11話
生まれて初めて見る海。知識にはあったが、実際に見るとスケールが違う。この海はメビウス湖と呼ばれているらしい。暗黒大陸に囲まれた巨大な塩水湖だ。その湖の中心に、守られるようにして人間の生存圏が存在する。
途方もない話だった。何十億という数の人間が暮らす大陸は小島でしかなく、その世界を囲む広大な海は湖でしかない。もしかすればこの暗黒大陸も、その“外側”から見れば取るに足らない小さな世界なのかもしれない。まるで宇宙のような広がりの中にいる。
だが、確かに人間は存在している。サヘルタ合衆国調査隊の足取りから、おそらくここがメビウス湖であると断定していいだろう。この湖の先に、人間の世界がある。
欠片も展望が見えなかった私の目標が、かすかに現実味を帯びてきたように思えた。
* * *
海沿いの探索を開始する。第一に確認すべきは危険生物の有無だ。さっきのカニの件もあるので油断はできない。波の音だけが響く静かな浜辺を歩いて行く。
海藻が砂浜に打ちあげられていた。見た目は昆布に近い。昆布は出汁を取るのに使われるほど旨味成分を豊富に含んだ海藻だ。おいしいのだろうか。
しかし、相手は暗黒海域産の昆布だ。陸の植物とはまた違った抵抗感がある。念のため、『仙人掌甲(カーバンクル)』で作ったサボテンの棘で突っついてみる。
つんつん……
グチョォ……
「うわぁ……」
どろどろした透明の粘液が出てきた。糸を引くような粘性のある液体は、次第に白く変色し始め、ゼリー状に固まってきた。素手で触らなくてよかった。
ぬめり昆布は放置するとして、気を取り直し、これからの行動計画を立てることにする。
やはり、必要不可欠なのは航海手段だ。船はもちろんのこと、航海に必要な器具、コンパスや地図海図、操縦技術と船員の確保。あげ始めればきりがない。
そのほとんどが現状では入手不可能であることはわかっているが、何しろこれから渡ろうとしている海は暗黒海域だ。およそ万全の準備を整えられたとしても無事に渡航できる保証は全くないだろう。
人間の生存圏に近い海を「人類領海域」と言い、その外側は「未開海域」と呼ばれている。人類が制覇できていない未知の海である。そして、そのさらに外側、「限界海境域」を越えた先に「暗黒海域」はある。外側になるほど危険が増していくことは言うに及ばない。
それでも、人間は調査団を作り、暗黒大陸まで派遣することに成功している。比較的安全に航海するルートは見つかっているのだろう。船を入手するだけではなく、そういったルートを知った先導者がいなければ航海は難しい。
調査隊がどこに上陸したのかわからないが、おそらくかなり昔のことである。もう船は残っていないだろう。一応、探してみるが期待はしていない。これ以上の手がかりを見つけることは難しいと思われる。
船を自作するとしても、私は造船知識など持ち合わせていない。イカダ船を作るのがせいぜいである。わずかばかりの水と食料を積みこんで海へ出たところで漂流するだけだ。船が無事に原形を保っていられるのは何日ほどだろうか。
自力脱出は不可能であると判断した。調査団の船を見つけ、それに同乗させてもらうことが唯一の脱出方法である。
だが、この広い海の中、運良く調査団の船と出会う確率はいったいどれほどあるというのか。あくまで漂流して遭難するよりは可能性があるというだけの話である。
その上で一応の考えはあった。船を探すのではなく、船を着けられる場所を探すのだ。
調査の性質上、長期間に渡って船を停泊させておく場所は必ず必要になってくる。それも危険生物に見つからず、安全に休める場所でなければならない。長い航海を完遂し、大量の人員を運ぶためには船の設備や大きさもそれなりの規模が求められる。それだけの大きな船を泊められる場所となれば条件がそろう場所はかなり搾られるはずだ。
人間の大陸から一般人が暗黒大陸渡航を希望したとしても、それが実現されるまでに膨大な資金と時間が必要となるらしい。その上、願い叶って上陸できたとしても安全が確保されたごく狭い範囲内を監視付きで行動することしかできない。
しかし、逆に考えればこの暗黒大陸において安全地帯が確立していることを意味する。どこかにそういう場所があるのだ。そしてその近くに船を泊められる港があるはず。
