『クインを本国まで連れて帰ることはしない』と、アンダームは決断を下した。
確かに彼女は大きな利用価値を持っている。暗黒大陸を生き抜いた力と知識は計り知れない。しかし、それは当人を完全にコントロールできればの話である。
懐柔することが全く不可能とまでは言えない。一時的になら協力関係を築くこともできるだろう。しかし、その関係がどれほど長く続くか保証はない。あまりにもリスクが高すぎる。
クインとの遭遇当時は、まだ飼い慣らせる可能性を感じていた。決定的な決裂が生じたのは、ワームとの交戦直後にクインが取った行動であった。
カトライの遺体から脳を取り出して、所持していた赤い虫に食べさせたのだ。
あれは人間ではない。根本的に、種としての感性が異なっている。我々とは決して相容れない存在、アンダームはそう認識せざるを得なかった。
その虫は、船の解析班によって種が特定された。脚関節部の特徴的な構造から、キメラアントである可能性が疑われている。暗黒大陸の生物の中でも既に発見され、生態が詳しく調査された種であった。何のために死体の脳を食わせたのか、ある程度の予測は立つ。
おぞましい予測だった。もはや共存の道など模索している段階にはない。いかに功績にこだわるアンダームであっても、引き際はわきまえていた。連れ帰ったが最後、彼は名声を得るどころか第六の災厄を持ち帰った責任を負わされることになるだろう。自分に御しきれる存在ではないと認識する。
キメラアントが撃つ発射物に当たった生物は、多肉植物状の赤い結晶となる。原理は不明だ。念能力であるかどうかすらわからない。それに加えて広範囲、長距離を焼きつくすレーザー光線のような攻撃も行う。これはオーラの流れが観測できたため念能力であると思われるが、あまりに規模が巨大すぎる。一個の生命体にまかなえるオーラ量を遥かに超えたエネルギーを、どのようにして発生させているのか。
それだけでも危険という言葉では足りないほどに恐ろしい相手だが、さらにカトライを食すことにより彼の能力まで身につけてしまった。
他人の悪意を察知する能力。常に自分を偽り、本心をひた隠しにしているアンダームにしてみれば厄介な能力だった。それでも念能力者としての実力は、カトライよりもアンダームが上回っている。今回の調査では長期に渡り同じ船の中で時間を過ごしてきたが、演技を看破されることはなかった。
しかし、クインが吸収したカトライの能力は彼女の中でさらに強化されている。クインはアンダームを疑っていた。演技を見破られたわけではなかったが、何らかの異質さを感じ取っている。それはカトライにもできなかったことだ。アンダームはクインと対話するにあたって、細心の注意を払って演技に全力を注がなければならなかった。
キメラアントが食べたはずの人間の能力を、なぜクインが使うことができるのかという点も謎だった。わからないだけに不安要素は一層膨れあがる。海千山千の曲者たちと演技力による対局を幾度となく繰り広げてきたアンダームだが、これほど神経を使って対応した相手はいない。
ほんのわずかな下心でも出そうものならどうなっていたか、アンダームにもわからない。彼女を極力警戒させず、刺激しないようにするため最大限の厚遇を図った。可能な限りクアンタム以外の人間と接触することがないように配慮し、本来なら許可できるはずもない所持品の持ち込みも認めた。
親睦会はクインの反応を探るために計画した。言わばご機嫌取りの催しだが、ここでどの程度調査団の人間となじめるか見極める意味もあった。結果は最悪。カトライの能力はアンダームの予想以上の察知力を見せつけ、融和は絶望的と再認識する。
唯一、クアンタムの隊員に対しては心を開いているものの、それを利用して一時的に従わせたところで、いつ爆発するかわからない爆弾を抱え込むようなものだ。当初の目的通り、クインの排除計画が実行に移された。
この計画は慎重を期さなくてはならない。最終的な目標は、クインを暗黒大陸に置き去りにしたまま無事に船を出航させ、逃げ切ることである。一歩間違えば災厄の脅威が調査団に牙をむくことは想像に難くない。
