カーマインアームズ   作:放出系能力者

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21話

 

『なあ、帰ったら何がしたい?』

 

『暗黒大陸からサヘルタに帰ったらって話ですか? やめてくださいよ、死亡フラグみたいで縁起が悪い』

 

『そういうふうに考えるから辛気くさくなんだろーが。なんかあんだろ? やりたいこと』

 

『まぁ……里帰り、ですかね』

 

『辛気くせーっ! もっとこう、飲み屋で綺麗なねーちゃん侍らせながら一晩で1000万ジェニーの豪遊がしたいとか、そういうビッグな夢はないのかよ。な、カトライ!』

 

『えっ!?  い、いえ私からはなんとも……』

 

『そうですね。綺麗なねーちゃんはいらないし、1000万ジェニーも使わなくていいですけど、ここにいる全員でパーッと飲みにいくのはいいかもしれません』

 

『おっ、いいこと言うねぇ。隊長も行きますよね!』

 

『それは構わんが、クインは未成年だから飲酒は駄目だぞ』

 

『あっ、それもそうか……じゃあ、酒が飲めて美味しいスイーツも出してるオシャレな店を探しときますよ』

 

『屈強な野郎どもが集まって打ち上げするような雰囲気の店じゃなさそうです』

 

『言っとくが男女比は3:2だからな』

 

『わかりましたからその握りこぶしを下ろしてもらえますか? まだ僕は何も言ってませんよ』

 

『クインも食べたいものがあったら何でも言えよ。ケーキ、パフェ、プリン、アイスクリーム……』

 

『いや待て、クインは確か卵や動物性脂肪も嫌いだったはずだ。そう言った菓子類も苦手かもしれない』

 

『……隊長って意外とクインのことよく見てますね』

 

『じゃあ、僕が知ってるジャポニーズカフェに行くのなんてどうです? なかなか凝った和菓子があるんですよ。ジャポン発祥の和菓子は植物性の原料のみで作られたものが多いですから』

 

『なんかどんどん飲み会から遠ざかっているような気もするが、ま、いっか!』

 

『やれやれ、クインさんのためにもちゃんと無事に帰って店まで案内しないといけませんね』

 

『誰ひとり欠けやしないさ。リターンを手に入れて、全員で戻るんだ』

 

 

 * * *

 

 

 初めて、人間に会った。それまで戦うこと、生きることしか知らなかった私は、何かを得られるような気がしていた。

 

 その答えに、あと少しでたどり着けたのかもしれない。真相のすぐ近くまで迫っていたはずだ。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、そのわずかな隔たりを理解できない。

 

 だから食べた。

 

 私は動物の肉を食べることが嫌いだ。キメラアントの体質のせいか、食べた生物の情報が体内に残る。それは新たに生まれる卵に悪影響を及ぼし、不純物が混じったエラーを生じさせる。私ではない何者かが生まれてしまう。

 

 それはおそらく、捕食した生物の魂に刻まれた精神性なのだと思う。キメラアントはそれらを自らの種に取り込み、卵として別の生命へと引き継がせることができる。

 

 私の場合は、それが不都合だった。卵と本体は『精神同調』で意識を同じくしている。自分ではない何者かと精神を共有することなどできない。そういう混ざり物(エラー)は排除しなければならない。

 

 しかし、カトライは違った。私は彼と一つになることを認めた。いや、私は彼のようになりたいと思えた。そうすれば簡単に、もっと深く人間に近づけると思った。その予想は的中する。私は確かに彼の心を自分のものとして引き継ぐことができた。

 

 それが“人として”越えてはならない一線だということはわかっていた。タブーに関する知識はあり、だから食べたことは誰にも話さなかった。思えば、その時点で私の感覚は人間からかけ離れていたのかもしれない。

 

 してはならないことだと認識はしていても、その意味を本当のところで理解できていなかった。死体とは物でしかなく、捨て置いて行くくらいなら活用すべきだと、その程度の判断しかできなかった。

 

 私はカトライの精神を取り込んだ。彼の魂に刻まれた情報が共有化され、私の中で拡散し、浸透した。その過程は私にとって望ましいものではなかった。じわりじわりと、人間の感覚を手に入れていく。それに伴って、私は自分が犯した過ちの意味を理解していった。

