蜘蛛の武器と言えば糸だろう。先手を打ったのはマチだった。その全身から噴き出すオーラは数万本もの糸となり床を伝って張り巡らされていく。ヒソカを探し、あぶりだすための罠だ。
確かにその目的は果たされた。肉人形の群れが切り刻まれ、その中からヒソカが飛び出してくる。だが、その程度の罠にかかったからと言って弱ることは決してない。獰猛に蜘蛛の巣を食い破り、逆に捕食せんとマチへ飛びかかる。
「『念糸縫製』!」
マチは待っていた。膨大な糸を瞬時に縒り合わせ、全身を包み込む鎧とする。その姿は白無垢を着ているかのようだった。
強靭な繊維が折り重なることで生まれる防御力は桁外れだ。かつてのウボォーギンの堅に匹敵すると言えばその規格外な強度の程がうかがえる。
ヒソカに絡みつく糸は、彼の肉体に深い傷を負わせることまではできないが、無数に絡みつき、獲物を手繰り寄せる。それでもヒソカがトランプを振るうたびに吹き荒れるつむじ風が、いとも容易く拘束を振り払ってしまう。
ただの糸ではヒソカの動きを止めることはできない。マチは自らヒソカに組み付いた。直にヒソカの体に触れることで理解する。マチが糸の鎧で身を守っているように、ヒソカもまたゴムの鎧で防御を固めていた。これではまともに攻撃が通るはずもない。
「ああ~♥ まさかキミの方から抱擁してくれるなんて、夢みたいだよマチ♦ ガ、マんんんんんんん! できないッ!!」
マチの行動に応えるようにヒソカは抱きしめ返した。その腕の筋肉が異常なほど膨れ上がる。膨張した『伸縮自在の愛』を『薄っぺらな嘘』で筋肉のように見せかけているだけだが、増強された力は嘘ではない。
「おおおおおおああああああああ!!」
ゴムの収縮によってかかる凄まじい外圧により、マチの体が軋む。力技で押しつぶされる。抗うようにマチは叫んだ。自分一人の力ではヒソカに敵わないとわかっていた。彼女は時間を稼ぐためだけに自分の命を使い果たそうとしている。
マチが命を削るその裏側で、団員たちは各々が自らの役割を果たそうとしていた。ボノレノフは舞い、作戦の要となる曲を奏でている。クロロは依然としてイルミから陰湿な妨害を受けていたが、それによってイルミの攻撃が他へ及ばないように囮の役目を果たしていた。
「いくぜ、フェイ」
「わかたね」
フィンクスが腕を振り回し、パワーを溜める。その横にフェイタンが立っていた。フィンクスの『廻天』により増大したパンチ力をその小柄な体で受け止めた。
何も知らない者がその光景を見れば裏切ったのか血迷ったのかと思うことだろう。強化系能力者であるフィンクスの拳の破壊力は、一撃でフェイタンを瀕死の重傷に追い込んだ。これはフェイタンの能力の発動条件を満たすためだ。
普段は自分の攻撃威力の調整に気を遣うことのないフィンクスだが、今回ばかりは細心の注意を払った。抜かりなく、フェイタンの命を生かさず殺さず首の皮一枚でつなぎとめた。フェイタンは傘を杖替わりにしながら何とかその場に立っているが、実際には死の間際にいた。
自分が受けた痛みによって攻撃のオーラを増大させるフェイタンの能力『許されざる者(ペインパッカー)』は、受けたダメージが大きいほど威力も高まる。そして無差別攻撃という特性上、敵から受けたダメージでなくても技を発動させて巻き込むことは可能である。
ヒソカからの攻撃を堪え切って発動させるという方法ではリスクが高い。高火力を安定して出すためには仲間に攻撃してもらう方が確実だった。狂気の沙汰と言うほかない。だが、そうまでしなければ勝機の見いだせない戦いでもある。
「できればこのタイミングがベストだったが……」
フェイタンの準備は整ったが、まだボノレノフの演奏が続いていた。今、この場で『許されざる者』を発動すれば旅団全員が巻き添えを食らうし、ヒソカに逃げられる可能性も高い。確実に殺すためには演奏の完了を待たなければならない。
