それは風に翻弄される一枚の木葉のように、か細く無情な光景だった。
蝶たちは長い口吻を持っていた。ゼンマイのように丸まった鋭い吸管が目にもとまらぬ速度で伸長する。伸びるのも一瞬、巻き戻すのも一瞬のことだった。たとえ念能力者であろうと人間の反応速度と身体能力では到底かわしきれない。地を穿ち、石をも容易く砕くその威力。当たれば人体など元からなかったかのように貫通するだろう。
おそらく、これが私の赤い結晶を破った攻撃の正体だ。クインでは反応しきれない速度であり、なおかつ本体の装甲を傷つけうる威力を持っている。正面から戦える相手ではない。
だが、カトライはその刺突の雨の中にいた。降り注ぐ狂弾の中、彼はまだ生きていた。そこにあるものは死の淵をさまよい絶望する人間の姿ではない。だからこそ彼は生きていた。
彼は能力によって敵の悪意を感じ取り、攻撃の軌道を予測していた。相手は知能が高いとは言えない虫であり、そこに対人戦のような虚実の駆け引きはない。口吻による攻撃は一直線にしか伸びないため軌道も読みやすい。予測すること自体は難しくないだろう。
しかしその程度の有利など、かすれるほどの速度を敵は持っている。もはや予測ができたとて反応が追い付く次元ではない。カトライは予測の先を予測していた。敵が確たる害意を持つ前に、行動を起こさなければ間に合わない。
それは能力による効果だけでなせる技ではなかった。彼がこれまでに積んできた武術の全てが凝縮されている。一分の隙もない体捌き、足運び、残心。攻撃ではなく、避けることだけに注力した彼の生き様がそこにあった。
それだけの技をもってしても回避は紙一重だった。薄皮一枚のところをすり抜けるように攻撃がかすめていく。一発避けるだけでも望外の奇跡と言うしかない。
そんな攻撃が絶え間なく続くのだ。五匹分の敵が彼一人に対して一斉に襲いかかっている。なぜ彼はまだ立っていられるのか。避け続けることができるのか。理論や確率で説明できる域を越えていた。
その体から立ち上るオーラはお世辞にも綺麗と呼べるものではない。彼の体質を理解していても、呆れるほどに生々しい。人間が持つ剥き出しの本性がある。生への依存、欲への執着。そこに潔さや小奇麗さで取り繕われた理想はない。
恐怖し、心残りを思い、生き足掻く。その姿は肉食獣に追い詰められた獲物に等しい。その弱さに敵は引きつけられ、そばにいる私には目もくれず狂ったように彼だけを狙っている。彼が“逃がさない”ためにオーラを放っていることに気づいていない。
鏡を覗き込むように、彼の中には私の弱さが映し出される。自分の中で無意識に否定してきた感情を呼び起こすのだ。それを認められず、誰かのせいにするために彼を嫌悪し、攻撃しようとする。
きっと、彼のオーラの仕組みは簡単なことなのだろう。自分の弱さを否定せず、人よりも包み隠すことをしなかった。人並みに恐怖して、嘆いて、苦悩して、それを全て自分として認めてきたのだ。
彼は、ただの人間だった。おそらく私が見てきた人間の中で、最も一般的な感性を持つ人間であり、同時に普通とはかけ離れた人間なのかもしれない。
生まれながらに戦士としての強靭な精神を持つ者や、あるいはいくつもの死線を乗り越えて成長できた者にはわからない。いつまでもありのままの人間でありながら、戦うことを止めない人間など想像できるはずがない。
蝶たちと同じく、私も彼から目を放すことができなかった。交戦中であることも忘れて、その一挙手一投足を見届ける。
戦闘についてはクインに任せた。クインと本体の間のネットワークが断絶している以上、持ち物袋の外の状況は目視できない。クインが見聞きした情報も、彼女の脳内に保存されているだけで本体と共有することはない。クインが死ねば失われる一時的な情報だ。
だから、本体は円を使ってカトライの動きを見ていた。彼が敵を引きつけ、隙を見せたところをクインがシスト弾で仕留める。その間、本体はカトライを観察し続けた。
その精神、技、生涯を克明に記録する。そうしなければいけない気がした。
* * *
人間とは何か。
私は隊員の皆に尋ねたことがある。その質問は失笑を買い、哲学者にでもなりたいのかと逆に聞かれるほどだった。
人間なら誰でも答えられるだろうと思っていたこの問いは、私が考えるよりも遥かに難しいものだとわかった。それこそ哲学者が一生かけて探究したとしても普遍的な結論など出て来ないだろう。
だから、人間ですらない私がそれを知ることなんて果たしてできるのか。どれだけ彼らの外見を観察したところで、その真相は計り知れない。姿形を真似するだけでいいのなら、こんなに頭を悩ます必要はない。