 

 カトライの記憶そのものが取り込まれたわけではない。彼の人生史を本のようにまとめて、それを閲覧するように覗き見ることができるだけならまだ良かった。“魂を取り込む”ということはそういうことではない。

 

 私の中で共有化された情報は彼の“精神性”だった。念能力者として、武芸者として、人間としての彼の精神の在り方が入り込んでくる。それに比べれば、記憶なんてものはただの付属物に過ぎない。

 

 アイデンティティが書き換えられていく。世界を認識する基盤そのものが取り換えられるに等しい変化だった。そして、この感覚は初めての体験ではないことを思い出す。

 

 アルメイザマシンとの戦いのときにも同じ経験をしていた。あのとき、私はルアン=アルメイザの残留思念と対話している。ほぼ無意識的な行動であったが、彼の魂を取り込むことで災厄に打ち勝つことができた。

 

 私は一度死んでいる。記憶を引き継ぎ、新たな生命として生まれ変わった。そのときは自分の中に生じた変化を認識することもできず、“そういうもの”だと思い込んでいた。だが、今ならわかる。カトライを取り込んだことはそれと同じなのだ。

 

 私は再び生まれ変わった。肉体は変わっていないが、精神は別のものになっている。それに伴って念能力にも変化が現れている。クインの外見は変わっていないが、ソフトウェアが更新されたかのように彼の体術を再現することができた。

 

 彼の念能力の全てを継承したわけではなかった。『蛇蝎魔蝎香(アレルジックインセンス)』は使えない。あれは彼の特殊体質であるオーラを前提に作られた能力である。彼と全く同じ体質に変化したわけではない。

 

 ただ、『悪意を感知する能力』については受け継がれた。これは念能力者なら大なり小なり持っている感覚であり、正確には私の感覚がより鋭くなったと言える。そして、それだけではなかった。この感覚が『共』と混ざり合い、予想もしなかった能力へと変化している。

 

 五感を意図的に融合させる技である『共』を使えることで、潜在的に私の感覚器は共感覚を得やすい状態となっていた。そこに『悪意感知』という能力が投入されることで予期せぬ化学反応を引き起こす。この感知能力と五感が共感覚を生じるようになった。しかも、『共』のようにコントロールすることができない。常に発動した状態となってしまう。

 

 悪意を“視る”ことができた。“聞く”こともできる。嗅ぎ、触り、味わえる。まるで現実のような幻覚に苛まれた。その本当の恐怖は、調査船に帰還した後に実感する。

 

 人間の悪意の邪悪さを知った。暗黒大陸の凶悪な生物たちも悪意は持っているが、その多くは動物的な捕食本能に基づく悪意である。人の持つそれとは質が違う。近づくこともためらわれるようなおぞましい気配がする。

 

 だが、最も恐ろしいものは別にあった。クアンタム隊員たちの心だ。彼らからは、一切の悪意を感じない。船にいた他の人間たちと比べたからこそわかる。隊員たちは、クインに対して一片の悪意も抱いていなかった。

 

 信頼されているということが、何よりも嬉しく何よりも恐ろしい。もし、カトライを食べたことが発覚したら。それは彼らの信頼を裏切ることになる。その先に何が待っているのか。他の人間たちと同じようにクインは見放されてしまうかもしれない。

 

 死を覚悟するような経験はこれまでに何度もあった。それに比べれば、私が今直面しているものは物理的な危険ではない。ただの気持ちの問題だ。他人からどう思われるかという、ただそれだけのことに過ぎない。

 

 なのに、堪えられない。きっと、ここで仲間たちに見捨てられたら心が壊れる。それは死ぬことよりも辛いのではないかと思えた。

 

 罪悪感は時間の経過とともに膨れ上がっていく。船に戻るまでの帰路は、仲間たちを無事に送り届けることだけを考えて気持ちを紛らわせた。他のことは考えないようにしていた。

 

 しかし船に着いて、部屋の中で一人の時間を過ごしていると、それは這い出てきた。ドアの隙間から、調度品の陰から、何かが私を見ているような気がしてならない。ドス黒く醜い気配が私を取り囲んでいた。

