危なかった。間一髪のところでワームを仕留める。
シスト弾によるウイルスの劇症化に成功する。防御装甲がなく弾を当てられる相手であれば確実に殺せる攻撃だ。敵がどんなに理不尽な能力を持っていようとも関係ない。
巨大なサボテンとなったワームを前にして、私は不思議な高揚感に包まれていた。達成感、充実感……どうにもうまく言い表せない。なぜ自分がそんな感情を抱いているのかわからなかった。これまでに数え切れないほど敵を倒したことはあるが、こんな気持ちになったことは一度もない。
しかし、理由を考えている時間はない。目の前の敵は倒したが、この場所はまだ敵の陣地。すぐにでも先行する部隊と合流した方がいい。
私はワームの体が金属の結晶体で覆われた時点でアルメイザマシンの機能を停止させていた。本体が発する電波が届く範囲なら、抑制プログラムを起動させる命令をオンオフすることができる。そうしないとワームの劇症化が進行し、サボテンが花を咲かせてしまうからだ。シスト弾を発射し続ける砲台と化せば、すぐ近くにいるグラッグが危険だ。
まだワームは生きているだろうが、全身を金属で覆われた状態では身動きもできまい。ひとまず敵は無力化したと言っていいだろう。
目玉に寄生されたワームの卵については摘出するしかない。クインならばそう難しいことではない。抉りだせば済む。
痛みはあるだろうが『思考演算』中でなければ大したものではない。あれは痛覚も加速するので堪えがたいものがある。その分、最適な行動を取るための思考も加速しているので痛みを無視しているかのように動けるだけだ。
卵の孵化までに5時間の猶予はあるが、その時間も確かとは言い難い。不確定要素が重なっている以上、すぐにでも対処しておくべきだろう。
問題は本体に寄生した卵をどうするかだが、実は既に対策していた。ワームは視認した者に卵を寄生させる。だからクインの目を通してワームを見てしまえば本体にも感染するのではないかという予測はしていた。その事態に備えて用意していた策が功を奏した。
それは『精神同調』の応用だった。クインの感覚器が捉えた情報は、一度本体が持つ卵を仲介している。いつもはこの情報のやり取りをクインと多数の卵、そして本体の間でネットワーク化することで情報処理の速度を上げているのだが、今回に限ってはクインと卵の間で情報伝達のルートを一本化していた。
そのせいで『思考演算』が使えず、処理速度が落ちて冷静な判断ができなかった部分もあったが、感染の拡大は抑えられた。つまり、卵が防波堤の役目を果たして本体を守ったのだ。寄生された卵は後で結晶化して排出すればよい。
クインの左脚にくっついた糸に関しては、ズボンごと脱ぐことで対処できる。その粘着力は強力で、素肌に付着していれば皮膚ごと引き剥がすはめになっていたことだろう。衣服の偉大さを痛感する。
後は逃げるだけだ。だが、ここに来て大きな問題が残されていることに気づく。
グラッグが動かない。いや、動けない。彼からしてみれば、眼の前でいきなり敵の姿が変貌するという理解不能の状況だろう。敵は動きを止めたが、何をしようとしているのかわからないため警戒を解けないのだ。
私もそれを狙ってこの状況を作り出した部分はある。ワームが吐き出した毒煙によって周囲は煙幕を焚かれたような状態だ。この視界不良に乗じてグラッグに気づかれず『侵食械弾』を当てることができたが、その先まで気が回らなかった。
グラッグの能力が持つ誓約が厄介だった。敵前逃亡は許されない。一応、敵を殺さなくても戦意喪失させた時点でリセットされ撤退することも可能らしいが、どうやって敵を無力化したことを教えればいい。
そのためには私の能力を明かす必要がある。アルメイザマシンの効果は人間にとって脅威と映るだろう。全てを明かさなかったとしても、ワームを一瞬で結晶化させただけで不信を買うに十分な威力だ。
そもそも、ワームは戦意を失っていると言えるのだろうか。普通の生物であれば恐慌状態となってもおかしくないところだろうが、はっきりと断言はできない。確かめるためにはグラッグを動かしてみるしかない。