クインはカトライを背負って森の中を走っている。彼は既に息絶えていた。
蝶の口吻を避けきれなかったのだ。むしろ当たらずに避け続けていたことが異常だった。それも直撃ではなく、ほんの少しかすった程度の傷であったが、そこから侵入した毒によって死亡した。
戦闘中、毒に冒されながらも彼の動きが鈍ることは一切なかった。その毒の強さや種類はわからないが、我慢すれば動ける程度のものではないことは想像がつく。私が最後の蝶を倒した直後、彼は糸が切れたように動かなくなった。
私は今、自分の感情をどう表現すればいいのかわからない。
普通の人間ならここで涙を流すのだろうか。守れなかったことを悔やむのか。助けられたことに感謝するのか。仲間のために戦った武人の誇りを讃えるのか。
どれも私の心を形容するには適切な表現ではない。一つ確実に言えることは、『残念』だということだ。
もっと彼と話をしたかった。彼は私の知らない多くのことを知っていた。彼からもっと武術を学びたかった。先ほど、死の間際に見せてくれた舞踏は素晴らしかった。息をするのも忘れて魅入ったほどだ。
まだ足りない。もっと彼を知りたい。その願いはもう叶わないのだ。諦めきれぬほどに惜しく、狂おしく心がかき乱されている。
だから彼の遺体を背負っているのかもしれない。死ねばそれは『生き物』ではなく、『物』である。わざわざ行動の妨げになる荷物を抱えて走る必要はない。軍の規則により、暗黒大陸調査中に死亡した隊員の遺体は研究資料となる場合を除いて全て現地で処分する決まりになっている。むしろ放置することが正しい行為と言えた。
ならば、私はこの遺体に荷物以上の価値を見出していることになる。
その理由にようやく気づいた。
走り続けていたクインの歩調は緩まり、やがて完全に停止した。
* * *
調査船クアンタムロード号に吉報が届く。最後の遠征が終わり、ついに調査隊はリターンを取得して帰還した。難航する着岸港建造工事は限界を迎えており、アンダーム司令官はリターン取得の功績を契機に工事打ち止めを発表する。その知らせは疲れ切った乗組員たちに希望を与えた。待ち望んだ帰国の時が近づいていた。
出立時、4名の隊員と1名の“少女”により構成された部隊は、1名の犠牲を出しながらも調査を終えて生存することができた。
推定危険度Bと認定された災厄『ワーム』は、視認しただけで生物の眼球に卵を発生させるという特徴を持つ。これにより最初の接触では多くの隊員がワーム幼体に食い殺され、孵化する前に眼球を摘出して難を逃れた隊員も失明状態に追い込まれ、帰路の途中で命を落とした。
その教訓を糧に様々な対策を行ったが、次の遠征ではワームの強化個体出現により2名の感染者が発生する。しかし、片目は常に閉じた状態で作戦に当たっていたため失明は避けることができた。
快挙と言えるだろう。アンダームは帰還した隊員たちを手放しで称賛した。少なくとも表面上はそのように見えた。
無論、この男の内心は不服だった。帰って来た兵の無事など、どうでもいい。彼にとって一番の関心事は持ち帰られたリターンだった。
話によれば周囲の重力に影響を与える鉱石だという。アンダームからしてみれば、「で、それが何の役に立つんだ?」という思いが正直な感想だった。これが水に入れるだけで1日2万キロワットの電力を生産する「無尽石」だったなら、アンダームも文句はなかった。その価値は一目瞭然である。
解析を進めれば人類の躍進につながる歴史的発見となる可能性もあるが、現時点で具体的にどのような利益がもたらされるのか明確ではない。アンダームが求めている物は即物的な実利であり、学者が机上でこねくりまわすだけの理論ではない。
本国で待ち構える彼の政敵も、概ね同じような見解を示すだろう。そしてここぞとばかりにアンダームの功績にケチをつけるに違いない。隙あらば他人の荒探しに精を出す連中である。彼らにとって最も大切なことはリターンというネームバリューなのだ。
もしアンダームが滞りなく着岸港を完成させていれば批判も出ないだろう。役に立つかどうかわからないリターンでも、本来の任務に付け加えた手柄となる。しかし、莫大な費用をドブに捨て本命の任務に失敗しておきながら、ゴミを持ち帰れば非難の的となることは確実である。
任務の失敗を帳消しにできるほどの画期的なリターンが欲しかった。こんなくだらない石ころのために死んでいった200余名の隊員たちには、能無しと罵倒する感情しか持ち合わせていない。