 

 それは他の誰でもない“私自身の悪意”だ。大切な仲間たちを騙し、不当な信頼を得ている。私自身が発する悪意から逃げる方法などない。唯一、心が休まるときは仲間たちと一緒にいる時間だけだ。そして、彼らと共に過ごす時間が長引くほどに、後からやってくる“私の悪意”は大きくなっていく。

 

 これが私の知りたかった“人間に近づく”ということなのか。こんな苦しみに苛まれるくらいなら要らなかった。後悔したところでもう遅い。私は最悪の結末に行きついてしまった。

 

 

「グラッグ……?」

 

 

 目の前で倒れているグラッグの体を起こす。胸部は無残に抉れていた。致命傷であることは見ればわかる。呼吸も、脈拍もない。

 

 私がしたことだ。

 

 私が殺した。

 

 遺体を抱えて茫然と座り込んでいる私の背後で、大きな気配が立ちあがった。黒煙が噴き上がり、一か所に吸い込まれるように集まっていく。やがて、それは人の形を取り始めた。頭があり、胴があり、手足がある。それはゆっくりとこちらに歩いてきた。

 

 私は言い訳をする。殺すつもりはなかった。グラッグならあの程度の攻撃は簡単に防げると思っていた。まさか当たるだなんて思わなかった。これは事故だと。やむを得なかったのだと。

 

 黒煙の人影は止まらなかった。逃げることはできない。なぜなら、これは私自身が生み出したもの。ただ主人のもとに帰ろうとしている一つの感情に過ぎない。

 

 影がクインの体に触れた。入り込んでくる。それはウイルスのようにネットワークの中で広がり、私という存在を乗っ取っていく。

 

 

「あ、あああ……ああああああああああああああああ」

 

 

 クインの体は死臭を発する黒煙で覆われていた。私が理想とする人間の姿を模した偶像は穢れていく。それはぞっとするほど醜く、汚らわしい姿だったが、受け入れなければならない自分だった。

 

 クインの目から涙が流れ落ちた。止めることはできない。グラッグの胸の上に落ちた涙は、小さな赤い結晶となった。次々に結晶の粒が降り注ぐ。

 

 意図的な行動ではなかった。アルメイザマシンの制御が乱れ、勝手にオーラが結晶化して吐き出されていく。涙だけではなく、体表から結晶の塊が作り出され始めた。

 

「よるな」

 

 一瞬にしてクインを守るように結晶の壁が出現した。クインを中心として半球状の“かまくら”のように防壁が形成される。

 

 それは『円』をアルメイザマシンで固めたものだった。クイン自身のオーラを結晶化する技『仙人掌甲(カーバンクル)』を応用し、円の外周のみを結晶に変えることでドーム状の防壁を作り出したのだ。こんな技は今まで使ったことがない。クインの拳を覆う程度の硬化で精いっぱいだった。

 

 そしてなぜ、急にこのような技が使われたのか。その意味を遅れて察知する。防壁の外から何者かが攻撃を加える音が鳴り響いた。襲撃を受けている。

 

 クインは防壁の一部を破壊してドームの外へ出た。あらかじめその箇所だけ外しやすいように作っていたようだ。出入り口はすぐに結晶で修復され塞がれる。まるで中に残してきたグラッグを守るように。

 

 外には誰もいなかった。姿は見えない。気配も感じない。だが、確かに襲撃はあった。

 

 ここは夜の森のただなかである。グラッグは血を流していたので、その臭いを嗅ぎつけた生物がやってきてもおかしくはない。そして襲撃者が巧妙に姿を隠していることも、この地では当然のことだ。

 

 クインの拳が結晶で覆われていく。『仙人掌甲』だが、その使い方が異常だった。拳だけでなく、腕までもが飲みこまれるように結晶の守りが広がっていく。

 

 どのようにしてこれほどの精密な制御を可能としているのか。よく見れば、体表のオーラを結晶に変えているというより、クインの体にまとわりつく黒煙を固めているように見えた。この黒煙は『悪意感知』と共感覚が合わさることによって発生した幻覚のはずではなかったのか。

