カーマインアームズ   作:放出系能力者

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12話

 

 精鋭部隊『クアンタム』は、サヘルタ合衆国が膨大な時間と資金をつぎ込んで編成した暗黒大陸調査団だ。しかし、表向きにその名が語られることはなかった。なぜなら、一般国民にとって世界地図に描かれた六大陸こそこの世界の全てであり、その“外”について触れることはタブーとされているからだ。

 

 クアンタムプロジェクトは国内においても長きに渡り賛否が飛び交う案件であった。国民の預かり知らぬところで莫大な税金が投入されている。国防費の一言で済ませるにはあまりに大きすぎた。

 

 それでもこの計画が中止されることはなかった。もしリターンの取得に成功すれば、その資源が生み出す利益は計り知れない。政財界を動かす支配者たちの野望は、国民の意思に関係なく国の在り方を決めてしまう。暗黒大陸という蓋をされた脅威に関して、もはや民主主義は機能していなかった。

 

 国の威信をかけて集められた200名の選ばれし精鋭たち。彼らは自分たちが黒とは言わないまでも、グレーに近い組織だと理解していた。その上で守秘義務を果たし、任務を忠実に遂行する意思をもった者たちだけが選抜されている。その任務のうちには、自らの死をも想定されていた。

 

 彼らは暗黒大陸の脅威を十分に理解していた、つもりだった。

 

 

「うっ、うっ……おれのせいで、みんな死んだ……おれが、あのとき、あの、あ、あ、ああああ……くるなあああ! うわあああ!!」

 

 

 調査船の一室で、三人の兵士が待機を命じられていた。一人の兵士は部屋の隅で頭を抱えてうずくまっている。船内は過ごしやすい気温であるはずだが、彼は極寒の地にいるかのようにガタガタと体を震わせていた。

 

 目の下は落ちくぼみ、色濃い疲労を感じさせた。その目の焦点は定まっておらず、虚空を忙しなく行き来している。恐怖に怯えるその視線は、ありもしない怪物の幻影を探し回っていた。テーブルの下、棚の隙間、天井の小さなシミ。些細な暗所を過剰なほど警戒していた。

 

 

「ぐご……」

 

 

 兵士の二人目は女性だった。部屋の真ん中で堂々と寝ていた。硬い床の上だと言うのに熟睡している。時たまあげる“いびき”がなければ、死んでいるかのではないかと思うほど動かない。

 

 顔立ちは整っているが、刈り込まれた短髪と鍛えられた体格から、一見して性別の判断がつかない。よだれが垂れるのも気にせず眠り呆けている姿からは品性を感じられないが、一応、その声は女性らしい高音の響きを持っていた。

 

「もう、だめだ……しぬ、し、ひっ、ひひひひいいいっ!?」

 

「……うっせーぞ黙れハゲ! 寝れねーだろが!」

 

「すまない……みんな……すまない……」

 

 

「……」

 

 

 三人目の兵士は、沈黙を保っていた。騒ぐ二人の兵士のやり取りに口を挟むことなく、我関せずを貫いている。

 

 一人だけ人種が異なり、東洋人系の顔立ちをしていた。机の上で手元の作業に集中している。書類仕事をしているようには見えない。ハサミで紙を切り抜き、そこに落書きのような模様を描き込んでいた。まるで工作遊びに没頭する子供のようにも見える。

 

 彼ら三人の兵士に、隊長一人を加えた四名が『クアンタム』の生き残りである。

 

 これがサヘルタ合衆国の誇る暗黒大陸調査隊の現状だった。この部屋の様子を本国の上層部が見えれば愕然とすることだろう。巨額の投資金はドブに捨てられたも同然の壊滅状況であった。

 

「……あっ、隊長が来るぞ」

 

 女性兵士が唐突に告げる。他の隊員は特にその発言を疑いもせず、てきぱきと身支度を整え始めた。その数十秒後、兵士たちが詰めている部屋に一人の男がやってくる。彼がこの部隊の隊長であり、先ほどアンダーム司令官に報告を上げていた兵士だった。

 

