切れを起こしてしまう高度な技だが、実用レベルで使いこなすには最低でも平静状態で30分の持続発動が求められる。さらに戦闘時は堅に加えて様々なオーラの消費が加算されるため、実質的な持続時間は平静時の6分の1程度にまで落ち込んでしまう。
ぶっ倒れるまでオーラを使い切ってしまう方が一度の訓練で得られる効果は高いのだが、それだと体調とオーラの回復に時間がかかってしまうし精神的にも後が続かない。ウイングはキネティのオーラの様子を見ながら適度に休憩を挟み、断続して堅を使わせていた。その間、ズシは拳法の型の練習をしている。
「最近はずっと凝と堅と流の修行ばかりですが、他の応用技とかは修行しなくていいんですか?」
「まだその段階ではありません。今はひたすら基礎を磨きなさい」
最初の頃は休憩に入ると疲れ切った様子でへばっていたキネティは、今では汗をかきつつもこうして普通に会話ができる程度には慣れてきていた。その持続時間は最大で1時間を超えるようになっている。順調すぎるほどに修行は進んでいるが、キネティはまるで満足していなかった。
「そうですね、知識としてどんな応用技があるかくらいは教えておきましょうか。キネティは具現化系でしたね?」
キネティはすぐに玄翁を具現化してみせた。ウイングはそれを見て自分の胸ポケットからボールペンを取り出す。
「武器を具現化するタイプの使い手にとって必須と言える応用技が『周』です」
物体をオーラで補強することで威力や頑丈さを高める。その強化率は物に対する思い入れが強いほど高まる。そもそも思い入れが強くなければ物の具現化はできないので、その点では具現化系と相性の良い技である。
ボールペンを周で強化したウイングを見て、キネティも真似してやってみた。『纏』の延長線として触れた物にオーラを纏わせることは比較的容易なため、応用技の中でも難易度自体は低い。キネティは既に感覚的にこの技を習得していたので難なく使用できた。
「できましたね。では次は少し難しい技を見せましょう。オーラの気配を消して見えにくくする技、『隠』です。これも具現化系なら覚えておいて損はありません」
キネティはウイングの持つボールペンの気配が希薄になっていく光景に驚く。技を使うところを見ているのでそこにあるとはっきりわかるが、何も言われなければボールペンの存在に気づかなかったかもしれない。まるで意識に空白が生じているかのような捉えがたい現象だった。
「眼の精孔が開いた能力者はオーラを目視できますが、これは光学的な現象として認識しているわけではありません。オーラには“気配”があります。それを眼で感じ取っているのです。この気配だけを絶の応用により遮断することで、オーラが有るにもかかわらず無いように見せかけることができます」
オーラそのものやオーラから形作られた物はこの隠により気配を消して見えなくすることができる。具現化系はこの技による恩恵が大きいため習得している者は多い。だが、キネティもさすがにこれを初見で発動させることはできなかった。
ウイングは説明しなかったが、具現化したわけでもないボールペンに隠を施したその技は『実体隠』と呼ばれる。物体を周で強化し、そのオーラにさらに隠を施す高等技術である。術者本人そのものを隠し、絶に見せかけるという使い方もある。ただし、これは隠の本来の使用法である『念体隠』に比べて精度がかなり落ちるため、目くらましなどと併用しなければ実戦では使い物にならない。
「隠は恐ろしい技ですが、オーラが隠蔽された状態は非常に不安定で見抜かれやすくもあります。凝を使われれば絶よりも遥かに容易く看破されることでしょう。単体ではそれほど役に立ちません。隠を生かす戦術が重要になります」
隠に限らず、念による戦闘はどこから攻撃が強襲してくるかわからない未知の事態にあふれている。だからこその凝であり、いかにして凝を欺くかにかかっていると言える。
「どのような戦術を導き出すかは、あなたの能力次第ですね。さて、そろそろ堅の修行を再開しますよ」
普段のキネティであればすぐにウイングの言葉に従っただろう。しかし、彼女は何か思いつめた様子で具現化した玄翁を見つめていた。
「どうかしましたか?」
「あの、あっしの能力についてなんですが……」
念人形『自刻像(シミュラクル)』については話せなかったキネティだが、もう一つの能力である『像は石に(ト・キネートン・アキヌーン)』についてウイングに聞いてもらうことにした。
キネティは玄翁と鑿(のみ)を具現化することができる。鑿という刃がついた棒状の工具を玄翁で叩いて敵に打ち込むことにより、これらの道具に込められた特殊能力が発動する。敵の動きを彫像と化したかのごとく封じることができるのだ。
