カーマインアームズ   作:放出系能力者

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17話

 

 私たちは走った。トクノスケはワームに寄生された疑いがあるが、今は気にしている時間がない。感染から5時間経たなければ卵は孵らないはずだ。まずは安全な場所まで逃げなければならない。

 

 可能な限りの全力疾走で森を駆け抜ける。念鳥による誘導のおかげで進路に敵の姿はない。だが、後ろから追跡してくる気配だけは消えることはなかった。それどころか刻一刻と、その気配は強くなる。

 

 最初に感じたのは視線だった。乾き、飢えた獣が標的に狙いを定めるような視線。それは背後から覆いかぶさるように襲ってきた。まるで肩越しにこちらを覗きこんでいるかのように、肌と肌が触れ合うような距離感で、視線を感じるのだ。

 

 現実には距離が開いている。敵の位置はまだ離れているにもかかわらず、すぐそばにいるような幻覚に襲われる。これも敵の能力の一つなのか。恐怖に体が反応し、後ろを振り向いて確認したくなる。それは悪手だとわかっていても、このまま前しか見ずに走り続けて大丈夫なのかという不安を抑えきれない。

 

 念鳥による陽動は、追跡者に対して効果を得られなかった。それは一心不乱にこちらを目指してやってくる。ついに、その足音が聞こえる距離まで近づかれた。

 

 その足音は、カサカサと木の葉が風に撒かれるように静かだった。だが、確実にその小さな物音は近づいてくる。異常なほど静寂に満ちた気配と幻覚効果を持つ視線によって、距離感を狂わされる。本当に相手は巨大な虫の化物なのか。疑問は湧けども、視認することは許されない。

 

 周囲に霧が立ち込め始めた。ただでさえ暗く、視界の悪い森の道が霧に閉ざされていく。偶然発生した自然現象ではない。おそらく毒ガスによる攻撃であると思われるが、その量が尋常ではない。隣を走る隊員の姿も見えなくなるほどの濃霧が蔓延していく。

 

「『式陣・風!』」

 

 突風が巻き起こり、毒の霧が吹き飛ばされていく。トクノスケが念鳥を操り、その羽ばたきを集めて風を作り出したのだ。

 

「『式陣・花!』」

 

 念鳥が次々と後方へ飛び立ち、その直後、後方から炸裂音と強烈な光が発生する。これは念鳥を閃光弾として使用する技である。念鳥の攻撃力では何羽集まろうとワームにダメージを与えることはできないが、この技なら目くらましとして使える。

 

 しかし、足止めは成功しなかった。敵は何事もなかったかのように静けさを保ったまま、追跡を続けてくる。じわじわと圧力をかけるように追い付いてくる。念能力者が全力で走れば逃げ切れる程度の速度しかないのではなかったのか。

 

 事前に聞かされていた情報と違い過ぎた。最初は人間側が私を陥れる目的で騙していたのかと疑ったが、隊員たちの慌てようを見るに、彼らにとっても想定外の事態らしい。トクノスケが真っ先に被害を受けている点からも、これは単純に敵戦力を見誤った結果と言えるだろう。

 

 彼らが実戦で得たデータは不十分だったのだ。今、私たちが遭遇しているワームは別格。ワームであることに違いはないだろうが、明らかにスペックが異なる。もしかすると、調査隊が成体だと思っていたワームはまだ成長途中の個体であったのかもしれない。

 

 最も厄介な寄生能力も強化されている。映像越しに見ただけで感染するようになってしまった。ナイトビジョンは役に立たない。もしかすると感染が成立する条件があるのかもしれないが、それをこの場で検証している余裕はなかった。カメラを介そうが何だろうが「見たら感染する」と想定しなければならない。

 

 しかしクインならば、感染したとしても対処はできる。5時間以内に眼球を摘出すればいい。失った目はオーラによる肉体補修で再生できる。この能力は調査隊にも『偶像塑造(マッドドール)』として説明しているので使って問題ない。

 

 そう当初は考えていたが、事情が変わってきた。クインはそれで済むだろうが、本体はどうなるのか。クインが見た視覚情報は本体も共有している。本体にまで感染の影響が及ばないとは言い切れない。