そう都合よく事は運ばなかった。マチの糸の結界がほころび始める。ヒソカの抱擁を受けていたマチの体は既に原形をとどめていなかった。血で濡れた真っ赤な糸玉の中に、コンパクトに収納されてしまっている。
マチは十分すぎるほど頑張った。むしろ、よくここまでできたと賞賛されるべき戦果だった。念糸が完全に消えてなくなる。ヒソカは返り血でずぶ濡れになっていた。そのバケモノが愛おしそうに、腕の中で小さくまとまったマチの残骸に頬ずりしている。
「いや、ちょうど良かったぜ。俺もお前をぶん殴りたいと思ってたところだ」
フィンクスが指を鳴らす。演奏が終わるまで少なくともあと数秒はかかるだろう。途方もなく長く感じる時間だった。
しかも、フィンクスはマチと違ってまだ死ぬことができない。『許されざる者』の発動前に死ぬとフェイタンに与えたダメージのカウントがリセットされてしまう。形式上フェイタンはヒソカではなく、フィンクスに対して技を発動しなければならないのだ。
だが、この場においてフィンクス以外に手が空いている者はいない。命の優先順位から言っても彼が身体を張らなければならない状況だった。
「それは楽しみだ、フィンクス♣ ところで、その腕でどうやってボクを殴るつもりだい?」
次の瞬間、フィンクスの両腕が切り飛ばされていた。ヒソカが投げたカードに当たったのだ。ただの投擲ではない。あらかじめフィンクスの体にヒソカのオーラを付着させていた。その収縮により吸い込まれるようにカードはフィンクスへ向かった。
だが、いつオーラをくっつけられたのか。フィンクスにはわからない。彼が認識できたことは結果だけだ。気づけば両腕を失っていた。全く笑えない冗談である。
「上ォ等ォオオ!!」
彼は止まらなかった。腕がないことなど構わず、ヒソカに向かって走る。刹那の躊躇も見られないその精神力は見事なものだが、結局は自殺となんら変わらなかった。
旅団の一員だけあってフィンクスの戦闘力はもちろん高い。強化系能力者であり、そのフィジカルは現状において最上位にある。だが、ヒソカは彼の能力『廻天』にそれほど魅力を感じていなかった。
腕を回せば回すほどオーラが増え、パンチ力が上がる技だ。その破壊力だけを見れば確かに強力だが、どうしても動作に隙が多くなる。フィンクスの強さは圧倒的な念の基礎能力にあり、今やそれを容易く上回ってしまったヒソカにとってはいまいち光るものを感じない。
その評価は覆されることになる。
最大威力『廻天(リッパーサイクロトロン)』
フィンクスの傷口からオーラがほとばしる。腕がなくなっているにも関わらず、まるでオーラそのものが腕の形を作るように収束している。その輝きは2倍、3倍と限りなく増大していく。
何が起きているというのか。腕を回すという動作がなければこれほど異常なオーラの増幅は得られないはずだ。それともヒソカの知らない別の能力を隠し持っていたと言うのか。そこでようやくヒソカはトリックに気づく。
フィンクスの腕は回っていた。狂い回る。トランプによって切り飛ばされ、宙を舞いながら高速で回転していた。
それは偶然の出来事ではなかった。フィンクスはヒソカから攻撃を受ける際、とっさに角度を調整し、うまく腕が回りながら上へ飛ぶように仕向けていた。
腕を切り飛ばされるという絶体絶命の状況を逆に利用する。それも切られる寸前でそれを思いつき実行する。その閃きと行動力に感嘆する。
ヒソカは胸中で謝罪した。素晴らしき闘争者を讃え、その攻撃を一身に受け止める。フィンクスの拳と化したオーラの塊が叩き込まれる。
この戦いが始まって以来、初めてヒソカへの有効打となる。全身の骨が砕けそうになっていた。ゴムの鎧でほとんどの衝撃を和らげたにも関わらずこの威力。歓喜にうち震える。
「おかわりだ。クソピエロ」
切り飛ばされたフィンクスの腕は二本ある。つまり、パンチはもう一発放てる。一撃目よりもさらに重い衝撃がヒソカを襲った。今度こそ堪えられない。体がひしゃげる。変形し、床に体液をまき散らす。