一度出航してしまえば、海を泳いで船に追い付くすべはない。この海域はヌタコンブの一大生息地であり、その分泌される粘液によって魚類でも泳げない魔境となっている。しかし、合衆国は前回の渡航によって得たデータからこの粘液の特性を分析し、クアンタムロード号はこの海域を快速に航行できる推進機を搭載している。
問題は、クインが持つ大規模レーザー念弾である。その威力があれば、多少の距離が開いたところで撃ち落とされる危険があった。早急に沖へと出て、海岸から見えなくなる水平線の彼方まで進まなければならない。
逃げ切れれば良し。もし、間に合わなかった場合はチェルとトクノスケを盾にする。クインはクアンタム隊員を信頼している。他人の感情の機微を正確に読み取るアンダームから見て、その信頼は絶大だと確信している。もはや依存と言った方がいいほどに結びついた関係である。人質としての価値は十分にあると言えた。
だが、果たしてそれだけでクインを躊躇させることができるだろうか。手に入らないのならばいっそのこと全て消し去ってやろうという破滅的衝動が生まれないとは言い切れない。アンダームの読心術はあくまで対人用の特技であって、人間ではない相手に通じる保証はない。
計画が失敗に終わった場合に備えて、クインには無線機を支給してある。彼女が理性的な思考の余地を残していれば、まず船と連絡を取ろうとするだろう。暗黒大陸脱出の手段をそう簡単に破壊するとは思えない。
そこから交渉が始まる。調査団にとって圧倒的に不利な交渉になるかもしれない。
アンダームの額から一筋の汗が落ちる。いつもはピタリとセットされたロマンスグレーの髪も、ほつれが見られた。
しかし、彼の目に宿る執念は少しの陰りもなかった。しくじったときのことばかり考えている自分を心中で一喝する。
――このアンダーム、これしきのことで動じはせん……!
「鎮まれ!!」
彼の呼び声に、周囲の人間は一人残らず傾聴した。
「船内で発生した事態について、まだ全容の解明はできていない。しかし、着岸港入口付近にて複数の敵影らしきものを確認したという報告がある。既に外部から船内へ通じる経路の遮断は行っているが、予断を許さない状況だ」
一息区切る。そして、重々しく命令を下す。
「敵勢力からの完全な離脱のため、本船はこれより直ちに出航を開始する!」
全員が敬礼の後、一斉に自分の持ち場へと動き始めた。司令官の判断に否やはない。規律に基づき定められた役目を全うする。
クイン排除計画は既に大詰めを迎えていた。突如発生した謎の襲撃も計画の一部であった。つまり、最初から襲撃など起きていない。船を出すための口実でしかない。
これら嘘の情報操作は、アンダームが念能力によって操った人間が携わっていた。彼は操作系能力者。その能力を『演者の形相(アクターズメイク)』という。
この能力は発動条件が緩く使いやすいものの、はっきり言ってその効果は弱い。とてもではないが人間の意識を乗っ取って操作できるほどの力はなく、せいぜいが他人の思考を一定の方向へと誘導しやすくなる程度のものでしかなかった。抗おうと思えば簡単に解除されてしまう。
これはアンダームの話術を補助するための能力だった。彼の言葉には人を惹きつける魅力がある。この人は正しい、この人についていけば安心できる、そういったカリスマ性を持たせるためのフレーバーとして働く。
アンダームは自分が清く正しい人間だとは少しも思っていない。しかし、彼には人の上に立つ者としての誇りがあった。それは強制しないことだ。力によって従わせる、都合の良い言葉だけを並べ立てて洗脳する。そのようにして得た地位など反吐が出る。
あくまで彼は"客観的に見て正しい人間”であり、周囲の人間は強制されることなく自ら彼の意見に賛同する。どれほど彼の内面が薄汚れていようが、彼の評価は正しくなければならない。そうでなければ気が済まない。だから彼は徹底的に“正しい自分”を演じるのだ。
それは非常に難しいことだった。一方から見て正しい意見は、ある一方から見れば間違っている。現に、彼と敵対する人物は数多いる。軍人という立場、所属する派閥、関係する人間。生きているだけで人間は正しさと間違いを持ち合わせている。
だからこそ、そうした地位を超越して多くの人間から信奉される善人へと至ることに意味がある。彼は生涯をかけて善人を演じることを誓った。それはもはや狂気の域に達した誓約であり、彼の念能力を飛躍的に高める。