 

 これは以前から考えていた懸念であったが、『一度映像に置き換えれば感染しない』という情報があったので、それほど深く問題視していなかった。それがここにきて前提条件からして崩壊している。何をどこまで信じていいのかわからない状況で、楽観することなどできなかった。

 

 それでも打開する方法はある。『侵食械弾(シストショット)』を当てれば敵を倒せる。敵は芋虫、甲殻の鎧に覆われてはいない。その巨体ゆえに的は大きく、姿を見ずとも後方に向けて弾をばらまけば当たるはず。

 

 しかし、それにも一つ問題があった。この能力は調査隊に明かしていないため、下手に使用すれば不信を買うことになる。私の目的はこの場を生き延びるだけでなく、その先の暗黒大陸脱出にある。簡単に手の内をさらすことはできない。

 

 特に問題なのが、相手が毒を使う生物であることだ。これまでに戦った経験からして、毒に対する耐性を持っている可能性が高い。こちらの毒で殺しきれずともアルメイザマシンによる感染劇症化は免れないが、その光景を隊員に見られるとますます私の危険性が疑われることになりかねない。

 

 だが、もはや躊躇っていられる状況ではなかった。敵に追い付かれるのは時間の問題だ。私が生き残るだけならまだやりようはあるが、調査隊を逃がすためにはここで私が食い止めるしかない。

 

 走る速度を少し落とし、隊の最後部に移動する。全員が前を向いている状況だけに、発射の瞬間を見られることはないだろう。だが、発射音だけは隠しきれない。この異常なほど静まり返った戦場に、銃声はよく響く。一発で当てられる保障もない。敵がこちらの射程に入っているかどうかも不明だ。数度発砲すれば、さすがに何かしていると勘付かれるだろう。

 

 それでも、やるしかない。

 

 

 

「クイン! 避けて!」

 

 

 

 カトライが叫んだ。彼は最も早く敵の悪意に気づくことができる男。私はその場から反射的に身をかわしていた。

 

 数瞬前まで私がいた場所を、白い塊が通り過ぎる。糸だ。ワームは攻撃に糸を用いる。事前に知らされていた情報だったが、カトライが知らせてくれなければ直撃していた。捕まれば逃げるどころではなくなっていただろう。背中に悪寒が通り抜ける。

 

 背後から高速で打ち出される糸の攻撃を見ずに全て避けきるなんて芸当はできない。さっきはまぐれで避けられたようなものだ。『共』を使って次の攻撃に備える。全力疾走しながらの『共』の連続発動は辛いが、泣きごとを漏らしている暇はない。

 

 そうして、私は敵の存在を感じ取った。眼底に焼きつくように、その巨体が浮かび上がる。決して見たわけではない。にもかかわらず、それはクインの中へと入ってきた。

 

 脳からせり出してくるように、違和感が目の中に侵入する。痛みはなく、そのわずかな異常はすぐにおさまった。知っていなければ気に留めなかったかもしれない。しかし、私はそれが忌まわしき害虫の定着であると知っている。

 

 『共』によって感じ取っただけで両目に寄生されてしまった。

 

 『共』とは五感を最大限まで強化することでそれぞれの感覚器が受け持つ領域を押し広げ、重ね合わせる技である。共感覚(シナスタジア)を強制的に作り出し、本来なら知覚できないはずの情報を認識することができる。これにより、見えていない場所にいる敵の位置や攻撃も察知可能となる。

 

 『円』のように広範囲の精密な索敵を行えるが、大きく異なるのは持続性だ。『共』は使用に際して脳にかなりの負荷がかかるため、瞬間的にしか発動できない。同じ理由により乱発もできない。その代わり、円のように敵側にこちらの索敵を逆探知される心配はない。また、瞬間的な索敵精度に関しては円を越える。

 

 しかし一部、優れている面もあるが、基本的に『共』は『円』の下位互換である。広範囲の円を作り出す才能があれば、こんな苦し紛れの応用技もどきを開発する必要はなかった。戦況とは絶えず変化し続けるものであり、瞬間的な正確さよりも持続性が求められる場合が多い。

