カーマインアームズ   作:放出系能力者

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110話

 

「試合続行! ポイント2-0!」

 

『な、なにが起きたというのか!? キネティ選手、半壊からの復活! しかも大人の階段を上っているううう!? 対するアクエリアス選手も奥の手を出したか! 地面の下から何かが現れたーっ!』

 

 石板を砕き割って現れたのは青色の液体だった。液体の塊がまるでアメーバのように地中から這い出てくる。キネティは深追いせず、一度距離を取って様子を見ていた。波乱の展開に観客席は沸き立っている。

 

「師範代、キネティはどうしちゃったんスか!? あれはいったいどんな能力なんスか……!」

 

「さながら動く石像、と言ったところでしょうか。カバラ秘術におけるゴーレムなど似たような能力は聞いたことがあります」

 

 しかし、明らかに尋常な念能力ではない。寒気を覚えるほどの異常な密度のオーラがキネティを中心として渦巻いていた。何の代償もなく願えば手に入る力とは思えない。ウイングは見ていることしかできない現状に歯噛みする。

 

 それに念人形ではないキネティの本人はどこにいるのかという問題もある。遠隔操作型(リモートタイプ)だとすれば術者は念人形の近くにいなければならない。

 

 可能性として箱の中にいるのではないかという推論に行き着く。最初はまさかと思っていたが、今となっては否定しきれない。

 

「フロアマスターの方もヤバイ感じッス!」

 

「あれはアクエリアスの能力『染まりゆく青(マッドパープル)』……系統別上位特性の一つです」

 

「上位特性?」

 

「例えば強化系であれば“治癒力強化”、放出系ならば“瞬間移動”、変化系の“エネルギー変換”、具現化系の“念空間”と言ったように特別な適性がなければ使えない能力のことです。アクエリアスの場合は物質操作の上位特性“液体操作”に当たります」

 

 不定形の液体をそのまま操作することができる力だ。戦闘のみならずその応用力は極めて高い。アクアが操作している液体は、フラスコの中から流出した薬液だった。地面に染み込んだ後もこの薬液は彼の操作の支配下にあり、地中に潜伏していたのである。

 

 アメーバ状だった青い薬液は瞬時に姿を変え、狼のような形態になった。アクアは戦闘時、基本的に狼型の念獣形態を取らせている。その動きは獣のように俊敏だ。それに加えて術者であるアクア本人も高い戦闘力を有し、巧みな連携によって数々の猛者たちを葬ってきた。

 

 しかし、アクアの表情からはもはや余裕の色は消えている。当初、キネティを相手にこの念獣を使うつもりはなかった。だが、出し惜しみすべきではないという直感があった。手を抜けば死なずとも負けるかもしれないと思えるほどおぞましいオーラを感じ取る。

 

 ここからが本当の真剣勝負だ。睨み合いから先に動いたのはキネティだった。手にした箱を振りかぶって投げる。その動作は恐ろしく機敏ではあり、投げられた箱は空を切り裂きながらアクアに迫った。だが、目で追えないほどの速度ではない。

 

 投げる動作を見ればどこに向かって飛んでいくかは予想がつく。アクアは難なくこれをかわしたが、同時に不可解にも感じていた。彼もまたウイングと同じく、キネティの“本人”が箱の中にいるのではないかと推測している。その大事な箱を何も考えず、ぞんざいに放り投げるだろうか。

 

 一抹の不安は的中した。アクアの横を通り過ぎるかに思われた箱が空中でぴたりと静止する。その理由は、箱の陰に忽然と出現したキネティによるものだった。まるで瞬間移動してきたかのように現れたキネティが箱を掴み、その勢いのままにアクアへと殴りつけた。

 

 考えている暇はない。アクアは寸でのところで振り回された箱の射程圏内から脱するが、わずかに攻撃がかすってしまった。それだけで自動車が衝突してきたかのような衝撃が走り、アクアは大きく後退させられる。

 

「クリーンヒット、キネティ! 2-1!」

 

 背筋が凍るようだった。直撃していれば、どれだけ防御がうまくいこうと大ダメージは免れなかっただろう。アクアはキネティの強化をかなり高く見積もっていたが、現実はさらにその遥か上を行く脅威度だった。

 