戦闘演武曲『最後の審判(ラストジャッジメント)』
そこでボノレノフが演奏を終えた。周囲の光景が切り替わる。場所は、天高く聳えたつ塔の頂上に変わっていた。
この曲の効果は念空間の具現化である。曲が聞こえる範囲にいた者全てを現実とは異なる念空間へ強制的に移動させる。術者であるボノレノフ本人は必ずこの中に入らなければならないが、それ以外の者の移動についてはボノレノフが自由に選べる。
今回はボノレノフ、フィンクス、フェイタン、そしてヒソカが念空間に引き込まれた。イルミを取り込むこともできたが、欲張るのは止めておいた。確実に、ヒソカを殺すことだけに集中する。移動の直後、フェイタンが能力を発動させた。
許されざる者『太陽に灼かれて(ライジングサン)』
特大の火球が空へと放たれる。この念空間は開けているように見えるが、実際の大きさは意外に狭い。どこまでも続いているように見える空にも行き止まりがある。フェイタンの技の効果は隅々まで届き、逃げ場はない。
これはカーマインアームズとの一戦を経て考案された連携の一つである。もし同じ敵に遭遇した時、同じ敗北の結果で終わるようではならない。自分たちよりも強大な敵への対抗手段を講じていた。
灼熱の炎が気温を急激に上昇させる。水分が蒸発する。干からびていく。地獄の業火が全てを焼き尽くす。
その中でボノレノフは舞っていた。炎に全身を蝕まれながらも踊りを止めることはない。舞闘士は儀式においていかなる事情があろうと途中で演舞を止めることは許されない。悪しき邪霊を祓うまで、祈りを捧げ続ける。まだ戦いは終わっていない。
「アアアアアァ♥ アツイ……デモネ……ボクノココロホドジャナイ♠」
炎の中から怪物が現れる。フィンクスの攻撃を食らった時点で死んでいなければおかしい状態だった。だが、現実には真逆。ヒソカは生き、フィンクスは殺されていた。
骨は折れ、四肢は不自然な方向へ曲がり、体中にまとわりつくゴムのオーラはどろどろに溶けて異臭を放ちながら流れ落ちる。呼吸をするたびに肺胞が焼かれていく。その姿も声も、人間とはかけ離れていた。
ボノレノフの演奏が終わる。その曲『序章(プロローグ)』は演奏時間の短さもあり、彼が最もよく使う技でもある。ギュドンドンド族の伝統的な狩猟装束を具現化する。仮面、鎧、槍といった武装一式を身につけることで戦闘力を上げ、熱によるダメージも多少は軽減できる。
「さっさと焼け死ねよ……!」
ボノレノフの隣にフェイタンが並んだ。この焦熱地獄の中でも活動可能となる防護服を具現化して着用していた。しかし、既に重傷である。それでも剣を構えてヒソカと対峙する。
この念空間から脱出する方法は二つしかない。術者であるボノレノフが死ぬか、それ以外の全員が死ぬかのどちらかだ。たとえ術者でも能力を途中で解除することはできない。
ボノレノフもフェイタンも、この期に及んで生に執着してはいなかった。彼らの目的はヒソカの死を見届けることだ。その後でなら死んでも構わない。ヒソカより1秒でも長く生きていられればそれでいい。
焦熱地獄がヒソカを焼き尽くすまで、この念空間を維持し、閉じ込め続ける。
「ダイジョウブ、フタリトモ、シナセナイヨ♣ ボクガコロスマデハネ♦」
* * *
念空間にヒソカと団員3人が消え、クロロとシズクが残された。シズクは貴重な能力を持っているが、身体能力の面では他の団員に劣る。イルミが相手では分が悪い。
クロロがかばう形になり、どうしても行動が制限されてしまう。それがイルミの狙いでもあった。わずかな意識の間隙を縫うように迫る針がクロロの右腕を貫いた。
「私がデメちゃんで針を吸い込みましょうか?」
「やめておけ。お前の能力はイルミにも知られている。対策はされているはずだ」
シズクが具現化する掃除機の『デメちゃん』は彼女が生物と認識する物や念の産物以外なら何でも吸い込む。クロロの言う通り、イルミはこの対策として超小型爆弾を搭載した針を準備していた。無暗に吸い込もうとすれば至近距離で爆発する。