 隊長の男が部屋に入ったとき、既に中の兵士たちは整列して待機していた。その姿勢は凛として伸び、軍人としての機敏な所作を感じさせた。先ほどまで自由気ままにくつろいでいた緩みは見えない。

 

 だが、それは訓練によって叩きこまれた条件反射である。いくら姿勢を正そうとも、彼らの内面まで完全に律するものではない。

 

「悪い知らせがある」

 

 単刀直入に隊長は口火を切った。静かな緊張感が室内に漂う。

 

「カトライ=ベンソン」

 

「はひっ!?」

 

「チェル=ハース」

 

「はっ!」

 

「トクノスケ=アマミヤ」

 

「はっ」

 

 以上、三名に任務続行命令を下す。

 

 あまりに残酷な処分だった。彼らの肉体的、精神的疲労は限界に達している。一見して体裁を保てているように見える者も、その目は虚ろだった。その絶望的な心中は、実際に暗黒大陸を歩いた者にしかわからないだろう。

 

 確かに彼らは限界だった。

 

「で、悪い知らせとは?」

 

 しかし、まるで動じていなかった。当然のように任務を受け入れる。彼らは最初から、こうなることも想定した上で覚悟を決めてここにいる。

 

 クアンタム隊長グラッグ=マクマイヤは、この部隊を預かれたことに感謝していた。

 

 グラッグはアンダーム司令官にクアンタムの任務続行が不可能であると進言した。それは部下の心身を案じてのことであり、その気持ちに嘘偽りはない。だが、その部下を思う気持ちよりも圧倒的に大きな欲望に取り憑かれていたことも事実だった。

 

 何としてでも、この手でリターンを掴み取り、祖国へ持ち帰る。仲間たちは屍の山となった。恐怖がないとは言わない。それでも野望は抑えきれない衝動となって彼の身体を突き動かす。

 

 一方で、そんな自分の私的な感情に嫌気も差していた。本当に、残された仲間たちをつき合わせてもいいのかと悩んだ。だから、あえて自分の感情に反する意見をアンダームに告げたのだ。もし、アンダームがクアンタムの任を解いたのならば、自分にそれを否定する権利はない。すっぱりと諦めもつく。

 

 彼は任務を続けたかった。心の底からそう思っていた。その身を焦がすほどの熱に支配されていた。自分の良心の声にも応えられず、上官に決定を委ねなければならないほどに追い詰められていた。

 

「お前らの命、俺に貸せ」

 

 そして、隊員たちは隊長の思いを理解していた。だからこそ、彼をおいてこの部隊を率いる適任はいないと思っている。

 

「返す保障はない。だが、必ず“全て”を手に入れる。いいな?」

 

 

 YES Sir

 

 

 返答の言葉は静かだった。しかし、その一言に込められた思いは強い。それは前向きな活気や気合というよりも、腹の底で煮えたぎるような執念、妄念の類だった。

 

 世界には多くの強者がいる。その中で一般的な念能力者からすれば、軍人とは軽視されやすい傾向にある。集団の力はともかく個人単位で見たとき、群れなければ何もできない弱者の集団だと思われることがある。実際、軍に属する者の大多数は弱い。

 

 個人で念を修めるほどの強者なら軍になど入らずハンターになればいいのだ。それだけの強さがあればハンターになれる資格は十分にある。金も名声も思いのまま。ハンターなら自分のやりたいことを誰に憚らずやることができる。

 

 では、念能力者であるにも関わらず、軍という群れに縛られることを選んだ者たちは何なのか。彼らはある特定の条件下において、ハンター以上に個性的な存在だった。異常と言い換えてもいい。その生きざまは、余人には計り知れない。

 

 心身ともに限界を迎えてなお、己の潜在能力を出し切る。彼らの精神は死んではいなかった。

 

 

 * * *

 

 

 第八次調査遠征開始。帰還の日取りから見て、遠征にかけられる時間はそう多くない。できてあと二、三回が限度だろう。何よりも、全滅する可能性が最も高い。

 

 しかし、その危険はこれまでの遠征において常につきまとっていた。その危険をかいくぐり、彼らの部隊は生き残っている。

 