そうして生まれた第二の能力が『演者の全貌(レベル2)』だ。これは一年間『演者の形相(アクターズメイク)』を解除されずかけ続けた相手を完全に操作するというものだった。
言うほど容易いことではない。彼の矜持にかけて洗脳といった手段は使えず、あくまで彼が演じる人間性の魅力で相手を従わせなければならない。また、能力の有効範囲から離れてしまうと解除されてしまうため、かけっぱなしにしたまま距離を置くということもできない。
人間は正論をもって諭されることに最も憤りを感じるものだ。善い人が必ずしも好かれる人とは限らない。近くにいればいるほど意見が衝突することもあるだろう。そうした紆余曲折を経て、真に信頼される人間として認められなければ一年も能力を継続してかけ続けることなど不可能である。
ゆえに『演者の全貌(レベル2)』の域に到達した操作対象は、彼にとって至上のコレクションと言えた。むしろレベル2を発動させることは、他者を強制的に従わせることを嫌うポリシーに反する。一年の継続発動を成し遂げた段階で満足し、レベル2を発動させる機会は滅多にない。
ではなぜこんな能力を作ったのかと言えば、その当時の若かりし頃だった彼は今よりも野心が強く、過程よりも結果を重視する傾向があったからだ。その頃はレベル2も積極的に使っていたが、老年を迎え彼の凝り固まった演技志向はますます偏執的になり、使う機会はなくなっていた。
だが、今こそその奥義を使うべき時である。なりふり構っている余裕はなかった。レベル2の影響下にある人間は、アンダームの命令に完全服従する。記憶を消せと言われれば都合の悪いことは全て忘れる。
今、最も重要な命令を与えている人形が一人いる。その名はグラッグ=マクマイヤ。クイン排除計画において核心を担う役割を命じている。
手塩にかけて育てた人形だった。出会った当時は廃人同然。それを彼が一から叩き上げ、念能力者としても一流に仕上げた。彼の本来の性格を考えれば特殊部隊の隊長には向かないし、暗黒大陸の探検やリターンの発見にもそれほど強い関心はないだろう。そこをアンダームが自分の手駒として利用するために誘導していた。
人形を使い潰すことに罪悪感はなかった。むしろ、ここまで育ててやったのだから尽くして当然としか思っていない。惜しむ気持ちがあるとすればコレクションを失うことに対する心残りだけだ。
踊れ、我が言葉は正善なれば。
すべては手の内にありて、善人を偽る悪人は人形を
「未確認の脅威について新たな情報が上がりました! 12時の方角に発光する球体を確認! 映像、出します!」
オペレーターの一人が声を張り上げた。そしてメインモニターに映像が映し出される。そこには海上に浮遊する巨大な球状の物体があった。目に刺さるように鮮やかな黄緑色に発光しており、深夜の海でもはっきりと確認できる。その球体の表面は、水面のようにたゆたっていた。
アンダームは深く椅子に腰かけ、モニターを注視する。
「なんだこれは……?」
この場にいる全員が共有する感想をアンダームは代弁した。
何だ、これは?
こんなものはシナリオにない。彼が思い描く計画には予定されていない。
嘲笑うかのように、耳朶を震わせるほどの“耳鳴り”が響き渡った。
* * *
グラッグは船から離れた場所にいた。木々のまばらな森の一角、晴れた夜空には星が瞬く。自宅の窓から見えた星座を、この未開地の空でも見つけることができた。当然のことだが、それがどこか実感のわかない気持ちだった。
適当な大きさの岩を置き、木材をロープでくくりつけただけの十字架を近くに立てた。急造の不細工な墓標だが許せよと、彼は心の中で謝る。
カトライの遺体はワームの生息域付近に残されている。残りの隊員たちを逃がすために囮となった彼は、そのまま帰ってくることはなかった。助けに向かったクインの報告によれば、何とかワームの撃退に成功するもののカトライは死亡し、その遺体を運び出す余裕もなかったという。
少なくとも、グラッグはそう聞いている。
だから、せめてもの弔いとして墓標を建てた。しかし、それはカトライのためというよりも自分の心を落ちつけるための自己満足に過ぎないのかもしれない。
いずれにしても、この状況でやることではなかった。周囲は夜の森、それもたった一人で船を出ている。正気を疑うような行動だった。