海岸線に沿って地道に調べていけば、いつかたどり着ける。何年かかるかわからないが、それでもゴールがあるのなら諦めずに進むことができる。どうせ一か所に留まって船を待っていようと歩きながら船を探そうと変わらないだろう。
決めるべきは進む方向だ。左回りか、右回りか。この選択によって港に至るまでの時間は大きく変わってくる。場合によっては途方もない遠回りとなるだろう。
かと言って、どちらが正解か知りうるすべもないし、適当に自分で決めるしかない。確か、こういうときはクラ、クラ……クラペカ理論だ。右か左かで迷ったときは右を選ぶと良かったと思う。その理由は忘れたけど。
自分の中で区切りをつけるための一歩。その行動が大きな発見へとつながることになる。
足元に、小さな白い物が落ちていた。普段なら見逃がして通り過ぎていたとしてもおかしくなかった。貝殻の破片か何かだと気にも留めなかっただろう。
半分以上、砂に埋もれたそれを拾い上げる。手のひらの上で転がせるほどの小さな丸い物体。前世の知識の中に同じものがあった。
これはペットボトルのキャップだ。
人類領海域からここまで流れ着いてきたというのか。それは考えにくいし、もしそうだとしても、ここまで来る間に摩耗しているはずだ。その痕跡がこのキャップにはない。真新しく、印刷された文字まではっきり読み取れる。
誰かがこの近辺にペットボトルを持ち込み、キャップを捨てたのか。その誰かとは誰だ。
浜辺に打ちあげられた一つのごみ、私の手の上にある小さな白いキャップは何物にも代えがたい宝に見えた。
* * *
船を発見した。
近くの砂浜をくまなく調べ上げていき、たどり着いた岩場。波に削られできた窪地に隠されるようにして大きな船が泊められていた。
私はその場から動けなかった。
様々な感情が頭の中でがんじがらめとなり、統一された思考にすることができない。それは『思考演算』を用いたところで解決できない問題だ。
過去、調査隊がこの砂浜の近くに上陸したことはわかっていた。だから、暗黒海域の中でも通りやすい渡航ルートがこの近くにある可能性はあった。もちろん、それを考慮して付近一帯を捜索するつもりでいた。
しかし、心の中では思っていたのだ。どうせそんなものは見つからないという先入観に支配されていた。『もしかしたらあるかもしれない、そういう希望的観測に期待すれば、なかったときの落胆も大きい』という、保身的感情さえ抱けないほどに信じていなかった。
それが蓋を開けてみればどうだ。停泊所が見つかったどころか、船まである。私はいまだ、現実を認められずにいた。
要するに、この事態を毛ほども想定していなかった。調査隊の船を見つけるという目標こそ掲げていたが、では実際に見つけた後どうするのか。長い旅路の中で考える時間はいくらでもあると思っていた。
まさに千載一遇のチャンス。これを逃せば次はないと思えるほどの幸運。ここから脱出できるかもしれない。夢のまた夢だと思っていた機会が今、目の前に、手を伸ばせば触れられるくらい近くまできている。
居ても立ってもいられなかった。今すぐにでも飛び出して、救助を乞いたい。その衝動を、何とか抑え込む。
人間にとって、私は危険度Bの脅威「キメラ=アント」だ。それは亜人型キメラアントに限った話だが、彼らにしてみれば私も似たような存在に見えるだろう。
正体がキメラアントだとバレなかったとしても、暗黒大陸にいるというだけで怪しまれる。何者かという話になる。私に敵対する意思はないが、向こうがどう捉えるかわからない。言葉を尽くして懸命に無害であることをアピールしたとて、信用してもらえるだろうか。
あるいは、こっそり船に忍び込むか。調査隊員は熟練の念能力者が多いだろうし、完璧に気配を隠しながら侵入することは難しいはずだ。仮に潜入できたとしても、航海中に発覚する可能性が高い。そうなれば、もはや友好を嘯いたところで信用されまい。間違いなく戦闘になる。
ならばいっそのこと制圧するか。相手が人間であり、念能力者であれば、私の持つ力は最大の効果を発揮する。高い確率で勝利することはできると思われる。武力をもって脅迫し、船を乗っ取る。