 

 チェルやカトライのように広範囲の円を張れる能力者はそれだけで、味方として頼もしい存在だ。特にチェルの円は半径100メートルという常人離れした範囲を誇る。「見れば寄生する」というワームの特性上、円との相性はいい。彼女ならワームを視認することなく行動できることも、リターンの運び手として選ばれた理由の一つだろう。

 

 私の円の有効範囲は5メートルがせいぜいである。だから、索敵に関してはチェルたちに任せていた。そして現に、彼女らは『円』によって敵を感知している。その結果、寄生現象が発生したという報告はない。ゆえに、私は『共』を使っても大丈夫だろうと判断してしまった。

 

 『円』は触覚に依存した感知能力を持つ。範囲内にある物体を、まるで触っているかのように感じ取ることができる。それに対して『共』は五感全てを混ぜ合わせて超感覚を作り出す技だ。矛盾した表現だが、直感や虫の知らせを意図的に導き出す感覚に近い。

 

 つまり、『円』は完全に相手を見ずに感触で敵を探るが、『共』はその認識に“視覚”が混在している。見えていない対象に対しては確かに視覚的認識の大部分が欠如しているのだが、他の感覚と重なる領域ができているために“見えてしまう”。触覚と視覚、嗅覚と視覚……異なる感覚が連動してしまう現象が共感覚だ。だからこそ生まれる超感覚なのだが、今回はその特性が裏目に出た。

 

 自分の中でそのように推理しているが、全く納得はできていなかった。肉眼を使って見ていないにもかかわらず、はっきりとした映像として目視したわけでもなく、ただ一瞬の直感の中でおぼろげに浮き上がった幻のような敵の輪郭。その気配を感じ取っただけでも許されないというのか。

 

 なんという理不尽。だが、そこで終わらない。災厄(リスク)は一切の甘えを許さない。

 

 『思考演算』を使っていないにもかかわらず、私はゆっくりと敵の侵入を自覚した。それはクインの目を通し、本体の中へと入ってくる。

 

 クインと視覚を共有している私の本体に、ワームという脅威が植えつけられる。なすすべもなく得体のしれない怪物の卵を産みつけられる体験が、濃縮された主観的時間の中で引き延ばされていく。ずぶずぶと、異なる存在と一つにされる感覚は、気が狂いそうなほどの痛痒を引き起こす。

 

 心の最も深い場所に閉じ込めてきた、原初の恐怖がよみがえる。

 

「――――!」

 

 誰かが叫んだ。その声をかろうじて聞きとれたとき、既に私は攻撃を受けた後だった。左脚に、糸の塊が巻きついている。

 

 クインの体が止まる。それまで前進していた勢いが急激に殺され、つんのめりそうになる。

 

 とっさに手を伸ばす。しかし、その手が何かを掴むことはなく。前を走る者たちの背中だけを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全員、振り返らずに走れえええええええ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 グラッグ=マクマイヤは、自分を特別な人間だと思ったことはない。クアンタムというサヘルタ合衆国の特殊部隊隊長を務めているが、彼はその地位に責任は感じているものの、自慢にも誇りにも思っていなかった。

 

 彼は25歳で軍に入隊した。それまでは鉄道関連の職場で働いていた。設備管理の下請け業者で現場勤め。技術者としての腕と資格はあり、高給とは言えないまでも暮らしに困らない程度の収入があった。

 

 妻と子がいた。平凡だが満ち足りた、温かな家庭があった。我が子の成長を何よりも喜び、善き父親であろうとした。

 

 彼の人生はありふれたものだった。何事もなければ今も幸せな家庭を持っていたことだろう。暗黒大陸に来ることもなかったはずだ。

 

 始まりは一つの事件だった。彼が働く会社が整備を請け負っていた現場で人身事故が起きた。鉄道関係の仕事に就いていれば、はっきり言ってこの手の事故は当たり前に経験する。グラッグにしても初めてのことではなかった。

 

