カーマインアームズ   作:放出系能力者

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22話

 

 考えるな。今は、今だけは船に戻ることに集中する。無線の声を聞いてからというもの、胸騒ぎがおさまらない。チェルとトクノスケの無事を確認するまでは安心できない。

 

 それはただの口実なのかもしれない。船に戻るための身勝手な理由付けではないか。嫌なことを後回しにして、ただ逃げているだけではないか。

 

 私が生み出した黒い影は、一度は振り払うことができた。しかし、消えてなくなったわけではなかった。後ろを振り返ればそこに“いる”。気を許せば、あれはまた私と一つになろうと近づいてくるだろう。

 

 先ほどクインが見せた異常な『仙人掌甲』の使い方は、真似してできるようなものではない。自分で使っていながらおかしな感覚だが、あの影と一体化した状態でなければ今のところ使えそうになかった。

 

 そうなれば、おそらく再びクインは暴走するだろう。次もまた都合よく止められるとは限らない。結局、逃げるしかなかった。そう遠くないところまで迫っている決断から目を背け、自分の代わりに誰かが決めてくれることを待っている。

 

 もう自分では答えを出せそうにない。今ここで、私一人が何かを決意したとしても、それは必ずいつか後悔として返ってくる気がする。

 

 全てを話そうと思う。チェルとトクノスケに、私という存在とこれまでに起きたことを隠さず話す。その上で、彼らに決めてもらうしかない。

 

 背中にはグラッグの遺体を背負っている。彼がどうしてこのような姿となったのか、嘘をつくことも隠すこともできない。それをすれば私自身が私を許せなくなる。

 

 二人は、私の所業を聞いてどんな言葉を投げかけてくるだろう。想像しただけで心臓を握られたかのように息苦しくなる。きっと、私は許されない。どんな処遇を受けるかなど、わかりきったことではないか。

 

 そして、その悲観の中に、ほんの少しだけ期待が残されていることも事実だった。もしかしたら、あの二人なら全てを知った上で私を受け入れてくれるのではないか。咎められこそすれ、完全に拒絶されることはないのではないかと。

 

 その卑しさに自己嫌悪が募った。船に戻り、二人に会うことがたまらなく怖い。現実から逃げているつもりが、どうしてかその恐怖の根源へと向かって走り続けているという矛盾に捕らわれていた。まるでブレーキの利かなくなった車が崖下を目指して坂を下っていくように、自分の行動が自分の意思によるものなのかわからない。

 

 しかし、走っているうちに自分の気持ちの変化など気にしている場合ではないことに気づく。海に近づくにつれ、断続的な耳鳴りを感じ始めた。どんどん強烈になっていく。明らかに、何らかの異常が発生している。

 

 この大きな耳鳴りは、以前に一度だけ経験したことがあった。この付近の砂浜に初めて来たとき、巨大カニと交戦した際に感じた耳鳴りと酷似している。

 

 あのとき、敵は突如として私の目の前に現れた。先ほど戦った狼のように透明化して近づかれたのだとしても、その潜伏精度は桁違いだ。悪意感知能力を高めた今の私なら見破れるかもしれないが、絶対の自信はない。

 

 さらに今回は、その耳鳴りが重なるように絶えず鳴り続けている。あのカニが群れをなして襲いかかってきたとして対応できるのか。さっきの狼と違ってカニは分厚い装甲を持っている。今の私では1体を相手にするのが精一杯だ。

 

 『影』と一体化したクインの暴走状態なら戦えるかもしれない。だが、それは正常な意識へと戻れる保証のない博打だ。このままやみくもに進むことは危険すぎる。

 

 だが、立ち止まることはできなかった。危険な状況であるからこそ、船の無事を確かめる必要がある。細心の注意を払いながら、地雷原のただなかを走り抜けるかのような心境で海岸へと出た。

 

 頭が割れるような騒音が響く。耳鳴りとは聴覚神経に何らかの異常が起きて発生する幻聴のようなものであり、実際に現実の音が信号として脳に伝わっているわけではない。その証拠に、耳を手で塞ごうと少しも騒音が緩和されることはなかった。いわば、聴覚神経そのものに攻撃を受けているようなものだ。