「……でき、ない」
しかし、その感情を手放しに肯定することはできなかった。私の精神の奥底で混ざり合った別の“私”が否定している。
それはルアンの持つ記憶であった。私は彼の記憶(データ)を引き継ぐことで抑制プログラムの操作方法を知ることができた。そのデータの九割九分がプログラムに関する知識についてであり、彼という存在が私の中で生きているわけではない。
だが、そのデータには余計な情報がわずかに付着していた。彼は魂魄水の泉に捕らわれる中で、ウイルスへの対抗手段を作り出すことを宿願としていた。その行動原理は敵への憎悪と、研究者としての利己的な探究心と、人類をこのウイルスから守り、仲間を救い出すという使命感に起因していた。
抑制プログラムは人類を救うことを目的として解析された情報であった。そのデータを受け継いだ私にも、彼の意思が根付いてしまっている。人間という存在を目の前にして、改めて私の中に残る彼の遺志が浮き彫りとなった。
ただ、それは私の意思を強制するほどの強固な縛りではない。あくまで自分の意思でねじ伏せることが可能な程度の強迫観念である。自分が危険な状況に陥ったときや、ウイルスの力を使う必要に迫られたときは、人間相手であっても使える。そのはずだ。
だが、まだ意思疎通もしていない段階で一方的にこちらから攻撃を仕掛けることは、果たして許されるのか。もしそういった強硬手段に訴えた場合、人間の大陸に到着した後は証拠隠滅のために乗員全てを殺害する必要もでてくる。そして殺した後、何食わぬ顔で人間社会へ潜伏するというのか。
それは“人間”として正しい行動なのか。人類という種の視点から見たとき、明らかに私は災厄(リスク)でしかない。私がこの暗黒大陸から出たいと思った理由は、安全な場所へ逃れるためだけではない。人間というものがいかなる存在かを知り、人間として生きたいと思ったからだ。
脱出のために最善と思われる合理的行動と、いまだ自分の中で確立されていない人間像との乖離。どうやってこの差を埋めればいい。『思考演算』をフル稼働して結論を求める。
いまだかつてないほどの思考加速をもってしても答えはでなかった。これが戦闘における論理的思考であるなら今まで数え切れないほどこなしてきた。たとえ到底敵わないほどの強敵であろうと答えを導き出せた。だから私は今、ここに生存している。
どうすればいいのかわからない。あと少しでこの大陸から出られる。その間際まで来ているというのに、むしろゴールは遠ざかっているような気さえした。クインは頭を掻き毟りながら考える。力を入れ過ぎてぶちぶちと髪が抜け、頭皮から血が出たが気にならなかった。
一旦、落ちついて別の視点から考えてみよう。
まず、あの船を容易く制圧できるという前提は正しいのか。いかに私の能力が対念能力者戦に優れているからと言って絶対に勝てるという保証はない。それほど念の多様性は奥が深く、底が知れない力だ。
そして船の操作は私一人でできることではない。最低限、操縦に必要な乗員は生かした上で、拘束せずに行動を許さなければならない。その点もリスクが大きい。
人間からすれば私は災厄以外の何者でもなく、絶対に人類活動圏まで持ち帰りたくないと考えるだろう。種の滅亡をもたらすくらいなら、自爆してでも船を沈める。そういう手段を取らないとはいえない。
さらに言えば念能力ではなく、兵器によって対抗される可能性も考えられる。人間の力は念だけではない。人類を支配しうる力をもった亜人型キメラアントだろうと、あっけなく化学兵器の毒で殺される。その科学力こそ最大の脅威である。
やはり、対話が必要だ。何とかして友好的な関係を求めていることを伝えなければならない。そのためには、ただ話しかけるだけでは駄目だ。
私は持ち物袋に目を向ける。その中には『魂魄石』が収められている。
調査団が多大な危険を冒してまで暗黒大陸を訪れた理由は、希望(リターン)の入手にあるはずだ。ならば、乗船させてもらう対価として『魂魄石』を差し出せば丸く収まるのではないか。
……いや、それも確実ではない。結局のところ彼らが最も懸念することは、私が危険な存在であるかどうかだ。リターンは欲しいだろうが、船に乗せるかどうかは別の問題。少なくとも、渡したからと言って無条件に信用してもらえるわけではない。