 出発当日、アンダーム司令官が直々に足を運び、隊員たちを激励した。訓示を与えるなら隊員を自室へ呼びつければ良かっただろう。彼の人となりが表れている。

 

 司令官は隊員たちのコンディションやメンタル面での不調を心配していたようだったが、それは杞憂だった。全身全霊をもって任務を完遂する。その意気込みを感じ取ったアンダームは安心して隊員を送りだした。

 

 生き残ることを何よりも重視せよ。情報を持ち帰ることを第一に考えろ。アンダームは口に出さなかったが、その言葉の裏に「無理はするな」という意味が含まれていることを、隊員たちは悟った。

 

 疲労色濃くも、気力は充実している。遠征は順調な滑り出しを見せた。

 

「……」

 

「どうした、チェル」

 

 部隊は早急に砂浜を走り抜け、森へと入っていた。身を隠す遮蔽物のない砂浜は渡るだけで精神を削る関門である。何事もなく森の中へ到達できたことは、ひとまず喜ぶべきだ。しかし、隊員の一人であるチェルは渋い表情のまま、しきりに周囲を警戒していた。

 

(見られている……?)

 

 彼女の鋭い感覚が警告している。それは産毛の先に触れるか触れないか、見過ごしてもおかしくないほどごく微小な兆候でしかなかったが、確かに彼女は異常を感じていた。

 

 

 

 チェル=ハース。彼女は物心ついたときから軍の養成所で育てられた。現在残っている隊員の中では、最も軍への所属歴が長い人間だった。

 

 軍に引き取られる以前、彼女は孤児としてスラムで生活していた。その当時、7歳。スラム出身の軍人はそれほど珍しくはないが、彼女の年齢で養成所へ送られることは異例中の異例だった。

 

 そこは実力だけが物を言う軍の特殊訓練校であり、希望したからと言って誰もが入れるわけではない。入学が叶えば生活保障はもちろんのこと、将来に渡って高い社会的地位までもが約束される。過酷な訓練プログラムに耐え抜けさえすれば。

 

 彼女が入学を許された理由は一重にその才能にあった。7歳にして既に念を習得していたのだ。

 

 しかし、実は子供の念能力者とはそれほど珍しいものではない。数だけを見るならむしろ多い。一般的に瞑想などの方法によらず念を覚えることはできないが、幼少期に自然発現するケースが稀にある。

 

 その場合の多くはオーラの纏い方を知らないため生命力が枯渇して衰弱死する。表向きは原因不明の病死として処理される。何とか堪えきれたとしても、力を意識して使いこなすことはできないので大人になっても自分が念能力者であることに気づかない者がほとんどだ。

 

 あるいは、『洗礼』によって強制的に念に目覚めさせられることもある。紛争地帯では、洗脳教育を施した少年兵に洗礼を与え、即席の念能力者を作り出すという非人道的手法が長きに渡り横行している。

 

 チェルの場合はこの『洗礼』により念に目覚めた。すなわち、他者からオーラによる攻撃を受けることで強引に精孔を開く方法だ。彼女の母親は娼婦であり、父親はマフィアに属する人間だった。この父親が念能力者であり、幼い頃に受けた虐待が洗礼となった。

 

 これだけならただの不幸な少女であり、軍の目に留まることはなかっただろう。彼女を特殊たらしめたのは生まれながらに持つ念の才能である。念の存在を全く知らない7歳の少女は、その時点で50メートルにも及ぶ『円』を使うことができた。

 

 修練を積んだ達人が生涯を賭してたどり着ける円の領域が50メートルと言われている。それを考えれば異常な才能としか言いようがなかった。ただし、彼女がまともに使えた技は円のみであった。『円』は『纏』と『練』の応用技であるが、纏はオーラが漏出しない最低限の精度でしか使えず、練に至っては使用できなかった。

 

 何か一つの技を突出して扱えるのに、他の技は使えない。これは念が自然発現した者や無自覚に覚えさせられた者によくあることだ。ある日突然、自分の中に目覚めた未知の力に対してその使い方まで正確に理解することは無理な話である。幼い少女にしてみれば、まるで魔法か超能力のように感じただろう。