 最初に箱を放り投げたときのキネティの体はいまだ存在している。投げ放った投擲フォームのまま時間が停止したかのように硬直していた。それは魂の宿らぬ像の抜け殻に過ぎない。

 

 アクアに向けて箱を投げた直後、キネティはその体を捨てて新たに自分を作製したのである。以前とは段違いの具現化速度により、いきなり出没したかのように見えたのだ。

 

『キネティ選手、とんでもないパワーアップ! セクシーダイナマイトになっただけではなかったあああ! これは形勢逆転なるか!?』

 

 アクアの隙をカバーするように狼の念獣がキネティに襲い掛かる。それを振り払おうとしたキネティだったが、液体製の念獣に物理的な攻撃は意味がなかった。形は弾け飛んで崩れたものの破壊するには至らない。

 

 さらにその液体は特製の薬品だった。普段は安定しているが、アクアが念じることで急激な化学反応を起こし強烈な酸となる。これを浴びた人間はいくらオーラで防ごうと真皮にまで達する化学火傷を負う。

 

 人体の30%に火傷が広がると、著しい健康被害が全身に及ぶと言われる。まともな人間であれば通常の精神状態は保てず、オーラの制御に大きな乱れが起きる。薬液が目に入れば失明する。戦闘もままならないことは言うまでもない。

 

 さらに火傷が50%を超えるとショック死する危険が急激に高まる。臓器などの生命維持に直結する器官の損傷に比べると軽視されがちだが、皮膚もまた無くてはならない重要な組織だ。仮に生き延びることができたとしても、治療のためには皮膚移植が必要となる。重大な感染症のリスクもある。

 

 そして化学火傷は熱による火傷とは異なる特徴を持つ。火傷の直後は軽傷のように見えても数時間をかけてじわじわと皮膚組織を壊死させていく。その痛みは地獄の苦しみだ。アクエリアスの餌食となった敗者のほとんどが自殺に追い込まれるほどだった。

 

 念獣を破壊しようと攻撃すれば死の強酸がばら撒かれる結果となる。まさしく今のキネティが置かれた状況だった。降り注ぐしぶきがキネティの体を溶かしていく。

 

 いつもならこれで試合終了となる必勝の型。その美しく青い薬液が獲物の流す血と混ざりあい、紫に変色していくことから名付けられたアクエリアスの能力である。彼の残虐性を表すかのように被害者は見るに堪えない姿となる。

 

 しかし、石像に酸を浴びせたとて表面が少し溶かされるだけのことだ。その程度を修復することは今のキネティにとって造作もなかった。一度、箱から手を放したキネティは鑿と玄翁に武器を持ち換えた。

 

 凝によりオーラを鑿に込める。禍々しい死中の念が一点に凝縮されていく。キネティを溶かそうと執拗にまとわりつく狼に、その鑿を突き立てた。それまで一時として定まることのなかった青狼の姿が固定される。

 

 それきり薬液の狼は動きを止めてしまった。鑿に込められた膨大なオーラが尽きるまで固定された状態から脱することはできない。物理攻撃を無効化する液体念獣の相手をしても無駄なのだから、放置して術者のアクアを倒してしまえばいい。

 

 キネティは鑿を数本具現化してアクアへと投擲する。玄翁で打ち付けたわけではないので『像は石に』の特殊効果は適用されない。キネティの手から離れているので強度や威力も落ちている。あくまで牽制のために放った攻撃だった。

 

 元は工具とはいえスローイングナイフに匹敵する武器と化す。馬のいななきの如く風切り音を発するその威力は、突き刺さった壁や地面に深々と着弾の痕跡を刻み込む。続けざまに投げられる鑿の弾丸をアクアは回避していくが、その形相にいつもの優雅さは欠片もなかった。

 

 王者と挑戦者の関係は逆転していた。食らいつく側はアクアになっている。かわし切れなかった鑿の一本がアクアの脇腹をかすった。それだけで鎧が砕け、血が噴き出る。

 

「クリーンヒット! 2-2!」

 

 アクアは自分の動きが封じられていないことを確認し、鑿による攻撃だけでは特殊効果が発動しないことを見抜く。その威力を目にしても降参することはなかった。痺れを切らしたキネティが接近する。

 

『ここで序盤を彷彿とさせる接戦が再び繰り広げられる! 激しい攻防を制するのは果たしてどちらか!』

 