 

 侵食されるように醜い鎧に包み込まれていく。体の動きを阻害することはなかった。皮膚が代謝を繰り返すようにボロボロと破片を撒き散らしながら絶えず形を変えている。それは動物か、植物か、鉱物か。鎧そのものが一つの生物であるかのように変形している。

 

 依然として襲撃者の姿はない。だが、クインは正確にその位置を見抜いていた。姿はなく、音もないが、敵の発する“悪意”だけは感じ取れる。

 

 クインが素早く身をかわした。その直後、さっきまで立っていた地面が大きく抉れる。その場所に敵はいる。そこに向けてクインが拳を振り抜いた。

 

 だが、明らかにリーチが足りない。届くはずのない距離から殴りかかっている。当然、拳は空を切るものと思われた。しかし、その攻撃は苦し紛れの行動ではなかったのだと知る。

 

 突如としてクインの拳が膨れ上がった。『仙人掌甲』によって作られた手甲が巨大化したのだ。『周』で強化された大重量の攻撃。しかも、同時に足の裏から棘のスパイクが形成され、しっかりと地面に固定されているためその重量に振り回されることもない。

 

 クインが拳に込めた自分の“悪意”をそのまま形とするように巨大なサボテンを作り出したのだ。その先端には刺々しい花が咲いている。敵に直撃したサボテンは肉を抉りながらその体内に種子を撃ち込んだ。

 

「ギギャアアアアッ!」

 

 ようやく敵の姿が“見えた”。周囲の景色に溶け込む能力か、体を透明にする能力でも持っているのか、完全に攻撃を当てるまで全く姿が見えなかった。

 

 灰色の毛色をした狼のような巨獣だ。二匹の体を半分に切って無理やり接合したかのように奇妙な見た目をしている。腹を中心とした対称像のように、頭部が尻と頭に二つある。尻がなく頭部が二つあると言うべきか。既に毒に冒され絶命している。

 

 透明になるだけでなく音まで消せるのか、敵は攻撃を行った際も無音だった。地面を抉るほどのパワーを叩きつけているのに物音一つしなかった。透明化が解除されるまで臭いすら感じなかった。しかし、クインには通用しない。

 

 悪意をたどればその発信源も手に取るようにわかる。おびただしい数の反応が周囲を取り囲んでいた。敵は群れをなしている。しかし、強襲が失敗したことに警戒心を高めたのか、不用意に近づいてくることはなかった。

 

 そこへクインが飛びこんでいく。敵は蜘蛛の子を散らすように散開した。俊敏な動きでクインの攻撃をかわしていく。一方、鎧によって防御力は増したが普段の身軽さを失ったクインは、敵の速度についていけない。

 

 その鈍重さを見て、今度は敵が攻勢に踏み込んできた。かすりもしない攻撃を狂ったように繰り返すクインに向かって、透明な狼の一匹が迫る。異形の鎧に狼の攻撃が直撃した。透明なので何をされたのか判然としないが、おそらく前足の爪を叩きこまれたものと思われる。薙ぎ払われた鎧は破壊こそされなかったものの、かなりの距離を吹き飛ばされた。

 

 しかし、既にクインは回避を終えていた。彼女は一瞬にして鎧を脱ぎ棄て、狼の背後に回り込んでいた。その動きはいまだかつて見たことがないほどに速い。鎧の中身がなくなっているにもかかわらず、敵はそれに気づかず攻撃してしまうほどの速さ。

 

 いくら鎧を捨て身軽になったからと言って、もともとの身体能力を越えた動きができるわけではない。その秘密はクインの足を見てわかった。

 

 脚部だけをぴったりと覆うように薄い鎧が形成されている。だから本来なら脚が弾け飛んで走れなくなるほどのパワーをこめても崩壊せず形を保っている。

 

 クインの肉体は同世代の平均的な人間の筋肉量からしても大きく劣っている。オーラによる強化は素体となる肉体の強度に比例して高まるため、身体能力の強化という点においてクインの実力は一般的な念能力者に及ばない。強化が苦手な特質系という点もマイナスにはたらいている。

 