 

 吐き気とめまいを堪え、海を見据える。わかりやすい異変があった。海上の一か所に、巨大な球状の発光体が浮遊していた。夜であることもあり、その光は周囲の海を妖しく照らし出す。

 

 発光体のすぐ近くで大きな水しぶきが連続して上がっていた。ここからでは距離が遠いため、最初は何が起きているのかわからなかった。よく目を凝らすと、空中に巨大な水の球体のようなものが現れては海の上に落下しているようだ。それが繰り返されている。

 

 この水球は発光していない。おそらくただの水の塊である。この現象も黄緑色の光を放つ水球が関係しているのだろうが、その原理は全く不明だ。ただ、空中に水球が出現するタイミングに合わせて耳鳴りがひどくなっているような気がする。

 

 暗黒大陸において、このような正体不明の現象と遭遇することは珍しくない。むしろ、はっきりとした原因がわかる異変と出遭うことの方が難しい。それが近づかなければ害のない現象であれば、あれこれ考える前に逃げてしまえばいい。

 

 私にとって今、大事なことは船の無事を確認することだ。それさえ叶えば後は全て無視していい。なのに、現実は私の希望と常に真逆の方向へと推移する。

 

 発光体の近くに船があった。空中に現れては落とされるいくつもの水球は、船目がけてぶつけられている攻撃だった。敵は空中に水球を作り出せるのか、あるいは周囲の海水を持ち上げているのか。いずれにしても自由落下する海水の塊は、それだけで船を沈めるのに十分な威力を有していた。

 

 『思考演算』を発動し、現状における最善手を模索する。

 

 一刻の猶予もなかった。叩きつけられる大量の水によって船体は転覆寸前の状態だ。波に揉まれて右へ左へと傾きながら漂う姿は、風呂に浮かべたオモチャの船も同然だった。子供が、ばしゃばしゃと湯船を掻き混ぜて遊ぶように翻弄されている。

 

 まさしく遊ばれていた。本気で船を沈めるつもりならすぐにでも可能だろう。人類の英知の粋を集めて作り上げられた調査船も、災厄の前では波間を漂う藻屑に過ぎない。だが、敵はこちらを侮り、油断している。そこが唯一の突破口だ。

 

 今の私に海上を移動して接近する方法はない。この海を泳いで渡ることは不可能だ。その脅威は調査団によって説明を受けたし、彼らと出会う前に実際にこの身で体験している。

 

 粘液の海と言われたところで十分注意していれば回避可能なように思えるが、その実態は想像以上に危険なものだった。この粘液は粘りと共に“ぬめる”性質がある。乾いていない波打ち際に足を踏み入れたが最後、転倒は免れない。そのまま立つことも何かにつかまることもままならず、ずるずると海へ引きずりこまれていく。

 

 そして動けば動くほど粘液は固形化していき、強靭な弾力を持った保湿体状に変化する。初期の段階ならまだ力技で引き千切れるが、海に浸かった状態が続けば雪だるま式に分厚くなっていくため、そのうち逃れることもできなくなる。何も知らずに海に入ったクインを一人殺してしまった。

 

 だから泳ぐという選択肢はない。そして船との距離は海岸から数百メートルは離れている。そこまで届く攻撃手段と言えば『犠牲の揺り籠』しかなかった。

 

 問題はどこを狙うかという点だ。一見して、発光する水の球体が怪しい。その水球だけ位置も移動していない。あれが敵の本体と考えるのが妥当だが、確証はなかった。『犠牲の揺り籠』に二発目はない。もし、ここで見当が外れれば私にできることはなくなる。

 

 いや、二発目も撃てないことはないか。代償を払いきれないだろうが、技自体を発動することは可能だろう。その場合、私は本当の意味で死ぬことになる。

 

 考えるのは後回しだ。一発目で仕留めればいい。外したときは、そのとき考える。

 

「『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』!」

 

 夜の海を一条の光が貫く。灼熱の光線が海を削り取り、大量の蒸気を巻き起こした。一瞬にして辺りが深い霧に包まれる。

 

