その夕方、キネティたちはいつもの修練場から離れて郊外の森に来ていた。手入れの行き届いた散策向けの森ではない。鬱蒼と立ち並ぶ木々、下草は生い茂り、倒木や岩がごろついている。すぐ近くに街があると言っても、森の少し奥へ足を踏み込めば荒れ放題の自然が広がっている。
キネティはそこでズシと組手をしていた。流々舞ではなく実戦に近い形式である。キネティは玄翁を武器として使っているが、ズシは無手。しかし、心源流拳法を鍛えてきたズシを相手に武器の差は大したハンデにならない。
最初は手加減する気があったキネティも今では本気でズシに殴りかかっている。鉄の鎚で打たれても物ともしないズシの頑強さは、積み重ねてきた流の鍛錬によるところが大きい。相手のオーラの流れを読み、自分のオーラの流れを変える技。それは一朝一夕に身につくものではない。
ズシの拳を受けたキネティの体には無数の小さな亀裂が生じていた。服の下に隠れる程度の傷だがダメージには変わりない。組手の最中、瞬時に修復するようなことはできなかった。ダメージは蓄積し、その部分の纏は乱れ、流が滞り、さらなるダメージを受けるという悪循環に陥っている。
キネティもズシのようにオーラによる適切な防御が間に合えばこのような亀裂は発生しない。キネティの念人形体が特別脆いというわけではなく、普通の人間であっても受けるであろう妥当なダメージだった。
つまり、両者の差は単純な技量の違いに他ならない。キネティにとって予想はしていた事とはいえ悔しさがないと言えば嘘になる。一方、ズシの方も過剰な手加減はしていなかった。キネティの本気に応える形で実力を見せている。
ズシも余裕綽々とはしていられない。キネティの覚え込みの速さには鬼気迫るものがある。何よりも恐ろしいのは全く怯むことのない勇猛さだ。まるで痛みを感じていないかのように攻撃を受けても平然としている。
事実、キネティは念人形体であるため痛覚は必要最低限しか感じることがない。その利点は戦闘中における精神の安定性という念法使いにとって不可欠な素養と噛み合っていた。技ではズシに及ばないが、全ての点で彼女がズシに劣っているわけではない。
組手であっても気持ちは両者ともに真剣勝負だった。そんな中、二人を狙い撃つように森の茂みから何かが急速に飛来する。
「いてっ」
「あたっ」
それはオモチャのダーツだった。針はついていないので当たっても傷にはならないが、しっかりと堅の状態を保っている二人の防御を貫くだけのオーラが込められている。さらにそのダーツは隠(実体隠)が施されており、非常に感知しにくい状態にされていた。
「師範代、無理ッス! 組手をしながらこれを避けろだなんて!」
「避けてもいいし、凝で防いでもいいし、叩き落としてもいい。とにかく対処しなさい」
気配を消しながら二人に向けてダーツを投げたのはウイングだ。夕暮れ時の視界の悪い森で、どこから飛んでくるのかわからない攻撃だ。しかも隠が使われているため目に凝をして注意深く観察していなければ、とてもではないが事前に察知することはできない。
「これは凝を鍛える訓練です。今ので実感できたでしょうが、実戦中、常に目にオーラを集めて全力の警戒状態を保つことは不可能です。初見の敵に対し、まず凝で様子を見るのは鉄則ですが、だからと言って100%の精度で凝を使い続ければいいというわけではない」
「ではどうすれば!?」
「戦闘中における目の凝の精度は全力時と比較して高くとも30%程度だと見積もってください。それ以上のオーラを割こうとすれば戦闘に支障が出ます。低い精度の凝でも敵の攻撃を見破れるように鍛えるのです」
経験を積んだ戦士は、襲撃者の視点から攻撃を受けるポイントを予測できるようになる。どこに目を向け、どんな点に注意すべきかがわかっているのだ。だから最低限の凝で油断なく敵の攻撃に備えることができる。
それはズシとキネティの組手のような近接戦闘における技の読み合いにも言えることであり、またウイングが投げたダーツのような奇襲においても言えることだ。この修行だけで実戦的な戦闘勘まで養うことはできないが、凝の感覚を研ぎ澄ます訓練になる。
「さあ、次々行きますよ。完全に日が暮れたらもっと避けにくくなるでしょうから今のうちに少しでも感覚を身につけなさい」
「「押忍!」」
* * *
アクアとの約束の日まであと4日。寝る間も惜しみ、否、寝ている間も飛んでくるダーツに気の休む暇もない日々が続く。ズシもそのハードスケジュールに付き合っていた。