 闘っている当人からすれば接戦とは到底言えない。キネティの猛攻にアクアは必死に抗っていた。唯一彼がキネティに勝る拳法の体術と、液体操作による自身の血流の操作によって。

 

 フラスコの中の薬液を操って攻撃の威力を増したことと原理はそう変わらない。ただし、それを人体において再現しようとすれば凄まじい負担が生じる。外傷よりも先に内側から肉体が損傷していく。

 

「くっ、はははははっ! そう簡単にはいかないわよ、キネティちゃん!」

 

 外から壊されるか内から壊れるか、どちらにせよアクアの闘い方では長くもたない。それでも意地で持ちこたえている。アクアには全く希望がないわけではなかった。やがてその好機は訪れる。

 

「う……」

 

 それまで無表情を貫いていたキネティが苦し気に顔を歪めた。アクアからすれば当然の反応だ。あれだけの力を得ておいて何の代償もないと言うのは考えられない。いつか無理がたたるはずだと思っていた。

 

 隙を晒したキネティにアクアが蹴りを叩きんだ。ダメージがあるかどうかは定かではないが、これは闘技場における試合である。ポイントを重ねてTKОを狙うという手もある。

 

「クリーンヒットアンドダウン! 4-2!」

 

 キネティは箱から手を放して吹き飛ばされていた。そのまま膝をついている。死と隣り合わせとなった精神状態が与える影響は大きかった。これまでは懸命に集中力を維持して抑え込んでいたが、ついに限界が見え始めていた。

 

 何も感じない無の感覚という矛盾に少しずつ支配されていく。その異常を認めざるを得なくなっていく。まるで本当に自分の体が石に変わっていくかのように思えた。

 

 その感覚は初めての経験ではなかったことにキネティは気づく。人間だった頃の彼女が死んだとき、その直後に体験した。黒々とした渦の中に飲み込まれ、その中に潜む無数の何者かと同じ存在になっていく。

 

 その“渦”すら本当の意味での死ではないと感じた。それは飲み込まれて自分を見失ったとき、初めて立ち現れてくるのだろう。キネティはその淵から引き返せなくなる瀬戸際のところまで踏み込んでしまった。

 

『どうしたキネティ選手!? 何やら体が……元の少女に戻りかけている!? 魔法が解けてしまったのか!』

 

 さらに恐ろしいことに、ただ子供の姿に戻るだけではなかった。キネティの髪色は元の金色ではなく、色素が薄れるかのように銀色の輝きを帯び始めている。彼女の造形眼が自己の形を見失いつつあった。自分とは異なるはずの誰かと混ざり始めている。

 

 これならば巻き返せるとアクアは痛む体に鞭打って奮起する。が、その意気はたちまち消沈した。

 

 キネティが手放した箱の近くから、地面より湧き出るように念人形が現れる。今のキネティと同じ姿だった。それも一体ではない。わらわらと増殖する念人形は虚ろな目をして誰何する。

 

 あなたは誰とアクアに問いかける。

 

「なんなの、これは……」

 

 誓約の代償を負ったのなら普通は戦う力を失うはずだ。この念人形たちを作り出すオーラはどこから湧き出てくるというのか。理解できない。脳が現実を直視できなかった。

 

『なんと増えた!? これはブンシンのジツか!? ニンジャガールだったのかキネティ選手!』

 

 それはキネティが編み出そうとしていた念人形の“複製”だった。あれだけ苦労しても実らなかった努力がいともたやすく実現している。だが、それはキネティが望んだ形ではなかった。

 

 その像に宿る魂はキネティではない。代わりに入り込んだ何者かだ。自我を得られなかった無数の個であり、ただ一つに収束していく個である。渦からあふれ出た個たちは各々が鑿と玄翁を手にしてアクアへと群がっていく。

 

「いやあああああああ!!」

 

 アクアは絶叫しながらも諦めてはいなかった。闘士の誇りが彼を突き動かす。敵の群れに囲まれながら、自壊していく肉体を血流操作によって狂い舞わせる。

 

 その一方でキネティもまた己自身との闘いを繰り広げていた。石のように硬直していく身体を立ち上がらせる。ゆっくりと箱へと近づいていく。

 

 こんな終わり方でアクアとの決着をつけるわけにはいかなかった。箱を持ち上げる。その手にありったけのオーラを集めていく。自然に具現化されたその形は、巨大な鎚だった。

 