 

 一つ言えることは、彼女はその力を悪用しようとはしなかったこと。円の性質上、直接的な攻撃力があるわけではないが、使い方によってはいくらでも他者を傷つけうる。彼女の生い立ちを考えれば易きに流れ、無法の世界に身を置く選択をしてもおかしくなかった。しかし、チェルはその力を軍として人のために使う生き方を選ぶ。

 

 そして今、鍛え抜かれた彼女の円は半径100メートルにも及ぶ。円の技術だけを見れば間違いなく世界最高クラスの使い手だった。今回の任務では、彼女の円による索敵が全行動の主軸となっている。

 

 100メートルという領域は確かに広いが、この距離を上回る猛者も世界にはまだ何人かいるだろう。しかし、彼女が真に優れた点は円の発動持続時間にあった。円の使用には極度の集中と疲労を伴う。常人であればもって数分が限度というところ、彼女の場合は万全の状態であれば眠っているとき以外、常に発動し続けることが可能だった。

 

 オーラとは生命エネルギーであり、通常は肉体から離れ出ることができない。放出系の発により体外へとエネルギーを放つことはできるが、円の技術はそれとまた異なる要領がいる。

 

 強靭で柔軟な『纏』により円の外郭を作り上げ、その内部で『練』による圧力を高めて風船を膨らませるように範囲を広げる。このとき重要なのは纏の柔軟性だ。たいていの念能力者はこの纏の膜が硬すぎるため、うまく円の範囲を広げられない。その点だけは放出系よりも変化系に近い性質をもつ。放出系能力者だからと言って一概に円が得意ではない理由である。

 

 オーラを遠くまで放出する技術。纏の膜を限りなく薄く、それでいて力強く保ち続ける技術。それによって生み出した領域を自分の肉体の延長線だと考え、空気中に擬似的な感覚器を構築する技術。そして集められた膨大な情報を処理し、即座に取捨選択する技術。ひたすらに訓練を積んだからと言って覚えられるものではなく、才能なくして扱える技ではない。

 

 チェルは強化系能力者である。純粋な身体能力においても他に引けを取らない。しかし、その豪気でものぐさな言動とは裏腹に、彼女の戦闘スタイルは徹底した情報戦に長けている。広大な円による長時間の索敵は敵陣の情報収集に向き、自陣においても不用意に踏み込ませない抑止力として働く。正面切って戦うことを好まず、アンブッシュを最も得意とする兵士だった。

 

 隊長であるグラッグは、自分の身に何か起きたとき安心して後任を預けられるのは彼女だと考えている。状況の有利不利を即座に看破し、冷静に対処するその姿は老獪な狼のごとく。だが、その一流の円使いをして焦燥をにじませるほどの危機が音もなく忍び寄っていた。

 

「トク、5時の方向、何か見えるか?」

 

「……いえ、異常はありません」

 

 チェルは隊員の一人、トクノスケに問う。彼は念獣使いだった。鳥型の念獣を多数作り出すことができ、それらに高性能小型カメラを持たせて周囲を飛び回らせている。

 

 円はその範囲内にある全ての物体を手で触れているかのように認識することができるが、それによって得られる情報は実際に目で見る光景とは異なる。カメラから視覚的に映像を捉えることも重要だった。

 

 しかし、トクノスケが持つタブレットにはチェルが懸念するような異常は何も映っていない。森の中は潜入者が身を隠す場所が多すぎた。

 

「カトライ、敵意は感じるか?」

 

「ひいっ、ま、まさか敵が迫ってるんですかぁっ!?」

 

 カトライは放出系能力者であり、チェルと同じく円による索敵を担っている。彼の円は半径約30メートル。チェルに比べればかすんで見えるが、一般的にはこれでも十分に一流と呼べる使い手である。チェルが疲労などの理由により円を使えないときの補助要員だ。

 

 しかし、彼の真価は円の使い手というよりも類稀なる察知能力にあった。念能力者は敵の殺気に対して優れた感知能力を持つ者が多い。実力者は遠方に潜む敵が漏らしたわずかな殺気を見逃さない。カトライはこの感覚がずば抜けていた。小心者の彼の性格に反して、いや、だからこそ彼は人から向けられる悪意に敏感だった。