クロロはシズクと話しながら刺さった針を引き抜いて捨てる。操られている様子はない。こちらも既に対策済みだった。『盗賊の極意』により『携帯する他人の運命』を発動させている。クロロとシズクは自身にそれぞれアンテナを刺していた。
シャルナークの携帯電話から命令を出していないので二人とも自分の意思で動けるが、この状態でも能力の効果自体は発動している。ゆえにイルミの針に刺さっても操られることはない。
「それに、今しがたこちらの能力の発動条件も整った」
クロロが『盗賊の極意』を開く。そうはさせじとイルミが針を投じるが、予知していたかのように弾かれた。イルミは眉をひそめる。この短時間の内にクロロは敵の行動を分析し、身を隠して絶えず移動するイルミの攻撃を予測できるようになってきている。
『禿鷹の止まり木(スターリィヘブンズキーパー)』発動。
クロロのそばにトーテムポールのような物体が出現する。これは設置型の念獣で、術者が敵から攻撃を食らうことにより発動する。
イルミが様子見のために投げた数本の針が、空中であらぬ軌道を描いた。全ての針が念獣の方へと方向転換する。針は念獣に刺さるとその中に取り込まれて消えた。試しに爆弾付きの針を投げてみたがそれも念獣にダメージを与えることができず無効化される。
同じ敵からの遠距離攻撃を完全無効化する念獣である。一度攻撃を無防備に食らわなければならず、また一定距離以上離れた場所からの攻撃しか防げないという制約はあるが、強力な能力だ。これでイルミは姿を現さずにはいられなくなった。
「さて、では反撃開始だ」
クロロは『携帯する他人の運命』のページから栞を抜き、『禿鷹の止まり木』のページに挟み直す。栞を抜いたページの能力は使えなくなる、ということはない。シャルナークの死後強まる念である『携帯する他人の運命』は、能力が発動している最中であればページを閉じても解除されることはない。
つまり、三能力の同時行使が可能である。クロロはイルミを始末するための能力を吟味していく。
劣勢に追い込まれたイルミは一旦、攻撃の手を止めた。針の投擲を封じられ、針人間の数もかなり減らされ、クロロはイルミの隠形を見破り始めている。
対クロロ戦を見据えて超小型爆弾(モスキートボム)や集束粒針弾(クラスターニードル)など、ミルキが開発している最新兵器も用意していたが、それもわけのわからない念獣によってどこまで通じるか怪しくなってきた。
割に合わない。ターゲットの殺害が目的ならこのまま殺し合いを続けているところだが、今回の依頼はただの足止めである。それもヒソカはイルミになるべく手出しをしないように言い含めていた。
(ここは一旦退こう)
仕事分の働きはしただろう。ヒソカとイルミの関係はあくまでビジネスライク。これ以上イルミが体を張る理由はない。
というか、死体を報酬にしたくせにまともな原形をとどめている死体の方が少ないことにちょっとキレていた。闇市場で売りさばくために後で回収しなければならないが、今は一時撤退する。
「……逃げたか」
敵の逃亡を感じ取ったクロロは本を閉じる。群がってくる針人間たちを片手間に処分していく。だが、その攻撃にはいつも以上に余計な力がこもっていた。苛立ちをぶつけるかのように針人間を破壊する。
まだボノレノフの『最後の審判』は解除されていない。その開始と共に『太陽に灼かれて』が発動したと考えれば相当の時間が経過していることになる。その威力の高さはクロロも知っていた。念能力者だろうとあの熱波の中では数秒と持たず命尽き果てるだろう。
だが、まだ誰も帰ってこない。どれだけの苦しみを背負い戦い続けているというのか。クロロは血がにじむほど手を固く握りしめる。これだけの犠牲を出さずとも、もっと他にやりようがあったのではないか。
