カーマインアームズ   作:放出系能力者

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番外編:メルエムの休日

 

 暖かな日差しが降り注ぐ、のどかな田園風景が続く。田畑には農作業を行う村人たちの姿があった。舗装もされていない道の上を、一人の少女が歩いていく。メルエムである。

 

 その姿はあまりにも牧歌的な風景と噛み合っていなかった。目が覚めるように鮮やかな赤色のドレスは貴族の風格を思わせる。服だけでなく、それを着こなす少女の美貌も浮世離れしていた。日傘の下に垣間見える、結い上げられた銀色の髪は幻想的だった。

 

 しかし、不思議なことに村人たちは誰もその少女のことを気にするそぶりは見せなかった。まるで普段と変わらぬ日常をなぞるかのように、目もくれず仕事に打ち込んでいる。

 

 道なりにゆるりと歩を進めたメルエムは、やがて丘の上に立つ一軒の家の前に到着する。簡素な造りではあるが、その家は村の中でも一番立派だった。入口には『ハクリキ商店』と書かれた看板が立てられている。

 

 メルエムが店の中に入ると店主の女が出迎えた。男手は畑仕事に出かけている。女はその客の姿を見るなり目を点にして固まってしまった。凍てつくような触れ難い気配を持つ少女に、何と声をかけていいのかわからない。

 

「あ、ええと……」

 

 まごついている店主をよそに、メルエムは店の中を見回す。品ぞろえはお世辞にも良いとは言えなかった。食料品や日用品が棚の上に、申し訳程度に並んでいる。どれも古ぼけて使えるかどうかも怪しい商品だ。

 

 どうやら茶店を兼ねているらしく、建物の奥には飲食ができそうな空間があった。彼女は初めて口を開く。

 

「茶も出しているのか?」

 

「は、はい。しかし、とてもお嬢様にお出しできるようなものでは……」

 

 メルエムは構わず店の奥へと進んだ。軒先に近い席に座る。机も椅子も、日に焼けてボロボロだった。唯一、褒められる点を探すとすれば景色の良さくらいだ。庭に植えられた柿の木と山々の遠景が合わさった構図は情緒を感じさせる。

 

 客を追い払うわけにもいかず店主は精一杯のもてなしをするしかなかった。少女は差し出された薄い緑茶と味気ない団子を無言で食べ始める。表情に変化はなく、機嫌が悪いのかどうかもよくわからなかった。

 

「お嬢様はペイジンからいらしたのでしょうか? さぞかし名のある良家のご令嬢とお見受けしますが、こんな田舎にどのようなご用向きでしょう?」

 

「この村に軍儀王がいると聞いてな」

 

 軍儀とは、この東ゴルドー共和国発祥のボードゲームである。経済的に苦しい国であるが、金のかからないこの遊びが庶民の間でも娯楽として広く親しまれていた。世界大会も開かれるほど、それなりの知名度があるゲームである。

 

「なるほど、そうでございましたか。確かに世界大会の覇者……コムギという娘がおります。と、言いますのも、実はこの家の娘でして」

 

 15年前から開催されている世界大会において現世界王者である東ゴルドー代表は5連覇中である。公式戦において確認されている戦績は無敗。ただの一度も負けたことがない神童だ。

 

 口さがない言葉で卑しい生まれを罵られることもあったが、そういう身分とプライドの高い軍儀うちほど彼女に対戦を挑むことはなかった。一人で何世代分もの新たな戦略を生み出した天才である。腕に覚えがある者ほど信じがたい実力だった。

 

「ならば話が早い。余はそやつと一局交えに来た。ここへ連れてまいれ」

 

 確かに噂を聞いたもの好きがコムギとの対局を望んでこの村を訪ねてくることは稀にあった。しかし、上流階級の人間がわざわざこの田舎くんだりまで足を運んできたことはない。

 

 しかも、十代かそこらの少女が供もつけずにである。あまりにも不自然だ。狐か何かに化かされているとでも言われた方がまだ納得できた。だが、現実に生まれも育ちも高貴としか思えない人間が来ている。そこらの住人をどれだけ着飾ったところでこうはならない。

 

 とにかく気味が悪かった。できれば早く帰ってほしかったが、本当に特権階級の人間であれば無下に扱うわけにもいかなかった。

 

「わ、わかりました。少々お待ちください」

 