 私は必死に霧の中を見通すため目を凝らした。光線を敵に当てることは当然として、その攻撃の余波が船に及ばないようにしなければならなかった。『犠牲の揺り籠』は私の意思で威力を調整できるものではないため攻撃範囲の把握は容易ではなかったが、これまで使用してきた経験を頼りに範囲を割り出す。

 

 おそらく船に当たってはいない。そして、敵がいたであろう位置を撃ち抜いた。

 

「……だめだ!」

 

 しかし、霧の中にぼんやりと黄緑色の光が浮かび上がる。敵はまだ生きている。その位置は、私が光線を撃ち込んだ場所からかなりズレている。霧のせいで目測を誤ったのかと思ったが、やはり明らかに場所が変わっている。

 

 避けられたのか。『犠牲の揺り籠』でも捉えきれないほどの速度で移動されたと言うのなら、もう打つ手がない。死を覚悟の上で二発目を発射しても無駄だ。歯を食いしばる。

 

 だが、それでも。私にできることがこれしかないのであれば。

 

 発光体から黒い煙が上がった。悪意探知による幻覚だ。その煙は私がいる方向へと伸びて来る。私が攻撃したことで、向こうもこちらの位置を特定してきた。

 

 絶望に身をゆだねている場合ではない。ある意味で、これは良い展開だ。敵は船をもてあそぶことよりも、長距離から攻撃を仕掛けてきた私を優先して対処するはず。私の方に注意を引きつけておけば、その間は船を攻撃されない。

 

 私は『一斉送信(ブロードキャスト)』を使った。キメラアントが放つ念波に乗せて『精神同調』を多重送信する技だ。卵の一つ一つが『精神同調』を敵へ向けて同時に使用する。これによって敵を操作できるわけではないが、強烈な違和感を与えることができる。注目をこちらに集めるにはうってつけだ。

 

 敵が私を警戒して逃げ去ってくれれば言うことはない。そうでなくとも船から離れ、こちらを目指して近づいてきてくれれば。接近さえできれば戦う手段はある。

 

 その私の思惑は叶った。私は敵に近づくことができた。私が想像していた状況とは全く異なる形で。

 

 今までにないほど強い耳鳴りに襲われ、無意味だとわかっているのに反射的に耳を両手で塞いでしまった。次の瞬間、目の前の光景が一変する。

 

 眼前に、黄緑色の光があった。それは発光するクラゲの群れだった。小さな光るクラゲの大群が、巨大な泡状の球体の中でひしめている。

 

 私は敵の正体をつぶさに見てとれるほどの近い距離にいた。そして、敵が持つ能力にようやく気づく。これは瞬間移動だ。このクラゲの群れは自身や他の物体を瞬間移動させる能力を持っている。

 

 以前、戦った巨大カニの能力は認識すらさせない潜伏技能だと思っていたが、そうではなかった。あのとき突然現れたカニは、自分の能力によって姿を隠していたわけではない。このクラゲに転移させられたのだ。だから一瞬、自分がなぜここにいるのかわからない様子だった。

 

 船をかすめるようにぶつけられていた巨大な水球も、海水を上空に転移させたものだろう。ただでさえ大質量の水の塊を叩きつけられればひとたまりもないところ、この海水は悪質極まりない粘性を持っている。先ほどの船と同じような攻撃を受けるのはまずい。

 

 しかし、最悪を想定した私のその判断すら現状と比べれば甘かった。逃げ場は既に封じられていたのだ。今、私が立っている場所は海岸ではなかった。クインは巨大な泡の中にいる。足場ごと、泡状の球体の中に閉じ込められていた。

 

 正確には、クインを含めた海岸の一部が海中へと転移させられた。敵が近づいてきたのではない。私が敵の近くへと移動させられたのだ。

 

 つまり、ここは海中である。空を見れば星の光はなく、月だけがぐにゃぐにゃと形を歪めながら弱弱しい光を放っている。水中ドームのような空間は、周囲の水に押しつぶされるように崩壊した。無数の気泡が海上へと浮かび上がり、岩の足場は海底へと沈んでいく。

 