確かに、気がふれているのかもしれない。実のところ、墓を作る目的でこの場所に来たわけではなかった。
彼は待っている。虫の声も静まった森の中で、今は亡き戦友に謝りながら待っていた。懺悔の時間はいつも長く、苦しむことで彼は癒された。
静かに、足音が近づいてくる。待ち人は、ようやく訪れた。
「グラッグ!」
息を切らして駆け付けた少女は彼の名を呼ぶ。グラッグは墓前にたたずんだまま、振り返らなかった。懐から取り出したスキットルを開け、中身を十字架に降りかける。辺りに蒸留酒のにおいが漂った。
「知っているか? ああ見えて、カトライは酒好きだった。普段はおどおどしているが、酒が入ると人が変わったように陽気になる。最近は精神統一のために断酒していたが、最期くらい腹いっぱい飲ませてやりたかった」
唐突に語り始めたグラッグを前にして、クインも何と声をかければいいのかわからない様子だった。クインにしてみれば、彼が今取っている行動の一切が理解不能だろう。ひとまず彼女が気にしたことはグラッグの安否だった。
「けがしてない……?」
クインがこの場所までグラッグの後をたどって来られた理由は、彼が痕跡を残していたからだ。グラッグは念文字を使った簡易の救難信号をところどころに刻みつけていた。
グラッグは船内で何らかの戦闘に巻き込まれ、船から離脱。仲間と連絡を取る余裕もなく、救難信号だけを残して森へ入ったものとクインは推測していた。場合によっては身動きがとれないほどの重傷、あるいは最悪の事態も想定していたが、彼は無事だった。
だが、クインの胸中から不安が消えることはなかった。グラッグの気配に不穏な空気を感じ取る。何かがおかしいと気づき始めていた。
その予感は正しい。クインがグラッグを探してこの場所をつきとめることは仕組まれていた。船を襲った災厄の襲撃も計画の一部だ。実際は、想定外の事態など一つも発生していない。
ここまで全てが順調だった。だからこそ、彼は堪えがたい苦悩に苛まれる。
「なぜ、嘘をついた」
絞り出すように感情を吐露する。それは明確な意思に基づく問いではなく、堰を切って溢れだすように止めることのできない衝動だった。
「カトライを、食べたな」
船に帰還した後、グラッグは全てを知った。クインの防護マスクに隠しカメラが取り付けられていた。グラッグがそのことを知らされたのは船に帰還した後のことだ。アンダーム司令官より事の顛末を聞かされる。
事前に説明されなかった能力の危険性は無視できるものではない。一人の念能力者が実現できるレベルを越えている。彼女自身が一つの災厄であると言わざるを得ない。
それでも、その力がカトライを救うため使われたことに感謝した。あの状況なら逃げたところで誰も責めない。見せなくてもいい手札を切って戦った。
紛れもなく、彼女は生死の危機を共に乗り越えた仲間だと思えた。カトライもきっと報われただろう。もし、彼女がいなければあれほどに実力を超えた動きなど発揮できなかったはずだ。命がけで互いを守るため戦った。
「それも、全て、嘘だったのか……?」
クインはカトライの死体を食べた。正確には、彼女が持つ赤い虫にカトライの脳を食べさせていた。そして、そのことを誰にも話さず隠蔽した。
その行動がいかなる理由のもとに行われたのか。船にいる科学者たちの見解はどれも聞くに堪えないほど残酷なものだった。
そしてグラッグは、クインはそんなことをする奴ではないと思いながらも、科学者たちが好き勝手に並び立てる推論を否定することができなかった。それらの仮説はどれも説得力を持っていた。
だからこそ今一度、真意を彼女に問う。クインとキメラアントの関係性を。その並外れた能力の秘密を。人間に近づこうとした理由の全てを。
「お前は何者だ! クイン!」
クインは答えなかった。しかし、異常なほどの反応を示す。
彼女はガタガタと体を震わせ、その場にうずくまると嘔吐した。吐瀉物はほとんどない。クインはここ数日、ろくな食べ物を摂取していない。出てきたのは胃液のみだった。
吐き出すものもないのに抑えることのできない嘔吐感を、グラッグは知っている。演技だとは思えなかった。だが、ならばなぜその原因となる行動を取ったのか。