戦意喪失状態なら誓約に抵触しないが、そうでなければ彼は全ての念能力を失う。無能力者となったただの人間が暗黒大陸で生きていける可能性は限りなく低い。この場を生きながらえたとしても先はない。
それを彼自身理解しているからこそ、敵の生死、戦意の如何に関わらず逃げないのだ。面倒極まりない誓約だ。
グラッグと軽く手合わせをしたこともあるが、確かに強かった。彼が具現化したポールはあらゆる攻撃を受け止める。8メートルの長さに渡るポールを槍のように使いこなし、一切敵を近づけさせない。
厄介なのが、全くぶれない槍の軌道だ。軽いプラスチック製のポールだが、そこに攻撃を当てても衝撃さえ無効化されてしまうためそらすこともできない。その間合いの広さもあって、近接戦闘しかできない相手であれば手の出しようがなくなる。彼の誓約もあってか、怒涛のように前へと詰めてくる戦闘スタイルは敵に反撃の余地を与えない。
重い誓約ゆえの強さなのだろうが、今はそれが裏目に出ていた。確実に逃げられる状況であるにも関わらず、彼の行動は制限されてしまっている。これは私がアルメイザマシンの詳細を明かしたとて、どうにかなることではない。
ならば、何も言わずに立ち去ることが最善なのだろうか。
第一に考えるべきは自分の身の安全だ。どうあっても結果は変わらないのだから、ここでグラッグと二人して立ち尽くしている意味はない。彼が私の逃走をどう思おうとも、咎められる謂れはない。
このような事態を想定していたわけではなかったが、リターンの採取に向かう以上、危険は承知していたはずだ。数日前の私は、調査隊の全員が生きて生還を果たすなどという希望的観測は持っていなかった。当たり前のように誰かが死ぬと思っていた。
あまつさえ、その死は冒険におけるちょっとしたスパイス程度に考えていた。ドラマチックな展開への導入。起承転結の転。その後に待っているものは大団円であると思い込んでいた。
以前の私であれば、ここで迷わなかった。とっくにグラッグを置いて逃げ出している。では、なぜ今、私はいまだにここに残っている。
逃げるならばそれでもいい。それも一つの答えだ。あるいは、全てを説明した上でグラッグに撤退を促すか。それとも何も言わず、引きずってでも彼を連れて行くか。
そういった選択肢を頭の中に抱えながら、私は何の答えも出せずにいた。どうすれば正解であるのかわからなかった。
「なぜだ……なぜここにいる!」
しかし、そこでグラッグが発した言葉は私の予想していたものとは違った。私に向けられた言葉ではない。
そこに至り、ようやく気づく。私は何者かの『円』の中にいた。その独特のオーラの質からすぐに正体に勘づく。
「た、隊長!」
先行しているはずのカトライが、なぜかこの場に姿を現したのだ。
「私は先に行けと……」
「そそそんなことより早く逃げましょう! 敵はクインさんがやっつけてくれました!」
どうやら、私が攻撃する様子をカトライは見ていたようだ。正確には円で感じ取ったのだろう。円ならばこの煙幕の中でも察知することは不可能ではない。気が動転していたためか、気づくのが遅れた。
敵が戦意を有しているか否かという問題についても、悪意を感じ取る能力を持つカトライがいれば判別できる。彼がグラッグに撤退を提案しているということは、すなわち、敵が戦意を持っていないという証拠だ。
これでグラッグは自由に行動できる。私たちはようやくワームの前から立ち去ることができた。
森を走りながら考える。カトライにアルメイザマシンの能力を見られてしまった。状況的に説明せざるを得なかったとはいえ、脅威として捉えられることは確実だろう。そして、それを隠していたことも同時に露見してしまった。
リターンを採りに向かう以上、覚悟していたことでもある。私の攻撃手段はアルメイザマシンに集約されていると言ってもいい。それでもできれば隠しておきたいという思惑はあった。
しかし一方で、能力をバラされたことに関してカトライを恨む気持ちはなかった。むしろ、助かったとさえ思った。
私は決められなかったのだ。何もできずにいた私に、彼は答えを用意してくれた。今回はそれで済んだが、これと同じような状況が再び訪れたとき、私はどうすればいい。