 『思考演算』によってスローモーションのように水がなだれ込んでくる様子を見ながら、私は上着に備わっていたライフジャケット機能を作動させる。上着の内部に仕込まれていた浮き袋に空気が取り込まれ、簡易の救命胴衣となる。

 

 とっさの機転を利かせたとはいえ、状況は依然として最悪だった。無謀な水中戦、しかも敵は制限の見えない瞬間移動能力を持っている。間髪入れず、攻撃が始まった。

 

 耳鳴りと共に、二つの物体が出現した。イガグリのような形だが、ここが海であることを考えればウニだろうか。直径は5メートルほどありそうだ。どこからか転移されてきたものと思われる。

 

 ウニは転移後間もなくして爆発するように棘を発射した。四方八方に針の弾丸をばらまく。弾速は水の抵抗によって落ちることがなかった。それ自体がスクリューのように回転し、推進力を生みだしながら粘性の海を切り裂いて来る。

 

 この海域に適応した生物なのかもしれない。激しく回転する棘は、まとわりつく粘液の白い繭をらせん状に受け流しながら速度を緩めず迫ってくる。

 

 私の中にあるカトライの体感は、瞬時に答えを出していた。粘つく水の中という状況、縦横無尽に撒き散らされる針の雨、そしてその驚異的な弾速。

 

 この攻撃は回避不能だ。絶対にかわせない。避けるという選択肢を捨てる。残された時間を別のことに使わなければ、到底生き残れない。

 

 クインの体に数本の棘が食い込んだ。スクリューがコルク抜きのように肉を抉る。貫通して通り抜けるほどの速度があったはずだが、被弾した直後急激に回転の勢いが弱まり、クインの体に突き刺さった状態で棘は停止した。

 

 しかし、肉に食い込むように突き刺さったスクリュー状の棘は簡単に抜けそうにない。それ以前に、クインの体に力が入らない。手足の末端から感覚が麻痺していく。毒だ。死に至るほどではないが、オーラによる解毒は難しい。

 

 さらにそこから棘が独りでに動き始めた。強い力でクインの体が引っ張られる。よく見れば、棘の根元から細い糸のようなものが伸びていた。見えにくいが、おそらくウニの本体まで繋がっている。つまりこの棘は獲物を捕えるための銛であり、糸をたぐることで突き刺した目標をウニ本体が回収できるようになっていた。

 

 とても抗える力ではない。沈んでいくウニとともに、クインは海底へと引きずり込まれていく。

 

 だが、クインは犠牲となったが、本体だけは逃がすことができた。棘が着弾するまでのわずかな時間のうちに、衣服から浮き袋の部分を切り離して本体に持たせておいたのだ。

 

 何とか生き残るも、クインを失って卵の残数を大きく減らす。先ほど撃った『犠牲の揺り籠』による消費も含めれば、残りは全体の1割ほどだった。

 

 もう後がない。ここで『偶像崇拝』を使って新たにクインを作ったとしても、活路は見出せない。仮にあの『影』に頼ったとしても、海中では鎧の力も発揮できず沈む速度が増すだけだ。

 

 ウニが発射した棘は全方位に向けて攻撃されたものだった。つまり、すぐそばにいる発光クラゲの水球にも当たっているはずなのだが、特に損傷はなく何事もなかったかのように変化がない。棘の攻撃そのものを別の場所に移動させたのかもしれない。

 

 水球を包み込む泡の膜が防御壁となっている。しかも、その防御方法は敵の攻撃を転移させて無効化するという原理であり、どれだけ強力な攻撃だろうと物理的に破壊できるものではない。死を承知でこの距離から『犠牲の揺り籠』と撃ち込んだとして、それを幸運にも瞬間移動で避けられなかったとしても、なお防御壁を突破することはできないのではないか。

 

 もはや、なすすべはなかった。このまま見逃してくれることを願うしかない。クラゲの大群に比べれば、クイン本体から離れた本体など海を漂うゴミのようにしか見えないはずだ。

 

 クラゲたちが私を見ているのがわかる。私へと向けられる悪意の煙が細く伸び、クラゲたちの間で行き来している。それはくしくも、卵を用いて複数の意識を作り出した私に似ていた。