彼らから信用を勝ち取ること。それが私に求められるミッションだ。成功すれば良し。だが、失敗した場合は……。
* * *
ここはサヘルタ合衆国から送りだされた暗黒大陸調査船クアンタムロード号の会議室。
その一室には三人の人影がある。一人はこの船の最高指揮権を持つ司令官アンダーム。初老を迎えた年配の男だが、軍人だけありその体格は壮健である。ロマンスグレーの髪と髭を整え、上品に歳を重ねたその容姿は、上に立つ者としての威厳を感じさせた。
彼は部下からの報告を受けている。
「そうか……調査隊はもう限界か……」
新たな希望(リターン)を祖国に持ち帰る。その使命を任せられた精鋭部隊『クアンタム』は崩壊の危機を迎えていた。船の名前に取り入れられるほど今回の調査の顔としてもてはやされた部隊も、今となっては形無しだった。
出発当時、200名が乗船。いずれも粒揃いの兵士であるが、ただ強いだけではない。前回の調査で得られた情報を元に膨大な時間をかけ育成、編成された部隊であった。その主眼は戦闘力よりも隠密性、生存持続性に置かれている。希望(リターン)の番犬である災厄(リスク)の目をかいくぐり、宝をかすめ取ることを目的としていた。
しかし現在、その残存兵数、わずか4名。
崩壊の危機という表現は不適切であった。既に壊滅状態にある。目の前で遠征の成果を報告する部隊長の目は死んでいた。彼の口から語られる、想像を絶する苦難の数々を、アンダームは沈痛な面持ちで聞き続ける。
満を持して投じた虎の子の部隊が、まるで虫けらも同然に蹴散らされる。殺されていった部下たちの無念を思い、アンダームは隊長の話に耳を傾けながら深く相槌を打っていた。
その心中にあるのは猛烈な怒り。
この…………無能どもが…………!
報告の内容は事前に提出させた報告書で把握している。部下たちの死を悼むような表情は、彼が常日頃からかぶっている人格者の仮面にすぎない。その実、罵倒以外の感情は何一つ持ち合わせていなかった。
「これ以上の任務続行は不可能です。私一人であれば、命を賭す覚悟があります。ですが、残された者にその重荷を背負わせることは……!」
隊長は必死に探索の中止を訴えてきた。上官へのぶしつけな嘆願であるが、真に部下を思い自分を抑えきれずの行動だろう。
一方、アンダームは、その口角泡を飛ばして主張する隊長の様子に生理的嫌悪感を抱いていた。暗黒大陸という未開の地を歩いて帰ってきた人間の唾液だ。どんな病原菌が潜んでいるかわからない。無論、帰投時に徹底的な精密検査を行っているが、それでも不安が拭いきれるものではなかった。
アンダームは椅子から立ち上がった。そして、机の上に両手を置き、隊長に対して深々と頭を下げる。
「司令、何を……!」
「君の言いたいことはよくわかる。私も同じ気持ちだ。できれば、君たちの身の安全を第一に考えたい。しかし……自分はのうのうと安全な場所で指示を出しながら、部下を死地へと送りだす。そんな私の言葉は君たちには響かないだろう。私のことは、いくら恨んでくれてもかまわない」
なぜ、この私が、たかだか一部隊の隊長程度の人間に頭を下げなければならない。アンダームは屈辱に顔をしかめ、歯を噛みしめる。
「我々は軍人だ。祖国のために、どうか、頼む……!」
アンダームは念能力者であった。彼は自分の感情を内に閉じ込める能力に長けていた。通常の人間であれば、感情はオーラの流れとして体外に表れてしまう。熟練の念使いであれば、そのわずかな変化から相手の心理状態を察することもできるだろう。
彼はそのごく微小な変化さえ外に漏らすことなく抑え込むことができた。それどころか、爆発する激情を別のベクトルに変え、全く異なる感情をオーラの流れで表現することもできるのだ。
今のアンダームが放つオーラは、まさに迫真。部下の身を案じながらも、軍が果たすべき使命から逃れることはできない。そんな自分の無力さに打ちひしがれた人間だけが醸し出せる悲壮感を、見事にオーラで表現してみせた。
「わかり、ました……」