 一人の少年が誤って踏切の遮断機を越えて線路内に入り込み、電車に轢かれるという事故。少年の遺体は原形をとどめていなかった。警察は当初、自殺や他殺の線は薄いと考え、少年の不注意による不幸な事故だと判断した。

 

 だが、調べが進むにつれてそれ以外の要因が浮かび上がった。遮断機に故障が見つかったのだ。事故当時、正常に作動していない可能性があった。少年の遺族は事故の発生原因が鉄道会社および設備管理会社にあると主張して損害賠償と慰謝料を請求し、提訴した。

 

 この踏切の整備責任者がグラッグだったのだ。彼はこのいきさつを聞いたとき耳を疑った。なぜなら、その遮断機はつい最近に定期点検したばかりで、そのときは何の異常も見られなかったからだ。

 

 結局、遺族側が起こした訴訟は証拠不十分として棄却され、グラッグの会社が罪に問われることはなかった。つまり、問題は起きていない。彼はそれまで通りの生活を送ることができた。

 

 しかし、彼には多少の罪悪感が残った。自分の点検に不備があったとは思えないが、現に事故が起きている。その言葉にできない心地の悪さを、自分の中で消化することができなかった。

 

 少なくとも周囲の人間が彼を責めることはなかった。彼の誠実な仕事ぶりを知っていたし、だからこそ責任者として現場を任せられていた。

 

 だが、他ならぬ彼自身が許せない。日を追うごとに罪の意識に苛まれた。自分のせいではない、次から気をつければいい。普通の人間なら、自分に都合よく物事を考える。殺人犯でさえ法廷では自らの無実を訴え、そして本気でそれを信じている。

 

 人が当然に持つ“強かさ”が、彼には欠如していた。彼は自分が巨大な正義感を持っていたことに初めて気づく。それはニュースを賑わす凶悪事件の犯人などに対して義憤のような感情を引き起こすことはなかった。ただひたすらに、自分に対して向けられるのみ。

 

 あのとき、自分は本当に遮断機の点検を怠らなかったのだろうか。何か自分でも気付かないミスがあったのではないか。それがなければ幼い命が失われることはなかった。なぜもっと注意しなかった。もし、この事件の被害者が自分の子供だったら。その親が背負う悲しみは痛いほど理解できた。

 

 彼は、会ったこともない少年の幻覚を見た。事故が起こる瞬間を、何度も夢で見るようになった。夢の中でさえ助けることは叶わず死んでいく少年に、彼は謝り続けた。

 

 その謝罪の果てに、彼の罪悪感が薄まることはない。どれだけ少年に謝ろうとも罪滅ぼしにはならない。生きている者が罪の意識から逃げるためだけに使う詭弁だ。死者は許しの言葉を持たない。

 

 いつまでも届くことのない謝罪は呪詛のように、彼自身を蝕み続ける。それが彼の本質であり、人間性の終点である。

 

 

「全員、振り返らずに走れえええええええ!!」

 

 

 だから、見て見ぬふりをすることはできなかった。自分の横で敵の攻撃を受け、倒れゆく少女の姿は、彼の根底にある感情を揺さぶる。

 

 頭の中には冷酷な判断を下す自分があった。第一に考えるべきはリターンを確実に船へと送り届けることだ。それが特殊部隊隊長として与えられた任務である。他の何を差し置いても優先すべきはリターンだ。

 

 その目的を果たすため合理的に考えるなら、クインを見捨てるべきである。彼女が虫の餌になっている間に、貴重な時間を稼ぐことができるだろう。もしかしたら敵はそれで満足して帰ってくれるかもしれない。

 

 そういった一切の思考を無視して体は動いていた。踵が擦り切れるほどの勢いで方向転換する。決して見てはならない“災厄”と向き合ったのだ。

 

 愚策にもほどがある。しかし、彼は自分に課した誓約があった。それは「一度戦うことを決めた相手から退いてはならない」というものである。この誓約を破ったとき、彼は全ての念能力を失う。発のみならず、基本的なオーラの扱いすらできなくなる。

 