 

 この小さなクラゲの一つ一つがネットワークを作り上げている。脳細胞が張り巡らされたシナプスを介して高度な思考を実現するように、このクラゲの群れは一つの意識体として機能している。確証はないが、そう思えた。

 

 単なる動物ではない。人間と同じような思考力を持った存在だ。そのクラゲの群れが私を見ている。そして判断が下された。私へ向けられる悪意は消え去った。

 

 見逃された。取るに足らないものだと思われたのか。私は生かされた。これまでにも敵わない敵は大勢いた。中には今のように、トカゲのしっぽ切りのごとくクインを犠牲とすることで生き延びたこともある。これが初めてのことではない。

 

 このまま何もせず、じっとしていれば助かるのかもしれない。だが、その先にあるものは何だ。私を撃破したものと思い込んだクラゲの群れは、次にどこへ向かおうとするのか。

 

 船のところへと引き返すかもしれない。

 

 私は『侵食械弾』を撃っていた。打開や勝算と言った考えはなく、反射的に体が動いていた。何かを為そうとする意思はなく、ただ突き動かされるように攻撃していた。

 

 私の命と、仲間たちの命。私はどちらを重く感じているのか。船が襲われているという状況の中、とても歯が立たないような強敵を前にして、そして自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれてようやくわかった。

 

 私は死にたくない。そして仲間たちも助けたい。どちらかを選ぶことはできそうにない。この期に及んで、そんな都合の良いことを考えている。

 

 みんなで帰ろうと約束した。その“みんな”の中に、私もいたい。カトライやグラッグのように自分を切り捨てる覚悟は持てなかった。私はカトライの精神性を引き継いだが、彼そのものになったわけではなかった。もともとあった私と彼が混ざり合ったからこそ、この結論があるのだろう。

 

 だから、私はまだ死ねない。ここで勝たなければならない。引き分けでも駄目だ。薄情だろうが、刺し違えて死んででも船を救おうとまで思えない。だから『犠牲の揺り籠』は使わない。本当に死が目の前にまで迫り、それを使う以外にどうすることもできない状況でなければ使えないだろう。今はそのときではない。

 

 それは自分可愛さに怖気づいた逃げなのかもしれないが、不思議とオーラが乱れることはなかった。それまで不安に駆られ揺らいで見えていた敵の姿を、ようやくしっかりと見定める。その不気味に輝く黄緑色の光の中に、勝ちを導く灯火を見出す。

 

 ただその意気込みの一方で、『侵食械弾』は水中で急激に速度を減衰し、白い繭に包まれて停止した。その飛距離、わずか5メートル。敵に当たる当たらない以前に、全く届いていない。

 

 結果を見れば攻撃未満の小さな足掻きでしかなかったが、クラゲたちはそれを見逃さなかった。敵の悪意が急激に膨れ上がる。

 

 意思疎通はできないが、その悪意の質から敵の感情は読みとれた。私を脅威とみなしたのではない。自分にとって取るに足らない虫けらが、立場も考えず攻撃を仕掛けてきた。それが気に入らないのだ。おとなしくしていれば見逃してやったものを、わざわざ刃向おうとする鬱陶しさに立腹している。

 

 重奏される耳鳴りと共に、先ほどのウニが転移されてきた。それも一匹や二匹ではない。ざっと見ただけでも数十匹はいる。

 

 クインの体に突き刺さった棘の衝撃から威力を推測するに、この棘弾は私の本体の『堅』を貫けるほどの力はない。しかし、本体が持っている浮き袋は紙よりも容易く撃ち抜けるだろう。

 

 『仙人掌甲(カーバンクル)』で浮き袋を守ったとしても、果たして防ぎきれるかどうか。浮き袋に纏わせた『周』のオーラをアルメイザマシンで硬化させたところで本体の防御力ほどの効果は得られない。より防御力を高めるためには分厚い鉱石の装甲を作る必要があるが、あまりに重くなりすぎればそもそも浮かなくなる。一度作り出した結晶は解除して取り消すことができない。

 