それは後だからこそ言える考え方だ。あの時点では仕方なかった。クロロが指示を出したわけではなく、団員たちが自ら考え、できる限りの役目を果たそうとした。そうでもしなければヒソカは瞬く間に旅団の命を食い尽くしていただろう。
ゆえに待つしかない。クロロたちには備えることしかできない。最悪の結末が訪れようと、それに対処できるように。
「 オ マ タ セ ♥ 」
空間に裂け目ができた。粘液にまみれた何かがしたたり落ちる。全身の皮膚が焼けただれたヒトガタ。それは羊水に浮かぶ胎児を彷彿とさせた。しかし、決して生まれてきてはならないものだ。そのオーラは生命力の源でありながら、対極にある死の気配にまみれていた。
仲間たちはヒソカを倒せなかった。認めたくはないが、その可能性は検討していた。クロロは“最後のプラン”を実行するか否か、選択を迫られる。
「団長、命令を」
シズクは促す。マチが、フィンクスが、フェイタンが、ボノレノフが、それぞれの務めを果たした。次は自分の番だと覚悟していた。
「いや……ここは俺に任せろ」
クロロはそれを否定する。確かにヒソカは生き延びた。だが、死んでいなければおかしい状態であることは間違いない。あと少しで殺せる。もう誰かを犠牲にする必要はない。
「まぁ、そう言うだろうと思いました」
それは希望的観測というものだ。ヒソカのオーラは明らかに増している。いつ死んでもおかしくない状態でありながら、相反するようにオーラは高まっている。死に近づくほど強まる念の力だ。戦闘力はさらに上がっているだろう。
「すみません、団長。その命令は聞けません」
単純な五系統の能力と違って、シズクの能力は替えがきかない。だからこれまではいつも守られる側にいた。しかし、幻影旅団において最も替えがきかない人物は誰かと言われればそれはシズクではない。
この急場に何を言い出すのかとクロロはたしなめようとした。そのシズクが、携帯電話を手にしていることに気づく。
シャルナークの携帯だ。それはクロロが持っていたはずだった。シズクに渡した覚えはない。すられていた。世界有数の盗賊団の頭である彼が、全く気づくこともできずに盗まれていた。
平静を装っていても、それだけクロロは追い詰められていた。注意するだけの余裕がなかった。全幅の信頼をおいていたシズクに対して一縷の疑いも向けていなかったのだ。
「よせ、シズク――!」
シズクが携帯電話から命令を発信することで“最後のプラン”が発動する。彼女は自分自身に命令した。
『ヒソカを吸い込め』
意識を失ったシズクの体が自動的に動く。完全強制型の操作系能力である。身も心も都合よく作り替えられた人形と化す。この状態であれば、認識すら書き換えることも可能というわけだ。
たとえ対象が生きていようと、無生物だと思い込むことができる。
クロロはそれを即座に止めようとした。『携帯する他人の運命』は彼が発動している能力だ。本来であれば問題なく解除できるはずだった。
だが、無理なのだ。死後強まる念として『盗賊の極意』に刻まれた能力は本を閉じても消すことができない。たとえそれが術者の意に反する効果をもたらそうと、自分の意思では解除できない。
「オッ、オオオオオ!? オォォホオオオオ♥♥♥」
デメちゃんがヒソカを吸引する。その粘りつくオーラごと汚物をキレイに掃除していく。その光景を、クロロは茫然とした表情で見つめていた。
「スッ、スバラシイ♠ サイゴノイッテキマデ、シボリトラレチャイソウダ……♥」
ヒソカはガムのオーラで何とか貼り付いて抵抗しているようだが、既に体の半分は掃除機の中にもぎ取られている。それはシズクの能力が世界に及ぼすルールだ。たとえヒソカでも逃れることはできない。
「……お前の負けだ。ヒソカ」
クロロは淡々と、感情のない声で告げる。
「チガウヨ♣ ボク ノ カチ ダ ♦」
奇術師は嗤う。それは負け惜しみではなかった。ヒソカはシズクが壊れてしまったことに気づいていた。