一瞬の判断の遅れが命運を分ける状況はいくらでもある。そのときになって考えていては遅いのだ。決断を先送りにしてはならない。
私は彼らと共に戦うのか、何を守るのか、何を捨て置くのか。
勝てるようなら戦う、負けそうなら逃げる、という考え方では駄目だ。それは考えていないも同然である。そういった戦況判断の根底にある方針を決めなければならない。
様々な思考が去来し、錯綜する。
「隊長……おおお、お話があります」
物思いに沈んでいた私は引き戻された。その声は独り言のように小さなつぶやきだったが、静かな森の中では明瞭に聞きとれた。
「私は、ここに残ります」
「……敵が来るのか?」
何が言いたいのかはっきりしないカトライに対して、グラッグは言葉の裏を読み取ったようだ。敵が近づいているのなら、素直にそう言えばいい。カトライの態度はどこかおかしかった。
「まずは逃げることを考えろ。しんがりは私が務める」
「おれがっ、ここに残ります!」
カトライの体は震えていた。マスクで表情はわからないが、声には嗚咽が混じっている。明らかに恐怖している人間の反応でありながら、頑なに自分の意見を譲らない。
彼は敵の悪意を感じ取った。そして、その反応は複数ある。そのどれもが先行するチェルたちの方へ向いているらしい。おそらく、チェルが持つ重力鉱石の欠片に対して、ワームは長距離からでも位置を特定する察知能力を持っているのだろう。だから、石を持ち出した途端にこちらの位置が敵に特定されたのかもしれない。
彼なりにその説明を簡潔に伝えたかったのだろうが、急ぎすぎて早口になっている上、嗚咽が混じるため聞き取りにくく、全部理解するまでに時間がかかった。
「わかった。だが、それならば余計にお前を死なせるわけにはいかない。チェルでは把握しきれない敵の情報も、お前だからわかるんだ。作戦の遂行を優先しろ」
「敵の反応は何十とあるんです! 隊長の能力ではとと止めきれません!」
「お前に任せるよりもマシだ! みっともなく震えたドブ犬に何ができる!」
グラッグはカトライの胸ぐらを掴み上げた。拳が飛ぶ。
カトライはグラッグを殴り飛ばしていた。
「……おれはクアンタムを除隊する! 誰の指図も受けない!」
そう言い残して、来た道を引き返すように走り去っていくカトライを呆然と見送るしかなかった。
起き上がったグラッグは森の奥を一瞥するも、カトライの後を追うことはなかった。
「行くぞ、クイン」
耳触りの良い、用意された“答え”に体は従う。私たちは森の出口へと向かって走り出す。考えるまでもなく、それは“正しい”。
間違っているのはカトライだ。確かに自分を犠牲にしてでも任務を優先する場合はあるだろう。だが、彼のやったことはただの自殺行為でしかない。上官の命令に逆らい、到底敵うはずもない敵陣の最中へ特攻して何になる。
それはもう任務という目的から外れた行動だ。彼の中にどんな思惑があろうが、客観的に見てそれが不適切な判断であったことは明確だ。
なのに、どうして――
「クイン?」
――私は彼の行動に“正しさ”を覚えるのか。
「足を止めるな……!」
私がワームの糸に捕まったとき、グラッグは真っ先に反応し、逃走から対峙へと転じた。任務を考えれば適切とは言えない。なぜ、そんな行動を取ったのか。
アルメイザマシンの力を目の当たりにした彼らは、この能力がワームにも有効であることを知っている。グラッグ、カトライ、クイン。この三人の中で、最も敵と戦える力を持つ者は誰か、彼らも気づいているはずだ。
だが、二人は私に何の要求もしなかった。助けを請わなかった。
なぜだ。
その答えは、おそらく無数にあった。私が気づいていないだけで、ここに至るまでの過程の中にいくらでもあった。にもかかわらず、私はまだはっきりとその形を捉えきれていない。
私は知りたかった。私が暗黒大陸を出たいと思った理由はそこにあるはずだ。ただ生き延びるためだけ、安全な場所に行きたいがために外の世界を目指したわけではない。
「カトライのところへ行く」