グラッグは激しく動揺していた。取り乱すクインの様子を見て、ほだされる。彼女を守りたいという心理が少なからずはたらくのではないかという思いがあった。
しかし、実際は全くの逆。むしろ、人間的な反応を示したクインに対して危惧を強めていた。彼らにとって未知の存在が、人間を学習し、その行動をより情緒的に表現していることは問題だった。
グラッグはクインに対して仲間や戦友といった立場以前に、一人の軍人であった。彼に課された命令は船に乗る数百の人間の安全を守ることであり、祖国に脅威を持ち込ませないよう送り出すこと。
個人的な感情をもってクインに協力することは許されない。その当然の道理を、当然に受け入れている自分に動揺していた。
歯車は食い違い、それでもなお回り続ける。乖離していく感情と行動は、やがて彼の内面を破壊していくだろう。その前に決着をつけなければならない。
「クイン、お前を船に乗せるわけにはいかない」
彼に与えられた命令は船が沖を抜けて外海に逃れるまでの時間稼ぎである。船は既に出航していた。クインが追ってこられないように足止めを任されていた。それはつまり、彼もまた置き去りにされたことを意味する。
だが、彼に後悔はない。自分の命惜しさに仲間を犠牲にするような考えは欠片もなかった。船が安全圏まで逃れるまでの時間を稼ぐという一点のみに集中する。自分の中にある余計な雑念を払拭する。その過程は盲目的と言えた。
任務を完璧にこなすことを考えれば、クインに真実を伝える必要はない。なるべく警戒させず、適当な理由をでっちあげてこの場に引きとめていた方が利口だっただろう。
しかし、今のグラッグにその演技をこなす余裕はなかった。たとえ精神が落ちついた状態であったとしても、クインは彼の行動の不自然さに気づくはずだ。鈍い相手ではない。
あえて隠さず、正面から切り出す。彼の言葉の効果は覿面に現れた。クインは首を横に振りながら後ずさる。その様子は現実を受け入れられない者の行動そのもの。外見通り、幼子が駄々をこねているようにしか見えない。
「頼む、クイン。ここに残ってくれ……私もここに残る。その後、私をどうしてくれても構わない。だから……」
ショックが大き過ぎたのか、グラッグの頼みはクインの耳に届いていなかった。何もかも打ち捨てて逃げ出すように、彼女の足は後退する。目の前に立ちふさがる壁に背を向けてどこかへ消えようとしている。
グラッグからしてみれば、ここで彼女を逃がすことはできない。その足で船へと向かわれては任務は失敗に終わる。この森を知り尽くした彼女に追いかけっこで勝てる自信もない。かと言って、本気で逃げようとしているクインを実力で止めることは不可能だ。
「逃げれば、このことを船の全員に話す!」
ゆえにこの事態も想定していた。クインがしたことを暴露すると脅す。この情報は上層部のみであるが既知の事実だった。だが、ここで脅迫の材料として使うことでクインはまだこの情報が知れ渡っているわけではないのだと誤解する。
この事実が公のものとなれば船に彼女の居場所はなくなる。どんなに破壊的な能力を持っていようと、たった一人で海を渡ることはできないのだ。実際は既に排除計画の最中であるが、それをクインが知る由はない。
「一緒に……」
クインは動きを止めた。前にも後ろにも行き場はなく、取り残された少女は助けを求めるようにつぶやく。
「みんなで……いっしょに、かえろう……?」
その姿は、彼の奥底に眠る怪物を呼び覚まそうとする。クインに対する恐怖はなかった。むしろ、自分の内面に押し込んできた感情が恐ろしい。
後悔、そして回帰。また同じことを繰り返すのか。それも今度は自分自身の手によって。
グラッグは唇を噛みしめた。肉をすりつぶし、口の中が血の味で満たされるほど強く。そうでもしなければ気が狂いそうなほどの激情を痛みで押し殺す。
「お前の居場所は“ここ”だ!」
『絶対不退(ノーサロフェア)』
彼の手に警告色の長柄が現れる。それも二本を同時に具現化し、両手に構えていた。遮断機とは二機で一対の装置。切り分けられた領域を前にして、人は無意識に歩みを止める。結界に等しい双槍の構えをもって、グラッグはクインの前に立ちはだかった。
猛攻を仕掛ける。徹頭徹尾、敵を追い込み隙を潰す戦い方こそ彼が最も得意とする戦法だった。得物に込められた『絶対不退』の能力により、敵から受ける攻撃は相殺される。しかし、能力によるエネルギー収支の変化と武器を念によって強化して得られる攻撃力は別計算となる。