これはウイングから強制されたわけではなくズシ自身が申し出たことだ。兄弟子として自分だけのんびりしていることはできない。それにキネティの修行の相手以外で念の使用が禁止されていることもあって、自分から進んで組手の相手を買って出た思惑もある。
アクアの件にウイングとズシは直接関係があるわけではない。ある意味、キネティのわがままに付き合わせてしまう形となったことを彼女自身、申し訳なく思うところがあった。だが、その好意を無駄にしないためにも今はとにかく修行に励むしかない。
「できた……」
そして強化訓練が始まってから3日目にして、ついにキネティは『複製』を習得するに至る。目を閉じて具現化作業に集中していたキネティは、自分の手に2本目の玄翁が握られている感覚を得た。
幾度となく試しては失敗を繰り返した作業だった。オーラを集めるところまでは進むが、それを形にすることができず止まってしまう。そこでキネティは考え方を変えてみることにした。道具を具現化しようとするのではなく、一つの“作品”としてもう一つの玄翁を作ってみればどうかと考えたのだ。
その試みが功を奏した。壁を乗り越えたように一気に複製作業が完了する。鑿についても同じ感覚で複製することができた。さっそくウイングに報告しに行く。
「えっ!? できたんですか!?」
ウイングは驚いていた。マスターしてもらうとは言ったが、それはキネティに発破をかけるために言っただけで本当に習得するとは思ってもいなかったのだ。じゃあ何で覚えさせようとしたんだとキネティはチベスナ顔になる。
これは具現化系の系統別修行の一つである。つまりトレーニングだ。覚えられずとも必死に取り組む過程にこそ意味がある。現にキネティの発の精度は上がっていた。以前よりも具現化物の頑丈さや特殊能力の性能も少しだけ向上している。
「『複製』は優れた能力者であっても適性がなければ使えない技です。円の展開距離が個人でばらつくのと同じようなものです」
例えば、ウイングが知る中で最もこの技能に長けた能力者を挙げるならダブルのシーハンター、モラウ=マッカーナーシがいる。彼の場合は具現化系ではないが、煙をオーラで固めた念人形を200体以上複製できるという驚異的な能力者だ。
せっかく適性があるというのであれば戦闘に生かさない手はないと思ったキネティだったが、そううまくはいかなかった。玄翁や鑿をいくつも具現化できたところでそれを扱うキネティの手は二つしかない。
投擲武器として使えないかと検討もしてみたが、キネティの手から離れた途端にオーラが急速に弱まった。念能力者を相手にするには威力不足と言わざるを得ない。これは具現化系が放出系と最悪の相性関係にあるためだ。根本的に具現化系能力者は自分の体からオーラを分離して扱う技術を不得意とする。
「今は無理に戦術に組み込もうと考えずともいいでしょう。あくまで修行の一環です。二つに増やせたのなら次は三つ、四つと限界まで挑戦を続けてください。そうするうちに具現化能力の基本性能もアップしていきます」
しかしキネティは複製の修行を続けながら他に良い手はないかと考えた。そして思いついたのが自分自身の複製である。武器を持つ手が二つしかないというのであれば、その使い手を二人にしてしまえばいい。
「自分自身の具現化ですか……そういえば、そんな能力を持った200階級闘士もいましたね」
フロアマスターの座に目前まで迫った闘士、虎咬拳のカストロという男がいた。彼は自分自身の生き写し(ダブル)を具現化する能力を持っていた。これは分身系念人形と呼ばれる念獣の一種に当たる。
「一般的に念獣はその名の通り、鳥獣の形を取るものが多いのですが」
「分身系はあまり強くないんですか?」
「そんなことはないですよ。単純に戦力がもう一人分増えるわけですからね」
具現化系能力者にとって自分自身の身体とは最も身近な存在であることは確かだが、身近過ぎるだけに客観視が非常に難しいという問題もある。これもまた複製のように独特の適性がなければ発現できない技能と言えよう。
「ですが、カストロは試合で命を落としました。念獣は複数の系統を複合しなければ使えない高度な発です。せっかく素晴らしい発を考えてもそれが自分の系統や技能と噛み合わなければ実用化することは難しい」