しかし、ないものはしょうがない。今ある可能性を検討するのみだ。彼にはもう一つ、避けては通れない重要な仕事が残されている。今回の調査に同行した少女をどうするかという問題だった。
彼女が合衆国にとって有益な存在となるのであれば、このまま乗船を認めるのもやぶさかでない。暗黒大陸に残された少女の救出という話題は、今回の調査に少しでも意味をもたせるためにあった方がいい。調査に協力し、リターンの取得に貢献したという公式の記録が残った以上、何の理由もなく置き去りにするわけにもいかなくなった。
かと言って、考えなしに迎え入れていい存在ではない。アンダームは、クアンタムにクインの動向を探らせていた。それだけではなく、彼女に渡した機器に至るまで細工が施してある。クインが着用したマスクには盗聴用のマイクと小型カメラが内蔵されており、既にそれらは回収済みだった。
クインが作戦中に取った行動は、おおよそ把握している。その能力も判明した。人間性と、その変遷もつかんだ。危険極まりない存在だと理解した上で、彼女は我々の“仲間”として飼いならすことができるか。
この船には限界海境域を越える際に同乗した『案内人』がいる。門番の一族により召喚された亜人種で、彼らとの交渉は許可庁の領分であるためアンダームも詳しいことは知らされていない。ただ、暗黒海域の航海をするために必要不可欠な存在であることは確かだ。
しかし、かつて行われた五回の調査では、その案内人の思惑によって調査団は災厄を自国に持ち帰るという結末をたどった。彼らが直接的にそのような行動を取ったわけではないが、あえて人類の過ちを看過したことも事実である。一部の有識者は、これは案内人による『戒め」ではないかと予想しているが、そんな理由で人類滅亡級の脅威を何度も持ち帰らされてはたまったものではない。
案内人は人類にとって善の側面も悪の側面も持ち合わせている。今回の少女救出は、彼らにとってどのような意味を持つのだろうか。過去の事例を考えれば、肯定するにしろ否定するにしろ意見を聞いておきたかった。
その答えはどちらでもない。『好きにしろ』とだけ、彼は語った。
* * *
私は船内の一室にいた。クインは暗く狭い箱の中で、膝を丸めて座っている。窓はあるが、今は夜だ。光が差し込むことはない。
ここにいると、なぜか昔のことを思い出す。私がまだクインではなかった頃、暮らしていたアリの巣に似ている気がした。
自由に使ってよいと個室を与えられた。船内を勝手に歩き回れるわけではないが、軟禁されるようなこともない。この船の司令官とも話をした。彼は私を英雄のように褒め称えた。君のおかげで隊員たちは帰ってこられた、と。仲間を助けてくれてありがとう、と。
私のおかげで? 仲間を助けた?
およそ思い描いていた限り、最高の結果を導き出せたはずだ。乗船を許され、クインの身柄はサヘルタ合衆国で保護すると約束してくれた。向こうでいきなり一般市民のような暮らしができるわけではないが、私の出自を考えれば当然の措置である。いずれは不自由のない生活ができるよう取り計らうとまで言ってくれた。
そればかりか本体の持ち込みまで許可が下りたのだ。持ち物袋も中身を簡単にチェックされただけで没収されることはなかった。これ以上、何を望むというのか。必死に自分に言い聞かせたところで、胸の内に広がっていく渇きが癒えることはない。
結局、魂魄石などのリターンを自分から差し出すことはしなかった。出し惜しみではない。最初からリターンを持っていたのに、それを隠して調査に同行したのだ。今さら言い出せなかった。
もっと早くこれを出していれば結末を変えることができたのではないか。いくら仮定したところで、もはや覆らない過去が幾度となく去来する。
「おーい、クイン! いるかー?」
ノックの音が部屋に響いた。返事はしていないが扉は開く。見知った顔がこちらを覗き込んでいた。
「うおっ、暗っ!? 電気ぐらいつけろよ。あっ、そうか照明の使い方わからなかったか? ったく、ちゃんと説明していけってんだ」
チェルだった。船にたどり着いたのは昨日のことだが、そのときは満身創痍で立っていることもままならない状態だった。円による索敵を担う彼女の疲労は他の誰よりも大きかった。カトライが欠けたことで、その負担は往路の何倍にも増している。
欠けたことでその負担は往路の何倍にも増している。
「体は?」
「もう大丈夫だ。強化系だから回復力には自信がある」