つまり、相手の攻撃は必ず相殺する上に、そこへ自分の攻撃力をプラスして上乗せできるのだ。力と力のぶつかり合いでグラッグに勝る者はいない。どれほどオーラによって強化された攻撃だろうと、一方的に彼の攻撃だけが通る。
元がプラスチック製のポールであるため純粋な武器ほどの強化効率は得られないが、それでも一流の念能力者による『周』によってオーラを施された得物である。当たれば無傷では済まない。
あわよくば、クインを倒す可能性を考えていた。命を取る必要はない。少しの間だけ気絶させるだけでいい。
普段のクインならば一本取ることは難しいと言うほかない。念能力者としての実力はクインが上だ。一方、グラッグとて、これまでの戦いの中で磨き抜かれた技があり、その経験は圧倒的に勝っている。戦士としての技能だけを見れば互角と言えた。
加えて、今のクインは精神を乱している。これまでのグラッグとのやりとりによって、彼女は多大なショックを受けていることがわかる。精神の安定は念能力者にとって重要な戦闘要素だ。強固な一心が念能力を爆発的に高める一方で、脆く崩れた精神では本来の実力は発揮できない。
既に戦闘態勢に入ったグラッグに対して、クインは何の構えも取らず無防備な姿をさらしていた。まさに千載一遇。これを逃してグラッグに勝機はない。
鋭く突きだされるグラッグの攻撃。『堅』もまともにできていない今のクインならば昏倒させる程度のことはできる。勝てる可能性は十分にあるように見えた。
しかし、かわされる。攻撃が当たる直前に、思い出したかのように回避された。ほぼ反射的な動きだった。天性の勘、動体視力、敏捷性、そういった才能が瞬発的に引き出された結果であるかに思えた。
だが、二の矢三の矢と繰り出される攻撃でさえもがことごとくクインに回避された。もはや偶然や勘などといった言葉では説明できない。確かな技術に基づく洗練された回避行動を取っている。
つい数日前まで、彼女は対人戦を前提とした武術に関して素人も同然だった。彼女なりに考えて鍛錬を積んだ形跡は見られたが、独学で追究できる技などたかが知れている。それが今や無意識レベルでグラッグの猛攻を回避できるほどにまで成長している。
いかにカトライを始めとする隊員たちの指導があったとはいえ、この成長速度は異常としか言いようがない。
グラッグは、クインの身のこなしに強烈な既視感を覚えた。その体捌きは間違いなく心源流を基礎としている。カトライから聞きかじった程度の知識で再現できるレベルではない。その動きは、まさにカトライ“そのもの”。
幾度となく手合わせをしてきたグラッグにはわかった。クインはカトライと全く同じ技術を体得している。『回避術のみ師範代』と呼ばれた男の技がクインの体に宿っていた。
かつての仲間の技を目の当たりにして、グラッグは憤りを覚えた。クインがカトライの遺体にしたことと無関係とは思えない。場合によっては、クインはカトライから技を奪うために死体を漁ったのだと捉えることもできた。
だがその一方で、クアンタムが彼女の支えを受けて暗黒大陸の探索に成功したことも事実。クインにどんな思惑があろうと、彼女の助力なしには為し得なかったことだ。
それにカトライは、それほどクインのことを恨んでいないのかもしれない。無論、死んだ者が考えていたことなどわかるはずもないのだが、グラッグがカトライの立場であったならば、クインの行動を軽蔑することはなかったのではないかとも思う。
もしクインが死体から何かを得る能力を持っていたとして、避けられぬ死の果てに自分の能力を彼女に託せるというのなら。これまで命をかけて鍛え育てあげた技を受け継ぎ、暗黒大陸の探索に役立ててくれるというのなら、決して悪い選択ではなかった。
あと少しで分かり合えるところまで来ていた。クインを乗せて海を渡り、彼らの故郷へと共に帰る未来は決してありえない可能性ではなかった。
ほんの少しの齟齬が結末を変えた。気がつけば、転がり落ちるように引き返せないところまで来てしまった。どちらが悪いという話ではない。正しいということは必ずしも最善の結果を生むわけではなかった。