 浮き袋を失えば、鉱物の装甲で覆われた本体は自重で海底まで沈んでいく。普通の水の中でさえ泳げないというのに、この海から脱するすべはなくなる。既に息苦しさは限界に近づいており、どんなに我慢しても窒息するまでもって数分だろう。

 

 棘の射線を探る。ウニたちは考えなしに棘弾を放っているわけではなかった。その一本一本まで精密にコントロールしており、これだけの数が一斉に棘を飛ばしているというのにまるで差し合わせたように軌道が重ならない。

 

 それゆえに敵がこちらに向けている悪意の線もはっきりと感じ取ることができた。見極めるまでもなく、回避は不可能だ。一枚の織物のごとく複雑に、規則正しく行き交う弾幕には一分の隙もない。

 

 それでも悲嘆にくれている時間はなかった。複雑に絡み合う糸を注視し、自分に当たる棘の軌道を正確に計算する。

 

 棘が当たる直前、浮き袋を『仙人掌甲』で保護する。棘の槍はその守りをあっけなく突破した。赤い結晶が砕け散り、海中を舞う。

 

 浮き袋が破壊され、気泡が外へと噴き出す。生命線である浮力がなくなった。だが、動揺はない。私の狙いは浮き袋を守ることではなかった。

 

 この棘弾は、目標物に突き刺さると勢いを弱めて停止する。その一瞬の隙をつき、私は浮き袋を捨てて棘へと飛び付いた。

 

 その棘は無作為に選んだわけではなかった。数千の棘、数千の悪意の線の中から選んだ一本だ。

 

 棘の銛は発射した持ち主のもとへと回収される。棘と共に、私の体は勢いよく引っ張られた。行きつく先は一匹のウニだ。そのウニは、クラゲが集まる水球のすぐ近くにいた。

 

 あと20メートル。

 

 みるみるうちに距離を詰める。その速度によって生じた粘性海水への刺激により、本体を白い繭が覆っていく。視界が隠される。それでも敵の姿を見失うことはない。絡みつく繭に抗い、尾の砲台を敵へと向ける。

 

 あと15メートル。

 

 私はこれまでにない感情を抱いていた。それは怒りだ。これまでに遭遇してきた災厄たちには散々苦しめられたこともあったが、こんな感情をもって相手をしたことはない。カトライを殺したワームにさえ怒りはなかった。なぜなら、それが奴らの自然の姿であり、生きる上で他者と衝突した結果に過ぎないからだ。

 

 あと10メートル。

 

 だが、このクラゲは違う。必要のない暴力をふるい、他の生命をもてあそび、その反応を見て楽しんでいる。その対象として私の仲間を傷つけたことが許せない。

 

 力を備え、高度に知性が発達したがゆえの傲慢さを悪意の中に見て取れた。今もまた、接近する私の姿を捉えながら余裕を崩していない。その嘲りこそ油断であり、私が付け入ることができる最後の勝機だ。

 

 あと8メートル。7、6、5、4……

 

 

 『侵食械弾(シストショット)』

 

 

 発射された弾丸を、敵は避けなかった。それは避けるまでもなく、転移で攻撃を無効化できるからだ。全力を尽くして接近し、死に物狂いで撃ってきた最後の攻撃を、あっさりとなかったことにする。そんな絶望感を私に思い知らせたかったのだろう。

 

 水の膜に到達したシスト弾は瞬時に芽吹いた。たとえ転移の力と『犠牲の揺り籠』を回避できるだけの反応速度があったところで防ぎようがない。もはやウイルスは感染し、発症した。

 

 水球そのものが一つの丸いサボテンと化した。その姿は、皮肉にも巨大なクラゲのようにも見える。内部から発せられる光によって周囲の海は赤く染まった。

 

 赤く光るサボテンは、無数のウニと共に海底へと沈んでいく。悪意の煙も、耳鳴りもなくなった。次第に光は弱まり、すぐに何も見えなくなった。

 

 なぜ敵は『侵食械弾』を転移させることができなかったのか。それは奴が“念能力者”だったからだ。この転移の力は念によって作られた能力であるため、アルメイザマシンで一気に劇症化させることができた。

 