多少は回復したのだろうが、強がりの部分が大きいだろう。外傷がなかったとはいえ、ほぼオーラが枯渇した状態が慢性的に続くほど能力を酷使していた。昨日の今日で立ち直れるほど軽い疲労ではなかったはずだ。休んでいた方がいいと言ったが、チェルは聞く耳を持たない。
「それより今からクインの親睦会をやるらしいぞ。さあ、立った立った」
その話は聞いていた。だが、行く気はしない。この部屋から出たくなかった。チェルは困ったように頭を掻く。
「途中で隊長とトクの様子を見に行こう、な?」
グラッグとトクノスケは船内病棟にいる。彼らはワームの幼体に感染し、片目を失う重傷を負った。その事態を想定して医療器具や薬剤を用意してはいたが、ジャングルの真ん中で完璧な摘出手術などできるわけがない。当然、術後も任務は続くため安静とは程遠い状態で活動しなければならなかった。
病棟は私の部屋からほど近い場所にあるが、一人で外に出ることができなかった私は二人の容体が気になっていた。結局、チェルに手を引かれて部屋を後にする。
「おらっ、見舞いに来てやったぞ! 起きろ!」
「ゴブッ!?」
トクノスケは傷口が炎症を起こしていた。感染症にかかったものと思われる。しかし、命に別条はないとのことで安心した。まだ発熱などの症状によりベッドから起き上がれない状態だが、じきに良くなるだろう。
だが、さすがに寝ている病人の腹をいきなり殴るのはよくない。休ませてやれと言ったが、チェルは聞く耳を持たない。
「あ、ああ……クインさん、おはようござい……あ、まだ夜か……いや、もう夜……?」
「まったくしっかりしろよ、この貧弱が」
「そういうチェルさんは元気そうですねぇ……」
「美少女たちが見舞いに来て、お前も元気出ただろ?」
「美少女……“たち”……?」
「え? 何が言いたいのかな、トクくん。え、おなかが痛い? おなかが痛いって? あたしがさすってあげようか。おらっ!」
「チョコロボッ!?」
トクノスケはかなり消耗している。怪我を負い、感染症と戦いながらの復路だった。その上、能力による索敵もしっかりこなしていたのだ。用意していた紙型のストックは底をつき、即席で作った念鳥を飛ばしていた。
彼が本来扱う『自動操作(オート)』タイプの念鳥と違って、即席で作られた念鳥は『遠隔操作(リモート)』タイプとなる。行動範囲や持続時間といった性能は格段に落ちる上にオーラの消費は激しい。彼もまた限界を越えた体調を押してここまでやってきたのだ。
「あれ、隊長はいないみたいだな」
グラッグも同じく片目を失ったが、何とか感染症は引き起こさずに済んだ。トクノスケのように寝込むこともなく比較的に体調は落ちついているようだったが、大事をとって病室で休んでいた。
「先に会場に行ったのかもしれない。あたしらも行こうか」
「僕はこのありさまで一緒には行けませんが……楽しんできてくださいね、クインさん」
「おう、早く治せよ」
病室を出た。親睦会が行われる会議室に向かう。
電灯の音がじりじりと、耳の奥で焦げつくように騒ぎ始める。鉄の通路の末端に、会議室の扉が見えた。
足取りが鈍る。しかし、扉はいつの間にか目の前にあった。まるで向こうから迫って来たかと思うほど唐突に、長い通路はなくなっていた。
扉が開く。
その隙間から、大蛇が舌をちらつかせるように黒煙が噴き出す。引きずりこもうと手招きしている。
「ほら、クイン、大丈夫だから。まさか、あんタガこんなに人見知りするなんて思わなかったよ。あたしらト一緒にiiiiiるときは平気ナノニ」
立ち込める瘴気は音すらもゆがめていく。蜃気楼のように揺らぎ始めるチェルを見て、その手を強く握りしめた。
会議室は瘴気に冒されていた。発生源は、中にいる者たちだ。それを人間と呼んでいいのかわからない。人のような輪郭を持った何かは、全身から黒い煙を発している。チェルを除く、ほぼ全ての人間がその状態だった。
それは一斉に襲いかかってきた。入室した私へ向けて息が止まるほどの熱気が流れ込む。むせかえるような瘴気によって、視界が不定へ傾いていく。何もかもが絵具を掻き混ぜたように正常な形を失っていく。
「――!」
「――」
何か音らしきものを発している。両手を叩き合わせて何かをしている。その群れの中から、一匹の異形が進み出てきた。
この部屋にいる異形たちは誰もが吐き気を催すような黒煙を発しているが、私の前までやってきたこの異形が放つ黒煙は、他の者とは性質が明らかに違う。汚臭を伴う煙が、まるで肌を舐めるように這いずりまわる。クインの胸や局部を中心に、まとわりついて離れない。