停止させられる時間は敵の抵抗力に比例して短くなる。強敵であるほど拘束時間は短い。しかし、止まっている間に鑿を打ち込めば再度動きを封じられる。鑿を突き立て続けることができれば敵を倒すまで動きを完封できるというわけだ。
「なるほど、敵が単独状態なら強力です。一気にオーラをブーストできるような強化系能力者でもない限り、一度捕まれば脱出は困難と。ふむ……」
「率直に言って、この能力どう思います?」
「別に悪くはないと思いますが、どうやら自分自身納得がいかないところがあるようですね。さしずめ格上相手には通用しない、という点でしょうか」
ウイングは的確に弱点を見抜いていた。まず、鑿を構えてその柄尻をハンマーで叩き、それを敵に当てるという動作は隙が大きすぎるし、明らかに何かを仕掛けてくるものと気づかれる。このような必殺技特有に定めた動作は制約として能力を強化する効果があるため一概に全てが悪いとは言えないが、当然何らかの方法でその隙はカバーする必要が出てくる。
また、拘束時間はキネティと敵のオーラ顕在量の差から算出される。格下が相手なら楽に動きを封じられるが、格上となると途端に難易度が跳ね上がる。まず一撃目を当てることからして難しいというのに、追撃に失敗すればさらに大きな隙を晒すことになる。
強敵であればあるほどに、一度能力の効果が露見してしまえば最大の警戒を払ってくるだろう。二度もおとなしくひっかかってくれるとは思えない。つくづく弱い者いじめじみた能力だった。
実際に、この能力を作った当時のキネティはそうだったのだろう。自覚はしていなかったが、うぬぼれていた。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかという苛立ちと、特別な力を手に入れたという全能感が混ざり合い、他者を見下し虐げることで歪んだ芸術性を満たそうとしていた。
あの頃とは何もかも違う。賢者の石のオーラ増強効果を使えなくなったキネティは失った力の大きさを思い知った。オーラの出力も念人形の耐久力もがた落ちし、体はちょっとした攻撃でも簡単にヒビが入り砕け散る。
キメラアントの師団長マンティスを相手取った闘いが嘘のようだった。当時は何も考えずに倒していたが、今にして思えばとんでもないレベルの強敵だった。いくら願ったところであの頃の力は戻ってこない。
一度作った念能力を作り直すことはできない。作品を失敗するのとはわけが違う。どうしてこんな能力にしてしまったのか、せめて何も作らず保留にしておけば今の自分に合った能力を作れたのではないかという後悔があった。
「まだ修行はこれからなのですから、そんなに落ち込むことはありませんよ。あなたの能力も使い方次第です。傭兵としての強さを求めるのであれば闘士のように一対一に拘ることもない。例えば仲間のサポートに回るか受ける形を取れば十分に活躍できるでしょう」
サポートに回る、あるいは受ける。そんな状況があるだろうか。もしあるとすればそれはただのお膳立てだ。チェルもアイクもメルエムも、キネティの助けを必要とするような使い手ではない。果たして自分がこの傭兵団に身を置く意味はあるのだろうかとキネティは思い悩んでいた。
「カキン帝国ってあるじゃないですか」
「ええ、ありますね。近年経済成長が目覚ましいあの」
「そこで何かあるんですか?」
「何か……? うーん、特にニュースになるようなことはなかったと思いますが」
キネティは詳しい話を聞かされたわけではなかったが、どうやらカキン帝国の関係で傭兵団に大きな仕事が入ってきたらしい。あのお気楽団長がいつになく真剣な様子で何度も会議を行っていた。何となく首を突っ込んではいけない雰囲気のようなものをキネティは子供ながらに肌で感じていた。
そんな中、キネティは天空闘技場での初任務を与えられた。自分から志願した経緯はあったが、もしかするとそうなるように仕向けられたのではないかというかすかな疑念が日に日に強くなっていく。
見放された、捨てられたとはさすがに思えなかったが、一時的にキネティを団から遠ざける理由はあったのかもしれない。出立の見送りの際、チェルはキネティに外の世界を見て色んなことを勉強してこいと言っていた。
それは傭兵として以外の生きる道にも目を向けよというメッセージだったのではないか。チェルに悪意はなかったとキネティも信じている。それでもネガティブな方向へ考えずにはいられなかった。
もしキネティが団を抜けたいとクインに申し出れば、きっとその意思は尊重されるだろう。そこで放り出すようなことはせず最後まで世話を焼いてくれるだろう。全くの善意だ。いっそ邪魔者扱いされた方が未練を断ち切れたかもしれない。だからこそ、キネティは辛かった。その最善と思われる選択を取れずにいた。
「先ほども言いましたが、あなたの能力が悪いわけではありません。どんな能力にも長所と短所があります。強いて欠点を挙げるとすれば、その未熟さです。誰しもが技を磨き、経験を積む過程で自分の力に合わせた最適な行動を取れるようになっていきます。今を嘆く暇があったら努力しなさい」