 店主は家の奥へと向かう。娘のコムギはいつも自室にいた。一日中、そこで盤と向き合っている。彼女は全盲だった。軍儀以外にできる仕事はない。だがそれでも十分以上の稼ぎがある。

 

 プロの棋士であっても国内王者程度では雀の涙ほどの収入しかない。プロと言っても普通はそれ一本で生計は立てられず、国の代表として選ばれ世界レベルの対局を制して初めてまともな金が得られるようになる。

 

「コムギ、すぐに身支度をし。お前と軍儀をうちたいと言う客が来た」

 

「へば! わかたす!」

 

 コムギは鼻声で元気よく答える。彼女はあまりにも強すぎるため、対戦相手になってくれる人が周りにいなかった。こうしてたまに現れる挑戦者の存在は数少ない楽しみの一つでもある。

 

「いいかい、コムギ。今日の相手はかなり身分の高いお方だ。政府高官のご令嬢かもしれん」

 

「そ、そうだすか。失礼のないようにしばす!」

 

「それだけでは足りないよ。次の勝負、勝ちを譲ってやりな」

 

 コムギは母の言葉が理解できなかった。煩わしそうに店主は説明する。

 

「ご機嫌取りだ。公式戦でもないただの一局、勝負にこだわる必要はない。ああいう手合いはとにかく自分が勝たなければ納得しないからね。もしお前が勝って恥をかかせられたと親に泣きつかれたらどうする。この家は破滅だ」

 

 仮にその少女が偉くもなんともなかったとしても、怪しい人物であることに変わりなく、どちらにせよ関わり合いたくなかった。この国の国民は指組という住人同士の監視体制下に置かれており、スパイ容疑などの密告を推奨していた。あらぬ勘繰りを受けることは避けたい。

 

 あまり露骨な負け方をしても逆に機嫌を損ねるかもしれないが、コムギほどの名手なら調整はいくらでもできるだろう。とにかく早急に、接待して、気分よくお帰りいただく。店主は何度もコムギに言い聞かせる。

 

 しかし、先ほどまで嬉しそうにしていたコムギの表情はどんどん曇っていった。

 

「で、でも、ワダす、軍儀で負けたら……」

 

「何をぐずぐずしてるの! 早く! 鼻もかめ! みっともない!」

 

 杖を手に持ちよろよろと立ち上がったコムギを、店主は転がすように押していく。

 

「お待たせいたしました。これが娘のコムギです。挨拶しな」

 

「えっ、え~~っ、こっ、この度はおひらが、おらひがもよく……」

 

 畏まった口上を述べ始めたコムギを見て、メルエムはくつくつと面白そうに笑い始めた。それを見て勘違いした店主は自分の娘をこれ見よがしにこき下ろす。

 

「まったく馬鹿な娘で申し訳ありません。なにぶん軍儀をうつこと以外は何もできないアカズでして」

 

「もう貴様に用はない。下がれ」

 

 さっきまでにこやかにしていたメルエムは急転直下、眉間にしわを寄せて店主を睨みつけていた。幼い少女とは思えない迫力に気圧された店主は口を閉じてすごすごと引き下がり、店先に「閉店」の立て札をかけた。

 

「座れ」

 

「は、はい」

 

 席に着いたコムギとメルエムは盤上に自陣の駒を並べていく。何千、何万と繰り返してきた作業だ。目が見えずとも淀みなく配置は終わった。

 

「先手はそちらに譲ってやる」

 

「へば……4-4-1兵」

 

 コムギは自分の差し手を読んだ。目が見えない彼女の対局は、読み駒をしてもらわなければ捗らない。手番が終わったコムギは相手がうつのを待つ。

 

 だが、なかなかその声があがらない。メルエムは盤上ではなく、コムギの顔を見ていた。普段となんら変わらない表情だ。コムギの目は閉じたままだった。

 

「あの……」

 

 局面が煮詰まって来てからならわかるが、最初の一手でここまで長考することはあまりない。さすがにコムギも不審に思った。

 

「どうやら調子が乗らんようだな。眠気覚ましにこの一局、何か賭けるか」

 

「いっ、いえお気遣いなく! それに賭けと言われますても、ワダすにはお渡しできるようなものは何も」

 

「命だ」

 

 メルエムは互いの命を賭けようと言い出した。ただの遊戯に命を賭ける。酔狂などという言葉ではとても表せない。冗談としか受け取りようがなかった。

 