操作系能力によって自分の認識を改変し、制約を無視して能力を使う。こんなことは普通できない。制約とは能力を行使するための条件だ。たとえ意識を作り替えようと、前提となる条件を満たさなければ能力は発動しない。
ただシズクの場合はその制約が「自分が生物と認識している物は吸い込めない」と定義されていたため、認識さえ変われば破ることが可能であり、そしてそれは操作系能力によってクリアできたというわけだ。
これが自由にできるならこれまでに何度も使っていただろう。甘くはない。それは結果的に彼女の中のルールを破壊していることと同じだ。相応の代償を払うことになるだろうと、シズクは予感していた。
彼女はまだ肉体的には生きている。だが、精神が死んでいた。今は体を操作されて命令に従い動いているが、直に止まる。そうなればもう二度と目覚めることはない。
「ボクハ、キミヲコワシタカッタ♦ アタマヲサキニツブシテモ、イミガナイ♣ ソレジャ、キミハ、キズツカナイ♠」
クロロは旅団の存続のためなら自らの命を惜しむことはない。仲間たちのためならばいくらでも命を懸けられる。
ウボォーギンやパクノダ、コルトピやシャルナークが殺された時、誰よりもその死を悲しみ、敵への憎しみを募らせていたのはクロロだ。感情を表に出さないように努めていたが、胸中では嵐のように荒れ狂っていた。
最優先されるべきはクモの存続、そのためなら個の犠牲は厭わない。という、理念とは大きく矛盾している。だが、もしクロロが何の躊躇もなく部下を使い捨てにできるような人間だったならば、今の旅団があっただろうか。
その事例が流星街だ。まさしくあの街の人間は個の命に頓着しない。家族より太く、他人より細い絆で結ばれた集団だ。長老たちは平気で仲間を自爆テロに使い、使われる方もそれを不幸とは感じない。当然のように受け入れる。
彼らは何も求めない。ただ自分たちの世界を維持することにのみ終始する。大量のゴミに埋もれた投棄地という最悪の環境下にありながら、驚くべきことに内部ではほとんど犯罪が起きていない。幸福の価値観そのものが違う世界だ。
その中において、個の欲求を優先するということは、誰かの物を盗もうとすることはひどく異常だ。幻影旅団は流星街の本質に縛られながらも、馴染めなかったはみ出し者の集まりだった。
初めはただ欲しかった。彼らにとっては、その当たり前の感情が特別だった。正しい世界の中で自分たちだけが狂っているのではないと証明するために盗賊団は結成された。仲間を集め、新たな秩序を作り、そこに生きる意味を見出そうとした。
その先に行きついた場所がここだと言うのか。クロロには断じて認めることができない。
シズクの足がふらつく。デメちゃんに亀裂が入っていく。やがて具現化を維持できなくなり、砕け散った。そのままシズクは倒れ、動かなくなる。
ヒソカはまだ完全に吸い込まれていなかった。頭部と心臓、肺の一部しか残っていないが、生きていた。正真正銘、団員たちが死力を尽くしてなお、ヒソカを殺し切ることはできなかった。
「モウイチドイウヨ♠ ボクノカチダ♥」
もしクロロが先に死に、他の誰かが生き残る結末であったなら、幻影旅団は存続したかもしれない。深い悲しみはあるだろうが、立ち直り団長の遺志を継ごうとするだろう。彼が死んでもクモは生き続ける。それが掟だ。納得はいかずとも受け入れる理由にはなる。
しかし、皮肉なことにもうその目はない。団長を除く幻影旅団の全団員を殺すこと。それがクロロを、ひいては旅団を本当の意味で壊すために必要な条件だった。旅団最強にして誰よりも矛盾を抱えたクロロの弱点を突き崩す。かくしてそれは成る。ヒソカは勝利を宣言する。
その言葉はクロロの耳にまともに聞こえてはいなかった。ヒソカはまだしぶとく生きている。それが良かった。掃除機にでも吸い込まれて勝手に死なれては困るのだ。
オーラを滾らせる。仲間を殺された復讐を果たす。それにどれだけの意味があるのか今のクロロにはわからないが、それ以外のことを考える余地はなかった。