ウイングはあえて厳しい言葉をかけた。キネティが慰めや気休めの言葉を求めているのではないと悟ったからだ。その気持ちは理解できた。全ての武人が通る道だ。乗り越えなければならない最大の試練なのかもしれない。
見上げれば、自分よりも強い者などいくらでもいる。決して届くことはないと諦めそうになる壁がある。まるで自分がちっぽけな存在で、これまでやって来たことの全てが無意味だったのではないかと思える瞬間がある。
「それでも努力しなさい。何もしなければ、たとえあなたがどんな人生を歩んだとしても必ず今以上の後悔がつきまとうことでしょう」
その先に進むことができた者だけが強者に成り得る資格を与えられる。顔を上げたキネティに、ウイングはどこか抜けたところがあるいつもの笑顔を向けていた。
「さあ、堅の修行を続けますよ。まだ先の話になりますが、実戦向けの応用技をある程度使いこなせるようになれば発の系統別修行も追加していきます。具現化系能力の精度も高められるようになるでしょう。修行内容もハードです。そこからが本当の地獄だと覚悟してくださいね」
「……はい!」
キネティの練り上げた堅のオーラは心機一転するように力強く滾っていた。その様子を見て、ずっと心配そうに上の空で拳法の練習をしていたズシも一安心して修行に打ち込む。ウイングも自分の言葉だけでキネティの葛藤を払拭できたとは思っていないが、ひとまず前を向かせることはできただろうと安堵していた。
* * *
「はぁ……ついに来やしたか」
その日、170階級の試合で負けたキネティは受付で一通の書類を渡されていた。ファイトマネーは勝者のみにしか与えられないので普通は負ければ何も渡されずに済まされるのだが、今日はなぜか負けた試合であるにも関わらず審判から受付に行くよう告げられたのだ。
その時から嫌な予感はしていたのだが案の定だった。書類の内容は注意勧告文である。数日前に行われた190階級の試合において不当に実力を低く偽り、同階級帯に残留しようとした疑いがかけられていた。
実際にキネティは修行と金目的で試合に臨んでいたため、あわよくば負けたいとは思っていた。そのような試合はこれが初めてのことではない。天空闘技場の審査部はそれを把握していたが、人気闘士ということもあってこれまではお目こぼしを受けていたのだ。
だが、さすがに目に余るようになってきたということだろう。もう一度、同じ警告を受ければ退塔処分が言い渡され1年間の出場停止となる。それが嫌ならまじめに試合で勝って200階に上がるしかない。
書類には重々しい文面が記されているが、要するにちんたらしてないでさっさと上に行けという尻叩きである。それほど深刻に捉えるようなことではない。ウイングからもいつか通知が来るだろうと予告はされていたので動揺もなかった。
今の階級は160階クラスだ。あと3試合分のファイトマネーで稼ぎは打ち切りということになる。さすがに退塔処分にはされたくないので手加減するつもりはない。本気で臨めば負けはないだろうと軽く思えるくらいには実力をつけていた。
キネティにはフロアマスターを倒すという課題があるのでどのみち200階には行く予定だったが、稼ぎも一つの目的だったため一応はクインに報告しておく必要があるだろう。キネティは公衆電話をかけに向かった。
「キネティ!」
エレベーターで1階の観客用エントランスに来たキネティは、そこで知らない男から声をかけられた。もっさりとした金髪の男でくたびれたスーツを着ている。闘士として知名度が上がってきたキネティは、たまにこうして見ず知らずの人から声をかけられることがあった。
しかし、ファンというにはどこか異質な雰囲気だった。他の観客たちの目も気にせず大声で彼女の名を呼び止めたかと思うと走ってこちらに向かってくる。
「キネティ! ああ、良かった! やっと会えたね! 随分探したよ……!」
いきなり抱き着こうとしてきた男をかわして何事かと警戒心を強める。
「ああ、ごめん。そうだね、僕のことは覚えていなくてもおかしくないか。キネティはまだ小さかったからね……パパだよ。僕は君のパパだ、キネティ」
突然の告知をすぐに噛み砕いて飲み込むことはできなかった。キネティはこれまで自分の父親のことを知らずに生きてきた。母親が一人で彼女を育てていたからだ。何も語ろうとしない母親に、キネティも聞き出すことはできなかった。
分別のつく年頃となったキネティは離婚でもしたのだろうと予想はしていた。昔は父親のことを知りたいと思ったこともあったが、今となってはそんな気も起らない。思いもよらない遭遇に戸惑う気持ちの方が強い。
「ずっと君のことを探していたんだ。天空闘技場にいるという話を聞いて駆け付けたのさ」