「そちが負ければ命をもらう。よいな?」

 

 有無を言わさぬ口調だった。もし昨日までのコムギであれば、はっきりと答えただろう。私の命でよければどうぞ、と。

 

 彼女はこれまでの対局においてその全てに自分の命を賭けてきた。プロ棋士さえ頂点に立たなければ食っていけない世界である。一度の負けでも地位から陥落すれば収入はない。『軍儀王、一度負ければただの人』という格言もある。

 

 コムギに至っては親から負ければゴミだと言われていた。彼女はその言葉を胸に刻み棋士となった。軍儀で負ければ自ら命を絶つ覚悟があったからこそ勝ち上がれたのだ。

 

 しかし、今日に限っては胸を張ることができなかった。先ほどの母の言いつけが頭にこびりついて離れない。この勝負、彼女は負けなければならない。真剣勝負ではなくなってしまった。

 

「無論、こちらも負ければ命を差し出す」

 

「滅相もありません!」

 

「とはいえ、余の命などもらってもお前に何の得もないだろう。お前が勝ったら、望むものを何でも与えることにしよう。余の命が欲しければそれでもいいが」

 

 どこまで本気で言っているのかコムギにはわからなかった。賭けの内容を一方的に言い終えたメルエムは、ようやく駒をうち始める。ついに盤面が動き始めたのだが、手番が進むたびにコムギは苦し気な唸り声をあげていた。

 

「9ー9-1師」

 

「1-5-1師」

 

 メルエムのうち方がコムギを唸らせるほど優れていたわけではない。むしろ逆だ。少しでも真っ当に勉強していれば、まずやらないお粗末な手を使ってきた。

 

 それは十年も昔に流行った『孤狐狸固(ココリコ)』という戦術だ。左翼の隅に師を離し、そこに攻め入らんとする敵の攻防を制する一手。槍三本に対する『中中将(ナカチュウジョウ)』という一連の戦法が当時もてはやされていた。

 

 それを考案したのがコムギである。そして、その戦法を殺したのもコムギだ。当時の名人戦において孤狐狸固を使ってきた相手に対し、一戦の最中に返し手を編み出した。それ以降、公式戦からは姿を消し、参考書の片隅に載せられるだけの過去の遺物となる。

 

 既に検討され勝ち目がないことが確定している『死路(シロ)』だった。

 

「8ー1-1忍」

 

「……2-3-1砲」

 

 勝とうと思えば勝てる。もはやその先の駒の動きは決まり切っていた。だからこそ息苦しい。うつ手が止まりそうになる。

 

 左翼に寄せた師を狙う攻防から、敵左翼に生じる隙。犠牲を払いつつもこじ開けたその隙を突く、と見せかけて盤面を支配するメルエムの一手が中央に食い込む。

 

「5-5-1中将」

 

 そこで完全にコムギの手が止まった。ここが分岐点だ。正道を選ぶなら次の一手で勝負が決する。しかし手を誤れば一転泥沼。正着のつかない長引く盤面を、終局まで相手に牽引されることになる。

 

 相手はこの手が死路であると知らずにうっているのか、それとも知った上でコムギをもてあそんでいるのか。目の見えない彼女には相手の表情をうかがい知ることもできない。

 

 勝つか、負けるか。苦渋の選択を強いられたコムギ。その答えは。

 

「9ー2-1…………中将新」

 

 勝つことだった。絞り出すように駒を読む。負けて殺されるのが怖かったからではない。軍儀において不義を働くことは、軍儀に生かされてきた彼女にとって死ぬことも同然だった。

 

 手を抜くことはできなかった。きっちりと敵を仕留めにかかる。そうする以外のうち方を、彼女は知らなかった。

 

 だが、同時に母との約束を破ってしまったことを悔やむ。勝ってこれほど後悔した対局も今までなかった。

 

 その一手で勝敗は決した。たとえ死路であったことを知らずとも、頭の良いうち手なら敗北に気づくだろう。命まで賭けると大言壮語を吐いた相手を負かしてしまい、何と言ってなだめようかとコムギはそちらに頭を悩ませていた。

 

「4-6-2忍」

 

 メルエムは間髪入れずに次の手を指していた。これは既に勝負がついていることにも気づいておらず、相手が投了を宣言するまで付き合うしかないとコムギは思っていた。

 

 しかしそのとき、彼女が頭の中に思い描いた盤上に異変が生じていた。中中将を封じるコムギの中将新、それを受けて繰り出された忍の一手が形成を塗り替えていく。

 