「アアァ! イイ! イイヨォ♦ ソノカオガ、ミタカッタ……♣」
クロロの幻影旅団団長という仮面が剥がれかけている。このまま憎悪の一撃をぶつけてくれるのなら言うことはない。本望だった。
(いや、やっぱり心残りはあるかな♦)
できることなら最期に、五体満足でクロロと死合いたかった。そして殺してあげたかった。さすがに負傷しすぎている。もう悪あがきすらできそうにない。その点は大きく減点だ。50点。
ただ、それだけ団員たちの実力がヒソカの予想を上回る素晴らしさだった。大満足だ。ここは加点しておく。プラス30点。
またイルミの助けを借りてしまったことも惜しまれる。自分一人でこの結果を勝ち取れていたなら最高だった。マイナス20点。
しめて60点。まあ、及第点と言ったところか。最後の締めくくりだ。クロロの熱い想いを一身に受け止める。待ち遠しくてたまらない。最高のフィニッシュ、その時が訪れた。
ヒソカが一瞬にして赤い結晶に包み込まれていく。
アルメイザマシンの劇症化である。ヒソカが狙ってやったことではない。モナドの仕業である。ヒソカはいつウイルスに感染したのか。
モナドは船内の探索のために『共』を使っている。2層以下のほぼ全域がこの範囲に含まれていた。その時、ウイルスに感染したオーラが付着した。ヒソカに限った話ではない。一般乗客のほとんどが感染してしまった。
そのウイルスを活性化させるスイッチはモナドの意思一つというわけだ。そうはさせるかとクロロが動いた。
凄まじい形相でクロロが結晶を殴りつける。全力を込めた一撃だが通じない。ただでさえ硬い金属がヒソカを苗床にオーラを吸ってさらに硬化している。
全ての仲間を殺され、その仇を自らの手で討つこともできず、どこの誰とも知れない輩に奪われる。行き場を失くしたこの激情をどうすればいいというのか。手の骨が砕けることも厭わず殴り続ける。
(ひゃ、100点……!!♠♣♦♥)
その様子をヒソカは見ていた。まさかの特大加点に興奮する。人生最大の絶頂に溺れながら、幸せな最期を迎えた。
やがて何の音もしなくなった。煌びやかなフロアの内装は苛烈な戦闘によって無惨に壊れ、点滅するシャンデリアが床に転がる大量の死体を波間に浮かぶかのように照らし出す。微動だにしないクロロもまた、その死体の中の一つのようだった。
「シズク……」
思い出したかのように、緩慢に動き出す。シズクの心はもう死んでいるだろうが、まだ生命活動は止まっていない。いや、精神の死についても確かなことはまだ言えない。目を覚ますことがあるかもしれない。
そのわずかな希望の火は潰えるかのように、クロロの目前でシズクの体が結晶に包まれる。
その実行犯であるモナドは特に深く考えていなかった。アーカイブにシズクの能力を保存できるかもしれないと考えたが、精神が死んでデータが壊れている可能性が高く、それほど期待もしていない。
ヒソカについてはちょっとした目的があって殺されてしまう前に渦の中に取り込んだのだが、シズクの場合は“もののついで”だった。もう目覚めることはないと直感したので、整理しておいた。
「ふふ……ははは……ははははハハハハハハ!!」
12本の脚を持つクモは、たとえその脚を全てもがれようと頭さえ残っていれば復活する。場合によっては頭より手足が重要になることもあると、かつてクロロは団員たちに語っていた。
それはどこまで真実なのだろうか。1本や2本程度の損失ならまだ立ち直ることはできるだろう。だが全ての脚を失い、頭だけ残されたとて、そんな虫がどうやって生きていけるというのだろう。
クモの頭は天を見上げる。ここは2層。その上にはもう一人、同胞の仇が待ち受けている。たとえそれが滅びへの道であろうと構わなかった。もはや、彼を止める“脚”は一つもない。
「はじめてだ。ここまで俺が欲しいと思ったものはない。クラピカ、お前の命……盗らせてもらおう」