 直方体の箱をヘッドに使い、そこに具現化した柄を取り付けたハンマーである。キネティはその場で巨大なハンマーを振りかぶる。

 

「――! ――!」

 

 四方八方から鑿を打ち込まれたアクアは、この上ない窮地にあった。体は一切動かせない。必死にオーラで防御を固めて堪えようとも次々に鑿が打ち込まれ、アクアの鎧を破壊し肉を穿つ。

 

 少女たちは、誰だ誰だと意味をなさない言葉を発しながらアクアを嬲り殺そうとしていた。審判は近づくことができず、何が起きているのか見えないため判定を下せない。

 

「こんのぉ……!」

 

 渾身の力を込めてキネティは鎚を投げる。ハンマーは回転しながら一直線に念人形の群れへ向けて飛んだ。

 

「駄作どもがあああ!!」

 

 ハンマーはアクアに群がる念人形たちに直撃した。確かな強度があったはずの念人形はその衝撃を浴びた瞬間、余波だけでガラス細工のように砕け散った。しかし、その中心地にいたはずのアクアには被害をもたらさなかった。

 

 それは何よりも許せないと思うキネティの怒りが、念人形にのみ向けられていた感情だったからかもしれない。ハンマーは地面に横たわっていたアクアの上をすれすれで通過し、闘技場の壁に轟音を響かせて突き刺さった。

 

 会場が沈黙に包まれる。審判がアクアへと駆け寄り状態を確認した。全身に無数の傷痕を残した彼が立ち上がることはなかった。ジャッジが下される。

 

「アクエリアス選手の戦闘不能を確認! 勝者、キネティ!」

 

『なんという快挙! キネティ選手勝利! そして今ここに新たなフロアマスターが誕生したああああ!! 伝説の幕開けだああああ!!』

 

 息を吹き返したかのように会場は歓声に沸く。しかし、その中で勝ったはずのキネティは微動だにせず固まったままだった。不審に思った審判が近づいて調べた。その体は精巧に作られた石像そのものだった。

 

 そしてキネティの像は風化するように砂と化して消えていった。具現化が解けたのだ。石像はオーラに還った。会場に残されたのは戦闘の爪痕と、倒れ伏すアクア、そしてキネティの箱のみだった。

 

『消えた!? マスターキネティ消失! これはもしや……ドロンのジツ! やはりニンジャガールだったのか!? 勝利の余韻に浸る間もなく帰ってしまったというのか! ミステリアスです!』

 

「し、師範代……キネティはどこに……?」

 

 念能力の知識がある者ならおよその事態は予想がついた。ウイングは早急に“箱”の中を確かめるべきだと判断する。リングの上では既に闘技場スタッフによる撤収作業が始まっていた。

 

 こういった場合、ウイングがキネティの身元引受人として登録しておけば所有者不在時の武器などの物品を引き取ることができたのだが、今回の試合は直前のごたごたのせいで手続きができなかった。

 

「ズシはキネティを探してください。私はひとまず彼女の武器を引き取りに行きます」

 

「わかったッス!」

 

 ズシにはあえて説明をしなかった。もし箱の中が“取り返しのつかない状態”であったとき、何も知らずにいた方が良いだろうと。

 

 

 * * *

 

 

「くっそ……重てぇ……何が入ってるんだ……!?」

 

 ダラッコは黒い箱をカートに乗せて運び出していた。アクアが彼をキネティの身元引受人として手続きしており、試合後すぐに武器を引き取ったのだ。ダラッコならばキネティと親子関係にあるので面倒な身分証明が不要だった。

 

 何とかエレベーターに乗せたところで一息つく。行先は1階だ。事前の取り決めではアクアのところに行く予定だったが、もはやフロアマスターの地位から陥落したアクアに頼るべきではないと判断した。

 

 素人目から見ても確実に病院送りにされる重傷だとわかった。あれだけ大口を叩いておきながらまさか負けるとは思っていなかった。結局何の役にも立っていないではないかとダラッコは憤慨する。

 

 わざわざ義理立てするような関係でもないし、これ以上関わっても損しかないと割り切った。キネティがどこに行ったのかという問題もあるが、試合自体が超能力者じみた異常な展開だったため、ダラッコはどこからどこまでが真実なのかわからない現実感覚の麻痺に陥っていた。