自分と全く同じもう一人の自分を作り出し、戦闘中に二つの自分を同時に操作しなければならない。リアルタイムで命令を送り操作する『遠隔操作型』として運用するのは至難の業だ。事前にプログラムされた動きを取らせる『自動操作型』ならその点は心配ないが、それだと動きが単調で臨機応変に行動できないという問題が出てくる。
欠点のない能力などないということだ。カストロは確かに稀有な才能の持ち主だったが、それだけに自分の限界を超えた完璧を求めてしまった。キネティに同じ失敗をしてほしくないとウイングは諭す。
「あと数日で一気に強くなるなんてことはあり得ません。特別な能力を作らなくてはならないと気負うのは止めなさい。今のあなたに最も必要なことは基礎戦闘力の向上です」
ウイングの言うことはキネティにも理解できる。だが彼女の場合、自分自身を具現化するところまでは既に成功している。後はこれを玄翁や鑿と同じ要領で複製すればいい。これまでに何度もやった作品作りと同じことだ。できるはずだという確信があった。
この短期間でフロアマスターと正面からぶつかるだけの力を得るには、やはり特別な技が必要だ。ウイングの教えに反してでもキネティは諦めきれなかった。
* * *
それから2日が経過した。明後日にはアクアとの会談を控えている。キネティは隙間なく詰め込まれた修行メニューの中、無理を言って自分だけの時間が欲しいと申し出ていた。
ウイングは最初、そんな勝手は許さないと断固反対した。しかし、女の子だから色々あるんだとキネティが言い出すとウイングはあっさり引き下がって自由時間を認めた。
もちろん遊ぶための時間ではない。『自刻像(シミュラクル)』の複製練習に費やしていた。およそ5分ほど使って彼女と瓜二つの姿を形どる念人形がもう一体作り出された。
「……」
だが、動かない。像を触ってみればすぐにわかる。見た目だけは精巧に複製されているが、ただの石像だった。オリジナルの体と同じように動くことはない。何度試しても結果は変わらなかった。これでは何の役にも立たない。
何が間違っているのかキネティにはわからない。ウイングにも相談できず、一人で頭を悩ませていた。そもそも『自刻像』とはどのような能力であるかを再考する。
最初は植物人間状態となった彼女が活動可能な肉体を得るために作った像だった。実は、分身タイプの念人形の使い手にとってこの手の制約を作る者はそれほど珍しくはない。
例えば、本人の行動が制限されている状態(睡眠中など)のみ使用可能という縛りを作ることで、具現化系の念人形であっても放出系の技術を要する活動範囲の拡大や精度の維持が容易となる。キネティの場合は本人が回復の見込みがない意識不明状態であったため、より強力な制約として効果を発揮した。
しかし、どれほど精巧に形を真似ても真実の存在とはなり得ない。外部から強い力が加われば亀裂が入り、石像のように崩壊していく。人間とは程遠い仮の姿だ。その不完全さを否定しなかった。
彼女にとってこの体は自分であると同時に作品でもある。自分の体そのものを忠実に再現し、具現化しようと考えていたわけではなかった。その点は他の具現化系能力者とはスタンスが異なると言える。
いかに自分という存在を作品の中に表現するか。その答えはいまだ出ていない。今の彼女は未完成の作品と言えた。そんな極めて不安定なイメージでありながら彼女が自分を具現化できたのは、類まれなる造形眼によるものである。
作品をより良い形へと導く感覚、物に宿る魂の形を読み取る眼がキネティには備わっていた。芸術家としても念能力者としても、彼女の才能は全てそこに集約されている。『自刻像』とは、その眼をもってしてようやく保たれる奇跡的なバランスの上に成り立っていた。
彼女が複製により作り出した動かざる石像こそが、彼女がその像に表した自己である。彼女の眼は複製された模造品を自分の作品として見ることができなかった。
物言わぬ石像を叩き壊す。整理のつかない感情が頭の中で暴れ回る。このままでは明後日のフロアマスター戦で良い結果が残せるとは思えなかった。着実に成長している実感はあるが、それでも足りない。課題の達成には及ばない。
彼女の心を揺らす最大の不安は、詰まるところ試合の勝敗でも、その結果の良し悪しでもなかった。仮にアクアの思惑通りに事が進んだとして、彼のために作品を制作することになったとする。それでもキネティはアクアに嫌悪感を抱くようなことはないと思ってしまった。
アクアは形振り構わず権力を使って彼女の作品を手に入れようとしている。それだけキネティのことを一人の芸術家として認めている。誰だって自分を認めてくれる人を無下にはできない。昔の彼女は、多くの人から認められる彫刻家となることを夢見ていた時期もあった。