確信のようなものがあった。きっと、彼は一生のうちに一度あるかないか、最も人の本性があらわとなる瞬間に立っている。あるいは、馬鹿な私でもその本性を理解できる機会かもしれない。危険であることは承知の上で、それでもなお好奇心を抑えることはできなかった。私は彼が為そうとする行動の意味を知りたい。
グラッグは、行くなと言った。クインはクアンタムの隊員ではない。カトライを助けに行く必要はない、と。
クインの立場から合理的に考えればその通りだ。しかし、人間とは合理性を求めながら全くもってそれに従わない存在である。
確かにクインはクアンタムではない。だから、その隊長の言葉に応じる義務もない。私は、私の望みに従うことにした。
* * *
何をしても上手くできない人間というものはいる。勉強、スポーツ、仕事。努力不足と言えばそれまでだろう。悲観しても誰かが助けてくれるわけではなく、たいていの人間は自分の力量に折り合いをつけながら生きていく。
強いて言えば、彼はその折り合いの付け方が壊滅的に下手だった。自分の実力をわきまえず我武者羅に挑戦を重ねては、周囲の人間を失望させてきた。何が悪かったのか、彼なりに頭を使って考えるのに、また同じ失敗を繰り返す。
しかし、いくら才能のない人間だろうと努力を続けていれば人並みに成長する。勉強にしても、運動にしても、仕事にしても、彼は他人に劣るというほど能力に欠けた人間ではなかった。
だが、評価されることはない。彼には、どことなく人を不快にさせる雰囲気があった。馬が合わない、反りが合わない。話しているだけでイライラさせる。家族でさえ彼を疎んじた。それを表情や言葉に表すことはなかったが、彼は自分が迷惑をかけていることに気づいていた。
人から向けられる悪意が手に取るようにわかる。彼にわかるのは悪意だけで、親愛や友好とは無縁だった。少なくとも彼に見える世界は悪意に満ちていた。
幼少期、学生時代、社会人、一貫して彼はろくな人間関係を築けた試しがない。友人などできるはずがなく、日常茶飯事のようにいじめられる。どんなに身を粉にして働こうと認められることはない。そのくせ一つでもミスを犯せば親の仇のように叱責される。
彼は職を転々とした。何一つ将来の展望が見えない状況の中、彼の人生を一変させる転機が訪れる。
その日、彼はコンビニにいた。押しつけられるように回された残業をようやく終え、夜も深くに夕飯を買いにきたところだった。たまたま店内に他の客はいなかった。
そこに一人の大柄な男が入ってくる。頭には覆面、手には拳銃。強盗であることは一目瞭然だった。当然、彼にどうにかできる相手ではない。脅迫される店員と一瞬、目が合ったが、ガタガタと震え返すことしかできなかった。
金を奪った強盗が店を出ようとしたとき、間の悪いことに一人の客が入店してくる。道着のようなものを着た中年の男で、体を鍛えていることがわかる。しかし、銃を持った強盗に敵うはずもない。
銃口を向け、そこをどけと怒鳴る強盗は突然、フィギュアスケート選手のようにその場で高速回転し始めたかと思うと意識を失ってひっくり返った。唖然とする彼と店員を尻目に、道着の男は何事もなかったかのように店内を闊歩し、安酒を数本とつまみを購入して帰っていった。
彼は何が起きたのか理解できたわけではなかったが、その男が只者ではないことだけはわかった。何か、想像を絶する技をもって強盗を倒したのだ。彼は店を飛び出し、男の後を追った。何をしたのか教えてくれと問いただした。
なぜあのときそんな行動を取ったのか、彼自身にもわからない。しかしその日から、彼の生活は決定的に変化する。彼は男のもとで念を学ぶことになった。
その男は心源流の師範代だった。その筋では名の知れた武人だったが、癖のある人物としても有名で、師範代の地位にありながら弟子に取った者はわずか三人。いずれも傑物として才能を開花させた弟子たちの中でも、彼だけは毛色が違った。
『お前には、闘争心がない』
武を志す者として、あって然るべき心がない。武の本質とは、他者を害することだ。生物が生得的に持つ本能と、それを律する人間の理性が合わさり形をなすものである。彼はその資質を持っていなかった。それは武人としても、念能力者としても致命的な欠陥である。