本名で闘士名を登録していたため情報が伝わったようだ。カーマインアームズとのつながりさえバレなければ本名でも問題ないだろうと考えていた。キネティという名前は確かに珍しいし、容姿だっていくらでも撮影されている。
そこまでして探し出そうとしてくれたことに一定の感謝はあったが、しかし今後予想される話の展開を思えば素直に喜べなかった。
「今まで苦労させてしまったね。さあ、帰ろうキネティ。これからはパパと一緒に暮らそう」
そうなるだろう。でなければわざわざこんなところに来るわけがない。キネティは首を縦に振らなかった。
「ど、どうしたんだい。もしかして、本当のパパかどうか疑っているのかい? それなら安心してくれ。国際人民データ機構に照会すればすぐに僕たちの親子関係は証明できる」
本当に親子であるかどうかは大した問題ではなかった。離婚した経緯についても問いただす気はない。キネティの感情は“今更”という一言に尽きた。
「どうして今になって?」
「……見つけ出すのが遅くなってしまったことは申し訳ない。本当はママと別れてしまったことも本意ではなかった。これまではずっとその気持ちを押さえつけてきた。それが家族のためだと思っていた」
男は訥々と語る。キネティとその母親がスカイアイランド号事件に巻き込まれて行方不明となったことを知り、その生存が絶望的であると理解しながらも諦めきれなかったことを。男は仕事を止め、二人の捜索に全力で当たっていた。
「ママは、どうなったのか、聞いてもいいかい、キネティ」
隠すべきことではない。キネティは正直に母親の死を伝えた。男は顔を伏せ、静かに泣き始める。
「そうか……辛いことを思い出させてしまったね。これからは君のそばにパパがいるよ。不自由はさせない。二人でアトリエのある家に住もう。君の作品を待ち望んでいる人たちがたくさんいるんだ」
キネティはその言葉にひっかかりを覚える。彼女は世界的なコンクールで入賞するほどの作品を残してはいたが、まだ子供ということもあり一人の芸術家として広く認められていたわけではない。
「そんなことはない! 事実、作品を買い取りたいと願い出る美術商はいくらでもいる。みんなが君の才能を認めているんだ。パパも全力で応援するよ。さあ行こう、もうこんな危険なところにいる必要は……」
「お断りしますぜ」
これまでキネティは父親に対して愛情や憎しみと言った感情を持っていなかった。もはや二度と会うこともないだろうと思っていた、ただの他人だ。だが、この男と会うことによって無色透明だった彼女の感情が色付いたことは確かである。
父親を名乗る男にキネティは、ただただ不快げな視線を向けていた。
「な、なにを言って……」
「下手な演技までしてご苦労なことで。子供だから簡単に騙せるとでも思いやしたか?」
感極まった様子で泣いていた男だが、その目に涙が浮かんでいないことをキネティは見抜いていた。そして男が金の話を匂わせ始めた途端、その感情の揺らぎが頭頂から立ち上るオーラに表れたことも看破している。それは自らの妻の死を知らされた時よりも大きな波だった。
敵を惑わそうと命がけの策を弄してくる闘士たちの試合に身を置くキネティから見れば、粗末な演技と言わざるを得ない。全てが嘘というわけではないだろうが腹に一物抱えていることは見え透いていた。
親子関係については真実だろう。調べればすぐにわかることだ。大方、キネティを引き取ることで彼女の作品を売りさばき、その利益を得ようとしているものと思われる。闘士としての活躍も知っているものと考えれば、そのファイトマネーをついでに自分の懐に入れようと画策していてもおかしくない。
「既に一生遊んで暮らせるほどの金があるので、あなたの世話になる必要はありませんぜ。それでは」
「ま、待ってくれキネティ!」
ファイトマネーはほとんど団の口座に振り込んでいるのでキネティ個人の金というわけではないが、わざわざそんなことを言うまでもない。けんもほろろに立ち去るキネティを引き留めようとする男だったが、その手が触れるより前に殺気が放たれる。
「二度と来ないで」
目の前の少女は背中を向けているにもかかわらず、男はまるで首筋に刃物を突き付けられたかのような威圧を受けて指一本まともに動かせない硬直に襲われていた。纏ができない一般人に受け流せる殺気ではない。
仮にキネティの推察が間違っていたとして、あるいは金の問題は別としてこの男にキネティへの愛情があったのだとしても、彼女の答えが変わることはなかった。今の彼女はカーマインアームズの一員だ。生まれ変わり人間ですらなくなった彼女にとって、その男は血のつながりもない赤の他人に過ぎない。
「キネティ……」
男は遠ざかっていく少女の背中を見ていることしかできなかった。その視線は、実の娘に向けたものとは思えないほど薄汚れた執着にまみれていた。