 “振り返らない”“背を向けない”という行動が彼の日常動作にも染みついている。一見して勇敢で男気のある誓いに見えるが、彼自身がこの誓約に込めた思いは異なる。果たすべき贖罪を残してきた過去から目を背け、前だけを見つめ続けるしかなかった自己の弱さの体現だった。

 

 彼はこの暗黒大陸の調査において、常に逃げ続けてきた。一戦でもまともに敵と対峙していれば命はなかった。なぜなら彼は一度仕掛けた戦いから逃げることができない。敵を倒すか自分が死ぬか、二つに一つしか道はない。

 

 倒せる相手ならまだしも、敵はどれも強大すぎた。挑むことは自殺行為に等しい。だからこれまで逃げに徹し、能力を温存し続けてきたのだ。敵前逃亡することは、彼の誓約には抵触しない。彼の誓いは騎士道精神に基づくものではない。もっと矮小で自分勝手なルールだ。

 

 そう思っていたはずだった。しかし、敵の攻撃によって捕まったクインを見たとき、理性が働くよりも先に彼の精神は戦うことを決意してしまった。これにより、逃亡という選択肢は消えた。仮にクインを見捨てたとて、念能力を失ったグラッグに生きるすべはない。

 

 彼自身も、薄々ながら危惧はしていたのだ。調査隊隊長としての使命を全うするならば徹頭徹尾、クインを作戦における一つのオブジェクトとして捉えるべきだった。私情を交えては、とっさの優先順位を間違うことになりかねない。

 

 だが、彼はクインを物ではなく、人として認識してしまった。

 

 グラッグはクインから尋ねられた。人間が暮らす大陸について、何度も質問された。それはわからないことを手当たり次第に聞きたがる幼い子供のようで、その姿が過去に置き去りにしてきた自分の大切な何かと重なったのだ。

 

 クインはただの子供だった。そして、グラッグは気づかずとも行動を起こすに十分な理由がそこにあった。

 

 怪物は迫りくる。森の奥から浮かび上がったその影は、報告にあったワームの大きさを優に上回る。巨人の肋骨のような脚は規則正しく波打つように、静寂を保って地を這いずる。膨れ上がった頭頂部には毒煙を吐き出す二本の臭角。その異様は、まるで蒸気機関車だった。

 

 何よりも存在感を放つのは“目”だ。ただ巨大なだけではない。

 

 蝶や蛾の幼虫は“眼状紋”を持つものがいる。芋虫の天敵である鳥類から逃れるための進化だが、なぜ鳥類がこの眼状紋を嫌うかと言えば、鳥類の天敵である蛇を連想させるからだ。鳥は蛇に似た目玉模様に対して本能的な逃避行動を取る。それは生物として規定づけられた忌避である。遺伝子という設計図にあらかじめ組み込まれている。

 

 無論、人間に鳥と同じ本能があるわけではない。しかしこの災厄の前では、人や鳥といった分類の枠など瑣末事に過ぎなかった。それはより根源的な意識の深層へと訴えかける。

 

 逃げろ。

 

 全ての思考が一つに収束する。あらゆる可能性の放棄。恐怖ではなかった。それは結果的に生じる感情でしかなく、本能とはその前提だ。

 

 しかし、グラッグは辛うじて踏みとどまった。業火の熱気のようにまとわりつく威圧感に飲まれながらも、その場から動かない。

 

 これは彼の勇気が打ち勝った結果ではなく、誓約を遵守するため日々訓練していたからに過ぎない。敵と対峙した状態から一歩でも退けば誓約を破ることになる。

 

 グラッグは動けなかった。目に卵が寄生する感覚はあったが、それすら気にならない。物理的な死が目の前に迫っている。一秒後には衝突する。その圧迫感は巨大な目が生み出す影響力と相まって、ワームを実物以上の怪物に見せた。

 

 念能力は本人の精神状態によってパフォーマンスが大きく変化する。常人であれば思考停止してもおかしくないほどの重圧の中、彼を突き動かしたのは内に湧き起こる感情だった。

 

 どの道、このまま全員で逃げ続けたとしても追いつかれることは目に見えていた。誰かが足止めする必要があったのだ。こういう事態に備えて、彼は自分の命を温存してきたのではないか。