グラッグは止まらない。彼の中でくすぶるちっぽけな正しさに突き動かされるまま、繰り出される攻撃は空を切り続けた。
試合において、グラッグがカトライに一撃を当てたことはない。反応を上回る超高速で攻撃するか、回避のしようがないほど広範囲の殲滅攻撃をするか、必中の特性を持つ念能力による攻撃か。そのいずれかでなければカトライを捉えることはできず、そしてグラッグにその手段はなかった。
それでも手を止めることはない。こうしてクインを釘付けにして、この場にとどめているだけでも彼には意味がある。作戦は続いている。
「やめて……」
クインから攻撃してくることはなかった。カトライと同じく、ひたすら避けに徹している。
手を出そうと思えばできるはずだ。回避ができるということは攻撃が来る場所がわかるということであり、それは転じて反撃の機会を容易に知ることができるということでもある。反撃をさせない立ち回りがグラッグの真骨頂とはいえ、いつまでも一方的に攻め続けられると思うほど自惚れてはいなかった。
彼女には敵意がない。グラッグを害そうという意思がない。グラッグにとって、それは予想していた展開であった。クインならば自分に攻撃はしてこないという傲慢な確信。
言わば彼女の善性の上に、二人の立ち合いは続いていた。敵として扱っておきながら、根本では彼女の優しさを信じている。その信頼を踏みにじり、作戦のために利用しているのだ。
クインは傷ついていた。グラッグの攻撃はかすりもしなかったが、その行動は彼女の精神を確実に追い詰めていた。何もできず、何をしていいのかもわからない。混乱の中、体に染みついた回避技能が受動的に動作しているにすぎない。
そしてグラッグの精神は、クイン以上に深刻な影響をきたしていた。一突き攻撃を浴びせるたびに、彼の心は削れていく。自分の中で守るべき絶対のルールが二つあり、片方を遵守することは片方を切り捨てることに等しかった。
客観的な時間の流れと主観的な時間の感じ方は違う。楽しい時間はあっという間に過ぎ、不快な時間は長く感じる。グラッグはこの上なく引き伸ばされた時間の檻に捕らわれていた。一秒を過ごすことをこれほど汚らわしく感じたことはない。
とうに心は壊れていた。ずれた歯車は摩擦で焼き切れ、周囲の機構を巻き込みながら破壊を広げていく。表情は硬直し、瞬きも忘れ、乾いた目からは涙がこぼれた。まるで血の通った人間であることを恥知らずにも主張するかのように、頬を伝う温かさに嫌悪する。
そんな状態であるにもかかわらず、身体は一分の狂いもなく正常に機能した。技の精度が衰えることはなかった。機械のように正確に愚直に、与えられた命令を守り続けている。
もはや、まともに現実を受け止めることさえできていない。クインが心ここにあらず応戦しているように彼もまた、なぜ自分が戦っているのかわかっていなかった。
探せば理由はある。人類平和のためという考えるまでもなく重大な理由がある。しかし、それは強制力であって彼自身が導き出した答えではない。
“なぜ戦わなければならない?”
目的も、理由すら見失い、それでも彼は止まらなかった。白々しい正義が、彼の手足を人形のように動かし続ける。
「――ッグ!? 目を――して! ――ッ!」
意識はおぼろげに薄らぎ、彼が感じ取る世界はひどく鈍っていた。しかし、戦闘に関する情報だけは明瞭に入ってくる。初めてクインが攻めに転じようとしていた。なぜ急にクインの態度が変化したのか、その理由を考えることなくグラッグはすぐに防備を固めた。
8メートルに及ぶ長大な得物を振りまわすグラッグに対して、クインは無手である。その右手には赤い虫を手甲のように携えているが、リーチの差は圧倒的な開きがある。
しかし、グラッグは赤い虫が尾針から弾を発射することを知っていた。拳銃程度の速度がある弾丸に対し、取りまわしのしづらいグラッグの長柄は不利に働く。
グラッグは即座にポールの一本をへし折った。弾を受け止めるに最適な長さとする。具現化された得物ゆえ、損傷したとしても直そうと思えばすぐに修復可能である。もう片方のポールはそのまま、長短二本で待ち構える。
仮に弾丸を防げたとしても、その効果は未知数だった。ワームを一撃のもとに無力化したその威力を忘れてはいない。当たれば死ぬと考えて行動する。もはや死の恐怖によって動きに支障が出るような精神状態ではなかった。