 死んだはずの局面が息を吹き返す。十年も前に廃れたはずの定石を覆す新手だった。

 

 コムギも中中将を封じられた先の展開を考えなかったわけではない。だが、いくら検討を重ねてもたどり着く先は死路か、いたずらに無駄な手を増やすばかりの近死路しか浮かばなかった。

 

 この指し口、偶然成ったものではない。目の前に座る対戦相手は、孤狐狸固に命を吹き込むこの新手を考えてきたのだとようやく気づく。

 

「目は覚めたか? いつまでも寝ぼけたままでいられては、余も退屈だ」

 

 コムギは見えないはずの目を開けていた。それが本来の彼女の対局姿勢である。頭の中に渦巻いていた雑念は全て掻き消え、ただこの一局にのみ意識を集中させていた。

 

 

 * * *

 

 

 飛ぶように時間は過ぎる。じっくりと互いの手を鑑賞し、吟味する戦いだった。対局が始まり三時間が経過している。傾いた陽光が柿の枝にかかり、盤上に木漏れ日を落としていた。

 

 二人の様子は真逆と言っていい。片や、優雅に腰かけた少女は冷めた茶をすする様すら絵になるほど気品にあふれ、その対面では軍儀王の名をほしいままにした世界王者が目から鼻から汗腺から、汁という汁を垂れ流して困憊していた。

 

 しかし、その両者の様子と盤面の状況は全く噛み合っていない。開始から156手、メルエムが声をあげる。

 

「ない。詰みだ」

 

 そして、心底おかしそうに腹を抱えて笑い出した。その姿を傭兵団の仲間が見ていれば、天変地異の前触れかと恐々としたことだろう。それくらい普段の彼女からすれば考えられない感情の表し方だった。

 

 緊張の糸が切れたコムギは机に伏す。一生分、脳みそを酷使したかのような心境だった。勝ちはしたが、生きた心地はしない。一手違えれば勝敗は容易に逆転していただろう。

 

 両者ともに想像を絶する棋士の実力を持っていた。新手に続く逆新手。この一局が公式に記録されていれば、軍儀の歴史を揺るがす一戦となったことは間違いない。

 

 とどのつまり、このような盤上遊戯において勝敗を分かつ最たる要因とは、いかに相手よりも先の手を読めるかにかかっている。局所的な戦術と、大局的な戦略をどう組み合わせ、相手に合わせて手札を切るかだ。

 

 メルエムは今のコムギが知らない狐狐狸固から先の定石を知っていた。それはもはや覆しようがないほどの有利だった。そこに彼女の超人的思考能力が加われば、勝てない方がおかしい戦いである。

 

 だが、蓋を開けてみれば歯が立たない。窮地にあえぎ、苦しみ抜いて指したコムギの返し手は、その紆余曲折の過程に反して見事に完成されていた。

 

 初手から156手、全てを読み切らなければ描けない棋譜である。例えるなら、無造作に投げ落としたガラス瓶が砕けて飛び散った、その破片が偶然にも床の上に規則正しく整列し、美しい絵画を描きあげるかのごとく、あり得るはずもない奇跡だった。

 

 コムギは対局の最中に成長していた。自ずと芽生えた念の一種と言えるだろう。命を賭けたその誓約が軍儀という限られた条件下においてのみ、彼女を最強の棋士へと至らしめたのである。

 

 コムギはその成長を実感していた。自分の中に秘められていた可能性に気づき、喜び、その力を引き出してくれた好敵手に感謝していた。気づけば自然と、彼女も笑っていた。

 

「これほど心躍る時間は久方ぶりだ。礼も兼ねて約束通り、そちの願いを叶えてやる」

 

 この申し出に対し、コムギは既に答えを出していた。彼女の望みは一つしかない。もう一局、この凄腕の棋士と戦ってみたかった。

 

「それは駄目だ」

 

 しかし、無情にも断られる。

 

「どうしてだす!? なんでも叶えてやると言ってたのに……」

 

「軍儀をうつか否か、それを決めるのは余だ。そちに決定権はない」

 

 敗者の弁とは思えない傲慢さだった。しかし、その口ぶりからしてこの先もコムギと軍儀をする気がないわけではなさそうだった。

 

「まあそれはそれとして、約束自体を反故にするつもりはない。改めて願いを言え。一つだけ叶えてやる」

 