傭兵団に入り、体も生まれ変わり、彫刻家となる夢は諦めていた。自分の生き方は一つしかないと思っていた。だが、外に目を向けてみれば開けて見える可能性があった。その選択肢が自分の手に委ねられていることを知り、急に怖くなってしまった。
父親のことも無関係ではない。お世辞にも親しみを覚えるような人間ではなかったが、ある意味でそれは良かったのかもしれない。もし、父が本当にキネティの身を案じて娘を探すような人間だったならば、彼女は心を動かさずにいられただろうか。
絶対に揺るがなかったとは言いきれない。今もまた、彼女は様々な揺らぎの上に立っている。視線をさまよわせたキネティは部屋の隅に置いていた箱を見る。
その表面に刻まれた文字は、とある神様に関する言葉をもじったものだった。神は何者にも動かされずして万物を動かすと言う。その真逆、何一つ動かすこともできず無為に奔走する者ほど愚かしいことはない。
今の自分の姿そのものではないかと自戒するが、鬱屈してばかりもいられない。キネティは時計を見て、もうそろそろウイングたちのところへ戻らなければまずい時間であることを確認した。部屋を出てエレベーターへと向かう。
「おい、見たかよあの動画」
「ああ、カキンのやつだろ。俺は信じねぇけどな。アンコクタイリクってなんだよそれ」
その途中、すれ違った誰かの話し声が耳に残った。何のことかと気になったキネティが、その事実を目にするまでさほどの時間はかからなかった。
『――というわけで我がカキン帝国は、全人類の夢を背負い!! 暗黒大陸への進出をここに宣言しまホイ!!』
人類最大の禁忌、絶対不可侵領域とされる外世界への渡航。テレビ番組はどの局もその特番が組まれている。カキン帝国が公式に発表したこの宣言動画はアイチューベにて投稿後、1時間で1億回以上も再生されたという。
キネティにとって疑問に思っていた点同士がつながっていく。暗黒大陸の危険性についてはクインから話を聞いたことがある。傭兵団にカキンから持ち込まれた仕事とはこのことに違いない。キネティはすぐに公衆電話のある場所へ向かった。
「もしもし、団長!? あの動画は一体……!?」
クインはしどろもどろと言った様子だった。この件については傭兵団に事前にパリストンから話を聞かされていたが、動画のことは全く把握していなかった。
パリストンから傭兵団に調査隊同行依頼が来た時、クインは一も二もなく断った。あんなところに二度と戻ろうとは思わない。むしろ、パリストンを止めようとした。仮に無事調査が終わったとしても、帰還者からどんな未知のリスクが広がるかわからない。
一時は武力介入による調査中止を企てたくらいだった。だが、武力で押さえつけたとてその場しのぎの対処にしかならない。まだ発生してもいない危険を抑え込むためにと、少なくない被害を容認してしまっては自らの手で戦火を広げるようなものだ。
一度手を出してしまえば途中で手を引くことはできない。カーマインアームズは傭兵団ではなく、人類を狭い世界に閉じ込め続けようとする監視者とみなされるだろう。どんな大義があろうと正真正銘のテロリスト集団だ。
どうするべきか何度も会議で話し合ったが結論は出ず、そんな時にカキンの進出宣言という爆弾が投下されたのだった。
時代は動き出した。人類が世界の真実を知ったこの日が歴史の分岐点だ。この流れを止めることはできない。数百年もの間ひた隠しにしてきてなお、止めることはできなかった。
カーマインアームズは息を潜めて成り行きを黙止するのか、それとも積極的に関わり少しでもリスクを減らすために行動するのか。その“行動”とは人類との敵対か、協力か。団の総意はまとまりつつある。
しかし、一応の盗聴対策はしているとはいえ電話で話せるようなことでもなく、クインは説明に窮していた。
「とにかく一度、あっしもそちらへ戻ります。詳しい話はそれから……」
『ダメじゃ』
電話口の声が変わった。声質は全く同じだが、その口調からクインではないことはすぐにわかる。どうやらアイクがクインから受話器を横取りしたようだった。
『まだおぬしに出した任務は終わっておらんのじゃろ。フロアマスターを倒すまでは帰って来るなと言ったはずじゃ』
「それは、カキンの件にあっしを関わらせたくないからですか?」
『今のおぬしにはまだ早い』