そこまでの覚悟を見せつけられ、隊長は引き下がるしかなかった。これ以上の嘆願は無意味だと悟ったのだ。実際、どれだけ食い下がろうともアンダームが命令を変更することはないので、その判断は正しい。
意気消沈した様子で、報告を終えた隊長は退室していった。会議室に残る人物はアンダームとあともう一人。報告の最中、一切口を開くことのなかった人物がアンダームに話しかける。
「司令官殿、先ほどの対応は……少しばかり強硬に過ぎるのでは? あなたほどの人格者であれば、むやみに兵の犠牲を出すべきではないと考えるものと思っていたのですが」
小太りで、よく脂汗をかく男だった。念能力者ではなく、ただの一般人である。つまり、一般人でありながらこの船に乗り込めるだけの地位を持った人間ということになる。
彼は特別渡航課として今回の調査団に同行する特務課職員だった。五大陸連合『V5』が管理する国際組織である。名目上は暗黒大陸における活動の安全性、透明性を保つため外部機関として派遣されたオブザーバーであるが、実質的には渡航者につけられた“首輪”である。
「買いかぶっておられるようですが、私も一介の軍人です。体制のためには非情な決断を下さなければならないこともある」
「本当に必要な犠牲でしょうか? この極限状況下において平時の考え方が常に正しいとは申しませんが、兵士の方々も命ある一人の人間です」
綺麗事だった。それどころか、この職員は別に兵士の命の心配をしているわけではない。彼の任務は、とにかく渡航者に余計なことをさせないという一点に尽きる。暗黒大陸に転がる無数の災厄を人間の世界へ持ち込ませないことが最大の目的であった。そのためなら、むしろ兵士は樹海の奥地で人知れず全滅してくれた方が助かるとさえ思っていた。
基本的に特別渡航課は暗黒大陸の調査に対して消極的なスタンスを崩さない。渡航が認められるために必要となる条件は極めて厳しく、まず個人が渡航を承認されることはない。サヘルタ合衆国という大国の軍隊でさえ前回の調査から40年あまりという膨大な時間をかけて根回しをし、本来ならそろうことのない条件を強引に満たしたのだ。
つまり、始めから誰であろうと渡航者を認める気はない。これは災厄の侵入を未然に食い止めるためでもあるが、特別渡航課がV5主導の国際機関であり、各国の思惑が混在する政治的背景を持つことにも理由がある。
希望(リターン)は人類に飛躍的な技術革新をもたらす資源であるが、当然その利益の多くは発見した国が独占する。他の国からしてみれば面白くない。だから先を越されないように足を引っ張り合う。渡航は一貫して認めないという不文律の条約に近い。だが、それだと自国がリターンを手に入れる機会も失われるので、例外的に認めるための抜け道を作ったのだ。
特務課が今回の遠征において期待する展開は「サヘルタ合衆国は何のリターンも得ることができず、無駄に時間を浪費した上で安全に帰還すること」である。アンダームもそれを理解していた。
「今回の調査の目的は、船の発着所を作ることだったはずでは? もうすぐ帰還しなければならない時期が近づいていますが、工事の進行状況は芳しくない。リターン捜索に力を入れるよりも、少しでも人員を工事の方に回した方がよろしいのではないかと愚考しますが」
アンダームは体中の血が煮えたぎるような怒りに駆られていた。念も使えぬ一般人が、この私に指図するか、と。彼の腕の一振りで、職員の首は胴体と泣き別れすることだろう。
無能な部下も腹立たしいが、目の前の男はアンダームにとって明確な敵である。今すぐにでもバラバラにして海に撒いてやりたかった。
しかし、それはできない。いかなる理由があろうとも、特務課の人間を無事に帰すことができなければ職務上の失態となる。政治的権力に守られた人間だ。殺意は全身を駆け巡っていたが、それを外に表すことはなかった。
「無論、工事は優先的に取り組まなければならないことですが、今さら数人増やした程度で進行状況が変わるものではありません。人員は十分すぎるほど確保できています。問題は作業環境です。想像以上に過酷な環境に、皆が疲弊しています。その点を改善しなければ抜本的な解決は見込めません。何か良い案がありましたらご教授願いたい」
「いえ、私からは特に……」