『お前はいたって“普通の”人間だ』
とはいえ人間社会の中で、人並みに生きていく上では必要のない資質である。むしろ野生から離れ、社会を構築する上で人間が選択的に排除してきた資質である。つまり、彼はそう言った大多数の人間と同じ、ごく普通の人間だった。
『なのに、なぜ折れない?』
念の修行は過酷だった。死を覚悟するような鍛錬が毎日のように続く。師は手を緩めるようなことをしなかったし、彼もそれを望んだ。才能のない自分が一端の念法を会得するためには、生半可な修行では足りないと自覚していた。
まともな人間の精神ではとても耐えられないような鍛錬の日々。しかし、彼にとってはまだ居心地の良い環境だったのだ。
師や兄弟子たちは彼の体質を理解していた。彼の体より発するオーラの質が他人に嫌悪感をもたらす。それは先天的な障害のようなものであって、全てが彼自身の落ち度ではなかった。
彼は自分という存在が世界にとって必要とされていないのだと思っていた。その誤りに気づくことができたのだ。
しかし、地獄のような鍛錬を経ても彼の気弱さは矯正できるものではなく、とうとう師もさじを投げた。心源流を“半分”修了とし、道場から追い出される。
根なし草に戻った彼だが、やりたいことができた。昔なら理想を思い描くこともできなかっただろう。彼はある夢を持つ。それは心源流の師範代になることだった。
師範代とは門下生を指導する資格を与えられた者である。心源流開祖にして現師範アイザック=ネテロにより認められ、真髄の継承を許された証。得るためには実力のみならず、正しく弟子を導く能力が求められる。まともに修了もしていない彼がなれる身分ではなかった。
それでも、いつか。誰かを導けるような人間になりたい。
武術との出会いは、それまで価値を見出せなかった彼の人生を変えた。あのとき、暗闇のどん底から拾い上げてくれた師匠は、彼にとってヒーローだった。自分と同じように下を向いている誰かがいるのなら伝えたい。少し顔を上げれば、思いもよらなかった世界が広がっている。
暗黒大陸に行くため軍に入隊したのも彼の意思だ。そこでも彼は掛け替えのない仲間を得た。
そして、多くの仲間を失った。気がつけば、彼はまた下を向いていた。
いつまでもうつむいたままでは駄目だと教えてくれたのは一人の少女だ。暗黒大陸で出会ったその少女は、自分とは比べ物にならないほど念の才能にあふれている。しかし、貪欲に知識と技術を求め、彼に弟子入りしたいと言ってきた。
その言葉が嘘でないことはよくわかった。はっと気づく。忘れていた夢が、心の中にありありと蘇った。ここで死ぬわけにはいかないのだと、当たり前のことをようやく思い出す。
顔を上げれば仲間たちがいた。隊長、チェル、トク、そしてクイン。もう誰も失ってはならない。この中の誰が欠けてもならないのだと気づく。
だからワームに追われ、クインが倒れたとき、グラッグが足止めに残ったとき、彼もまたその場にとどまった。考えての行動ではない。自然とそうしていた。
そこから先の行動も無我夢中、何を言ったのかさえ覚えていない。気がつけば、グラッグを思いっきり殴り飛ばしていた。実はこれが初めて本気で他人を殴った経験だった。勝手に自分を犠牲にしようとしたグラッグへの怒りも込められていたが、彼もまた同じことをしようとしているのだから人のことは言えない。
仲間を逃がすための囮になろうとしている。彼がグラッグに伝えた情報に偽りはなかった。数十を越える敵の反応がある。彼はその場所にたどり着く。
そこには巨大な赤い結晶があった。クインの攻撃によって死んだワームの遺骸が残されている。それは確かに死んでいた。だがその“中”に、彼はうごめく悪意の群れを感じ取る。
まるで蛹が孵るように、それは姿を現した。結晶体にひびが入る。大きく砕けた裂け目から、二対の羽が飛び出した。
彼は『円』で感知する。蝶か蛾か。幼虫(ワーム)は成虫へと姿を変えて生き延びていた。いや、これは一つの生命の変態ではない。増殖であった。おびただしい数の蝶が飛び立とうとしている。