 瞬間移動やワープと言うと、実現不可能なありえない能力のように思えるが、実は念を使えば同じような効果を再現できる。瞬間移動は放出系能力に分類される『発』の一つである。体の一部や全部を離れた場所へと移動させたり、具現化系と併用すれば現実に存在しない空間まで作りあげて出入りすることが可能なのだ。

 

 もちろん、このクラゲが放出系念能力者であるという確証はなかった。これまで念を使ってきた災厄はおらず、そのためアルメイザマシンはシスト弾を確実に撃ち込まなければ効果がないという先入観にとらわれていた。

 

 不用意なウイルスの感染拡大を防ぐため、攻撃時以外はデフォルトでアルメイザマシンの感染機能をオフにしているのだが、もしオンにした状態であったなら、砂浜から海中へと転移させられた時点で敵を倒していたものと思われる。

 

 戦闘中に気づいたのだが『凝』をして観察したところ、黄緑色の発光に紛れて生命エネルギーの輝きを感知できた。その輝きは耳鳴りと何かを転移させるタイミングに合わせて強くなるようだった。このことから念能力を使っているのではないかと思い至ったのだ。

 

 分の悪い賭けではなかったが、それでも厳しい戦いだった。もし敵が慢心せず、こちらの攻撃を全て回避していたら勝ち目はなかった。状況を打開するよりも窒息して意識を失う方が早かっただろう。

 

 そして敵を倒した今もなお、難局を脱したとは言い難い。浮き袋を壊された私は、本来ならあのクラゲやウニたちと一緒に海底まで落ちているところだ。奴らの後を追わずに済んでいるのは、クインを作り出し海上へ向かって泳いでいるからだ。

 

 卵の残数からしてこのクインが死ねば、それは本体の死と同義だ。それをこの粘性の海中で行うなど無謀でしかなかったが、他に手段がない。繭に捕らわれることを承知で、本体を乗せたクインを泳がせる。クインの体なら、わずかな時間だが遊泳が可能だ。

 

 意識がもうろうとする中、ついに海上へと出た。しかし、まだ呼吸はできない。本体の体表面を凝固した粘液の層が覆っているからだ。これは拭い取れるようなものではない。触ろうとしてもつるつる滑り、余計な刺激を与えてますます固まるだけだ。

 

 生物は呼吸によって外気から酸素を肺に取り込み、体内に生じた不要な二酸化炭素を吐き出す。実は呼吸ができない状況において、息を吸えないことよりも吐き出せないことの方が苦痛である。この粘液の海中では繭のせいで肺の中の空気を吐き出すこともままならない。

 

 その溜まりに溜まった不要な空気を一気に口から吐き出した。正しくは口ではなく気門と言う。昆虫は気管の開口部が体表にあるものが多く、これを気門と呼ぶ。私の場合は、本体の腹部両側面に八対の気門が並んでいる。そこから放出系系統別修行の要領で、空気をオーラと一緒に勢いよく噴き出した。

 

 数度の挑戦の後、ようやく気門の一つが開ける。本当にギリギリだった。あと1ミリでも繭が厚くなっていれば助からなかったかもしれない。今回の戦いで最も苦しめられたものは、あのクラゲと言うよりもヌタコンブの粘液だ。

 

 繭によって身動きが取れなくなる前に海上へと出ることができたクインは、その場で盛大に水を掻いた。それによって繭はますます凝固して大きくなる。この海で遭難した際は何もせず、じっとして助けを待つことが鉄則であるが、私はあえて真逆の行動をクインに取らせた。

 

 クインを海上で暴れさせることで、繭の中に空気を取り込む。そうすることによって繭を浮力材として利用する。大の字に手足を広げたクインの体を基礎として、即席のボートを作り上げた。当然、この状態ではクインが息をすることができないが、血中の酸素欠乏はオーラ修復で補える。すぐに窒息することはない。

 

 まず、助かったことに安堵した。次に仲間の身を案じる。船はどうなったのか。無事に持ち直すことができたのか。

 

 どこまでも続く夜の海には、私の姿以外、何も見つけることができなかった。

 

 船も、陸も、何も、ない。

 

 


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