受話器を握りしめる手に力が入る。何も言い返すことはできなかった。それでも。
『それでも、ついて来る気があるというのなら、きっちり与えられた仕事を全うしてみせよ。いつまでに、とは言わん。わしらも情勢に合わせて動かねばならんのでな』
期日は未定。間に合わなければキネティは置いて行くということだ。それまでにフロアマスターを倒して帰還すること。それが同行を許される最低条件だった。
話を聞かされたキネティは、自分自身でも不思議に思うくらいに落ち着いていた。心の中にかかっていた靄が晴れたようにすら感じた。
「わかりました。では、4日後までには帰還します」
『うむ』
「それまでに帰れなければ、あっしはこの傭兵団から脱退したいと思います」
『うむ、心得た。好きにするがよい。口座の金はいつでも引き出せるようにしておく。おぬしが稼いだ金じゃから遠慮なく使うがよい』
電話口の向こうでクインが何か叫んでいるが、アイクは強引に電話を切った。キネティはその足で闘士専用エレベーターへ向かう。行先は247階、一般客用のエレベーターでは降りることもできないフロアマスターの私有地だ。
アポなしで来たキネティだったが、インターホンで受け答えするとすぐにアクアが出迎えに来た。
「まあ! ようこそ、キネティちゃん。確か約束の日はまだ先だったはずだけど、ここに来たということは決心がついたということかしら」
アクアは中に入ってお茶でもと勧めるが、キネティはやんわりと断った。ゆっくりしている暇はない。逆指名戦についての了承を伝える。
「そう、良かったわ。試合の手配については何も心配いりません。あなたは念願のフロアマスターに……」
「そのことですが、対戦相手はあっしに決めさせてもらえないでしょうか」
「……それはちょっと困るわね。いくら私でもそこまでの融通は利かないわ。こちらで用意した相手で満足してもらわないと」
「いえ、その相手は他の誰でもない。フロアマスターアクエリアス、あなたにお願いしたいのです」
アクアはぽかんと呆気にとられたような顔をした。次いで何かの冗談か思ったのか上品に笑い始める。
「どうか闘士として最後の試合に、あなたと手合わせを願いたい」
だが、キネティの言葉に本気の決意を感じ取ったアクアは笑いを止めた。キネティはアクアの実力を侮り、調子に乗って勝負をけしかけたわけではない。その真摯な態度にアクアは困惑していた。
「そんなことをしてもあなたにとって何か利益があるとは思えないのだけれど……フロアマスターになりたかったのではないの?」
「地位に拘りはありません。自分の実力がそこに届くか否かを確かめたかっただけです」
「だから晴れの舞台の散り様を盛大に飾りたいということかしら? 見た目によらず熱いハートの持ち主なのね……」
アクアにとってはあまり喜ばしいことではなかった。てっきりキネティが最高位闘士の地位に憧れているものと思い込んでいたので、その願いを叶えることで懇意の関係になろうと考えていたのだ。
実力を伴わないフロアマスターがその座につけば周囲から反感を買うことになるだろう。肩身の狭い思いをするキネティの味方として振る舞い、依存させる作戦だった。その後、フロアマスターを辞退するような結果になったとしても恩を売っておいて損はない。
しかし、キネティに執着がないのであればアクアが彼女をつなぎとめておく理由付けも薄れてしまう。さすがにアクアもキネティのためにわざと負けて今の地位を捨てるようなことはできない。試合に負けたキネティがこの塔を去ると言い出せば、強硬な手段を取らない限りそれを引き留めることはできない。
「あっしが負けた場合、あなたのために作品を作ると約束します」
アクアはその発言から真意を読み取った。おそらくキネティが求めているものは、闘士としての華々しい幕引きだ。ここで区切りをつけて彫刻家へ転身するため、あえて無謀な挑戦をすることで自分を追い込もうとしているのだと解釈する。
芸術家の道へ進む後押しをアクアとの試合に求めているのだろう。それならば歓迎すべきことだ。適度にキネティが実力を発揮できるよう調整しながら見せ場でも作ってやれば闘いの中に友情じみた関係も生まれるかもしれないと、アクアは皮算用する。
「わかりましたわ。その決闘、謹んでお受けいたします」
無理を言って下位のフロアマスターを一人追放することに比べれば費用も労力も省けるというものだ。アクアは快諾し、キネティの要望で逆指名戦の日取りはこの翌日に決まった。