これを全て止めきれるのか。どれだけ彼に覚悟があろうと、否と言わざるを得ない。体は恐怖に震え、呼吸は不規則に乱れ、頭からは血の気が引く。囮を名乗るなどおこがましい。指一本すら動かせず、その場に立ち尽くす。もはや、彼を立たせているものは仲間を守るという意思一つに過ぎなかった。
何のためにここまで来たのか。自分の体ではなくなってしまったかのように動けない。
硬直する彼の横を、ふわりと一陣の風が通り抜けた。否、それは風ではなく。
「『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』」
固く閉ざされた壁の外から突き抜けるように光が満ちる。彼は瞼の裏側に、己の血潮を見た。赤く、張り巡らされた命の脈動があった。
* * *
極大の閃光が視界を焼く。鼓膜は最初に破れたが、轟音は骨を伝って脳を揺らした。
光がおさまり、見通しがよくなった森が現れる。その木々の影に一つ、二つ……仕留めそこなった蝶が五匹も残っていた。確かに光線の範囲内に捉えたと思ったが、どうやって脱したのか。その理由はすぐに判明した。
蝶の体から管が四方に突き出ており、そこから凄まじい勢いで毒煙を噴出している。それがまるでジェット噴射のように推進力を生みだし、急加速・急制動を使いこなして飛びまわる。ひらひらと舞う蝶のような優雅さはない。
その羽にはワームと同じく目玉模様があった。やはり見ただけで感染する寄生能力も備わっている。そのせいで『精神同調』のネットワークを制限せざるを得ず、『思考演算』を使えない。
『犠牲の揺り籠』を使ったせいで卵のストックも半分を切っていた。差し迫った状況の中での使用もあり、精神統一が上手くいかず、通常よりも多くの卵を失っている。その分、威力も上がったので敵を多く倒せたのかもしれない。
蝶たちは私がサボテン化させたワームの中から出てきた。おそらくワームが姿を変えたというより、その子どものようなものではないか。別個の生物であるため、劇症化を免れたのだろうか。
『侵食械弾』が効くかどうか当ててみなければわからないが、そもそも動きが素早い上に、こちらを翻弄するようにジグザグ飛行する蝶たちを狙い撃つことも難しい。毒の煙幕を撒き散らして視界を塞いでくるため、さらに厄介だった。
そして、最大の問題は敵が発する“重圧”だ。ワームのときから幻覚効果を持った威圧を使ってきたが、蝶になってからそれがさらに強化されている。
体が重い。これが幻覚とは思えなかった。まるで重力が増したかのように動きづらい。たった五匹でこれほどの効果なのだから、『犠牲の揺り籠』で一掃しておかなかったらどうなっていたかわからない。
それに付け加え、敵は何らかの強力な攻撃手段を持っていると思われる。あの赤い金属を砕いて殻の外に出てきたのだ。オーラで強化している本体の装甲より脆いとはいえ、単体でもそう簡単に砕かれるほど壊れやすい材質ではない。
楽に勝てる相手ではなかった。どう戦うかと考えを巡らせる最中、煙幕を撒き終えた蝶たちは次々と気配をくらまし始める。
隠れたのではない。逃げているのだ。先ほど私が撃ち放った攻撃を考えれば、その行動も不思議ではなかった。気配が遠ざかっていく。
ただ逃げただけならいい。しかし、その方向はチェルたちが向かった先と一致する。カトライの話によれば、ワームはチェルが持つリターンの欠片を遠距離から感知する能力を持っている。そちらに向かわれてはまずい。
後を追うため走り出そうとした私を、カトライは制した。クインの頭の上に、彼の手が置かれる。
「――」
何か言ったようだが、耳が傷ついていたクインは聞きとれなかった。一言、短い言葉を残し、彼はゆっくりと前へ歩み出る。
その体からオーラが噴き出すように巻き起こった。何かが致命的にずれた、恐ろしいほどの歪み。吐き気がこみ上げてくるような濁ったオーラの気配が、汚染するように広がっていく。
彼は、本当にカトライなのか。別人としか思えない。一人の人間が発するには、あまりにも過ぎたオーラの量と質だった。
そのオーラは嫌悪感を掻き立てる。誘蛾灯の如く、全ての憎悪を引き寄せる。