「――――― ――――? ―――――!」
ひっきりなしにがなりたてる耳障りな甲高い雑音は、ひどい頭痛を引き起こした。夢なら覚めてほしいと願う一方で、この光景こそ私が望んでいたものだったのだと気づいている。
私が知りたかったものだ。
異形は、テーブルの上から何かを取って私の前に差し出した。私はそれを覗き込む。見てはならないと警鐘を鳴らす心とは裏腹に、取り憑かれたように目を放すことができない。
異形の手には皿が握られていた。揺らぐ煙と煤の中から、くすんだ赤い塊が
「――――――
――――――
――――――
――――――
――――――
――――――
た
べ
て
* * *
気がつくと、部屋の外を歩いていた。チェルが私の手を握っている。親睦会はどうなったのか。ここまで確かに自分の足で歩いてきたはずだが、その経緯を思い出すことはできなかった。
通路の先から誰かが歩いてくる。私はその人物を知っていた。チェルは姿勢を正し、機敏な動きで敬礼する。
「うむ、まだ体調も万全ではなかろう。楽にしていい」
「はっ!」
「そして、先ほどは怖がらせてすまなかった、クイン君。ずっと塞ぎこんでいるようだったので気晴らしになればと懇談の場を催したが、軽率な判断だったようだ。大勢の人間を集めるべきではなかったな……」
話しかけてきたのはアンダーム司令官だった。この人のことは以前よりグラッグの口から聞いていた。彼が最も尊敬する恩師であり、信頼のおける人物だと聞いている。
その前情報の通り、アンダームは親身になって私の話を聞き入れ、処遇について便宜を図ってくれた。この船の最高責任者である彼が積極的に受け入れてくれたからこそ、乗船が叶ったと言える。
「あの、さっきクインが殴っちゃった人って、確か“トッコー”の偉い人ですよね……?」
「タポナルド執務次官だ」
「それってやっぱりマズイですか? あのっ、なんというか、うまく言えませんが……クインはほんと良い奴で、さっきは気が動転してただけなんです! な、クイン! だから悪気はなくて」
「案ずるな。タポナルド氏に怪我はなかったし、彼もクイン君のことを悪く思っているわけではない。この件でクイン君の乗船が取り消されるようなことはないし、そんなことは私がさせない」
「よかった……」
アンダームは、クアンタムの隊員以外で私が唯一まともに話すことのできる人間だったが、そのことが必ずしも肯定的な意味を持っているとは限らない。
彼が瘴気を発することはなかった。そればかりか、あの異常な空間の中においても正常な姿を保ち続ける。さっきの会議室にいたのも確認していた。チェルでさえ原形を崩すほどだった揺らぎの中で、彼だけは何の変化もきたさない。彼の周りだけが切り抜かれたように整然としている。
彼は、まるで交わらない世界にいた。立っている場所が私たちとは違うように感じた。形式が根本から異なっている。
見えることは恐ろしいが、見えないことを知ってしまうことはもっと恐ろしい。
「二人とも、今日はゆっくり休むといい。ところで一つ聞きたいのだが、グラッグがどこにいるか知らないか?」
「いえ、私たちは会っていません」
「そうか。てっきりクイン君と一緒に会場に来るものと思っていたのだが……連絡がつかなくてな」
「隊長らしくないですね。約束や言いつけをすっぽかすことはない人です」
グラッグがいない。ろくに二人の会話を聞いていなかった私だったが、グラッグと連絡がつかないという部分だけは聞き逃さなかった。
何かあったのではないか。嫌な予感に胸がざわつく。
「心配しなくていい。無線機の調子でも悪いのだろう。チェル、クイン君を部屋まで送り――」
船内に鳴り響いた警報音によって声はかき消された。緊急連絡の放送がサイレンの音に続く。
『第一種警戒状況! 船内に不特定の脅威が侵入した恐れあり! 繰り返す、第一種警戒状況……』
私は、勝手にこの船が安全な場所だと思い込んでいた。長期間の停泊を無事に乗り越えてきたのだから、もうしばらくの間くらいはその平穏が続くものだと根拠のない想定に甘えていた。
この船は、いつ崩れるとも知れない均衡の上にいた。今、この瞬間が崩壊の時であったということに過ぎない。
守らなければならなかった。この船に乗る大多数の人間は私にとって嫌厭の対象でしかなかったが、船そのものは死守しなければならない。
何よりも、失うことのできない仲間がいる。もう誰一人として欠けてはならない。
私は駆け出す。意識を切り替えたというよりは、あてどない焦燥に突き動かされていた。