 

 最近はVR技術なども高度に発達してきているし、何らかの演出によるヤラセなのではないかと疑っていた。しかし、天空闘技場という巨額の金が動く一大興行に茶々を入れるつもりはない。その闇を暴き出そうという気もさらさらなく、ダラッコの行動は即物的な利益に終始していた。

 

 つまり、この箱を持ち逃げするつもりだった。ドリームオークションの収益で借金についてはほぼ完済している。後はこの箱を売り払って第二の人生を歩むための資金を得る計画だった。

 

 天空闘技場が引き渡しを認めているのだから何の問題もない、この作品は俺のものだという勝手極まる解釈をしていた。今後の人生プランについて思いを馳せていると、エレベーターの扉が閉まる直前で割り込むように誰かが入って来ようとしていた。

 

 

「うふふふふふ。どこに行くつもりなのかしら?」

 

 

 血まみれの手が扉をこじ開ける。ゆっくりと開いていく隙間から化け物が顔をのぞかせていた。ダラッコは悲鳴をあげて閉めるボタンを連打するが仕様上、無効な操作だった。

 

 改めて間近で見たアクエリアスは重傷などという言葉では言い表せないほど無惨な傷を負っていた。生きて立っていることが不思議だった。

 

 だが、実力のある念能力者だけのことはあった。手負いであってもダラッコに万に一つの勝ち目もないと思わせる威圧を放っている。あっさりとダラッコは箱をアクアに渡して逃げた。

 

「負けちゃったわ、キネティちゃん。これからどうしようかしら。もう私、あなたを手放せそうにないわ」

 

 憎しみとも喜びとも言い難い感情を込めて、アクアは箱に語り掛ける。この一般客用エレベーターではアクアの居住フロアである247階には行けない。闘士用のエレベーターに乗り換えるため、カートを押して歩きだした。

 

 血濡れの人間がのろのろと大きな荷物を押して歩いていれば嫌でも目立つ。だが、誰も声を掛けられる雰囲気ではなかった。今の瀕死のアクエリアスであっても200階級の闘士程度に後れを取るようなことはない。それだけの殺気がこぼれている。

 

「三天の一人とも有ろう者が無様よな、アクエリアス」

 

 しかし、その声はかけられた。曲がり角から二人の人物が姿を見せる。一人は巨漢の戦士だった。鎧など不要とばかりに見せつけられた鋼の肉体には大蛇の入れ墨が巻き付くように描かれている。その肩からは魚の骨のような異形の大剣が下げられていた。

 

「っしゃいませー! お客さまー! レギュラー満タンで?」

 

 もう一人は対照的にまるで戦士には見えない。ガソリンスタンドのスタッフのような恰好をした男だった。背中にはビールサーバーに似た装置を背負っているが、そこから伸びる管の先は給油ノズルのような形状になっていた。

 

 アクアはその男たちを見て顔をしかめる。ただの雑魚なら気にも留めなかっただろうが、無視できる相手ではなかった。たとえアクアが万全の体調を整えていたとしても敵わない強者である。

 

 フロアマスター序列2位『竜尾蛇頭のオフュークス』、そして序列3位『大特価リーブラ』。アクアと同じ『三天』の闘士である。アクアはバトルオリンピアにおいて、この二人に力及ばず敗退していた。

 

「何の用よ……笑いに来たの?」

 

「嘲笑にも値しない。お前は負けた。もはや最高位闘士の一人ではない。それも敵に情けをかけられ生かされた」

 

 アクアはキネティが最後に放った一撃を思い出し、屈辱を噛みしめる。オフュークスは剣の切っ先をアクアへと向けた。その両刃の刀身は櫛状に誂えられている。ソードブレイカーと呼ばれる剣だが、通常は盾のようにして用いる補助的な武器だ。しかし、オフュークスのそれは両手剣並みの大きさがあった。

 

 リーブラが交通整理をするかのように折り目正しく周囲の人払いをしていく。場合によってはこれからここが凄惨な処刑場と化す可能性もあるからだ。

 

「お前は昔からそうだった。これまでは目をつぶってきたが今回ばかりは我慢ならんぞ。ここで自死を選ぶか、俺に殺されるかどちらか決めろ」

 