 

 その性格はともかく、2キロ先からの長距離狙撃をも見破った逸話をもつ彼の感覚は、隊の全員が信頼を置いていた。だが、先ほどの彼の反応を見るに、敵意らしきものは感じ取れていないようだ。

 

「敵か?」

 

「いや、まだわからない……思い過ごしかもしれない」

 

 チェルにしても確証はなかった。実際に、円の中にこちらを捕捉する危険生物の姿はなかった。だが、はっきりと異常と呼べるほど確かな感覚ではないが、森に入ってからというもの、何者かに尾行されているように感じていた。

 

 円による索敵範囲というものは、念能力者なら誰でも見ることができる。だから敵もそうそう自分から相手のフィールドに足を突っ込むようなことはしない。その円の射程距離を見せつけて牽制などに利用する使い方もある。

 

 しかし、円の中に踏み込まれなかったからと言って、必ずしも敵の存在を察知できないわけではなかった。円の外周付近には、ほんのわずかに纏の膜から漏れ出たオーラの飛沫が漂っており、鋭敏な感覚を持つ円の使い手は踏み込ませずして敵の接近を知ることができる。

 

 これは念能力者としては当然知っておくべき常識であり、尾行技術の初歩知識である。だからそれなりの教育を受けた使い手であれば円の外にいても気を抜かず、十分に距離を取った上で後をつける。今、チェルが抱いている違和感は、素人の念使いに拙い尾行をされている感覚に近かった。

 

 にもかかわらず、相手の存在を特定できていない。敵は高度な『絶』で身を隠している可能性がある。野生動物は生まれながらに絶の能力を身につけている者が多い。そう考えれば不思議ではなかったが、問題は相手が円の範囲を正確に把握していることだ。

 

 眼の精孔が開いた念能力者でもなければ、そんな芸当はできない。事実、これまでの遠征で円による索敵範囲を看破してくるような生物はいなかった。もし、そんな敵がいればあっという間に部隊は全滅している。

 

 そう、全滅する。

 

 チェルは目頭を強く揉み、思考の凝りをほぐそうと努める。まるでカトライの被害妄想がうつってしまったかのような気分だった。極度のストレスが見せたありもしない幻影。そう断じてもおかしくないほど不確かな“勘”でしかない。しかし、戦場においてその根拠のない勘に命を救われたことは何度もあった。

 

 チェルは自分が感じ取った違和感を仲間に報告した。その上で二つの策を提案する。

 

 一つは、円をたたみ、一度この場所から素早く離れることだ。尾行を撒く上でよく行われる手法である。もし、敵が円の範囲を頼りにこちらの位置を特定しているとすれば、その円を解除することで一時的に居場所を隠すことができる。100メートルのアドバンテージを利用し、なるべく遠くまで逃げるのだ。

 

 この策のデメリットは、円という広範囲索敵能力を封じたまま暗黒大陸の未開地を駆け抜けなければならないこと。そして、逃げに徹していては敵の正体を知ることができない。敵がいたのかいなかったのか、それは何者で、どんな特徴を持っているのか。何も知ることができないまま奔走することになる。

 

 もう一つの策は、逆に円の中へ敵を取り込むことだ。敵の情報を知った上で次の対処を決定する。デメリットは、敵を刺激してしまうことである。何の目的でこちらを尾行しているのか不明だが、確実に対応は変化するだろう。戦闘になった場合は敵勢力を無力化するまで船には帰れない。それはすなわち、決死の作戦を意味する。

 

「円を使え。まずは情報を得る」

 

 隊長は迅速に決断を下した。そして、チェルも否定的な意見を挟むことなく呼応した。情けなく顔をしかめながら泣くカトライを除き、誰も異を唱える者はいない。

 

 チェルは自分の能力『知られざる豊饒(ナイトカーペット)』を使用する。この能力は『円』に『隠』の効果を付与するというものである。理論上は応用技の複合であり、特殊な能力というわけではないが、その難易度は実現困難なレベルである。円に関して天賦の才をもつ彼女にしても、能力として様々な制約を課すことでようやく使うことが叶う技であった。