 その欠点を補うため、これまでは具現化力による肉体のオーラ修復機能を使っていた。体が壊れることを前提として、オーラ強化のブレーキとなるリミッターをはずし、不相応な出力を手に入れた。リミッターをはずすため、卵から強引に攻防力を引き出す『重』を使っている。破壊された筋肉などのダメージは回復力で相殺する。

 

 しかし、その再生力にも限界はある。回復能率を越えた強化を行えば肉体の崩壊を抑えることはできず、逆に身体能力は低下する。攻防力をぶつけるようなオーラ攻撃による破壊力が落ちることはないが、身体強化について言えばオーラを込めれば込めるほど強くなるという技ではない。

 

 今のクインは、そのネックとなる“肉体の脆弱さ”を外側から補強した。鎧が昆虫の外骨格のような役割を果たし、肉体の崩壊を抑え込んでいる。もはや単なる防具の域を越えていた。鎧と肉体が一つの生命体のように渾然一体となっている。

 

 敵の背後を取ったクインは、既に拳へと攻防力を集めていた。日常的に使用している軽度の『重』から、戦闘力を重視した単発高威力の『重』へと切り替えている。

 

 かつてないほどのオーラの高まりを感じた。あれだけの脚力強化ができたということは、腕力についても同様のことが言えるはずだ。クインの腕は肩から指先にかけて赤い装甲で覆われていた。

 

 素体の強度が増すということは、そこに込められるオーラの強化率も増えることを意味する。貧弱な筋肉が外骨格の中で液状化するほどの高温を発した。爆発的なエネルギーが鎧の中に閉じ込められ、一分のロスもなく伝導した。限界を越えた先の限界へと到達した『身体強化』は『重』と相乗された。

 

 力が解き放たれる。何かを殴ったという感覚はない。そのときには既に攻撃が終わっていた。あまりにも静かな一撃。それはパンチの威力が音として別のエネルギーに変換されることなく、余すところなく敵の破壊に注がれた結果だった。

 

 数秒後、狼の透明化能力が解除される。むせかえるような血の臭いが立ち上った。わき腹にぽっかりと穴の空いた巨狼の死体が転がっている。毒を使わず、この規模の体格の敵を殴り殺したのは初めての経験だった。

 

 それも一撃。使ったのは左手だった。必殺の右ストレートではなく、いつも牽制に使っているただの左ジャブ。これがもし右手だったら、『重硬』による全身強化だったらどうなっていたことか。

 

 真っ先に浮かんだ懸念は、本体の身の安全だった。右ストレートは本体を手甲のように武器として扱う。『堅』で守りを固めた本体は、それ自体が最硬の武器と化す。しかし、今のパンチに使われたとして、果たして無事でいられるのか。

 

 クインの左手からは肉が焼けるような臭気が漂っていた。左腕は全損に近い重傷である。鎧があるので見かけ上は腕の形を保っているが、まともに動くようになるまで修復に時間がかかるだろう。

 

 まともな神経をしていれば一旦下がる。しかし、クインは攻勢を緩めなかった。悪意の反応を感じる方向へと走り出す。

 

 仲間を二匹も立て続けに殺された敵の群れは割に合わない相手だと悟ったのか、それともクインの狂気に恐れをしたのか、散り散りになって逃げ始めた。さっきのような様子をうかがうために身を引くような様子ではなく、全力でこの場から離脱するための逃走だった。

 

 悪意の反応が消えて行く。狼たちは敵意を失って逃げることだけに集中しているのだ。だが、クインは追いかけ続けた。威嚇をするだけなら深追いは不要である。暗黒大陸の夜の森には、この狼たちなど足元にも及ばないほどの脅威が山のようにある。もはやその行動に合理的な目的など存在しない。

 

 逃走していた狼のうちの一匹が立ち止まった。一度は小さくなっていた敵意を再燃させ、クインを迎え撃とうとしている。おそらく勝機があっての行動ではない。その狼は群れの最後尾にいた。他の仲間を逃がすための足止め役と思われる。

 

 ふと、思い出す。私たちがワームから追いかけられたとき、クインを助けるためにグラッグは立ち止まった。仲間を逃がすための時間を稼ごうとした。この狼にも、あのときのグラッグのような心があるのだろうか。