「でしたら軍儀を!」

 

「それ以外だ」

 

 そう言われても、コムギには他に望むものなどなかった。うんうんと唸り、考えを巡らせるが、先ほどまで使いっぱなしだった頭はなかなかうまく回転してくれなかった。

 

「悩むことはない。金が欲しければいくらでもくれてやる。それとも、自由が欲しいか?」

 

 今の暮らしに不満はないかとメルエムは問うた。その言葉を聞き、コムギよりも大きな反応を示したのはその母だった。店主の女は対局中、二人のただならぬ剣幕を前に静観するしかなかったが、これには聞き捨てならないと割って入ってくる。

 

「お、お待ちください! その子は軍儀のこと以外何もわからない世間知らずでして! 褒美を下さるというのであればわたくしがお話をお聞きします!」

 

 金をもらえるというのであればもちろん大賛成だが、他にも色々と娘には必要ない情報を吹き込まれそうな気配を感じ取っていた。

 

 コムギはこの家にとって大事な稼ぎ頭、金の卵を産む鶏だった。だからこそ大事に家の中に閉じ込めて余計な気を起こさないように縛り付けていた。どこぞから引き抜きにあってはたまらないと気をもんでいた。

 

「貴様に用はない。二度言わすな」

 

 威圧を受けた店主の心臓が縮みあがる。その人間業とは思えない殺気を受けた店主は、震え上がって退散した。これは悪霊の仕業に違いない、悪霊が人の姿に化けて来たのだと思い込み、部屋にこもって念仏を唱えた。

 

 何が起きているのかさっぱりわからないコムギだったが、ひとまずメルエムに返答した。

 

「ワタすには自由とか、そういうのはよくわからないす」

 

「こんな待遇を受けていながら何の不満もないと?」

 

「はい。あるはずないす」

 

 ハクリキ家は10人家族だ。他の多くの村人と同じく、元は貧しい農民だった。この店も最初からあったわけではない。コムギが軍儀で得た報奨金によって建てることができた。

 

 障碍を背負って生まれてきたコムギは幼い頃からずっと虐げられてきた。軍儀王となる前は人としての扱いすら受けていなかった。それが賞金を得るようになるや否や、掌を返したようにもてはやした。

 

 他人から見れば、なんとひどい家族かと軽蔑するかもしれない。だが、それが普通なのだ。

 

 子供とは、賃金をかけずに増やすことができる労働力である。首都ペイジンの他に学校はない。地方の農村では大人も子供も一日中汗水垂らして働き、ようやくその日の糧を得ることができる。

 

 我が子だろうと、働くことのできないごく潰しを養う余裕はない。ゆえに障碍者は生まれたその直後に殺される。生き地獄を味わわせるくらいならと勝手な理由をつけ、罪もない赤子の命は奪われる。

 

 では、なぜコムギは殺されなかったのかと言えば、ある程度成長するまで親にも目が見えないことがわからなかったからだ。母親は、一度情を注いでしまった娘に手をかけることができなかった。

 

 コムギは愛憎の中で育てられた。ただでさえ苦しい生活の中で生きるため必死に働く兄弟たちから見れば、家族といえども許しがたい。お前は何のために生まれてきたのかと責めずにはいられなかった。

 

 それでもコムギは見捨てられずに育てられた。目が見えない彼女にとっては、家族だけが世界の全てだ。頼ることしかできず、何も返せない自分を恥じ、苛まれていた。そして彼女は軍儀と出会う。自分が生きる意味をようやく知った。

 

『お前はゴミだ! 負けたらゴミに逆戻りだ! だから勝て! 勝って証明し続けるんだよ! あんたにはそれができる!』

 

 その言葉に支えられ、コムギはついに世界王者の地位にまで上り詰めた。家族は皆、涙を流して勝利を祝福した。その時の喜びは一生忘れることができないだろう。

 

 報奨金によってハクリキ家の暮らしは変わった。小作していた畑を地主から買い取り、牛や農機を買う余裕もできた。長男は、今では仕事の指揮を執るまでに成長し、近々嫁をもらう予定もある。

 

 先進国の諸外国と比べれば貧しいことには変わりないが、それでもこの国の水準からすれば遥かに豊かな暮らしができるようになった。コムギは自分の軍儀が家族の役に立てたことを誇りに思っている。

 

 メルエムはその話を聞き、否定することができなかった。

 