 

 つまり、感知不能の円。これならば敵に悟られず、円の中に取り込むことができる。

 

 チェルの円の最高射程は100メートルであるが、常にその長さを維持しているわけではない。実際は余力を残し、80メートルほどに抑えている。つまり今、敵がうろついていると思われる地点は十分に円の射程範囲に入っていた。

 

 その場所に追加の円を延長する。しかも、その延長した部分だけは『知られざる豊饒』の効果により『隠』で隠された状態となる。チェルは全精神を集中し、全身にかかる能力の負荷と戦いながら円を発動した。

 

 そして、何かの影を捉える。うすぼんやりとした輪郭が浮かび上がった。敵はその凄まじい絶の精度のため、円の中に捉えたというのに形がはっきりしない。大きさは人間の子供ほどで、数は一つ。

 

 そこまで捉えたところで敵の姿が消えた。円の外に逃れたのだ。

 

(気づかれた……!?)

 

 驚愕すべきことだった。隠はオーラが発する生命エネルギーの気配を絶つ技である。いかに野生の勘に優れた獣であろうと、エネルギーの残滓さえ感じることはできないはず。

 

 これを見破ろうと思えば『凝』を使うしかない。精孔を開き、念についての知識を得て修練を積んだ者にしかできない技である。それもチェルの使った『隠』は生半可な『凝』では見破れないほどの精度であった。

 

 念に精通した暗黒大陸原産の生物。たった一つ許された人類の切り札さえも通用しない脅威。勝てる道理がない。その最悪の想像が、脳内を埋め尽くす。

 

「チェル、どうした、何を見た……!?」

 

 思わず報告が滞るほどに彼女の逡巡は長かった。しかし、その顔色から隊員たちは察する。事態は想定よりも遥かに悪い方向へと進行しているのだと。

 

 だが、彼らの動揺を無視するように、さらなる事態の変化が起きる。

 

 チェルの円から逃れた敵が、自ら円の中へと入ってきたのである。その動きはゆっくりと落ちついたものだった。一転して見せつけるような余裕。しかも、敵は『絶』を解いていた。チェルはその影を克明に捉える。

 

 それは人間の形をしていた。腰まで届くほどの長い髪がある。第二次性徴を迎えた直後の子供のような体形で一瞬判断に迷ったが、そのボディラインから性別は女性であると推測する。

 

「映像、出ました!」

 

 トクノスケが操作する念獣のカメラがついに敵の全貌を映しだした。

 

 一糸まとわず、その全身は泥にまみれ薄汚れている。カモフラージュのため意図的に泥を塗ったのだとわかった。その中で、深紅の瞳だけが爛々と灯るように輝いていた。細い手足をぎこちなく揺らしながら歩く様子は、血の底から這い出てきた幽鬼を思わせる。

 

 その右手には奇怪な蟲を携えている。右手をすっぽりと覆うほどの大きさを持つ甲虫は、ドス黒く変色した肝臓の血のような色をしていた。微動だにせず少女の腕にしがみつく蟲の姿は、怪しげな呪術に用いる装身具のようにも見えた。

 

 しかし、紛れもなくその姿形は人間の少女であった。突如として現れた人型の生物を前に、隊員たちは戸惑わずにはいられなかった。

 

 少女は鳥の念獣に視線を向ける。そこから観察されていることを理解している様子だった。明確な知性を感じさせる行動を取る。

 

 指を一本立てた。その指先で空中をなぞるように動かしていく。少女はオーラを使い、空中に文字を書き出した。念使いは一般人に見えないオーラを使って暗号のように文字を残し、簡易の意思疎通を図ることがある。念文字と呼ばれる通信手段だった。

 

『敵意は無い。対話を求む』

 

 使用された言語は六大陸で一般的に使われている共通語であった。念を当たり前のように使い、人間の言語まで理解している。大詰めを迎えた暗黒大陸調査は、ここに来て最大の混迷に直面していた。

 

 


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