 

 いや、むしろその判断は遅すぎた。自分がもっと早く足止めに踏み切っていれば、クインは逃げられたのではないか。その後悔が恐怖を上回った。

 

 

「『絶対不退(ノーサロフェア)』」

 

 

 グラッグは具現化系能力者だった。その手に現れた得物は奇妙なポールだ。黄色と黒の縞模様で、その長さは8メートルにも及ぶ。初めてその能力を見た者は、なぜ“それ”を具現化しようと思ったのか訝しがるか笑うだろう。

 

 具現化系能力の発は、望む物体をオーラで実体化する。武器を具現化する者が多いが、オーラで作った武器だから特別に強いということはない。特殊能力をつけることもできるが、その性能は元となる武器の使い道に依存する。その上、具現化系の習得は全系統中最も時間がかかると言われている。

 

 具現化系能力者にとって一生の相棒となる得物として“遮断機のポール”を選ぶ者は、彼をおいて他にいないだろう。そもそも武器ですらなく、戦闘に用いるには甚だ不向きである。

 

 もちろん、ただのポールを具現化できるだけの人間が合衆国特殊部隊の隊長を務められるはずがない。そこには「向かってくる物体の運動エネルギーを相殺する」という特殊能力が備わっていた。

 

 つまり、このポールに触れた物は静止する。その効果に上限はない。たとえスペースシャトルの推進力で突っ込んで来ようが軽々と受け止めることができる。

 

 具現化された物に付加できる特殊能力には限界があり、普通はこれほど常軌を逸した能力を付けることはできない。例えば具現化した剣に「あらゆる物質を切り裂く」と言った能力は付けられない。せいぜいが切れ味を強化する程度のものである。

 

 しかし、中には例外も存在する。特質系能力者が具現化系を併用した能力を作った場合が一つ。そしてもう一つが、重い誓約を作った場合だ。

 

 敵から一歩も退いてはならず、破れば二度と念能力を使えないという誓約はあまりにも重い。ある意味において、それは命や寿命を賭けるよりもリスクを伴うと言える。相手の念能力によっては容易く対処されてしまい、そうなれば即座に無能力者となり、戦闘中であれば死を待つのみだろう。

 

 彼の強さは歪だった。おそらく、巨大なワームを止めることはできるだろう。しかし、それはポールが触れた部分に限った話だ。敵の攻撃の手を全て封じるわけではない。糸でも吐かれれば対処のしようがない。

 

 それでも、わずかな時間だろうと足止めする意味はある。

 

 きっと、クインは守れない。この能力は誰かを守るために作ったものではなかった。むしろ逆だ。この誓約のせいで助けられたかもしれない多くの人間を見殺しにしてきた。

 

 リターンを持ち帰るため、人類の発展に寄与するため、そんなお題目のために仲間を見捨ててきた。彼の背後には、無念の内に死んでいった仲間たちの亡霊がいる。逃げることは許さないと訴える。

 

 その犠牲の上にここまで生き延びてきた。ならば、ここで果たすべきだ。無様にすり潰されるような人間であれば、のうのうと生き残った意味がない。

 

 何としてでも食い止める。彼は長大な得物を構えた。敵の方から吸い込まれるように向かってくる。その怪物の威圧を前にして、一瞬たりとも目をそらすことはない。

 

 だが、衝突を目前として敵に大きな変化が現れる。弾力に富み、一切の攻撃を受け付けなかったワームの皮膚がみるみるうちに変質していく。

 

 老人の皮膚のようにたるんでいた厚い皮は、金属質の光沢をもった赤い結晶のような材質となる。その変化は瞬く間にワームの全身におよび、巨大な赤い造形物と化していく。

 

 音もなく近づいていたワームは、変わらぬ静けさのまま動きを止めた。グラッグは何が起きているのかわからない。彼が止めるまでもなく、敵は沈黙した。

 

 まるで何か別の化物にでも寄生されたかのように、ワームの全身はサボテンに似た結晶体に覆われていた。

 

 


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