適当に話を濁したが、工事が進んでいないことは事実だった。国の上層部から出された第一の任務は、暗黒大陸への橋頭保となる発着所建設である。まず、暗黒大陸はどこにでも船をつけられるわけではない。いかにして安全に着岸できる場所を確保するかが拠点設立のため重要になってくる。
このあたりの海域では『ヌタコンブ』という海藻類が広く生息している。この海藻は表皮から特殊な粘液を分泌し、周囲の海水をローション状に変える性質を持っていた。
特に毒があるわけではないが油断してはならない。この海域での遊泳は困難を極める。ぬめりつく海水に手足を取られ、海上でもがけばもがくほど掻き混ぜられた粘液が空気と反応し、白く弾力的に変質する。やがて繭に包まれたような姿となり溺死する。
一度海中に潜れば全身をコーティングするようにローションの膜に覆われてしまうため、呼吸をすることもできないのだ。魚類であろうと生息できない。もし船から海に落ちた際は早急な救助が必要である。
だがこの海藻のおかげで、この海域では凶暴な巨大生物との遭遇が少ない。比較的安全に船を着けることができる貴重な場所だった。40年という月日をかけて渡航権をねじ込んでまで、リターン探しよりも発着所建造を優先するほどに重要視されている場所であった。
その肝心の工事が進んでいない。調査団の人員構成のうち実に6割が建設作業員である。資材も設備も人員も十分すぎるほどに整えた上で無事に暗黒大陸まで到達したというのに、いまだ作業は予定の半分も進行していないという体たらく。
いつ怪物に目を着けられるかわからない、死と隣り合わせの環境では工事にも細心の注意が払われる。少しでも異常を察知すれば工事を中断して避難しなければならず、遅れることは仕方がなかった。これは事前の想定が甘かった管理者側の過失であったが、それをアンダームが認めることはない。
帰還の予定期日はすぐそこまで迫っていた。作業員を馬車馬のようにこき使ったとしても、もはや工事完了は不可能だ。主目的である発着所建造を果たせなければ本国におけるアンダームの評価は地に落ちる。この任務には合衆国の国家予算何年分もの資金が投じられているのだ。失敗は絶対に許されない。
今まで必死に偽り、築き上げてきた全てが終わる。無能呼ばわりしてきた人間に、今度は自分が無能の烙印を押されることになる。プライドの高い彼には到底、耐えられないことだ。
唯一、挽回のチャンスがあるとすればリターンの取得をおいて他にない。壊滅同然の部隊を動かしてでも任務にあたらせなければならなかった。
これが戦争であればたった4名の兵士など塵芥も同然であるが、今回の任務は一人でも生き残ってリターンを持ち帰れば勝ちである。200名の精鋭の中で淘汰され、生き残った選りすぐりの兵士であれば、勝てる可能性は残されている。
そして、報告書にはリターンに関する有力な情報が記載されていた。リターンがあるかもしれないと思われる場所を見つけたらしい。不確定情報であるが、これに賭けるしかない。
問題は先ほど見た部隊長の態度である。あの精神状態はまずい。完全に、心が折れている。隊長があれでは、その下の隊員もまともな状態であるとは思えなかった。
念能力者の強さは精神の強さに大きく影響される。どれほどの能力を有した強者であろうと、心で勝る者には苦戦する。今の兵士の精神状態では、とても十全のポテンシャルを引き出せるとは思えない。
(てこ入れが必要、か……)
アンダームは特務課職員と意見を交わしながら考えていた。この窮地に追い込まれた盤面をいかにして破るか。どのように駒を動かし、使い潰すのが最善か。
その徹底した自己中心的思考が、彼の外面に表れることはない。たとえ念能力者ではない一般人の前であろうとオーラの偽装を解くことはなかった。一人きりの状況であったとしても解くことはなかっただろう。
その並み外れた精神力。彼が一流の使い手であることに間違いはない。その実力が彼を今の地位までのし上げた。現状、この船において一二を争うほどの強者である。いや、この船という環境に限定したとき、誰も彼に勝てる者はいない。
しかし、彼には泥にまみれてまで自分の力でリターンを手に入れようとする意思がなかった。そのような発想すら持ち合わせていなかった。