「あんたに何の権限があるのよ! 確かに試合では負けたけど、キネティちゃんは誓約の代償で“このざま”よ! 結果的には私の勝ちみたいなものじゃない! フロアマスターだって十分続けられる実力が……」

 

「貴様という存在が三天に籍を置いていたという事実が、王の顔に泥を塗る汚点だとわからんのか。もはや死をもって禊ぐ他ない。潔く死に方を選べ、アクエリアス」

 

 ただ負けただけで死ななければならないとは不条理だ。しかし、強さを至上とする苛烈な闘士オフュークスはアクアの失態を許さなかった。

 

 何とかして逃げたいところだったが、地上200階のこの場所に逃げ場はなかった。敵勢にはリーブラもいる。先の闘いのダメージもある。戦闘に入れば殺されるのは確実だった。

 

 選択を迫るオフュークス。アクアはその返答を引き延ばしながら藁にも縋る思いでいると、そこに誰かの足音が近づいていることに気づく。オフュークスの強烈な殺気が吹き荒れるその空間に気圧されることなく立ち入ってくる。

 

「なんだ、お前は?」

 

 その男は見るからに平凡だった。だらしなく腰からシャツが飛び出し、寝ぐせも直していない黒髪の、眼鏡をかけた男だった。念能力者であることはわかるが、この込み入った状況にわざわざ首を突っ込んでくる理由まではわからない。

 

「私は“その子”のコーチでして。あなた方の事情に関わるつもりはありませんので、こちらに渡していただけますか?」

 

 ウイングがアクアの持つ箱を指さすことで一行は合点がいった。しかし、オフュークスは唯々諾々と勝手を許すつもりもない。

 

「悪いが、お引き取り願おうか。今回の件に関して我々には闘士王……序列1位のフロアマスターへの報告義務がある。その箱についても調べねばならんのでな」

 

「そうですか。では……実力行使といきますか」

 

 ウイングは練り上げたオーラを発する。その桁違いの闘気に誰もが瞠目した。弾かれたように戦闘態勢に入る。

 

「お客様、素晴らしいお車をお持ちのようですね。ここは私が……」

 

「待て、リーブラ。あのオーラはもしや」

 

 オーラは個人によってわずかに質が異なる。オフュークスはその闘気に見覚えがあった。ウイングが纏う気は、かつてオフュークスたちが肩を並べた闘士王配下『黄道十三天』の一人にして最悪の反逆者である男と酷似していた。

 

「じゅ、13!? 三天ではなかったので?」

 

「新参者のお前は知らずとも無理はない。今や十三天政を知るマスターは闘士王と俺とアクエリアスの三人のみだ」

 

「なんというお客様だ……まさかフロアマスターの半数以上を束ねられた時代があったとは」

 

 しかし、その黄金期は内乱によって終わりを迎える。その原因を生み出した男こそ『一矢九貫』と恐れられた闘士サジタリウス。見た目はすっかり変わってしまったが、オーラの質までは隠せない。オフュークスとアクアはウイングの正体に気づく。

 

「よくもぬけぬけと戻ってきたものだな、サジタリウス……」

 

「できれば私も帰って来たくはなかったんですが、成り行き上仕方なく」

 

 ウイングにとってここは振り切った過去しか残されていない場所だ。ズシと出会わなければ二度とこの地を訪れる気はなかった。ズシの夢はこの塔の頂に立つことだ。フロアマスターとなりバトルオリンピアで優勝することを本気で志している。

 

 ウイングは何度諦めろと諭したかわからない。確かにズシには才能があった。成長すれば自分を超えるほどの資質を感じた。だが、決して叶わぬ夢である。なまじ才があるだけに、この少年なら王のひざ元まで勝ち進むことができるかもしれない。しかしその果てに待つものは死である。

 

 それでもズシは諦めなかった。ウイングはその姿に、自分の過去を重ねてしまったのかもしれない。気がつけば師匠となり面倒を見る関係となっていた。

 

 その選択を間違いだとは思わなかった。心源流師範代として、一度教えると決めた弟子を見捨てることなどできない。それはキネティに対しても変わらず言えることだ。

 

「さっきも言いましたがその箱を渡してもらえればすぐにでも立ち去りますが」

 

「ほざけ! あの時の決着をここでつけてやる!」

 

 オフュークスが吠える。ウイングは静かに眼鏡を外すと、襲い来る敵に心源流の構えをもって相対した。

 


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