グラッグは、今の自分にできる最大のパフォーマンスでクインを抑えることしか考えていない。生死は作戦進行上の必要性の問題でしかなかった。
回避を優先し、目標を定めさせないように動きをつける。それに合わせてクインが飛び出した。グラッグの間合いへと自分から飛び込んでいく。
月光を受けて輝く銀髪は、白い風のようだった。貫き、反れ、薙ぎ払われる長柄の圏内を滑るように駆け抜ける。這うように地を駆け、翻り身をかわす彼女の姿は、野生の威風を一身に取り込んだ山猫のような美しさがあった。
一拍のもとに間合いは詰められる。クインは右手を振りかぶっていた。懐深くに潜り込まれたグラッグだが、迎撃は十分追い付く。ただのパンチなら防ぐことは容易だ。その拳に込められたオーラは強大だが、彼の能力の前にパワーは意味をなさない。
だが、クインとてグラッグの能力は知っている。クインの左手には右手以上に強力なオーラが込められ、構えられていた。防がれることを承知の上での攻撃である。つまり、右のパンチは牽制に過ぎず、本命は左。連続攻撃を仕掛けるつもりだろう。
グラッグはクインの両手に集まったオーラ攻防力の移動を見て、彼女の意図を見抜く。その攻防力の移動は力任せのお粗末な出来だった。異彩を放つ回避術に反して、攻撃に関しては素人も同然であった。
間合いを詰められたからと言って、グラッグが不利になったわけではなかった。むしろ拙い攻撃に及んだことでクインに隙が生じるはずだ。またとない好機を前に、グラッグは気力を振り絞りクインを迎え撃つ。
「グラアァァァッグ!!」
「……ク……イン……!」
互いの視線が交錯し、息遣いが聞こえるほどの距離。撃ち放たれたクインの右腕が、グラッグの得物とぶつかり合う。
拮抗はなかった。抵抗すらなかった。クインの拳は紙のようにポールを捻じ曲げ、消滅させながら突き進む。赤い虫の強固な外骨格は武器としての性能を遺憾なく発揮し、グラッグの胸を抉った。
どうして攻撃が通ったのか。途切れかけた意識の中で彼は考える。間違いなく防御は間に合った。しかし、彼の能力『絶対不退』は不発に終わる。
クインが何らかの特殊能力を使ってグラッグの防御を無効化したのではないかとも思えたが、そのクインにしても唖然とした表情で立ち尽くしている。彼女の反応は、この事態を全く予期していないものだった。
殴打の衝撃が彼の内臓を掻きまわした。『堅』による防御がはたらかず、ほぼ生身の状態で攻撃を受けていた。拳が捉えた場所は胸の中心だった。叩き潰された肺に折れた肋骨が突き刺さる。
彼は鼓動が止まる感覚を知った。自らの死を悟る。だが、そこに苦しみはなかった。
ようやく気づけた。なぜ彼の能力が機能しなかったのか。クインが特別なことをしたわけではない。原因は彼自身にある。
『絶対不退』は敵に対して逃げることを誓約で禁じている。グラッグが一度戦うと決めた相手に「背を見せる」「後退する」といった動作をしたとき、その効果は失われ、二度と念能力を使うことができなくなる。
彼は誓約を破ったのだ。敵を前にして身を引いた。クインから攻撃を受ける瞬間、ほんの少しだけ後退していた。それは一歩というほどのこともない、靴底がわずかに砂の上を滑った程度の微動であったが、確かに“後ずさった”。
臆したわけではなかった。では、軽率な不注意か。彼はいかなる場合においても誓約を破らないために自分の戦い方を体に刷り込み叩きこんできた。それがこの土壇場で、これほど不用意なミスを犯したというのか。
ただ一つ言えることは、彼はこの結果を惜しんでいなかった。作戦遂行上の失態であるはずの行為を、それでよかったのだと思えた。
このまま戦いが長引けば、グラッグの意思は完全に消えていた。何かを考えることもできず、ただ作戦を実行するためだけの機械と化してクインに襲いかかっていた。恥ずべき戦いを恥とも感じず、命令のままに戦う傀儡と化していた。
人の心を残したまま終われることに安堵する。どれだけ敵として見ようとも、心の奥底までクインを憎むことはできなかった。
たとえ全人類の脅威であろうと、彼にとってクインは仲間だ。無意識のうちに後ろへと下がった足は、そんな彼の真意の表れだったのかもしれない。彼を律する呪縛への、最後の抵抗だった。