 言葉だけならいくらでも言い様はある。コムギは外の世界を何も知らないだけだ。コムギだけではなく、家族も同様である。搾取することしか考えないこの国は、過剰な言論統制と情報操作によって国民を洗脳している。

 

 何かがおかしいと心の中で思っていても、それを口にしたからと言ってどうにもならない現実がある。何も見えないふりをして、その現実から目を背けようとしているだけではないのか。

 

 メルエムは自身のオーラを放っていた。その光子状のオーラは付着した対象の心理を読み解く。コムギの感情は穏やかだった。何か特別な変化を欲しているわけではない。今の生活に満足している。

 

 彼女は幸せだった。ならば、それで十分だ。そこに首を突っ込んでかき回す必要などない。メルエムの心は次第に冷えていく。

 

 余計なお世話だった。コムギに対して、ありもしない虚像を押し付けていた。自分が手を差し伸べてやらねばと、勝手に息巻いていただけだった。

 

 そもそも、この世界のコムギはメルエムの過去に存在するコムギとは異なる。彼女にしてみれば、今日軍儀を一戦しただけの関係だ。会わなければならない理由はメルエムにしかなかった。

 

 ここに来たことは間違いだったかもしれない。席を立ったメルエムは、きっとこの盲目の少女の前でしか見せないであろう表情をしていた。

 

「……では、願いは金、ということにしておくか。その方がお前の家族も喜ぶだろう」

 

「い、いえ、少し待ってください」

 

 コムギは金が欲しくないわけではなかった。それが人生を左右するほど大事なものであることはわかっている。だが、彼女にとってそれ以上に大切なものが家族であり、軍儀だった。

 

 金が欲しければそう言えば良かったはずだ。それをしなかったのは、対戦相手が抱えた覚悟の重さを感じ取ったからという理由もあった。

 

 互いに命を賭けるという条件だ。お茶を濁すように願いを叶えるという内容に取って変わったが、もし今からでもコムギがメルエムの命を欲すれば何の躊躇いもなく彼女は自らの命を絶つだろう。

 

 軍儀をしている最中のコムギは念的に覚醒した状態となっていた。対戦相手の心の機微を、駒のうち筋から感じ取ったのである。自分と同じだけの覚悟を持っていると根拠はないが確信していた。

 

 言ってしまえば、その命がけの覚悟を金で買おうとしているかのように感じてしまった。棋士として、あまりにも礼を欠いた侮辱である。

 

「お金はいりません」

 

 コムギの望みは軍儀だけだった。だが、その願いは叶えられないと言われてしまった。別の何かを求めなければならない。

 

 何もいらないと言っても別に構わないのだろうが、そう言ってしまえば二度とこの気難しい少女がコムギの前に現れることはない気がした。それもまた彼女の覚悟をないがしろにする行為である。

 

 それは嫌だ。コムギはまた彼女と軍儀がしたかった。今日ほど素晴らしい軍儀ができたことはなかった。初めて負けるかもしれないと思った強敵だった。

 

 彼女にとって敗北とは死に他ならない。首元まで刃を突きつけられたかような対局だったが、全く恐怖はなかった。互いの思考を読み合い、呼吸を重ね、心を通わせ、同じ時間を分かち合った。

 

 もう一度、軍儀がしたい。そのためには何か彼女の心を引き留める願いを言わなくてはならない。しかもそれはコムギ自身が望む願いでなければならない。その場限りの取り繕いや、おためごかしでは見抜かれるとわかっていた。

 

 必死に考えた。軍儀とは違う頭の使い方であったが、もしかすると対局中よりも悩んだかもしれない。そしてコムギはメルエムに望みを伝えた。

 

 

「名前を、教えていただけませんか?」

 

 

 

 

 それからメルエムは人知れずこの村を訪れるようになった。そのたびに二人は命を賭けた軍儀に興じた。いつも決まってメルエムが負ける。すると彼女は、何か願いを一つだけ叶えてやるとコムギに言うのだ。

 

 もちろん、軍儀のこと以外の願いである。常勝無敗の軍儀王も、これには困り果てた。次はいったいどんな願いを用意しておこうかと頭を悩ませる日々だ。

 

 それまで軍儀と家族のために尽くすことしか考えていなかったコムギが初めて他の物事に目を向け始めたのである。傭兵の少女は、その小さな変化の行く末を見守っていた。

 

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