 

 狼の気持ちはわからないが確かに言えることがある。今のクインは、あのときのワームと同じだ。ただ目の前の生物を仕留めることしか考えていない化物だ。

 

 そして敵の心配をしている場合ではなかった。私の本体はクインの右手に固定されている。鎧の中に埋め込まれるように固められ、身動きが取れない状態だった。

 

 左腕が使えないクインは、次の攻撃で右手を使おうとするだろう。さっきと同じ攻撃に武器として使われれば堪ったものではない。全力の『堅』でもかち割られずに済む保障はなかった。本体がダメージを受ければクインにも返ってくるのだから、普通に考えればそんな攻撃に及ぶはずがないと思うところだが、今のクインは何をするかわからない。

 

 

『……て…………ク…………』

 

 

 『偶像崇拝』の能力で作り出されたクインは、誓約によって自分の意思で解除することができない。今の本体にできることと言えば尾針から『侵食械弾』を発射することくらいだ。それもクインと連携できずに手に固め込まれた状態では、まともに照準を合わせることすらできない。弾はあらぬ方向へと飛んでいく。

 

 

『そこ……るの……? ………くれ!』

 

 

 クインの右腕にオーラが集まっていく。『堅』で防ぐしかない。他にどうしようもない。

 

 意外なことに、恐怖はなかった。クインがこのようにおかしくなってしまってからというもの、まるで理性的な部分だけを引き抜いたかのように本体は冷静な思考を続けている。

 

 まるで夢を見ているような気分だった。クインが私の手を離れて暴れ回っていることは不快でも何でもない。むしろ、楽だった。

 

 彼女はきっと私の中にある意識の一つで、そこに“嫌なこと”を全部押し付けているのかもしれない。だから私は彼女と意識を共有しているにも関わらず、彼女を制御することができない。

 

 それはそれでよかった。もう何も考えなくて済むのだから。もしこのまま本体が死んでしまったとしても――

 

 

『クイン! 返事を……!』

 

 

 誰かの声が聞こえた気がした。その声は私の心の深くまで入り込み、意識を引っ張り上げていく。

 

 逃げてはならない。

 

 悪夢よりも惨たらしい現実へと帰ってくる。

 

 まるで俯瞰するように宙を舞っていた意識がクインの感覚と重なっていく。それに反発するように、クインの体から黒い煙が離れていった。鎧に無数のひびが入り、ボロボロと欠片を撒き散らしながら崩れていく。

 

 背負わなければならない体の重さを感じた。それは立っていられないほどに強くのしかかり、クインを押しつぶそうとしてくる。生きている限り、永遠に向き合い続けなければならない重み。

 

 しかし、“人間だから”苦しいと感じる。それを何とも思わなければ、さっきまでのクインと同じだ。これまで私が出遭ってきた化物たちと何も変わらない。

 

 途方もなく大きな犠牲があった。その果てに私が知り得た答えはちっぽけなものだった。失ったものに比べれば、あまりにも釣り合わない成果だ。

 

 立ち上がれなかった。狼に襲われればなすすべもなく殺されていただろうが、敵の気配はとうに消え去っていた。クインの隙を見て逃げ出したのだろう。

 

 取り留めのない思考が浮かんでは消えて行く。その中で、ただ一つだけ気になることがあった。先ほど聞こえた声の正体だ。

 

 あれは間違いなくチェルの声だった。私の中の妄想が呼びかけてきたわけではない。確かに彼女の声が聞こえた。それもすぐ近くで。

 

 上着の内ポケットに入れていた無線機を取り出す。ここから聞こえた。何か切迫した様子だった。こちらから呼び出してみるが、応答がない。何度試してもチェルの無線と繋がることはなかった。

 

 船に戻らなければ。まだ危険がなくなったわけではない。チェルやトクノスケの身に何かあったのかもしれない。その一方で、考える。

 

 

 グラッグは何のためにここで私と戦ったのか。私を船に乗せないためだ。彼を殺した私が、おめおめと船に戻る資格などあるのか?

 

 

「……」

 

 

 クインはのろのろと立ち上がり、覚束ない足取りで走り始めた。

 

 


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